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ぐるっと後志プチ旅2‼
余市町,古平町,仁木町,赤井川村を巡る旅‼

余市町開村記念碑余市町

余市町開村記念碑 余市町33番目の指定文化財という開村記念碑ですが碑文は彫りが浅いのと風化で読めない部分がある。『余市の石碑(改訂版)』によると旧会津藩士団らによる黒川村と山田村への入植50年を記念して大正9年、当時のお金で2千円が投じられ建立されたものでした。戊辰戦争で新政府軍に敗れた会津藩士達は、東京などで謹慎生活の後に明治2(1869)年に北海道へ向け海路出発、移住先が決まらないまま1年半もの間オタルナイに滞在を余儀なくされ、明治4年春から余市への入植が始まったという。石碑背面に明治の初め、巨木が生い茂り、熊が吼え、狐や兎の住処であった大地に「共存自治ノ精神」をもって入植したこと、入植から50年の節目に当たる年に碑を建立して、後世に「不朽」に伝えようとする決意などが読み取れます。石碑がある付近は、旧藩士団幹部の住宅や教学所、共同浴場などが建てられていた場所でした。余市町は会津藩の人が最初の団体入植で苦難の末、明治12年にリンゴ栽培に成功させ、北海道内における果樹栽培の先進的な役割を担いました。開拓記念碑の傍らにある「福島県知事来町記念植樹」は会津藩最後の藩主、松平容保公の孫にあたる福島県知事(当時)、松平勇雄さんが昭和59(1984)年に余市町を訪れオンコの植樹を記念した碑。◇建立年:大正9年秋 ◇建立者:35人の氏名確認 ◇所在地:余市町黒川町7丁目 ◇Gmap:マップコード

萱野権兵衛殉節碑

萱野権兵衛殉節碑 余市駅前の通りを国道5号線との交叉点で左折、旧道らしい斜めの細道を少し進むと道端のやや高くなったところに石碑がある。碑文1「殉節碑」碑文2「従三位勲二等功五級子爵松平保男男爵篆額/幕末會津藩守護京都忝 天皇親任被幕府倚賴/明治戊辰事與志違四方受圍據孤城死守既而関/城先是藩相田中土佐神保内藏助臨戦自刃於是/藩相萱野権兵衛代一藩君臣従容殉節嗚呼忠哉/今茲余市□會津藩士等建碑囑余撰文因概記焉/昭和十二年五月十五日/陸軍大将従二位勲一等功二級柴五郎撰/小樽高等商業學校講師 松井源五謹書」とあり。戊辰戦争の時に会津藩の家老で一人全責任を背負って切腹した萱野権兵衛の「殉節碑」で、中世的な主従関係がまだ人々の中に生きていた時代の碑です。◇建立年:昭和12年5月15日 ◇建立者:? ◇所在地:余市町黒川町・高橋配管横 ◇Gmap:マップコード

余市教学所跡

余市教学所跡 明治初期に官立の郷学所は全道で5カ所のうち、余市には2カ所あったということです。余市郷学所は浜中に元々あった寺子屋が発展したもの、黒川郷学所は会津藩士が明治4(1871)年に開設した日進館が明治6年春に現在の開村記念碑の付近へ移転し黒川郷学所改称した学校で、両郷学所は開拓使の通達により教育所と名称を変更し黒川教育所は一時、浜町の余市教育所と合併しているが、後の沢町小、大川小、黒川小の前身となっているという。会津藩士が設立した日進館は余市町の学校教育でも重要な役割をはたしたことになります。余市教学所はいわば余市の民衆が支えた教育の場だったのでしょう。◇建立年:未確認 ◇建立者:未確認 ◇所在地:余市町浜中町 ◇Gmap:マップコード

ヨイチユワナイ間山道切開策定処

ヨイチユワナイ間山道切開策定処旧余市福原漁場に近い国道沿いにある石碑三基の中の一つで「幕府西蝦夷地巡見視目付遠山金四郎景晋 幕府勘定吟味役目付村垣左太夫定行ヨイチユワナイ間山道切開策定処」と長い。遠山金四郎景晋は「遠山の金さん」こと遠山金四郎景元の実父、景晋は蝦夷地に3回程渡っているが、2回目の蝦夷地巡察では文化3(1806)年から翌年にかけて積丹・余市・小樽・石狩から宗谷にかけて西蝦夷地を廻るが、このときに余市・岩内間の道路開削を復命したという。この山道は文化6年に一度開削されたというが文政4年に松前藩に復領となり道は荒廃したしまったという。安政3年になって再度この山道が開削されている。他に「ヨイチユワナイ街道余市口」の碑があるが、ここが岩内への山道口だった事を示すようです。同所にある「余市教学所跡」のこの地にあった寺子屋が元になった教学所跡で旧会津藩士との関わりは少なそうです。◇建立年:未確認 ◇建立者:未確認 ◇所在地:余市町浜中町 ◇Gmap:マップコード

よいち水産博物館

よいち水産博物館大谷地貝塚(国指定史跡=現地は看板のみ)の出土品やにしん漁関連の歴史や道具などが展示されている。前庭に違星北斗、石川啄木、野口雨情の句碑と復元された八幡山環状列石がある。水産博物館となっているが宇宙以外は余市の文化、地質、考古学などの展示や資料が調った郷土博物館です。屋外ににしん船(保津船?)も展示していた。◇所在地:余市町入舟町

違星北斗句碑MAP

違星北斗句碑余市出身の違星北斗(いぼしほくと1902~1929本名滝次郎)はバチラー八重子、森竹竹市と並ぶアイヌ三大歌人の一人と称され社会運動家。同族の地位向上の運動に一生を捧げ、その想いを新聞や雑誌に短歌の形で発表し、同時代のアイヌの青年たちに影響を与えた。アイヌ民族地位向上のために啓蒙活動していましたが病気で昭和4年、満27歳で夭折。翌昭和5年担任教師だった余市小学校訓導古田謙二氏が集めた遺稿集”コタン”が出版されています。知里幸恵の「アイヌ神謡集」と出会った事が違星北斗の作品に大きな影響を及ぼしたという。モヨロ山の余市水産博物館前に昭和52年に余市町の沢口教育長が寄贈、揮毫もした句碑が地元町民や町教委職員の勤労奉仕や協力で建立され、ニシン全盛期の頃の余市を「春浅き 鰊の浦や 雪五尺」と横ナブリに刻まれているが、あらかじめ句を知っていなければ読めない。また予備知識が無ければ誰の句碑なのかも分からないのが気になった。◇建立年:昭和52年11月1日 ◇所在地:余市町入舟町21 ◇Gmap:マップコード

阿部引田臣比羅夫之像MAP

阿部引田臣比羅夫之像碑文より「日本書記によって伝えられる、斉明朝5(西暦651)年 阿部引田臣比羅夫は大和朝廷の命を受け船師180艘を卒いて渡島に来り。時に問う兎(トウヒ)の蝦夷胆鹿島兎穂名の二人進んで曰く、後方羊諦を以って政所と為すべし。焉胆鹿島等の語に随い遂に郡領を置いて帰るとあり、この後方羊蹄なる地の解明については長い間歴史家の課題であるが、明治大学法史学研究地方史研究室長・滝川政次郎博士、同理事・島田正郎博士の現地調査報告、並びに余市郷土研究会の研究調査の結果、後方羊蹄はシリパヨウチ即ちシリパ山のあるヨイチとなるとの結論を得た。依って政所を置いた地は余市と想定し北海道文化財保護協会理事・今善作氏の□出金により、ここに阿部引田臣比羅夫の記念像を建立する」※物証に乏しいが、政所をおいた後方羊蹄の地は未解明であったが研究の結果、後方羊蹄をシリパヨウチて有ると断定、余市を北海道最古之都と宣言している。松浦武四郎のファンや羊蹄山麓の人は後方羊蹄をシリベシと読むが、ここでは後方羊蹄をシリパヨウチと読むということで、後方羊蹄は余市であると宣言している。千歳川流域の擦文遺跡や余市町大川遺跡で7世紀の物とされる本州製の刀剣や金具などの出土がある以上は完全否定もできず、楽しみが一つ増えたと思えばよい。比羅夫之像には松浦武四郎の歌碑もあった。◇建立年:昭和50(1975)年 ◇建立者:阿倍比羅夫記念像建立協賛会 ◇所在地:余市町港町 旧稲荷神社跡 ◇Gmap:マップコード

稲荷神社跡の石段

稲荷神社跡の石段文政11年に稲荷神社が創設され240年と余市で最も歴史あるが、山碓稲荷との合祀を経て余市神社となっている。稲荷神社跡の石段は余市町指定文化財。今は稲荷神社跡に阿倍比羅夫記念碑がある。松浦武四郎の蝦夷日誌では「ヤマウス訛てヤマシと云也・・・岸には多く二八小屋有る也」と、西蝦夷日誌に「ヤマシ (番や、板くら、茅くら、いなり) 山道此處に逢ふなり」とあるのが山碓稲荷のことのようだ。◇所在地:余市町港町

フゴッペ洞窟MAP

フゴッペ洞窟縄文海進による浸食で出来た海食洞にある続縄文後期(1600~1300)に属する遺跡で、洞窟の奥行は約15m、問口約6m、高さ約7mで土器、骨角器、炉跡の他、壁面のいたる所に原始的な刻画が200以上あり、人物や動物、船などを象徴したものと推定されるものが多く、呪術的な性貭を有するものと考えられている。人物像の殆どは角を持っておりシャーマン説が有力。日本国内では小樽市手宮洞窟の他には類例のない遺跡ですが、このような刻画は日本海に面するロシア、中国、朝鮮半島などにも見られるという。フゴッペ遺跡と云う場合はフゴッペ洞窟と昭和2年に丸山の鉄道工事で発見(現在のフゴッペ洞窟の裏側)された古代文字様の壁画と石偶を含む場合がある。違星北斗は偽物の可能性を指摘し、遺跡を保存し後世の検証に待つという姿勢だったが、金田一京助が偽物と断定し厳密な調査がされること無く朽ちて現存しないが、全く無関係であったとは言い切れないが時すでに遅しです。手宮洞窟と違い誰が見ても刻画がはっきりわかり、刻画のレプリカもあるので間近でよく見られる。◇所在地:所在地:余市町栄町87番地 ◇Gmap:マップコード

西崎山環状列石北海道史跡MAP

西崎山環状列石西崎山環状列石群は、第1区から第4区まであり、その中で海抜70mの西崎山に丘上にある第1区が北海道の史跡に指定されている。サークルは縄文時代後期の墓で、直径1~2mの遺構が7か所密集して、一つの大きなサークルを形成、長径17m、短径12mの楕円形で、環状列石墓と推定され土器や石鏃が発見されている。大小数百個の自然石が並べられていますが、この環状列石は復元されたものという。余市から小樽に抜ける広域農道の際に入り口あり、小樽のストーンサークルに比べると手入れが行き届いていた。◇所在地:余市郡余市町栄町 ◇標高67,1m ◇Gmap:マップコード

カフェ ディ ローデMAP

カフェ ディ ローデストンサークルを探していて偶然目に入ったカフェ。散々歩き回った後で疲労と空腹が重なり迷わず入店。開店して間もなくと云う店内は木の香りがして落ち着けました。いつもの事ですが待たされるのが嫌いな僕はカレーをオーダー。カレーと言っても地産地消がモットーらしく素材は地元産と云う事で旨かった~です。機会があれば再訪したいカフェです。◇所在地:余市町登町237 フルーツ通り ◇標高42,4m ◇Gmap:マップコード

えびす岩・大福岩・ローソク岩MAP

稲荷神社跡の石段えびす岩は奇岩と云うほどではないが背景がそれなりに良く絵になる所で、大福岩は接地面が細くなって何時倒れるかという雰囲気が妙な魅力になっている。ローソク岩はかってにしん漁全盛の頃に此辺で鰊が良くとれたと云い、いくつかの伝説がのこっている。それに男性のシンボルという話にも・・地名にあるように崖の一部か見事に白くなっている所もある。◇撮影地:余市町白岩町 ◇Gmap:マップコード

セタカムイ岩古平町MAP

セタカムイ岩海岸沿いにある高さ80mの巨岩で、岩越しに昇る朝日の名所という。セタカムイ岩の伝説は「昔、ラルマキという若い漁師が犬と一緒に暮らしていた。ある日ラルマキは漁に出かけるが、大時化のために遭難して還らぬ人となってしまった。しかしそれを知らない犬は、飼い主の帰りを待って嵐の中を鳴き続けた。そして嵐がやんだ後、その犬は岩と化していた」と。他の言い伝えも残されているが、帰らぬ主人を待ち続けて岩になったという部分は共通する。以前はもっと近く迄よれたがトンネル崩落事故で豊浜トンネルが廃道になり、セタカムイ岩はセタカムイ道路防災記念公園からしか見られない。松浦武四郎の西蝦夷日誌にある「セタカモイ、カモイエトウともいう」という言葉からすれば犬と解するのは不自然で、カモイエトウという本命の岬があり、それに比べこのカモイエトウはたいしたことがないと言う意味でセタカモイと云う事の様だと聞かされた。本命の岬は有名な神威岬と云う事になるのででしょうか。◇所在地:古平町沖町 ◇Gmap:マップコード

豊浜トンネル崩落事故慰霊碑MAP

豊浜トンネル崩落事故慰霊碑1996年に豊浜トンネル崩落事故が発生、トンネルを押しつぶし、路線バスと乗用車が巻き込まれ20名の尊い命が失われた。豊浜トンネルの岩盤崩落事故を受け、豊浜トンネルとセタカムイトンネルをバイパスでつなぎ、新ルートに変わって平成12(2000)年12月に再開通した。沖歌トンネルと豊浜トンネル間にあるセタカムイ道路防災記念公園に慰霊碑と防災記念碑がある。碑文1「慰霊碑/内閣総理大臣 橋本龍太郎」碑文2「建碑主意/平成八年二月十日午前八時十分頃一般国道二二九号線豊浜トンネル古平側抗口付近で高さ最大七十米幅最大五十米、体積一万一千立方米に及ぶ大規模な岩盤崩落が発生し、同時刻に通行中の路線バス及び乗用車各一台が被災し、二十名の尊い命が失われるという悲惨な大事故が起こった。巨岩に閉ざされ埋まる被災者の安否を気づかい、一刻も早い救出を願って凍てつく寒さの中、夜を徹して八日間にわたる賢明な救出作業が行われた。しかしながら家族ゆ国民全ての願い、祈りもむなしくこの崩落によって犠牲となられたことは災禍というには恨見て余りあり、まことに悲運というより言葉もない。いたましくも悲しい犠牲者のご冥福を祈り、悲しむべき教訓として永遠に生かし伝えるため、この碑を建立したものである。合掌 平成九年八月 豊浜トンネル崩落事故遺族会(二一〇の会)」※この事故は道路行政が抱えるいろいろな問題を顕在化しましたが、その教訓が現在に生かされているとよいのですが。◇建立年:平成9年8月 ◇建立者:豊浜トンネル崩落事故遺族会 ◇所在地:古平町沖町11番地 ◇Gmap:マップコード

積丹国道開通記念碑MAP

積丹国道開通記念碑 余市~古平間は海岸道路の完成する前は、車がやっと通行できる嶮難な山道が有るだけで冬期間は通行出来ず交通の主役は船舶で冬期間は陸の孤島同然だった。住民悲願であった海岸道路開削工事は昭和23年にはじまり 十年の歳月をかけ、9人の殉職者をだして竣工した。碑文1「積丹国道/昭和三十三年十月竣功 北海道開発次官 池田一男」碑文2「二旧国道小樽江差線*古平余市間海岸道路/延長 十四粁二二三米/工費 九億二千八百万円/起工 昭和二三年九月二四日/竣功 昭和三三年10月一日/海陸の資源をこの国道によって開かれ民政ここに定まる恩恵限りなし。満腔の感謝をこめてこの碑を建てる。/竣功の日 余市町 古平町 積丹町」※「積丹国道」と揮毫された石碑は海岸道路開通を記念して昭和33(1958)年にセタカムイトンネル前(チャラセナイ側)に建立されたようですが、豊浜トンネルの岩盤崩落事故の改修工事でトンネルのルートが変り、積丹国道の碑文が刻まれた部分と台座のみが新豊浜トンネル坑口前の国道沿い山側に移転されたようです。◇建立年:昭和33年10月1日 ◇建立者:余市町・古平町・積丹町 ◇所在地:古平郡古平町沖町 ◇Gmap:マップコード

漁霊碑(魚供養碑)古平町

古平漁霊碑古平漁協前に立ってる大きな碑で「千古を誇る蝦夷地の開拓は海道に始まり魚族に生きる人々に因って一歩を踏みだした」の碑文で始まる古平町開基100年の記念碑だ。鰊で栄えた町らしいと云えばそれまでだが、開基、発祥、開拓と名のつく記念碑は和人の歴史が全てであるかの様な碑文が多い。北海道では漁業の多くが場所請負という植民地経営方式によるアイヌ民族の酷使が伴い、農業では各地でアイヌ民族の強制移住があった。敗者の歴史は埋もれていくがアイヌ語由来の地名を名乗っているのが唯一の救いか。◇建立年:昭和43年9月7日 ◇建立者:古平漁業協同組合 ◇所在地:古平町港町 ◇Gmap:マップコード

穴岩不動赤井川村MAP

穴岩不動自然が創り出した岩穴にお不動さんがひっそりと祭られている神秘的な場所です。国道395線沿いの大聖寺近くにありますが、落石の恐れありとのことで中への立ち入りはできません。という訳で双眼鏡が必要かも、撮影は要望遠です。◇撮影地:余市郡赤井川村字都207 ◇標高165,3m ◇Gmap:マップコード

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