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ぐるっと日高プチ旅2
日高中央・新ひだか町,新冠町を巡る旅‼

高田屋嘉兵衛翁之碑旧三石MAP

高田屋嘉兵衛翁之碑高田屋嘉兵衛は択捉航路を開き千島周辺に新たな漁場を設けるなど、北方の海の開拓者として活躍した。高田屋嘉兵衛の碑は嘉兵衛の遺徳を偲び1927年に三石小学校前に建立されたのを三石海浜公園内に移設。新ひだか町に移住した稲田家と同じ洲本出身というのも因縁めいている。函館の高田通りと根室の金刀比羅神社に高田屋嘉兵衛翁の銅像がある。回船業や請負人で道内に銅像があるのはこの人くらい。◇建立年:昭和62年10月 ◇建立者:高田家関係者 ◇移転年:平成24年10月 ◇所在地:新ひだか町三石鳧舞 ◇Gmap:マップコード

船場家のイチイ

船場家のイチイ川崎舟「南越丸」の船頭船場三太が家屋を建てた際に移植したイチイの木で、焼尻島のオンコの壮に似た雰囲気。潮風によるせいか上よりも横に広がった感じで見た目以上に樹齢がありそうだ。昭和61(1986)年に三石町指定文化財となる。船場宅は昭和46(1971)年頃迄は大方昔のまま残っていたというが今は建物の姿は無くイチイがあるのみ。◇所在地:新ひたか町三石町越海町 ◇Gmap:マップコード

開拓者集団(稲田藩)上陸記念碑旧静内MAP

開拓者集団上陸記念碑徳島藩主は蜂須賀家で稲田家は蜂須賀家の家老。明治3年に藩籍奉還が元で起こった庚午事変の結果、新政府は喧嘩両成敗とでもいうべき処置で、北海道静内郡と色丹島の開拓を命じられた稲田邦植と総勢137戸、546人の旧家臣の人々は明治4年、大阪丸、大有丸、鍋焼丸の三隻に米麦、農具、家具などを満載し洲本港を出発、同年5月2日に当地地へ上陸した。石碑は船の形を表し、直径15センチほどにくり抜かれた丸い穴のあいたデザインで静内町百年記念事業で設置された。目名には稲田家屋敷跡がある。◇建立年:昭和55年3月 ◇建立者:旧静内町 ◇所在地:新ひだか町春立538 ◇Gmap:マップコード

東静内漁場跡の碑

東静内漁場跡の碑場所請負人の漁場があり倉庫や番屋が立ち並んでいた所で明治4年、静内に移住した旧稲田家臣団はこれらの建物を仮の宿とし、国元から携帯してきた衣類・夜具をはじめ、家財道具などを漁場倉庫に保管していたが、火災のため焼失するという災禍に遭う。その落胆と焦燥は想像を超えるものがある。碑は国道235号線沿い海側、静内会所跡近くにある。◇建立年:未確認 ◇建立者:旧静内町? ◇所在地:新ひだか町東静内 ◇Gmap:マップコード

アイヌ民族資料館MAP

アイヌ民族資料館静内の真歌公園にシャクシャイン記念館とアイヌ民族資料館とがある。資料館はアイヌ文化の伝承と理解を目的に1982年に開設され、アイヌの人々の暮らしを再現した実物大家屋や、彼らが使用していた民具、衣類、さらに外洋船の復元模型「イタオマチプ」、ヒグマやエゾシカの剥製などを展示している。その中で神送りに使われたというエゾオオカミの頭蓋骨があるが、これは日本でここだけという貴重なもので新ひだか町の文化財となっている。北海道にはアイヌ民族の資料館が多数存在するが、無料で入館できる施設は少ない。公園内にはアイヌ野草園やシャクシャイン像、シベチャリのチャシ跡がある。◇所在地:新ひだか町静内町真歌 ◇Gmap:マップコード

開基百二十年之碑

開基百二十年之碑益習館跡の直ぐ側に開基百二十年之碑がある。説明板より転載「東静内には、古くから先住の人々が多数居住し、永い歴史を大自然の恵みを受けながら、困難な生活を営んできた。そこへ、淡路洲本城代家老、稲田九郎兵衛邦植氏とその家臣は、政府より静内郡の移住と開拓を命ぜられ、明治4年2月47名の先発隊、同年5月には500余名の本隊が捫別(現在東静内)に集結し、開拓の鍬を振るい、幾多の苦難を克服して、今日の静内町の基礎を築いたのである。今ここに、開基120周年の記念すべき年を迎え、幾多先人の足跡を偲び、功績をたたえて記念碑を建立する。平成2年4月 東静内連合自治会」とあり。◇建立年:平成2年4月 ◇建立者:東静内連合自治会 ◇所在地:日高郡新ひだか町東静内 ◇Gmap:マップコード

英傑シャクシャイン像MAP

英傑シャクシャイン像シャクシャイン像の碑文より転載しました。「日本書紀によれば、斉明の代(西暦650年代)においてすでに北海道は先住民族が安住し、自らアイヌモシリ(人間世界)と呼ぶ楽天地であり、とりわけ日高地方は文化神アエオイナカムイ降臨の地と伝承されるユーカラ(叙事詩)の郷であった。今から約300年前シャクシャインはここシビチャリのチャシ城砦を中心として、コタンの秩序と平和を守るオッテナ(酋長)であった。当時自然の宝庫であった此の地の海産物及び毛皮資源を求めて来道した和人に心より協力、交易物資獲得の支柱となって和人に多大の利益をもたらしたのであるが、松前藩政の非道な圧迫と搾取は日増しにつのり、同族の生活は重大脅威にさらされた。慈にシャクシャインは人間平等の理想を貫かんとして、民族自衛のため止むなく蜂起したが衆寡敵せず敗れる結果となった。しかし其の志は尊く永く英傑シャクシャインを崇められるゆえんであり、この戦を世に寛文九年エゾの乱と言う。いま静かに想起するとき、数世紀前より無人の荒野エゾ地の大自然にいどみ、人類永住の郷土をひらき今日の北海道開基の礎となった同胞の犠牲に瞑目し鎮魂の碑として、ここに英傑シャクシャインの像を建て、日本民族の成り立ちを■■するよすがとすると共に、■祖先人の開拓精神を自らの血脈の中に呼び起こしてわが郷土の悠久の平和と彌栄を記念する。1870年915月 シャクシャイン顕彰会」※碑文は読めない部分もありました。◇建立年:1970年9月15日 ◇建立者:シャクシャイン顕彰会◇所在地:新ひだか町静内町真歌

ユカルの塔と頌徳碑

ユカルの塔と頌徳碑ユカルの塔と英傑シャクシャイン像建立の経過です。碑文より転載「碑文 まごころと真実、尊敬と信頼、先人の御霊に深く瞑目し、その偉徳を偲ぶ人々の限りない善意と敬虔の願いが呼応しあいこの地真歌の丘に、英傑シャクシャインの勇姿蘇える。時1970年秋のことである。次いで1971年顕彰の趣意を示す碑文抄の完成。翌1972年、古式に則りオッチケ(神膳)を台座となし、その全面に神々の心をたずねる神器カムイスパイを配し、未来永劫絶えせぬ慰霊の祈りをこめて「ユカルの塔」天空に建つ。これら一連の事業達成の基は自ら自覚め、他面に亘る協力を惜しまなかった各位の御芳志の賜であり、町内有志はいうに及ばず道内外の地域から八百有余人にわたる募金の協力を始めとした幾多の人々の深い御理解と御支援の結晶である。そのひとりひとりの御芳名を、勇者の英姿と共に、後?に残すべく志向してきたところであるが、未来に続くより広汎な善意と御支援にも謝する趣意をもって、頌徳の辞に代え満腔の謝意を顕す次第である。この意をもって、1974年当時の生活に必須のニス(臼)とイウタニ(杵)を配し、後面の円もには、日輪を象った頌徳板の完成をみ、ひとつの区切りとしたものである。先人の御霊永遠に安かれ、心ひとつに結ばれた諸賢同胞に栄光あれ 1974年9月23日 シャクシャイン顕彰会」とある。◇建立年:1974年9月23日 ◇建立者:シャクシャイン顕彰会 ◇所在地:新ひだか町静内町真歌

シベチャリチャシ跡MAP

シャクシャイン城砦跡真歌公園内にあるチャシ跡。寛文9年のシャクシャインの戦いの拠点として知られて「シャクシャインのチャシ」とも云うが普通はシベチャリチャシ跡と呼ばれる。チャシは複数の堀で囲っている事が多いが、ここは深い堀跡が1本有るだけで意外でした。チャシ跡の一角に展望台が併設されている。◇指定日:平成9年12月2日 ◇説明板設置年:平成10年7月 ◇設置者:新ひだか町 ◇所在地:新ひだか町静内町真歌 ◇Gmap:マップコード

戸長役場跡

戸長役場跡明治13年に設置された静内、新冠両郡の戸長役場跡。静内市街地にある北洋銀行建物の壁面に戸長役場のレリーフが埋め込まれている。明治時代には建物の位置に戸長役場があった。旧三石に設置された日高最初の戸長役場跡の碑は確認出来ず有無不明。◇設置者:旧静内町 ◇所在地:新ひだか町静内御幸町 ◇Gmap:マップコード

お登勢の碑

お登勢の碑碑文「春の訪れとともに、お登勢はふたたび木を伐り、根株を掘り起こし、草を焼き土を耕す毎日の中に埋没して行った。静内から新冠にかけては桜が多いが、いつ花が咲いて、いつ散ったかも、お登勢は気づかずに過した。船 山 馨」※お登勢とは「庚午事変」をモデルにした船山馨の小説「お登勢」の主人公、稲田家臣団を追って静内に移住し、生き抜くさまを描いた物語。テレビドラマ化されたことを機に記念碑が建てられた。碑の性格としては文学碑となるのか。◇建立年:昭和50年5月11日 ◇建立者:未確認 ◇所在地:日高郡新ひだか町静内田原 ◇Gmap:マップコード

サラブレッド銀座駐車公園新ひだか町MAP

サラブレッド銀座駐車公園新冠の町の北のはずれで判官館麓に近い国道235号線と道道209号線の交差点近くで、見晴らしの良い高台上にサラブレッド銀座駐車公園がある。小規模の駐車公園だが展望台からは新冠のサラブレッド牧場のパノラマが一望できる展望の良さで新冠八景という。国道からは少し外れているので静かで落ち着けること、東屋や馬の形をしたモニュメントなどがあり馬産地ということを実感させる。近くには珍しい泥火山で出来たという小山がある。◇所在地:新冠町高江 ◇Gmap:マップコード

新冠泥火山

新冠泥火山地層の軟弱点から地下の泥土や地下水・ガスが噴出し、それが長い年月をかけ山のように堆積してできたもの。その数は大小あわせて八つあり特に第七・八丘は大型で北海道の特別天然記念物に指定されている。小山は牧場の放牧地となっているので、案内板が無ければ泥火山とは気づきそうにない。◇所在地:新冠郡新冠町高江219 ◇Gmap:マップコード

緑丘開拓50周年記念碑

緑丘開拓50周年記念碑同じ開拓でもここは戦後開拓でした。碑文より「昭和23年4月、満州引揚者を主とする一団、長き道のりを経てようやくこの別天地に着き厩舎で仮住まいを始め、雑木林と原野の開拓に挑み、幾多の困難に直面し、血と汗のにじむ努力をして今日の緑丘の基礎を築いた。今年50周年を迎え、開拓初期を偲び先人の遺業を称え、将来の緑丘地域の益々の繁栄を祈念しこの碑を建立する。以下省略」◇建立年:平成10年8月 ◇建立者:緑丘開拓50周年事業協賛会 ◇所在地:新冠町緑丘 緑丘生活センター横 ◇Gmap:マップコード

姉去簡易教育所(姉去土人学校)跡MAP

姉去土人学校跡新冠町エコミュージアムふるさと探訪14の碑の中で唯一強制移住に関する碑文があり転載。「この地域は昔から多くのアイヌの人たちが住んでいたところです。明治29年、古川アシンノカルは、アイヌ子弟ののため、私費を投じてこの地に土人学校(古川教育所)を設立し開校しましたが、翌年の5月には教師が退職するなどの理由から休校となりました。明治36年、旧土人保護法による学校設置に際し、この学校が献納され庁立姉去土人学校(姉去簡易教育所)として開校しました。しかし大正5年に新冠御料牧場経営の都合によりアイヌの平取村上貫気別地区への強制移住に伴い学校も移転する事になりました。平成18年11月 新冠町教育委員会」※滑若(現泉付近)に住んでいた吉川アシンノカル(安政4年~大正14年)御料牧場に奉職するかたわら、自身も牧場や商店を経営していたが、アイヌ教育の発展に努めた人物、他に姉去簡易教育所の平面図が記されている。姉去より上貫気別へ強制移住が行われそれに伴って学校も上貫気別に移転した、現在の平取町貫気別小学校は姉去からの歴史を受け継いでいる。北海道は旧土人保護法に基づく簡易教育所を北海道各地に設置、その数は三十一ヶ所にのぼります。土人保護法という差別的な処遇に追い打ちをかけたのは強制移住でした。◇建立年:平成18年11月 ◇建立者:新冠町 ◇所在地:新冠郡新冠町大富  ◇Gmap:マップコード

判官館判官岬

判官館(判官岬)新冠川河口に聳立する岩壁上の小山で義経伝説では義経自ら判官館と名付けたという。館はヤカタではなくタテと読み、道南13館などと同じで山城ということだか遺構の存在は聞いていない。かつてはピポクチャシと呼ばれた砦で祭場でもあったという。また寛文9年エゾの乱でシベチャリの英雄シャクシャインが謀略で誘き出され謀殺されたのも新冠だった。松浦武四郎の記録でも判官館で古くから用いられている地名のようですが、今はキャンプ場やバーベキューハウスなどがありアウトドアスポットとなっている。眺望を楽しむなら判官岬、東屋があるだけですが新冠市街はよくみえる。判官館の崖下海側に幕府の会所跡、新冠川沿いの山裾に判官館青年の家があり、その前の川筋にカッパ伝説の説明板があった。カッパ伝説は他地域にもあります。◇所在地:新冠町高江 ◇Gmap:マップコード

サラブレット大壁画

旧サラブレット大壁画新冠町の節婦から市街地に向かう途中、進行方向左の山肌に大きく描かれていますが運転に集中していたら気付かないかも。馬産の地新冠らしいが車を止めてみるならドライブインの横がよさそうです。個人的には節婦漁港から砂浜を歩いて新冠会所跡に行く途中で見たのが1番よい雰囲気だった。平成2年の設置で部分的にはがれ落ちていたが、平成28年3月に改修工事が終了、新デザインで一新、障害物も除去され以前と比べると格段に見やすくなっている。◇所在地:新冠町節婦 ◇Gmap:マップコード

日高東部・太平洋ラインミニギャラリー

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