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ぐるっと日高プチ旅3
日高西部・日高町&平取町を巡る旅‼

イザベラ・バードが歩いた道日髙門別MAP

イザベラ・バードが歩いた道イザべラ・バードが歩いた道の説明板は地図でそのルートを示しているが、その足跡の中で日髙門別から平取の義経神社までの区間は沙流川沿いに一部公道を含むも本格的なフッとパスとして整備されている。白老や七飯町の場合はフットパスとしては不十分だが、その足跡図を見て周辺を歩くことにはできる。イザべラ・バードは最初は沙流川左岸台地、福万付近で川を渡り平取に向かった。その足跡を歩こうというフットパス最初のスタート地点が門別図書館になる。◇設置年:平成21年 ◇設置者:イザベラ・バードの道を辿る会 ◇協力:日高町・日高町教育委員会 ◇所在地:日高町富川東1丁目3−1 ◇Gmap:マップコード

飯田御殿登録有形文化財

飯田御殿日高地方での古民家は旧鵡川駅逓や通称・飯田御殿など極めて少ない。幕末期の建物はないがが幕末期以前創建の由来を持つ神社や寺院は残っている。日高町(旧門別)にある飯田家住宅の創建は不詳だが、明治期に皇族の宿泊所となったことで知られる。明治30年代に正面主屋部分を建築したと考えられ、明治42(1909)年の韓国皇太子宿泊の際に増築、明治44(1911)年の皇太子(後の大正天皇)宿泊の際には御座所部分を新築したという。昭和26(1951)年に上段の間・下段の間を中心に御座所部分を富川に移築し「飯田御殿」と呼ばれ、平成26(2014)年に国の登録有形文化財となった。移築部分を含めると明治44年という事になるのか?。飯田家住宅を建築した飯田信三は近江国坂田郡新庄で弘化2(1845)年に生まれ。明治4(1871)年に当地に移住し、漁場経営を手始めに運送業・酒造業なども営み、門別小学校を新築寄附するなど地域に大きな貢献をした人という。◇築設年:明治44年 ◇築設者:飯田信三 ◇所在地:日高町富川南1丁目3番27号 ◇Gmap:マップコード

イザベラ・バードが歩いた道・紫雲古津平取町MAP

バードが歩いた道・紫雲古津平取町には2ヶ所、紫雲古津大橋近くと義経神社前に、あと日高(鵡川)の門別図書館・郷土資料館横にありフットパスとして整備されているとのことで標識も設置されている。明治11年8月22日に富川を出たイザベラ・バードは渡船(紫雲古津)で対岸に渡り「二人の少年に案内してもらい、松木船で出来るだけ上流にさかのぼることにした」とあるが、殆どは陸路で平取りに至っているようです。かつての渡船場は紫雲古津大橋に変わっているが、その橋近くにある紫雲古津のバード解説板は素材の特質か映り込みがあり撮影は面倒かも。◇設置年:平成21年 ◇設置者:イザベラ・バードの道を辿る会 ◇協力:北海道開発協会 ◇所在地:平取町紫雲古津 ◇Gmap:マップコード

イザベラ・バードが歩いた道・義経神社MAP

バードが歩いた道・義経神社イサベラバードはアイヌ青年の案内で平取を訪れペンリウク宅に逗留、アイヌの人達と数日間を過ごしたという。「神社が建っているのは村の向こうの山の頂上で、そこまで美しいが険しい坂を歩いて行った。よじ登って云ったという方が当たって居るかもしれない」と解説板にあったが、神様は険しい所がお好きなようで、バードが訪れた頃は今のハヨピラと呼ばれる所に神社があったようだ。今は崩落の危険有りとハヨピラへの立ち入りは禁止となっている。◇設置年:平成21年 ◇設置者:イザベラ・バードの道を辿る会 ◇協力:平取町・平村建設 ◇所在地:平取町本町 ◇Gmap:マップコード

義経神社平取町

義経神社近藤重蔵が1798年の蝦夷地調査の際に、アイヌの神・オキクルミと結びついた義経信仰があるのを知り、江戸に戻ってから自分に似せた義経像を彫らせて、翌年、再び蝦夷地調査に向かう途中、オキクルミの言い伝えがある平取のハヨピラに義経像を安置し祠を建てたという。義経伝説で建立された唯一の神社ですが、徳川の祖とされる源氏崇拝は幕府には都合の良いことで、近藤重蔵らはそれを利用したとしても何ら不思議ではないだろう。神社は義経公園の一角にあり義経資料館や沙流川と日高山脈の山稜を眺望できる展望台もある。◇所在地:平取町本町 ◇Gmap:マップコード

平取町百年記念史跡・歴史の散歩道

松浦武四郎明治33年に戸長役場が設置されたというので平成11年で100年という事になるが、平取町百年記念史跡・歴史の散歩道はそれを記念して造成したものか・・・二風谷ダム(二風谷湖)に沿うように散歩道が整備され、平取町の歴史と関わりの深い7人のレリーフ(碑)が設置されている。7人を簡単に記すと、義経神社の創立と縁の深い幕臣・近藤重蔵、探検家で北海道の名付け親として知られる松浦武四郎、ユカラの研究者で度々当地を訪れていた金田一京助、アイヌ三大歌人のひとりで社会運動家だった違星北斗。平取村でキリスト教布教にあたったが、知里幸恵の意思を継いでユーカラを約100冊のノートに書き綴った金成マツ。英国人の女性旅行家で紀行作家、明治11年に来日し平村ペンリウク宅に4日間滞在したイザベラ・バード。英国聖公会の宣教師でアイヌの父と呼ばれたジョン・バチェラーとバチラーに頼まれて明治30年平取来住の伝道看護婦エディース・メアリー。昭和7年に移住し二風谷コタンにて医師として献身的な医療活動を行うが9年後に当地で亡くなったニール・ゴルドン・マンローの7人。写真は松浦武四郎ですが、武四郎は別コーナーで紹介。◇所在地:平取町二風谷

イザベラ・バード歴史の散歩道

イザベラ・バード記念碑平取町縁の9人の碑の1人、Isabella L.Bird(1831年~1904年)レリーフより「英国人の女性旅行家で紀行作家。明治11年47歳の時に来日し、通訳の和人青年を案内人として8月に北海道を訪れた。函館からの行程の陸路はすべて馬で踏破し、沙流川の河口からは丸木船で川を上がった。アイヌ集落の取材を目的とした来訪であったが、平村ペンリウク宅に滞在しながらの4碑間の観察叙述は、明治初期の民族史的記録としてきわめて貴重なものである。邦訳は『日本奥地紀行』として、また北海道についての部分訳(訳者は二風谷に在住した神成利夫)は『コタン探訪記』として出版されている。◇建立年:平成11年10月 ◇建立者:平取町 ◇所在地:沙流郡平取町二風谷 歴史の散歩道

ニール・ゴルドン・マンロー歴史の散歩道

ニール・ゴルドン・マンロー記念碑平取町歴史の散歩道に設置されている平取町縁の9人の碑の1人です。Nell Gordon Manro M.D(1863年~1942年)レリーフより「イギリス・スコットランド出身の医師で人類学者。明治25年に来日、横浜ゼネラル・ホスピタル病院長や軽井沢サナトリウム所長を歴任する傍ら、英国王立人類学研究所の通信員として考古学の研究にも従事する。名著「先史時代の日本」など黎明期の日本考古学会に先駆的な業績をのこす。アイヌ研究にも力をいれ「アイヌの信条と文化」他の著作や記録映画を著作する。昭和5年のイヨマンテ(熊の霊送り儀礼)調査を契機に二風谷永住を決意し昭和7年には自邸(現・マンロー館)を建設。チヨ夫人と共に住民の医療奉仕にも積極的に尽力した。昭和17年他界し二風谷墓地に永眠」※マンロー博士の私宅(マンロー館)が登録有形文化財となって一般公開(夏期間・事前予約必要)されています。◇建立年:平成11年10月 ◇建立者:平取町 ◇所在地:平取町二風谷 歴史の散歩道

ジョン・バチラー碑歴史の散歩道

準備中Jonn Batchler(1854年~1944年)のレリーフより「英国聖公会海外伝道教会宣教師で民俗学者。アイヌ語でキリスト教を広めようとして明治12年9月から12月まで平取に来てベンリウクにアイヌ語を習った。その後も時々来訪したが、明治22年に北海道庁から頼まれてアイヌ語・日本語・英語の3言語対訳の辞書を出版した。これは現在においても貴重な資料である。明治28年平取に教会堂を、37年荷菜に講義所を開く。大正13年有志者の援助により平取に幼稚園を、札幌にはバチラー学園を設ける。特にアイヌ民族文化の理解や普及、住民子弟に対する教育活動、生活向上になどに力を尽くした。当時アイヌと酒の問題は深刻で、断酒・禁酒運動を起したバチラーは酒類販売の商人達に目の敵とされ、平取町を離れざるを得なかったようだが、アイヌ達のバチラーへの信頼は変わらなかったようです。◇建立年:平成11年10月 ◇建立者:平取町 ◇所在地:平取町二風谷 歴史の散歩道

エディース・メアリー歴史の散歩道

メアリー記念碑平取町歴史の散歩道に設置されている平取町縁の9人の碑の1人です。Bryant,Edit Mary(1859年~1934年9レリーフより「明治期に平取で活躍した伝道看護婦。ロンドンの病院で看護婦をしていたが、ジョン・バチラーに頼まれて明治30年平取に来た。義経神社下の「ホスピタル・レスン」で住民の治療に当たりながら、キリスト教を広めるため活動した。明治31年の沙流川大洪水の際には被災した人達を献身的に世話をして深く信頼される。延べ13年間の滞在期間中、振内に私塾を設けて子弟教育につくしたり、親を亡くした子を養女として育てたりして、慈愛に満ちた精神で住民のために力を注いだ。」◇建立年:平成11年10月 ◇建立者:平取町 ◇所在地:平取町二風谷 歴史の散歩道

金成マツの碑歴史の散歩道

金成マツ記念碑平取町歴史の散歩道に設置されている平取町縁の9人の碑の1人。金成マツ(1875年~1961年)レリーフより「ユカラの伝承者アイヌ名イメカノ。妹のナミとともに函館にあった伝道師養成の愛隣学校で学んだ後、明治31年に平取聖公会に着任、伝導看護婦ブライアント女子を助けた。晩年は故郷の登別で暮らしアイヌ伝統文化の記録保存のために尽力。とくに母モナシノウクなどによる口伝のアイヌ文学をローマ字筆記した『金成マツノート』は第一級の史料で有り、日本語訳・解読の作業が続けられている。『アイヌ神謡集』を著した知里幸恵と北海道大学教授として活躍した言語学者、知里真志保は妹ナミの子どもたちである。」※2007年に半分以上が手付かずのまま翻訳を終了した。◇建立年:平成11年10月 ◇建立者:平取町 ◇所在地:平取町二風谷 歴史の散歩道

金田一京助歴史の散歩道

金田一京助記念碑平取町縁の9人の碑の1人、金田一京助(1882年~1971年)レリーフより「言語学者・国語国文学者。ユカラの研究者でもあった金田一京助がアイヌの口承文芸「ユカラ」世界的に有名にした功績は大きく、沙流川筋のアイヌから資料を集め、教えを請うことが多かった。萱野茂氏も京助の晩年のアイヌ語・アイヌ文化研究を大いに助けた一人である。京助が詠んだ次の歌は石碑に刻まれて萱野茂二風谷アイヌ資料館横に立っている。昭和29年文化勲章を受章。国語学者、金田一春彦の父。『ものも云はず 声も出さじ 石はただ 全身をもって 己を語る』」※萱野茂二風谷アイヌ資料館前庭に昭和43年建立の歌碑があり、同じ歌が刻まれている。◇建立年:平成11年10月 ◇建立者:平取町 ◇所在地:平取町二風谷 歴史の散歩道

違星北斗碑歴史の散歩道

準備中にぶたに湖岸の遊歩道沿いにある平取町歴史の散歩道に設置されている平取町縁の9人の碑の1人です。違星北斗(1902年~1929年)レリーフより「アイヌ民族の歌人で余市町生まれ。歌人・文人を志しながらも、同胞の生活向上のため社会活動に検診し、バチラー幼稚園で働きながら小樽新聞に短歌などの投稿を続けた。結核のため27歳で早逝。昭和25年に遺歌文集『コタン』が出版された。民族、差別への激しい怒り、絶望感を嘆じる中にも、アイヌとしての自負の心を表出した作品が多い。北斗の短歌を詠んだ歌碑が二風谷小学校前に建てられている。『沙流川ハ 昨日の雨で水濁り コタンの昔 囁きつついく』」※和歌に詠まれた沙流川はダムに沈み今は幻となった。◇建立年:平成11年10月 ◇建立者:平取町 ◇所在地:平取町二風谷 歴史の散歩道

近藤重蔵歴史の散歩道

近藤重蔵歴史の散歩道に設置されている平取町縁の9人の碑の1人、近藤重蔵(1771年~1329年)レリーフより「江戸後期の北方探検家・書誌学者・幕臣。重蔵は、蝦夷探検の時アイヌが義経公をハンガンカムイとして崇拝している事を知り、アイヌ慰撫教化と北辺の鎮護のため江戸神田在住の大仏工橋善啓に義経公の像を造らせ寛政11年(1799)ハヨピラの地に小祠を建て此企市郎上衛門と共に像を寄進した。木造は高さ33㎝余りで凜々しく水晶の目に童子のような頬、甲冑を見にまとい両肘を張って岩に腰を掛けた姿をしている。沙流川の洪水に流されたことが二度あったが、その度に下流の川岸や海岸で発見されたことから、今ではあらゆる災難を防ぐ守護神として奉られている。こうして義経公の御神像は江戸寛政期から二百年間、今も町の氏神としての役目をはたしている。」※碑文は近藤重蔵と義経神社の関係が述べられているが、近藤よりも神社に重きを置いた印象です。◇建立年:平成11年10月 ◇建立者:平取町 ◇所在地:平取町二風谷 歴史の散歩道

金田一京助歌碑MAP

金田一京助歌碑萱野茂二風谷アイヌ資料館手前に白樺が被さるようにして大きな石碑がある。物と石はわかるが他は何と書いてあるのか達筆すぎてよめない。横に標注が有り「ものも云わず 声も出さず 石はただ 全身をもって 己を語る」と誌してある。その裏側に昭和43年建立となっていた。歴史の散歩道のレリーフと少し違っているので、萱野茂氏の「アイヌの碑」を見ると『物も言はじ 声も出さじ 石はただ 全身をもって 己を語る』となっており、碑をもう一度見ると書き出しは「物」、「アイヌの碑」に書かれている和歌は石碑に刻まれた歌で、標注は現代語訳と受け止めた。「アイヌの碑」では1968年10月6日に金田一京助氏を招き歌碑建立除幕式が挙行され参列者は180人とあった。またこれが金田一京助氏最後の渡道であったという。台座の一部がはがれ建立年と思われる「968.10.6」が読めるが、標注にある建立年は間違いか、一部が消えてしまったようです。◇建立年:昭和42年10月6日 ◇建立者:歌碑建立期成会 会長 貝沢 正 ◇所在地:沙流郡平取町二風谷 ◇Gmap:マップコード

違星北斗歌碑MAP

違星北斗歌碑二風谷小学校の敷地内にある歌碑で「沙流川ハ 昨日の雨で水濁り コタンの昔 囁きつゝいく」「平取に 浴場一つ ほしいもの 金があったら たてないものを」の2首が刻まれている。裏面の碑文より「違星瀧次郎北斗と号す。明治34年余市町に生まる。大正14年西川光次郎を頼り上京 金田一京助の知遇を受く。同15年同族のため働くことを決意し帰道 昭和2年平取に住みウタリ文化の研究。同3年売薬行商を続け乍らコタンを訪ね同族の奮起を促す。同4年病を得て歿す時に29才、生前口語短歌よくし並木凡平に愛せられウタリの啄木と称せらる 二風谷小学校の復旧新築に結集せる校下父兄の協働の成果を記念し北斗を敬愛する人々これを協賛、歌2首を誌してその志を偲ぶ。書は金田一京助、制作は田上義也による。 昭和43年11月5日 違星北斗の会 代表木呂子敏彦」※怒りよりも絶望感を漂わせた穏やかな和歌でした。違星北斗はバチラー八重子、森竹竹市と並ぶ「アイヌ三大歌人」の一人とも云い、啄木の影響を受けているともいうが、アイヌ民族の生活感情をアイヌ民族自身が歌ったという意味では数少ない歌碑、碑の一部が剥がれ落ちている。◇建立年:昭和43年11月5日 ◇建立者:違星北斗の会 ◇所在地:平取町二風谷 平取町ニ風谷小学校校庭 ◇Gmap:マップコード

萱野茂 二風谷アイヌ資料館

萱野茂二風谷アイヌ資料館・漁皮衣服萱野茂氏が二風谷アイヌ文化資料館として昭和47(1972)年に開館し平取町に無償譲渡され平取町営アイヌ文化資料館となるが、平成3(1991)年の平取町立二風谷アイヌ文化博物館開設に伴い旧資料館の資料は博物館へ移されました。旧資料館を再利用して萱野茂の新たなアイヌ民具コレクションと新規制作した民具資料によって「萱野茂アイヌ記念館」として平成4(1992)年に再建、のちに萱野茂二風谷アイヌ資料館と改称しています。平取町立二風谷アイヌ文化博物館は白老ポロトコタンと並ぶ屋内外の展示を誇りますが、萱野茂二風谷アイヌ資料館では他の博物館では見られない北方民族の資料やコレクションがある。屋外展示は生活感のある楽しい展示になっている。平取町立二風谷アイヌ文化博物館との共通券あり。冬期間は要連絡。◇所在地:平取町二風谷 ◇Gmap:マップコード

平取町立二風谷アイヌ文化博物館

二風谷アイヌ文化博物館昭和47(1972)年に萱野茂氏のコレクションから始まった平取町営資料館が元になって平成3(1991)年に開設された。「アイヌ伝統文化の今日的継承」を理念に掲げた比較的大きな博物館で、アイヌ文化に限定するならその展示規模は屋内外ともに道内最大級で、アイヌの人々の暮らしや農耕、狩猟の道具、伝統工芸、カムイの信仰や精神などを展示、映像と併せて詳しく紹介。また白老のように観光化されていない雰囲気も印象を良くしている。併設して沙流川歴史館があり沙流川流域の旧石器時代などの遺跡や自然などを判りやすく展示しています。◇所在地:平取町二風谷 ◇Gmap:マップコード

マンロー博士記念館

準備中マンロー博士記念館前に説明板が設置されていた。説明板より「ニール・ゴードン・マンロー博士は、1865年英国スコットランドに生まれ、エジンバラ大学卒業後、明治24(1891)年来日。横浜、軽井沢等の病院で医師として活躍する一方、考古学・人類学・民俗学・地質学等に興味をもち、北海道を含めて、日本各地で先史時代の遺跡発掘に従事し、学会誌等に多くの論文を発表した。明治38(1905)年日本へ帰化。その後、アイヌ研究に集中し、昭和6(1931)年から1933年にかけて当地、沙流郡平取町二風谷コタンに本邸宅を建築、のち別棟を増築し「マンロー診療所」として開設、結核に苦しんでいたアイヌの人達の無料診察に尽力するとともに、アイヌ研究に没頭したが、昭和17(1942)年4月11日癌性腸閉塞のため当地で没した。本邸宅は博士の死後、人出に渡り荒廃していたが、当時の英国大使館参事官F・W・Fトムリン氏及びJ・フィゲス氏が土地とともに私費で入手し、旧状に修復の上、昭和41年9月北海道大学に寄贈(土地19.371㎡ 建物283㎡)、以来、同大学文学部付属北方文化研究施設二風谷分室(通称マンロー博士の遺品の一部と同室所蔵の民族資料・図書資料が展示されている。北海道大学文学部二風谷研究室」※日本人女性と結婚して日本に帰化していたマンロー氏は、アイヌ文化の理解者であり学術論文やイオマンテなどの記録映像(昭和6(1931)年)を残しているが、映像の大部分は網走の北海道立北方民族博物館で見ることができる。◇所在地:沙流郡平取町二風谷 ◇Gmap:マップコード

マンロー博士顕彰碑

準備中大きな石碑で正面左側に銅板の顔のレリーフが埋め込まれ、よこに英文で業績を称えた銘がはめ込められている。裏側には日本語で銅板に書かれた碑文があった「この国の人類学の先駆者『先史時代の日本』『アイヌの信条と文化』の著者てありかつ二風谷コタンに在住し医師として献身的に医療を施した英人ニール・ゴードン・マンロー博士、チヨ・マンロー婦人と共に永遠にトイピラの丘に眠る。昭和50(1975)年6月16日 生誕の日を記念して。北海道大学文学部付属北方文化研究施設長 医学博士 大場利夫 二風谷アイヌ文化保存会長 貝沢 正」※碑はマンロー博士記念館の敷地内にあるが、碑文にあるように共同墓地内の右奥に再建された2人に加えて「わがマンロー伝」の著者、桑原千代子さんの墓碑がある。◇建立年:昭和50年6月16日 ◇建立者:平取町 ◇所在地:沙流郡平取町二風谷 ◇Gmap:マップコード

日高西部ミニギャラリー

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