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とかくアイヌ伝説と云われる民話や地名に関する伝承などについて述べると1つの地名に複数の伝説が残されている事は珍しくない。また同じ伝承でも伝承者が違うと話が微妙に変わっている事が多い。これは口承のため、伝えられた家族ごと歴史と個性の違いからと思われるが、戦いの相手が伝承によっては異なる場合もある。
此処では伝説を良く理解できるように神居古潭の概略と伝説に有るアイヌ語について書いています。神居古潭は険しい断崖と激流のため、石狩上流と下流域間では最大の難所で、石狩川を舟で遡のぼって来た人は、現在の神居古潭吊り橋付近にて舟を降り、川岸を春志内付近まで歩いて別の舟に乗り換えるか、あるいは吊り橋付近より空舟を人力で春志内付近まで引っ張って行き上川に入った(その様子は松浦武四郎の日誌に詳しく書かれています)云う。嶮しくて陸路を辿った部分を総称したのが本来のカムイコタンで、通過の無事をカムイに祈り、通過できた事を感謝する習わしがありました。神居古潭の激流と川岸に奇岩怪石が連なる景観には多くの伝説が有ります。神居古潭の伝説に登場するアイヌ語について、言語学者である知里真志保(1909-1961)の「上川郡アイヌ語地名解」から紹介。『ニッネカムィ・オラオシマイ「Nitnekamuy-o-rawoshma-i」「魔神が・そこで・ぬかった・所」右岸の岩に深さ一丈以上もある穴があり、魔神がサマイクルに追っかけられた時に踏みぬいた足跡だという。・エムシケシ「Emushi-keshi」「刀・の端」前記の穴のそばの岩の上に幾つもの条痕があり、それはサマイクルが魔神に切りつけたときの刃痕だという。・ニッネカムイパケヘ「Nitnekamuy-pakehe」「魔神・の頭」・ニッネカムイネトパケ「Nitnekamuy-netopake」「魔神・の胴体」・ニッネカムイノッケウエ「Nitnekamuy-notkewe」「魔神・のあご」魔神はサマイクルに退治されて、その頭は右岸の山上に、胴体は山麓にあごは対岸に、岩と化して残っている。(「右岸」とは「川上に向かって右」の意味で現代の釣り人感覚です)』また伝説に度々登場するサマイクルについては「神託を言う神」と訳され「サマユンクル」「サマイェクル」とも云う。北海道は石狩川流域から日本海海岸、道北・道東、サハリン南部にかけて活躍した英雄や絶体神として登場。またコタンカラカムイ(国造神)の別名を持ち、オキクルミ同様人々に生活の知恵を授けてまわり、アイヌの繁栄に一役買った文化神で多くの伝承が残されています。なお伝説で神居古潭となっているのは原型に近い「カムイコタン」と書き改めました。
松浦武四郎の石狩日誌にはクーチンコロを案内にカムイコタンの伝説を書き記してあり、管理人の知る限り最も古い記録になる『傍に鬼(ニイツカモイ)の足跡というのがあって、およそ三かかえばかりの、ちょうど井戸のような穴が三つある岩があり、穴の深さがどれも一丈余りある。また五、六間離れたところにエモシケシと云うカモイがニイツイカモイを切ろうとして刀の刃先で切り込んだ跡と云う岩がある』ここで云うエモシケシはおそらく武四郎の書き間違いでサマイクルの事であろう。また『ニイツイシャバ(鬼の首)が水中に立っているのが見える』またニイツイシャバと『向き合った形で七、八丈あまりもありそうな岩カモイネトバケ(鬼の胴体)があり、なるほど鬼の身体のように見える。アイヌ達はここで木幣を立てて道中の安全を祈る習わしである』と。丁巳日誌によるとカムィコタンの下流側で入り口になるシキウバ(船から下りて荷を背負う場)ても木幣を立てて道中の安全を祈っている。カムィコタンはここからハルシナィ迄の総称でした。
『太古は石狩平野のあたりが全て海で、神居古潭のあたりで石狩川は海に注いでいました。河口には石狩アイヌのコタンがあった。そして石狩川の神である蝶鮫はいつもカムイコタンの淵にいて水の上に脊鰭を見せていた。この蝶鮫のシャメカムイと山の熊の神であるキムンカムイとは大変仲が良かったし、石狩アイヌと上川アイヌとも非常に仲が良かった。秋になって鮭がシャメカムイ捕れるようになると両コタンの人達は最初の鮭をシャメカムイとキムンカムイにあげるのであるという。そして石狩アイヌが石狩川を遡って来るときは、必ず舷をたたいて石狩アイヌだという合図をした。もし舷をたたかないでここに入ってきた者があると、石狩川の神のシャメカムイは船を動かないようにするか、舟をひっくり返して溺れさせ、ここから奥に入れなすようにしたと言う。上川アイヌもこのシャメカムイとキムンカムイに守られて平和な生活が出来た。それで両方の神様のいたこの土地をカムイコタンと云うようになったという。ところがあるとき魔神のニッネカムイがここに現れて、アイヌの魚をとる邪魔をして人間を滅ぼそうとして暴れた事が有った。そこでシャメカムイが大変怒ってニッネカムイを捕らえて殺して岩にしてしまった。・中略・この時の争いで岩が崩れたり押し流されたりして、陸地が今の石狩の方まで出てしまったのである』近江正一・伝説の旭川。更科源三編・アイヌ伝説集より。
『魔神が巨石で石狩川をせき止め、上川盆地の住民全員の溺殺をたくらんだことがございました。それにいち早く気がついた熊の神が爪で岩をなんとか半分崩し、ようやく水が流れるようにします。さて、魔神は企みを邪魔されて怒り、熊に襲いかかります。近くで舟の番をしていた創造神サマイクルカムイの妹がいち早く空知の国に走り、そこにいた兄に急を伝えましたのでサマイクルは駆け戻って熊の神に加勢し、魔神に斬りつけました。魔神はこれはかなわじと退散したものの足が泥にはまり、もがいている内に首を刎ねとばされ、敢えない最後を遂げたのであります。その首はニッネシャパ(魔神の頭)という巨石になって水際に立ち、胴は20mほどの岩になって残っております。サマイクルの太刀が勢い余って周囲の岩に打ちあたった傷はエモシケシといって今も残り、そのそばには魔神がぬかった跡が深さ三mにもなる岩穴になっております。そばにはトゥレプサラニプといって、魔神が姥百合の根を入れていた袋までもが岩になってしまい、現在まで残っております。いにしえのアイヌはニッネシャパの岩にイナウを捧げて祈り、旅の安全を祈願したものでした』※松浦武四郎の記録にある伝説に近い内容です。近江正一・伝説の旭川より
『昔はカムイコタンを舟で通るときには、木幣を流し海の神のレプンカムイに感謝して通る習わしになっていた。それは大昔、この付近にいた魔神ニッネカムイがカムイコタンのところで堰き止めて、魚が上がらないようにした。それを知った天塩川奧の水源に有る神山の上に住む熊の一番偉いのが魔神退治出てきたが、魔神の勢力が強くて今にも熊神の方が負けそうになったので、海の神レブンカムイ(鯱)や水の神ワッカウシカムイが、川を渦巻いて駆けつけ、熊神に力をそえて魔神と戦い、遂に魔神を殺してしまった。その時の魔神の足跡も残っているが、鯱神の背鰭の形も岩に残っているのでそこを通る度に木幣を川に流すのである。またトンネルのところには水神ワッカウシカムイの小屋があり、それが岩になって炉縁なども残っているのでそれにも木幣をあげることになっている』川村ムイサシマツフチ伝
『昔カムイコタンの駅の裏にあるクトネシリ(義経岩)という岩山にいた魔神が、カムイコタンで石狩川をせき止め、そこから上流へ魚をやらずに、上川アイヌを困らせようとして、ハルシナイのところに岩を集めて川を堰止めにかかった。それを知った文化神サマイクルカムイの妹の石狩姫が大声を上げて知らせたので、空知川の方に行っていたサマイクルカムイと大きな熊とがカムイコタンに駆けつけ、魔神の作った岩の簗を取りのけて水を通してから、刀を抜いて魔神を追いかけたところ、クトネシリの砦に逃げ込んだので激しく、激しくそれを追って砦に迫り、砦の上から魔神を蹴飛ばしたところ、魔神は遙かしたの石狩川の中の岩にとんですっぽりと抜かってしまった。なおもサマイクルカムイが迫ってくるので抜かったところからやっと這い上がって逃げるところを斬りつけられたが、魔神に当たらず岩の上に十文字の創を残した。しかし魔神は、遂にパンケアッナイという小川のところで首を切られ、首は川向かいの川の中(遊歩道側)に落ち胴体だけは立ったまま岩になって今もニツネカムイ(魔神)と呼ばれている。なお、この騒動をききつけた海の海馬も応援に駆けつけたが、魔神の作った簗が既に熊によって壊されていたので、場所が判らず素通りしてしまい、愛別の方まで行ってしまいそこで岩になっている事であり、更に岩になって立っている魔神の上流にはサマイクルカムイの食い残したウバユリの団子と魔神の持っていた籠とかが岩になって残っている』石山秋三郎エカシ伝
『魔神ニチネカムイが石狩川の中に杭を打って簗を作り、川上のコタンに魚の行かないようにし船も通行出来ない様にしてしまった。そこで文化神サマイクルカムイが魔神の所に出かけていくと、魔神はしきりに魚をすくい上げる網を作っていたので、炉縁の木を焼魚に見せて魔神に食べさせ、魔神がそれをガリガリ食べているうちに、魔神の作った網をかぶせて外に出れないようにして、山の神と力を合わせて簗を壊してしまった。酷いめにあった魔神はきっと仕返ししてやると待っていると、文化神は杭を作ってそれを娘の姿に化けさせて連れて行き「どうだきれいな娘だろ、嫁にやるから抱いてねろ」といったので魔神は喜んで娘を抱いたところ、身体が動かなくなってしまった。魔神の腹にブッツノ刺さったからである。それからはカムイコタンはまた船が上がり下がり出来るようになった』勝川ウサカラベフチ伝
『神居古潭にニッネカム魔神がここに簗をかけて川上に魚の上れないようにしたとき、何神か兄弟で来て付近の岩屑を焼魚に見せて、毒の入った酒をので、魔神がねてしまった間に簗を壊した。その時蝶鮫も応援に行ったと云う事だ』椎木トイタレケ伝。他に名寄市の北風礒吉さんの伝えているのもあり、カムイは名寄から駆けつけたという以外は石山秋三郎エカシ伝の話に似ている。
『魔神が棲んでいたクトネシリの岩はサマイクルケトゥンチ(サマイクルの皮張り枠)といい、サマイクル神が熊の毛皮を干していたところ、と申します。それを犬が喰ってしまったので半分欠けているのです』門野ナンケアイヌエカシ伝 ※パラモイの右岸断崖上の巨岩でカムイ岩(クッネシリ)は守護神サマイクルが、魔人ニチエネカムイと闘った場所で、カムイ岩はサマイクルの砦だったとする伝説や魔神の砦とする別説もあり。砦という場合には深川神居シャシとの関係も注目される。柱状節理のような岩壁があります。
『神居古潭の吊り橋のしもてにある岩はベンザイトゥシコテシララという名がついている。昔ここまで海であつたので弁財船が来たときに、船を繋ぐところであった。その縄をしばる穴が今も残っている』石山秋三郎エカシ伝・話の内容からして起原の古い伝承になるのかもしれない。
『昔文化神(サマイクル)が山でが熊を獲って、木皮船に積んで石狩皮を下って来たところ、ここで舟をひっくり返して、熊の肉と一緒に積んでいた熊の腸を流してしまったのがやつめになった。それでカムイコタンにはヤツメが多く、またヤツメには骨が無いのだ』門野ナンケアイヌ老伝
『カムイコタンと旭川の間に伊能という駅がある。この駅の近くには昔天地を創造したサマイクルカムイという神の、漁小屋がそのまま岩になったと云う大岩が有り、その川向かいには、サマイクルカムイが天に帰るときに、姥百合を入れる籠を忘れていったが、これも岩になって残っている。この付近は姥百合の非常に豊富なところで、付近のコタンの人々は皆ここに姥百合を採りに言ったものである。それはサマイクルカムイが姥百合を入れた籠を忘れていったからであるという』川村ムイサシマツフチ伝
『昔この付近にいた上川アイヌは天産に恵まれていたので常に生活が豊かであった。ある年それを妬む十勝アイヌの質の良くない一団が山を越えて上川アイヌを襲ったことがあった。ところがその一団は皆虜になって談判をつけられ、もっていた獲物も宝物も全部取り上げられてやっと許してもらった。ところがこれを聞いた十勝アイヌ酋長はコタンを総動員して上川アイヌのコタンを襲ったが、又上川アイヌに迎えうたれて敗北し、酋長も矢に当たって足に傷つき、愛別川に飛び込んで、背にした矢筒を川に落として流してしまったため戦うことが出来なくなって、再び上川アイヌの虜になってしまった。それ以来この酋長が矢を流した川をアイベツというようになったが、後に十勝アイヌと上川アイヌは仲直りし、十勝の酋長は上川酋長の娘を妻に迎え、その子孫が近文アイヌの祖先になったと云う。
旭川市の西、石狩川の左岸に巨大な2本の赤い立岩がある。石狩川は忠別川と美瑛川を合流した後、この辺でオサラッペ川と神居川を合流、その流神居古潭へと続いていく。この2本の立岩のふもとにかつて「底無沼」があったが、現代の土木技術には勝てずに埋め立てられ今はその面影はないが、傍らに水神を祭る小さな社殿があり参道は冬期も除雪してあります。物語と立岩山チャシという関係にも注目ですが、ここはアイヌ伝説「底無沼と妖刀」の舞台となった地でした。
かつてはペニウンクル(川上の衆)と呼ばれた上川アイヌの長の屋敷、その神窓に、開けることを禁じられた煤けた茣蓙の包みが吊り下げられておりました。この中には妖刀が封じこめられていると伝えられ、代々家訓として戒められておりました。ところがある日のこと、突然にこの包みから閃光が放たれ、家のものはおののくばかり。その上夜になると光は他所の家にまで届き、魅入られた家のものはカマイタチにでもやられた様に斬られて惨死、という事件が続く、コタンの衆は恐慌状態でありました。驚いた村おさはこの包みを山奥に捨てましたが、家に帰ってくると戻っている。穴に埋めてもやはりだめ、石狩川で一番の深みに沈めても戻ってくる、といった具合。そうこうしている内にも村の衆の惨死は増えるばかり。村長が困り果てておりますと神様のお告げ、「ホトイパウシのアサミサクトの沼のほとりに大きな沼があるから、そこで祈ればよい」とのこと。そこで忠別川の河口を探しておりますと、はたして沼と岩が見つかりましたので祭壇を作って祈っておりました。すると岩が真っ二つに割れて炎が燃え立ち、中から胡桃をくわえたイタチが現れ、アサムサクトの沼にそれを落としたのであります。程なく沼は沸き立ちます。村おさは刀を捧げ持ち、「この刀のせいでわが民が滅びてしまう。この刀を水神であらせられるあなたに捧げる故、どうかしっかり預かっていただきたい。刀を受け取った印に、この水面を覆う波を消していただきたい」と包みを水面に投じたのであります。続き大きな飛沫が上がり、その波紋が静まるや水面は鏡のように静まりました。よく見てみますと、水面の沸き立つ波と見えたのは何百何千という子蛇の大群であったのです。ともあれ、これで刀は二度と戻ってくることは無く、コタンには平和がもどりました。この時の沼の大岩は「エペタムシュマ」(人食い刀の岩)として現在でも残っております。伊納駅と近文駅の中間あたり、石狩川のほとりの大岩がそれであります。イペタム「ipe-tam」は人食い刀、血を見なければ収まらない刀と云う事で俗に言う妖刀のこと。近江正一・伝説の旭川
『 昔、ある老人が二振りの妖刀イペタムを所有しておりました。この刀は少しでも物を食べさせないとひとりでに鞘から抜け出して暴れるので、何時も刀の箱の中に小石を6つほど入れておきます。こうしておけば一ヶ月は石を食っておとなしくしております。しかしその石を食い尽くしてしまえばまた暴れ出す、このままでは自分の命までも危ない。そこでアサムサクトの底無し沼に沈めたところが、沼の傍に刀の形をした岩が出現し、これをエベタムシュマ(人食い刀の岩)と名付けた』石山秋三郎エカシ伝
『昔、皮の幸、山の幸の豊かな上川コタンを羨んだ北見アイヌが、石狩川を下って、不意に忠別太に押しよせる。コタンでは酋長を先頭に応戦につとめたが、折悪く猟に出て無勢であつたので、進入軍に攻め立てられ追い立てられ、遂に立岩のチャシによったがすぐに危うくなる。ところが日ごろ酋長の娘を愛していた若者二人、酋長は二人にその戦功の優れた方に娘をやる事を誓う。一人は早速囲みを破って同族の助けを求めにひた走りに走り出す。他の一人は雨と飛ぶブシ矢の間を縫って立岩の険をよじ登り勇ましくも岩頭に立ち上がる。怒髪を風に逆立てた若者の姿は鬼神にも似てりりしい限りであった。日ごろ憎からずと思っていた酋長の娘は、味方に迫る危機も忘れてその勇士に見とれている。奮戦数合、若者は数カ所の矢傷を負い、もち矢は尽きる。ときに敵のブシ矢がぶっすりとその胸を貫く。最後の迫った若者は、血の滴るその矢を抜いて弓につがえ、無限の思いを矢の根にこめて岩下の恋人の胸を狙う。娘は胸を開いて若者の真心を受け取る。一度は倒れたがやがて起き上がりその矢を抱いたまま底なし沼に走り込む。若者もその後を追う。この若者の勢いに浮きだった北見勢はちょうどその時、そちこちから聞こえる援軍の時の声についに矛先を収めて引き上げた。近江正一・伝説の旭川
上川アイヌの中心地近文の地名はアイヌ語のチカップ二「鳥のいるところ」という意味に由来する。伝説では『昔、オサラッペ川が石狩川に流はいるあたりに二羽の大鷲が住んでいて、よく近文付近に来てはウサギや鹿をとっていた。その鷲がいつもよく止まる木をチカップニといったので、実際には鷲の止まるというのである』また一説には『太古時代にここには非常に美しい夫婦のクジャクが棲んでいて、アイヌ達それを神として祀っていたが、いつ頃かそれがどこかに行っていなくなった。しかしコタンの人達はその美しい孔雀が忘れられず、その鳥が止まっていた木をチカップニと呼んでいたという。この孔雀はもちろん現代の孔雀ではなく伝説的な巨鳥フリーカムイのことであるという』近江正一・伝説の旭川より
『旭川市の近くオサラッペ川が石狩川に注ぐあたりに、今も初夏になると白い花がびっしり敷き詰めたように咲く広場がある。ここは昔砦のあった所で有ると云うが、この砦をもっているのはイワンレクコロクルという狐神で、ここの狐神がここで砦を築いていて、他から敵が攻め寄せてきたときとか、悪い病気が流行してきたときには、悪者や病魔と闘って防いでくれたことであると伝えられ、昔は酒を捧げられたところであるという』川村ムイサシマツフチ伝※オサラッペ川の河口には砦の蹟があります。
『旭川市の護国神社のところにポンメム(小さい泉)とポロメム(大きい泉)とがあり、その近くには柏の生えた丘があってそこにはイワンレクコルシトンビカムイという狐の神が住んでいるいって、酒をつくると必ずそこにあげて祈願したものである』石山秋太郎老伝※イワンレクコルシトンビカムイとは六つの咽喉を持つ狐神の意で、色々な声を出して危急を人間に知らせると云う事。
旭川の神楽の語源はアイヌ語のヘッチュイウシ。伝説では『この地には神が降りてきてユカルを語ったり、踊ったりして遊ぶところだとされておりました』近江正一・伝説の旭川。また『昔、ペナンペ(川下の者)が船に乗って忠別川をのぼって、タンネピラのところまで来て泊まっていると、夜中にユカラの声はしないが、しきりにヘッチュイの音がして眠れなかった。誰かいるのか、それとも神様が互いにユカルしたのかわからないが、恐ろしくなって逃げ帰って皆に知らせたので、それからここをヘッチュイウシというようになった。ヘッチュイとはユカルをはやす事である』ここで神がユカルを語ったという伝説を日本的に意訳したものです。門野ナンケアイヌ老伝
『石狩川のほとりにあるタナセに住むカナチは、さえわたる如月の星空のように美しく冷やかな、美少女でしたが、決して家を出ることがなかったのでカナチのうわさは神秘のヴェールに包まれていました。ある日、カナチは病気になった父のかわりに石狩川へ、アキヤンチ(鮭)を捕りに出かけました。ところがカナチが外に出るのを一日千秋の思いで待ちうけていた悪魔は、大きな沼貝(ピプウシ)に姿をかえて彼女を一呑みにしてしまったのです。美しいカナチが死んだ川岸には、それ以来可憐な忘れな草が咲き乱れるようになり、コタンの人々はこれをピプウシと呼ぶようになりました』元は比布町史ですが原型が変わっている様です。アキヤンチは日本語でピプウシも意味不明、更に忘れな草は帰化植物で伝説に出てくる事はあり得ない。北海道のデジタル絵本館の「美少女カナチの物語」では基本ストリーは保たれてはいるようですが脚色がされているのでアイヌ民話の雰囲気は無くなっている。かつて棚瀬山傍を流れる石狩川の下流にはピップ民話『屯田兵の恋』の舞台になったというピリカの飛瀑(比布大滝)がかかっていたが既に崩壊し、滝の面影が残る淵となっている。
旭川市から北に向かう宗谷線が石狩川を渡り、比布川を遡る当たりにトゥッショッという山がありこの山に一つの洞窟があるが、この洞窟は昔から地獄に通じる穴と言伝えられている。『昔、二人の老人が狩りのためにこの付近に行くと、一匹の狢が地獄穴に入っていくのを見た。するとまもなく狢が追われるように飛び出してきた。その後から穴から弓を持った一人の男がでで来てびっくりしたようにあたりをキョロキョロ見ていたが、また慌てて穴の中に戻っていったので、穴の中に何か有るのではないかと、老人達もその後を追って入ってみた。すると穴は次第に狭くなって、やっと通れるくらいになったが、そこを通り越すと又広くなってやがて明るいところに出た。見るとそこには山も川もあり、狢や魚もたくさんいて、どっさり魚をつるした家々があって、犬がしきりに吠えついてきたが、そこにいる人間は老人達の来た姿が見えないらしく、犬が吠えるので「化け物でも来たのでないか、ボロをいぶして魔除けしろ」といって、ボロに火を付けていぶしていた。老人達はそこを引き返して戻ろうとすると、バカに着物が重くなったので、よく見ると、いつの間にか着物の裾に沢山の人間がぶら下がっているので、それをとっては投げ捨て投げ捨て、元の穴からやっと外に出てきたが、一人の老人が「俺はあんな村が好きだ、あそこに住んでみたいものだ」というと、一人の老人は「俺はなんだか嫌いな村だな」と反対した。それからまもなく好きだといった老人は死んでしまい、嫌いだといった老人はいつまでも永生きをした。この二人の老人の話で、そのアナがあの世に通じている地獄穴であることがわかった』これは』川村ムイサシマツフチ伝の内容ですが「まんが日本昔話」でも紹介された話です。突哨山にはかつて鍾乳洞がありましたが石灰採掘で今は穴はなくなりました。これとは別にピプという山にもウエンルパロという地獄穴の伝説が残されています。
別の伝説では「あの世の入り口」は石狩川の支流、忠別川の上流のピプという山にあるとされている『この山はイチイの木が生い茂って 昼でも暗く不気味なところでありますが、この森の茂みに時折悪臭を放つ岩穴があり、人々はウエンルパロ(悪しき路の口)と呼んで近づくのを恐れておりました。ある日、二人の上川アイヌがこの穴の正体を確かめてやろうと中に潜り込みました。はじめは漸く這って進む程の狭さだったのが立って歩けるほどの広さになり、急に視界が開けて明るくなります。喜んでさらに進むと道が二股になっている。そこで二人はそれぞれの道に分かれました。さて、一人が行った道はやがて野原になり、仕舞いには海になる。海には舟が有ったので近寄ってみると中にはなんと死体がギッシリ。そのうえあちこちから犬が集まって吼えかかるので必死になって追い払っておりますと、突然頭上から「シリクル・トナシ・フンナァ」(亡者の魂が早いなあ)などと言う声がしますので急に恐ろしくなり、ようようの事でもと来た道を戻り、穴から出ました。さて、後で聞くと、自分の連れもやはり似たような体験をしたとのこと。それ以来人々はこの穴をあの世の入り口として、一層恐れるようになった』ということです。永田正芳・蝦夷雑話より
『昔神居古丹のところに数千状の滝が有り、その高台にアイヌのコタンがあったが、ある年突然オプタテシケの山が大爆発をして、火を噴き溶岩の流れはあたりの岩石を突き破り、山を押し流し滝の下流を埋めつくしててしまったため、広い平野がで来てしまった。この爆発のとき、アイヌの先祖達は爆発から起こる洪水を逃れるために、高いところへ高いところへと縄を伝って逃げたが、現在上川に住んでいるアイヌ達は、皆その時生き残った人達の子孫で、今も神々に酒をあげるときにはオプタテシケにもあげている』近江正一・伝説の旭川及びその周辺より
愛別町の愛別川と近文アイヌの伝説で『愛別はアイヌ語のアイベッで流れの速いところから、矢のように流れの早い川と言うことで矢川と訳されているが、それには昔、此付近にいた上川アイヌは天産に恵まれていたので常に生活が豊かであった。ある年それを妬む十勝アイヌの質の良くない一団が山を越えて、上川アイヌを襲ったことがあった。ところがその一団は皆捕虜になって談判をつけられ、もっていた獲物も宝物も全部取り上げられてやっと許してもらった。ところがこれを聞いた十勝アイヌ首長はコタンの人を総動員して上川アイヌのコタンを襲ったが、また今度も上川アイヌに迎えうたれて敗北し、首長も矢に当たって傷つき、愛別川の激流の中に落ち込んで背にした矢筒を川に落として流してしまった為に戦うことが出来なくなって、再び上川アイヌの虜になってしまった。それ以来この首長が矢を流した川をアイベッというようになった。後に十勝アイヌと上川アイヌは仲直りをし、十勝の首長は上川首長の娘を妻に迎え、その子孫が近文アイヌの先祖になったと伝えられている。上川アイヌの砦は現在の伊香牛のところに、愛別川の支流チャシパオマナイ(砦の頭のところに有る川)のところであるという』近江正一・伝説の旭川及びその周辺より※伊香牛の砦は伝説のみに有り実在しない。
古老などの話す民話、伝説などをそのまま書き写した場合、あるいは話の大筋はそのままで、枝葉において多少の修正増減を加えただけの様な場合は、そこに新たな創作性は認められず、書き写した人の著作物ではありません。ただ古老などから聞いた伝説などの骨子にストーリー性、表現を加えて伝説とした場合は新たな創作性が認められるので新たな著作物になります。修正増減を加えただけなのか、それとも新たな創作性が認められたものであるかの判断は微妙で、個々の事例に従って判断するしかありません。著作権侵害という場合は伝説ではなく、創作民話や創作伝説である事の証明で、伝説は大嘘という事になる。したがって当サイトに掲載された伝説には著作権侵害での問題は発生しないと考えます。
旭川の伝説をメインに上川地域に伝わる代表的なアイヌ民話を集めてみました。ただこれは伝説全体の一部で有りすべてではありません。
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