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ぐるっと石狩プチ旅1
オロロンライン・石狩浜益から石狩川河口部・当別町までを巡る旅‼

国史 荘内藩ハママシケ陣屋跡浜益

ハママシケ陣屋跡荘内藩ハママシケ陣屋跡(国史跡)は、安政6(1859)年に幕府より蝦夷地警備の命を受けた荘内藩が浜益・留萌地方(増毛を除く)を拝領し、現在の浜益区川下地区に奉行所や大手門、御家中長屋などを建設、主に北方警備や土地開拓などの任に就いたが、慶長4(1868)年に「戊辰戦争」が起こると、建物を焼き払い引揚げ陣屋は放棄さた。ハママシケ陣屋には苫前陣屋より1864年に移動した戸田総十郎もいた。この頃にアイヌの生活を見る機会に恵まれた戸田は後に松本十郎と改名し「アツシ判官」とも称された開拓判官となる。現在の陣屋跡にある大手門は復元されたもので、中に邸舎跡を示す木柱があり、土塁・堀・建物跡の造成跡や建設資材を輸送するために造成された堀跡「千両堀」などの跡が残っている。ただ国史跡と言うも荒れ放題で、草が伸びてしまうと大手門以外は何も見えない。千両堀は名前とは裏腹に予備情報がないとただの明渠にしかみえません。陣屋跡入り口にある川下神社はハママシケ陣屋と同時期に建立された。◇所在地:石狩市浜益区川下141 ◇Gmap:マップコード

伊達邦直主従北海道移住の地碑MAP

伊達邦直主従北海道移住の地碑碑は石狩市から国道231号を北上し、八幡市街地を越えて道なりにしばらく行くと左手に案内板がある。碑文1「伊達邦直主従北海道移住の地」碑裏側「平成八年十月建立/当別町長 伊達寿之」、副碑の碑文より「シップ開拓場の記/明治4年(1871)旧暦4月、仙台藩岩出山の伊達邦直主従51戸、180名はこの地厚田郡シップに入植した。元来奥地の空知郡奈井江開拓のための前進地で、海と石狩のマチが近く移民が一時滞留したり、輸送に便利なところとして貸し与えられた土地である。同年、トウベツが開拓に適していることを聞き実地調査の結果をもって開拓使に嘆願しトウベツの再移住が決まっていった。シップでの越冬はきびしかったが この間に八人の新生児が誕生し 将来に明るい光をみることができた 本庄陸男の歴史小説「石狩川」の舞台もここシップであった。こうして当別開拓の方向に定まった歴史的位置を後世に伝えるため、父祖らの功績を称え、当別、岩出山両町民のあつい敬愛の思いをこめて本碑を建立する」※この碑は平成8年10月に石狩郡当別町の基礎を築いた仙台藩伊達邦直主従の入植を記念して建てられたもので、伊達寿之氏は伊達家の末裔であり当時の当別町長でした。記念碑が建っている所は荷揚げや一時滞留を認められたところで砂地で農業には向かない土地て有ったため翌年には当別町へと移りました。◇建立年:平成8年10月 ◇建立者:当別町 ◇所在地:石狩市厚田区聚富 ◇Gmap:マップコード

聚富開拓之碑MAP

聚富開拓之碑長いが碑文をそのまま掲載する「本聚富の開拓は明治初期にその第一歩が記されたが海浜の砂地農法の困難から挫折、第二次大戦後の農地改革制度の進行に伴い地区開拓計画樹立の基本要領にのっとり、昭和26年地元農民の強い要望で地区計画が樹立、併せ買収が行われ再び開拓の鍬が振られた。昭和28年2月20人の入殖者で聚富開拓農業協同組合を設立開拓地に力を入れ、排水灌漑施設土農道等の建設工事が進められ開墾工事等の補助事業も短期間に完了、昭和33年9月には諸工事の落成記念式を挙げた。この事は行政諸官庁の適切な指導と本地区の特殊事情を深く理解された賜である事を特記する。組合設立以来20年組合員は終始谷口利行組合長を中心に営農基盤の早期確立と水田酪農の混同経営による農家経済の安定、更に組合の円滑運営に限りない努力と多くの苦闘に耐え今日の美しく豊かな郷土を築いた。そして第三期北海道総合開発計画はこの地に新しいスポットを当て飛躍的発展の可能性を示している。昭和47年10月20日 開拓之碑改築記念に記す」※◇建立年:昭和47年10月20日 ◇建立者:聚富開拓農業協同組合 ◇所在地:石狩市厚田区聚富 ◇Gmap:マップコード

樺太アイヌの碑MAP

樺太アイヌの碑長いが碑文を転載する「明治8年(1875)に日本・ロシア両国が調印した樺太千島交換条約により、日本政府は、ロシア領となった樺太の南部に住んでいた千島アイヌを北海道とその近くの島に移住させようとしました。明治8年9月から10月にかけて樺太アイヌの人たち108戸、841人は同年秋、北海道宗谷地方に移住。翌年に強権を発動して石狩河口の上流にある江別市対雁に土地を与え、強制的に移住させられました。樺太アイヌの人たちは、故郷を遠く離れた地で鮭漁や鰊魚を営み、多くの者が漁場に近い、この石狩の来札などに居を移しました。しかし明治12(1879)年に伝染病のコレラが流行し、集団生活を強いられていた樺太アイヌの多くは病に冒されました。さらに明治19(1886)年の天然痘、コレラの大流行によって約300人もの尊い生命が喪われました。明治38(1905)年、日清戦争講和条約で、樺太南部は再び日本の領土となり、ようやく帰還することができました。樺太アイヌは、近代日本の立ち上がりの時代から、国家間の領土争いに巻き込まれ、筆舌につくしがたい辛酸とともに歩んで来たのであります。こうした歴史のなかで来札の地で、樺太アイヌが暮らし、そして亡くなっていった事を胸に刻み、永く伝えてゆくものです。平成14(2002)年9月 石狩市」※明治19(1886)年前後には生存者の大半が来札に移動。悲劇を乗り越え日露戦争終結後に336人が故郷に戻った。平成3(1991)年、樺太アイヌ史研究会が石狩町(現・石狩市)に埋葬された八幡墓地の遺骨調査を要請、平成5(1993)年の調査で遺骨と漆器や刀、ガラス玉などの副葬品が発掘され、同年9月に石狩市が道墓地内に慰霊碑を建立した。八幡墓地奥の碑がある一帯が天然痘やコレラなどで樺太アイヌが大量に死亡した際に埋葬していた跡になります。◇建立年:平成5年9月 ◇建立者:旧石狩町(現・石狩市) ◊所在地:北海道石狩市八幡3丁目 八幡共同墓地 ◇Gmap:マップコード

いしかり砂丘の風資料館MAP

いしかり砂丘の風資料館石狩川河口地域全体をひとつの大きな博物館とみなし、海・川・河口の自然と歴史、縄文時代の砂丘の人々についての展示をする河口地域の中心施設として2004年に開館したいしかり砂丘の風資料館がある。1階の展示は川・河口・海の3つのゾーンに分かれ、地域の自然や歴史に関する資料を展示。海のゾーンには巨大なクジラの骨やオオワシ、ゴマフアザラシの剥製、石油採掘の模型、800万年前の石狩地図を展示。河口のゾーンではチョウザメの剥製がある。川のゾーンには石狩川やサケ漁の歴史、石狩は日本で始めての缶詰工場ができた場所でもある事から資料館内に缶詰マシーンが設置され、150円でマイ缶詰を作る事ができる。2階は5000年前から300年前の石狩紅葉山遺跡の出土品や、縄文時代のサケ漁と木の文化なども展示している。◇所在地:石狩市弁天町30-4 ◇Gmap:マップコード

旧長野商店

旧長野商店

いしかり砂丘の風資料館の隣にある石狩市内最古級の石造建築物。店舗は明治27年、石倉は明治10年代とされる。いしかり砂丘の風資料館のチケットで入館できる。石倉は他にも存在する。◇所在地:石狩市弁天町30-4 ◇Gmap:マップコード

石狩灯台と石狩浜

石狩灯台と石狩浜石狩川が石狩湾に注ぐ河口部の「ハマナス自然公園内」にある。約1.5kmにおよぶ砂嘴が公園(一部海浜植物保護地区)となっており「ビジターセンター」の前から遊歩道(木道)が整備されていて河口部尖端近くまでいける。灯台は明治25年設置・点灯という道内最古級で、建設同時は現在の灯台位置が河口部だったようです。建築当初は木造六角形黒白だったが、明治41年に鉄製円柱、1965年に無人化された。現在はコンクリートで補強されている。
◇所在地:石狩川旧河口部 ◇Gmap:石狩灯台マップコード

石狩浜海浜植物保護センターMAP

石狩浜海浜植物保護センター

石狩浜は今では貴重な自然海岸ですが、1970年代以降に海浜植生の破壊が進む。石狩浜の豊かな自然を守り回復させ、後世に遺していくための活動拠点として2000年にオープン。現在、石狩浜の植生・環境保全、自然情報の提供や調査研究、環境学習等に関わるさまざまな活動を市民と行政、研究機関が協働して取り組んでいる。◇所在地:石狩市花川北6条1丁目 ◇Gmap:マップコード

石狩八幡神社MAP

石狩八幡神社石狩八幡神社は1858(安政5)年箱館総社八幡宮の末社として現石狩八幡町に創立された。その後1874(明治7)年開拓使の命で弁天社地内に移設された(弁天社は村山家内神ということで同家所有地の現在地へ移された)が、境内は石狩弁天社の跡地で、八幡神社創建以前の鳥居(弁天社のもの)や手水鉢が残されている。写真では秋味の文字ははっきりしませんが、奉納年の文化十年は読めます。幕末の探検家・松浦武四郎は「再航蝦夷日誌」で「弁天社、鳥居・灯籠・柵皆石にして、はなはだ美々しきものなり」と紹介しています。◇所在地:石狩市弁天町1 ◇Gmap:マップコード

石狩弁天社MAP

石狩弁天社鮭を御神体とした社は北海道以外に9社あるというが北海道で歴史的に鮭と関連が深いと云えば標茶の「圭水神社」と「石狩弁天社」があげられるでしょう。石狩弁天社は、1694(元禄7)年松前藩家臣山下伴左衛門により「鮭の豊漁・海上安全」を祈願して建立された伝えられる。1694(文化13)年に石狩場所請負人の村山家が守護神として再興、その時立てられた鳥居に「秋味」という文字が彫られており、その頃は既に秋味という呼称があったようだ。祭神は弁天のほか「鰈鮫」を神格化した「妙亀法鮫大明神」というのも石狩ならではのもの。1874(明治7)年開拓使の命で現在地に移設されたが鳥居は八幡神社の鳥居として残っている。◇所在地:石狩市本町9-1 ◇Gmap:マップコード

弁天歴史公園 運上屋棟

弁天歴史公園 運上屋棟横町あたりに辺りにあったとされるイシカリ十三場所の勤番所と元小屋(運上屋)、その元小屋を縮小し現代風に再現され観光案内所(観光協会事務所)となっています。元小屋とは石狩川および支流に設置されたイシカリ十三場所の元締めである事から、元小屋と呼ばれていたが普通は運上屋(会所)と称した。イシカリ十三場所は松前藩主を含め13名の知行主の交易所が元になり、寛政の初め頃に固定されたとも云われている。そういう訳で史跡ではありませんがここでは運上屋として扱いました。明治の初めは石狩本陣とも称していましたが、場所請負制廃止でその役目を終えます。石狩場所請負人であった村山家は屋号を「阿部屋」といい、初代伝兵衛は元禄期に蝦夷地に渡ったと言われています。廻船業から場所請負に手を広げ1706(宝永3)年に宗谷、留萌場所のほか、石狩場所を請負う。最盛期は三代目伝兵衛の頃で東蝦夷地11ヶ所、西蝦夷地7ヶ所であった。1806(文化12)には石狩十三場所を請負うが、6代目伝兵衛の時に場所請負制度が廃止され一漁場の経営者となる。場所請負人についての評価は色々とあるが、現代風に云うなら政商でブラック企業と云えそうですが、特に飛騨屋と藤野、村山家は問題が多かったようだ。幕末の運上屋は現在の弁天歴史公園附近にあったが、古文書によると嘉永以前は約500m上流側、辨天社は嘉永前後を通して常に運上屋より川口側にあったという。◇所在地:石狩市弁天町38 ◇Gmap:マップコード

劉連仁生還記念碑MAP

劉連仁生還記念碑碑文より「劉連仁氏は1944年中国山東省から連行され、沼田の明治礦業で過酷な労働を強いられていましたが1945年7月にこの炭砿を脱出しました。1958年2月8日、当別の山中で穴居していたところを発見され、翌9日、保護されました。強靱な意志と生命力により、実に12年と7か月の逃亡生活に耐え、生還を果たすことができました。時を経て、発見者の袴田清治氏、保護にあたった木屋路喜一郎氏らの招きにより、1991年、1955年、1998年の3回にわたる氏の訪町が実現しました。この交流の中から日中両国の友好と平和への願いを込めた記念碑が生まれました。2009年9月2日、劉連仁氏は 87 歳の生涯を閉じました。ご子息の手によって碑は除幕しました。碑は彫刻家丸山隆氏の遺作でもあります。御影石の原石を用いて、劉連仁氏の苦難の穴居生活を見事に象徴しています。」当時の明治鉱業昭和鉱では800人余りの労働者のほとんどは中国人だったといわれています。劉連仁さんは鉱業所での屈辱に耐えきれず昭和20年7月に脱出し、終戦を知らずに昭和33年2月までの13年間を北海道の山中での逃避行を続け、石狩郡の当別町で偶然に発見されました。平成14年に当別町町民35人の呼びかけで劉さんが発見された場所の近くに縦1.2m横2m、高さ1mで中を大人一人が身を隠せるようにくりぬいた「劉連仁生還記念碑」が建立されています。◇建立年:2002年9月1日 ◇建立者:劉連仁生還記念碑建立実行委員会 ◇所在地:石狩郡当別町若葉 ◇Gmap:マップコード

オロロンライン石狩・石狩河口部周辺のミニギャラリー

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