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渡島エリアを巡る旅‼
渡島・函館・津軽海峡沿線ぐるっとプチ旅‼

北斗市、函館市、鹿部町、七飯町、森町、八雲町を巡る‼

この地域の概要

矢不来天満宮北斗市MAP

矢不来天満宮北海道では歴史のある神社で茂別館跡に鎮座し鳥居は年代物。北海道神社庁のHPに「安藤盛季矢不来に舘を築く」とあり場所が矢不来館と茂別館の区別が曖昧。茂別館は茂辺地川左岸の標高約34m程の丘地の南端に位置し南の大館、北の小館からなるが、コシャマインの乱では道南の10館は落城するが茂別館と上ノ国町の花沢館は残った。鳥居横の矢不来天満宮と彫られた碑に創紀長禄元年とあったが、コシャマインの乱が天満宮創紀の動機になったものか。茂別館は明応5(1496)年に陥落、後に再建されるも、アイヌ側の攻撃で永正5(1508)年に放棄され、下国師季は松前家に臣従する。再建は貞享5(1688)年からで、何度かの再建、造営があるが、大正6(1917)年迄は矢不来海岸の台地(台場跡近くの海岸寄り)、次いで茂辺地市街地南側の高台に移転、昭和3(1928)年より現在地という。◇所在地:北斗市矢不来138番地

鮭の記念碑北斗市

鮭の記念碑鮭の孵化事業に関する記念碑が矢不来天満宮にあり、説明板が茂辺地川左岸で天満宮へ行く道筋の沢口にある。碑文によると「明治11(1878)年に茂辺地川の鮭から採卵したものを七重寒行試験場で試験的に実地され、翌年稚魚がふ化しました。その翌年には北海道初の民間による鮭卵ふ化社が設立されました。以下省略」孵化場跡にも説明板がある。◇所在地:北斗市矢不来138番地

矢不来台場跡北斗市MAP

矢不来台場跡矢不来台場(北斗市指定史跡)は箱館の押付台場と向かい合い箱館湾を守るため、前幕領時代(1799~1821年)に造営され南部藩が守備。1869(明治2)年の箱館戦争では、約70名の死傷者を出した激しい戦いがあった台場という。道路際に北斗市設置の説明板があるのみ。◇北斗市矢不来

史跡松前藩戸切地陣屋跡北斗市

史跡松前藩戸切地陣屋跡陣屋は 1855(安政2)年、幕府に命で松前藩が築いた。構造は四稜郭で亀が首を出した形、6つの砲座がある。郭内には17棟の建物があり、約120人で守備していたが箱館戦争の時、相手方に陣屋が使われないよう建物が焼き払われた。陣屋の保存状態がよく資料的価値が高い事から、国の史跡に指定されている。陣屋に行く道がトンネル状の桜並木になっている。◇所在地:北斗市野崎

松前藩毛無山番所跡毛無山山道入口 北斗市MAP

松前藩毛無山番所跡入口「市渡T字路より江差方向に約5km進むと、進行方向左手に下川汲橋がある。この橋を渡り、北西の方向に上川汲沢の旧江差山道を150mほど行くと、毛無峠の入り口にあたる。この入り口付近に松前藩の番所跡があり、傾斜面の山肌に土砂崩れ防止の石積みがそのままあり・・以下省略・・平成4年10月 大野町教育委員会」※熊の爪痕に早々に退散。◇所在地:北斗市大野町

出会いの滝小滝の沢 北斗市

出会いの滝「前略・・この道路は安政元(1854)年に開削され、初めて挑んだのは、市渡大悲庵(円通寺の前名)の庵主、道仙で、木間内(厚沢部)の旅籠屋の主人、麓長吉と話し合い、小滝の沢で落ち合う約束で、中山と峠をはさみ、東と西から工事を始めたところから「出会いの滝」ともいわれている。市渡の檀家の人々が参加したが、資金難と人手不足のために残念ながら途中で挫折してしまった。安政5(1858)年に鈴鹿甚右衛門と長坂庄兵衛の人夫70人による工事が始まり、半年後に道幅約3.6m、延長4.3km、大小の架橋7か所、総工費800両(約2億4千万円)の道路が完成した。滝は幅7m、高さ12mで、水量も多く年中水が枯れることはない。・後略・平成12年8月 大野町教育委員会」※木の葉が茂るとよく見えない。◇所在地:北斗市大野町

前田はたごや跡北斗市MAP

前田はたごや跡駅逓で旅籠屋(はたごや)が正式名称だったのは明治5年のわずかな期間だけ。名前から駅逓を連想するが、渡島の駅逓リストにはなく函館県では明治12年に官設駅逓を廃止している。ただ宿泊なしの江差山道越しは難しそうで、はたごやが私設駅逓のような業務をしていても不思議ではない。中山峠は御境とも呼ばれ函館側を江差山道、江差側を鶉山道あるいは鈴鹿山道とも呼ばれていたという。鶉山道側には中村はたごや跡がありました。中山峠は他の中山峠と混乱しないよう渡島中山峠と呼ばれることもある。江差街道筋の中山にも入植開拓されるが今は無人となり、小学校の門が残っていた。◇所在地:北斗市大野町

元町公園函館市

元町公園函館山北東麓の高台上にあり、室町時代には道南十二館のひとつ宇須岸館(別名・箱館)があり函館の地名由来となった。函館の旧市街は石や煉瓦造りの建築が多いが、何度もの大火で石や煉瓦造りの建物だけが残った巨大な明治村という印象だ。元町公園は松前藩時代に亀田番所、江戸幕府直轄領時には箱館奉行所があり、明治維新後は北海道庁函館支庁が置かれていた。元町公園内に今も旧函館区公会堂、旧開拓使函館支庁書籍庫と旧北海道庁函館支庁庁舎があり旧庁舎は観光案内所、2階は函館市写真歴史館になっている。五稜郭に移転前の箱館奉行所跡の碑もある政治の中心地だったが、今は函館を代表する観光地の一角。◇所在地:函館市元町12-18

旧函館区公会堂元町公園 函館市

旧函館区公会堂大火で焼失した町会所を再建しようと、工事費の大半を豪商相馬哲平の寄付によって明治43(1910)年に建造された。コロニアル・スタイルという洋風建築の粋を集めて造られた木造建築で国指定重要文化財となっている。バルコニーからの港と坂の眺めは絶景という。◇所在地:函館市元町

旧北海道函館支庁庁舎元町公園 函館市

旧北海道函館支庁庁舎最初の北海道庁函館支庁舎は1907年の大火で消失、その後に洋風木造2階建庁舎として明治42(1909)年に建てられた。平成3(1991)年に火事で内部を焼損したが、平成6(1994)年に復元、建物は函館写真歴史館、観光案内所として利用されている。開館は9時から19時◇所在地:函館市元町

旧開拓使函館支庁書籍庫元町公園 函館市

旧開拓使函館支庁書籍庫元町公園内の旧支庁舎に隣接する赤レンガの書庫で明治13(1880)年築、明治40(1907)年の大火でも類焼を免れ、庫内の資料も無事だったという。現在は防火点検時以外は開かずの扉で内部非公開。建物は耐久性、耐火性、防水防寒など色々な工夫がされているという。函館の古建築物に石造りの建物が多いのは火災でも耐えて生残ったのというのが多いようです。◇所在地:函館市元町

函館四天王像元町公園 函館市

函館四天王像明治初期の函館は政府や諸藩の束縛や拘束が少なく市民が自主的に行動ができる気風があり、それが都市造りにも反映されたようです。蝦夷地と云われた頃より豪商の本拠地であり、当時の政権が北海道開発のため彼らの力を必要とした時代背景も無視できない。四天王に共通しているのは基幹産業の育成、日刊新聞、教育文化、医療福祉、水道や公園などインフラ整備にいたるまで計画的な都市造りに私財を惜しげも無く投じた事、内部留保をため込んでいる企業は四天王に見習ってほしいものだ。写真の左より、今井 市右衛門(1836-1887年)、平田 文右衛門 (1849-1901)、渡邉 熊四郎 (1840-1907年)、平塚 時蔵 (1826-1922年)の4人。◇所在地:函館市元町

旧箱館奉行所跡元町公園 函館市

旧箱館奉行所跡箱館奉行所は東蝦夷地を幕府直轄地とした直後の享和2(1802)年に設置された。元治元(1864)年に五稜郭内に移転するまで、蝦夷地支配の中心地だった。凾館山に向かってのびる基坂を上がっていくと右手にペリー提督像、左手には旧イギリス領事館、突当りは元町公園で左手に箱館奉行所跡標識、奥に公会堂が海を見下ろして建つ。◇所在地:函館市元町12-18

旧相馬邸と相馬株式会社

相馬株式会社一代で北海道屈指の豪商にまで駆け上がった相馬哲平氏の私邸だった建物で函館を代表的する民間建築で伝統的建造物指定されている。建物は基坂上にあり明治41(1908)年に建築された延床面積680㎡の豪邸で、以前は完全予約制でしか見学できなかったが2010年から一般公開となっている。建物の豪華さにしては相馬哲平氏の私生活は質素だったようですが、旧函館区公会堂の建設などに私財を投じて函館の発展に貢献している。蔵を改築した「元町ギャラリー」や新たに開設された喫茶室もある。基坂の下にある大正5年完成の相馬株式会社社屋は今も現役で木造2階建ての鉄板葺き、突き出た窓はルネッサンス様式と社屋としては豪華で洒落たつくり、外部のみ鑑賞となる。◇所在地:函館市大町9-1

高田屋嘉兵衛像函館市MAP

高田屋嘉兵衛像淡路島出身の人で司馬遼太郎の「菜の花の沖」の主人公。江戸後期に函館入りし交易を始めた。その後幕臣、府近藤重蔵に依頼を受け択捉航路を開拓、函館の北洋漁業の基を築いた功労者として評価されている。根室市の金刀比羅神社にも高田屋嘉兵衛像があり、道内で回船業や請負人でに銅像があるのはこの人くらいか。高田屋2代目の時に密貿易の疑いで失脚するが、後に闕所が解かれ日高昆布場所を拓くなどで活躍、日高三石に嘉兵衛の顕彰碑がある。◇所在地:函館市宝来町

五稜郭 旧箱館奉行所特別史跡 函館市

五稜郭 旧箱館奉行所箱館奉行所は日本の北辺防備の拠点として設置された江戸幕府の役所だが、同時にアイヌ民族抑圧を受け持つ別な顔もあった。東蝦夷地を幕府直轄地(1799)とした後の享和3(1803)年に函館山の山麓(元町公園付近)に設置されたが、1821年に蝦夷地を松前藩に返還。ペリー来航に伴い嘉永7(1854)年に箱館奉行所を再設置、翌年には渡島半島の一部を除いて再び蝦夷地天領とし諸藩に沿岸警備を命じた。防衛上の理由から1857(安政4)に五稜郭築城を開始、元治元年に箱館奉行所は五稜郭内に新築移転、1866(慶応2)で五稜郭関連の工事は終了している。明治元年に箱館は戊辰戦争最後の戦場になり五稜郭を旧幕府脱走軍に占拠されるが翌年に降伏して五稜郭は明け渡された。明治4(1871)年に箱館戦争で使用不能になった旧箱館奉行所と付属建物の大部分が解体、大正3(1914)年に五稜郭が公園として一般開放。現在の奉行所は平成22(2010)年に復元されたが、建物周囲のアカマツは五稜郭築城当時の植樹という。◇函館市五稜郭町

北海道建網大謀網漁業発祥之地函館市MAP

建網大謀網漁業発祥之地尾札部は昆布やナマコの名産地であったが、天保の頃より鮪にもチャレンジしていたようで説明板に「天保10(1839)年、尾札部村の三代目飯田屋与五左衛門と臼尻村の小川屋幸吉は大謀網漁を計画し、南部の人田鎖丹蔵を招いて、この黒鷲岬沖と弁天岬に鮪大謀網漁法を試みたと伝えられています。これが北海道の大謀網漁業のはじまりと伝えられています。以下省略」とあった。1600年代後半から大型定置網漁法が取り入れられたようですが「蝦夷日誌」に鰤魚多く寄せ来るも、鰤を捕る仕掛けを知らずに鱒網を入れたが、魚が大きく網がズタズタに破れたと記している。時とともに改良をかさね今に至っているようだ。◇所在地:函館市尾札部町2725 黒鷲岬

覚王寺の銀杏函館市MAP

覚王寺の銀杏南茅部は昔からタラと並んで昆布の産地、最近の健康食品としてカゴメ昆布がブームになっている。そんな南茅部にある覚王寺前のイチョウ。覚王寺(曹洞宗)は明治19(1886)年創立というが、その前身となった寛12(1800)年に創建された龍宮庵の頃に植えられイチョウと推定され、銀杏としては若輩だが胸高直計1.6m以上有り、記念保護樹に指定されている。龍宮庵はわかりませんが蝦夷日誌に「庵寺あり」となっていた。◇所在地:函館市臼尻町175 覚王寺境内

大船遺跡函館市

大船遺跡恵山国道(278号線)に道道980号線が合流する北側、大船川左岸の河岸段丘上にある。遺跡の前には解説板があり、縄文時代中期の大集落だったと書かれている。遺跡の中へと入って行くと、柱の跡が穴になった住居跡がみられた。次に遺跡を見に行くと、看板があり盛土遺跡であることが分かった。盛土遺跡の中は流石にごみ捨て場なので、住居跡に比べて雑然としていた。次に、真中に石組みの炉のある竪穴住居跡が間近で見られる。展示場の周りに平らな石が積まれていた。看板を見ると物を砕くのに使ったようだ。大船遺跡には展示室もある。◇所在地:函館市大船町575-1

イザベラ・バードが歩いた道七飯町MAP

イザベラ・バードが歩いた道蓴菜沼湖畔に「イザベラ・バードの道を辿る会」から2013年に七飯町に寄贈された説明板があり、明治11年に北海道を旅行した英国の女性旅行家イザベラ・バードの足跡が記されています。説明板によると1878(明治11)年8月17日、函館を出発したバードは、札幌本道を北上しながら七重村、峠下村を経て、その日の夕方に蓴菜沼に到着しました。ここには当時開拓使高官がよく利用した「宮崎旅館」があり、バードもここに滞在したと考えられます。以下省略」同じ場所に明治天皇蓴菜沼小休所の説明板もある。札幌新道の時代は峠から大沼が見えたものか気になるが、今は峠越しの道もないようだ・・・◇所在地:七飯町西大沼 蓴菜沼湖畔

三味線滝鹿部町MAP

三味線滝恵山国道(278号線)を北上し鹿部町に入るとまもなく道端に滝が流れ落ちている。説明板には「岩を流れ落ちる清流が三味線の音色に聞こえることからこの名前がついた」とあったが耳が悪いのか三味線には聞こえなかった。滝が三筋の糸のように流れているからとの説もあるようだ、晴れていると風景はよろしいというも駐車スペースは一台程度。◇所在地:鹿部町

北斗船モニュメント鹿部町

北斗船モニュメントしかべ間歇泉公園の駐車場内に、2001年4月に鳥羽一郎さんのヒット曲「北斗船」の記念歌碑が建てられ、手形のスイッチに手をのせると割と音量のある曲が流れる。鳥羽一郎ファンにはうれしい仕掛けですが真夜中は迷惑かもしれません。道路を挟んだ向側に間欠泉を見られる施設(有料です)と足湯などがあるが、訪問時は工事中でした。◇所在地:鹿部町

南部藩砂原陣屋跡森町MAP

南部藩砂原陣屋跡幕府は安政2(1885)年4月 仙台、秋田、南部、津軽、及松前の5藩に蝦夷地警衛の分担を命じた。南部藩は箱舘表出崎の警衛を主として、恵山岬から東蝦夷地幌別までの海岸を持場とし、箱館谷地頭の北方に元陣屋を置いた。安政3年には4軒町に砂原分屯所(南部陣屋)があり、兵隊約50名、砂原は市中と神社脇や駒ヶ岳の麓に、見張所をおいた。砂原町四軒町に東西66.6m、南北約59.4mの方形で、高さ約3mの土塁が残されている。◇所在地:森町砂原4軒町200

ハマナス台場公園森町MAP

ハマナス台場公園森町から国道278号線を東に12km程の走った国道沿いにある公園。公園内には東屋を兼ねた展望台があり、内浦湾や駒ヶ岳、砂崎海岸、砂崎灯台を眺望できる。トイレや水道が完備され休憩場には良い。かつて海上警備の拠点として箱館戦争時に砲台を4基設けていという、現在は駐車公園とパークゴルフ場になっていて海難慰霊碑がある。◇所在地:森町砂原5

イザベラ・バードが歩いた道森町MAP

イザベラ・バードが歩いた道・森イザベラ・バードが歩いた道説明板より『明治11(1987)年8月12日にイザベラ・バードは、函館を出発し、七重村、峠下村、菫菜沼を経て、森村に入りました。森村で一泊、翌日「森桟橋」から室蘭港へ、室蘭からは陸路で平取集落を目指した。当時は札幌本道も開通していたが、森から室蘭の間は海路が主要交通手段でした。当時の森村は、森~室蘭間に定期航路が開かれ、旅人で大変活気にあふれていました。森村の旅館で一泊し、翌日「森桟橋」から室蘭港へ噴火(内浦)湾を横断し、一路、アイヌの人たちが暮らす平取集落を目指しました』とあり、当時は札幌本道も開通していたが、森から室蘭までは海路が主要な交通手段でした。◇所在地:森町駅付近

史跡 森桟橋跡森町

史跡 森桟橋跡説明板の要約「明治5年、札幌本道の新道建設工事を開始、翌6年に全長255mの森桟橋(波止場)が完成した。完成とともに定期便(汽船稲川丸)が運行、明治26年、函館~室蘭間の定期航路が開始、一時廃止となるも同41年民間会社によって運行再開、昭和3年に長万部・輪西間の鉄道開通で廃止された。跡地に橋脚材が数十本が残ってる」とあった。◇所在地:森町行幸町 森駅付近

榎本武揚 土方歳三上陸之地碑森町MAP

榎本武揚 土方歳三上陸之地碑宮古湾を出航した榎本軍は19日夜に回天が到着。明治元年10月20日、回天より30名ほど上陸し、霊鷲院の手前にあった村会所で箱館府の荒井信五郎と面談し、上陸を伝え宿舎の手配など依頼した。全艦が揃ったの23日で、鷲ノ木へ上陸する際、ボート転覆や乗り移りの失敗などで16名が亡くなったという。碑は国道5号線の海側にある鷲ノ木漁港に面する道路沿いで、桂川河口の橋近くにある。天気が良ければ駒ヶ岳がよく見えます。◇所在地:森町鷲の木

八雲駅八雲町

八雲駅山越内関所跡には山越内関所之跡の石碑と説明板があるが、そこから100mほど八雲市街地寄りにあるJR山越駅は享和元(1801)年に設置された山越内関門をイメージして作られた建物で、駅舎内には江戸時代の関所周辺の絵図や、それを再現した模型も展示している。◇所在地;八雲町山越

山越内諏訪神社八雲町

山越内諏訪神社山越内駅と線路を挟んだ所に位置し文化4年の創立という神社で“本尊は円空仏”というが秘仏扱いで専門家にも非公と聞いている。松浦武四郎の「東蝦夷日誌」に山根に諏訪明神の社「稲荷合殿」有と、諏訪神社で見た円空仏についても記している。宮司さんは常駐してないようです。◇所在地;八雲町山越

渡島地方&函館ミニギャラリー

北斗・矢不来天満宮 台場・佐藤墓宇須岸河野館、箱館 相馬株式会社社屋 函館元町公園2 五稜郭・箱館奉行所2 五稜郭・箱館奉行所3 函館五稜郭タワー 建網大謀網漁業発祥之地3 函館・大船遺跡2 北斗船モニュメント2 北斗船モニュメント3 ハマナス台場公園2 南部藩砂原陣屋跡2 南部藩砂原陣屋跡3 森桟橋2 森桟橋説明碑 榎本・土方上陸之地説明碑 旧公神社の杉 戸切地陣屋跡跡2 箱館戦争新政府軍陣地 箱館戦争二股古戦場 五稜郭タワー 史跡・五稜郭 元町公園・箱館奉行所跡 高田屋嘉兵衛像2

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