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ぐるっと後志プチ旅4‼
共和町から後志内陸部・真狩村までの旅‼

御手作場の碑共和町開基150年記念

御手作場の碑徳川幕府水稲試験地と少し重複するが碑文より「時の徳川幕府が蝦夷地の開拓に着手するや安政4(1857)年幌似と発足に御手作場を設立。私たち郷土に開拓の鍬が打ちおろされた。荒茫たる未開の地を切り開き、今日の発展の基礎を築いた先人の苦闘と努力の跡を偲び敬意と感謝の念を深くしたい。こ丶に、先人の偉業を尊び、共和町開基150年を記念して碑を建立する。平成18年10年 共和町長山本栄一謹書」※碑は共和町役場敷地内の右側にあります。以前に役場傍の国道沿いに観光協会が設置した「徳川幕府水稲試験地」史跡案内板が建っていたがそこには「安政4年に徳川幕府が官費を似って本町の幌似に御手作場を設け、松川弁之助後に常見栄太郎両氏に管理させ開拓に当たらせた。その当時幌似御手作場に入地した高橋兼松氏は開拓のかたわら国富の笹子屋、同じく南部茶屋と共に岩内ー余市間の旅人の宿場休憩所として重要な役割を果たしていた。」とあったが今はみられない。ここでいう宿場は広い意味で通行屋のことを意味するだろう◇建立年:平成18年10年 ◇建立者:共和町 ◇所在地:岩内郡共和町南幌似38-2 ◇Gmap:マップコード

田坂農場解放記念碑

田坂農場解放記念碑ひぶんより「明治31年、庄司平吉の貸付又払下地の開墾起業経営中のまま、東京都芝区下高輪区田坂保全株式会社、田坂初太郎譲受け鋭意開墾に努む。明治45年より堀株川の水利を引用し水田造成の計画をたて、灌漑溝を掘削、造田に着手。大正5年予定通り成功を見るに至り、当時の発足、前田ニヶ村に二百余町歩を開発し、自作農創設特別措置法の制定以前の昭和19年、率先して全耕地四百五十余町歩を解放せり。今日の発展を永遠に記念すべく関係者77戸相諮り碑を建立し其の得を頌す。昭和49年9月6日 共和町長 山本精一 謹書」※篤志寄付者に共和町を始め4団体他個人と放記念碑建立期成会の会員名が刻まれている。◇建立年:昭和41年9月6日 ◇建立者:田坂農場解放記念碑建立期成会 ◇所在地:岩内郡共和町発足 ◇Gmap:マップコード

かかし古里館MAP

かかし古里館廃校となった旧幌似小学校を修復し展示場として再活用し1994年にオープンした郷土・歴史資料館。共和町開拓の歴史を分かりやすく展示・紹介している。またかかし祭り入賞作品(かかし)等も展示、なんといっても博物館にありがちな堅苦しさがないのが良い。◇開館時間/10時から16時(入館は15時30分まで)休館日/毎週月曜日・祝祭日の翌日・年末年始 ◇所在地:共和町南幌似103-13 ◇Gmap:マップコード

幌似駅交通公園(旧岩内線)MAP

幌似駅交通公園幌似駅交通公園は国鉄岩内線の幌似駅舎やホーム、車両が保存され、当時の面影を色濃く残している唯一の施設。とはいうも元の駅跡は2007年に国道バイパスに用地が転用されたため、鉄道記念公園として移転再整備され、記念館として一般公開したもの。鉄道ファンは一見の価値ありと思います。開館期間/4月29日から10月31日(月曜日休館)開館時間/9時から17時まで。◇所在地:岩内郡共和町幌似 ◇Gmap:マップコード

日本一の水倶知安町

日本一の水倶知安町の駅前にある湧水で看板に「日本一の水、この水は羊蹄山(えぞ富士)の麓から湧出するおいしい水です。四季を通して変わらない水温でまろやかな味わいは「日本一の水」といわれています」とありました。3ヵ所ある蛇口は飲用タイプで水汲みには不向き。「昴」と書かれた碑もどきのは普通の蛇口なので、こちらは水汲みに利用できそう。成層火山の山麓には名水処が多い。◇所在地:倶知安町北3条西4丁目 倶知安駅前

石川啄木歌碑

石川啄木の歌碑倶知安駅前に歌碑と記念碑がある。碑文を転載しました。

歌碑は「真夜中の 倶知安駅に 下りゆきし 女の鬢(びん)の 古き痍(きず)あと」「碑文 石川啄木が函館から小樽に向かう列車で、真夜中の倶知安駅を通ったのは、明治40年(1974)9月14日の午前一時過ぎである。啄木はこの時の印象を短歌に詠んで、歌集「一握の砂」(明治43年12月)に収めた。鬢(頭の左右側面の髪)に古い痍あとのある女は、実景であったのか、それとも真夜中の倶知安駅のイメージにふさわしいものとして、あるいは職を求めて旅するみずからの心象として、創り出したものであったのかは、定かではない。当時の倶知安村は開墾が始まって15年たったばかりであった。駅前通りはようやく開通したものの、電灯はともっていなかった。この夜駅を降りた人たちの見上げた空は、王者の象徴・農耕の星として親しまれてきた(すばる)が輝くまでには、まだすこしの間があった。」「文 武井静夫 書 中野帰山 施工 菊池石材店」※漢数字を算用数字に変更しました。裏面には歌碑建立期成会のメンバー19名の名前と協賛会員5名の名前が刻まれています。◇建立年:平成6年8月6日 ◇建立者:歌碑建立期成会 ◇所在地:倶知安駅前

六郷交通記念公園・六郷駅跡

六郷交通記念公園 旧日本国有鉄道(国鉄)胆振線の駅跡で鉄道公園として整備されている。旧六郷駅は大正8年(1919)年11月に国有鉄道京極軽便線倶知安駅~京極駅間開通に伴い開業した一般駅で、昭和19年(1944)年7月には国有化された胆振線の駅となるも、昭和61年(1986)年11月1日の胆振線廃止に伴い廃駅となった。かつては相対式ホーム2面2線を有する列車交換可能な交換駅であったが廃止時点で単式ホーム1面1線を有する地上駅で転轍機を持たない棒線駅となっていた。園内に第3種車止め付きのレールとホーム、駅名標が設置されホームに横付けする形で国鉄の旧型客車であるオハ46形オハ46 501とヨ6000形7900番台車掌車ヨ7913の2両が静態保存・展示されている。また9600形蒸気機関車9669の動輪を記念碑として展示、踏切警報機付きの踏切、遮断機も再現されているが駅舎は残っていない。本当の駅の位置は公園の西側といい現在のホーム模擬ホームと云う事でした。 ◇所在地:倶知安町北4条東8丁目 ◇Gmap:マップコード

中村與三松記念碑

中村與三松記念碑 碑文が長いのでその概略をしるす。明治13年、石川県現・金沢市生まれの中村與三松氏は、軍役を終えた後に倶知安町に来住、六郷市街で農産商・中村商店を起業、豪商とうたわれた。大正8年、脇方鉱山の鉱石を輸送するために敷設された国鉄支線京極線の開通により明治末期からあった地域住民の鉄道願望がよみがえる。京極、喜茂別方面を商圏とする人望の厚かった中村與三松氏は大正15年私鉄胆振鉄道株式会社を設立。私財を投げうって鉄道敷設に奔走、昭和3年10月、京極・喜茂別間の敷設を成し遂げると、昭和5年より喜茂別・伊達を結ぶ胆振縦貫鉄道実現に没頭し昭和12年着工、およそ5年の歳月と血のにじむ努力を経て昭和16年10月12日に全線開通り悲願を実現した。その後の昭和19年7月1日に国有化され胆振線となる。以後は周知のように国鉄合理化で昭和61年(1986)年10月31日、中村與三松氏が生み育てた京極線開通以来67年、胆振線全線開通以来45年の歴史に幕をおろした。ゆかりの地に六郷鉄道記念公園を建設するにあたり半生を胆振線に捧げた中村與三松氏の業績を称えて碑が建立された。ただ忘れてならないのは、この工事で酷使された監獄部屋(タコ部屋)で本当に血を流し命を捧げた土工夫建がいたこと。◇建立年:昭和63年7月 ◇建立者:中村與三松記念碑建立期成会 ◇所在地:倶知安町北4条東8丁目

ふきだし湧水京極町

ふきだし湧水信じられないほどの水が湧き出している京極のふきだし湧水、1日の湧水量は8万トンと国内最大級とのことで環境庁の「名水百選」や「北海道遺産」にも選ばれている。ふきだし公園に隣接して道の駅、京極温泉、パークゴルフ場、キャンプ場もあり水汲み以外でも楽しめる公園です。湧水口へのペット同伴は自粛してくださいと、マンホールの蓋もカラーと珍しい。◇所在地:京極町川西 ◇Gmap:マップコード

拓魂の碑

京極・拓魂の碑 碑文より「本町の第二次開拓は、大東亜戦争の終戦直前、東京都で戦災をうけた緊急疎開による入地に始まり、戦後我が国の再興を願い200戸が川西他9地区に入植。厳しい自然条件と闘い659ヘクタールが開墾されたのである。戦後26年を経た今日、目的を遂げ一般農政に移行するに至った開拓者の功績と戦後開拓の歴史を後世に残すものである。昭和46年10月 京極町戦後開拓記念事業委員会々長 阿部周策」都会暮らしの人達が厳しい自然条件と戦いながら開墾を進めた、戦後開拓事業の記念碑であり、各地にある開拓記念碑とは、意味合いがかなり違う。◇建立年:昭和46年10月 ◇建立者:京極町戦後開拓記念事業委員会 ◇所在地:京極町川西 京極温泉前 ◇Gmap:マップコード

倶知安鉱山記念碑日鐵鉱業株式会社北海道鉱業所

倶知安鉱山記念碑 碑文より「日鉄鉱業株式会社/北海道鉱業所/倶知安鉱山記念碑」裏面には「開山 大正八年二月(1919年)/閉山 昭和四十四年十月(1969年)/平成五年九月拾弐日/生産高 六百十八萬噸/建立者 日鐵鉱業株式会社OB會/倶知安鉱山友の會/京極脇方會/他有志一同」と有るだけだが以前の碑と異なり再建された碑のようです。倶知安鉱山は日本で珍しい酸化鉄の大鉱床は明治31年に京極農場の小作人藤村徳治によって発見され、そのご鉱山師朝倉夕満が試掘権を獲得、さらに橋本組を経て大正5年に三井鉱山の所有となり、本格的な試掘作業が開始されている。この後に北海道製鉄、大正8年に日本製鋼所倶知安鉱務所開設されその後に輪西製鉄所、輪西鉱山と代わり昭和14年に日鉄北海道鉱業所へと引き継がれたようです。輸送面では大正9年に鉱石運搬専用軌道として国鉄胆振線布設(支線)された。鉱山は第2次大戦中の軍需増大で昭和17(1942)年から3年間は24時間フル操業の体制で、掘削量は年間57万トンから59万トンに達した。倶知安鉱山は昭和44年に閉山となりかつては4000人もの人々が暮らした脇方は僅かに採掘跡や鉄道跡が残るだけで、一般廃棄物の最終処分場だけの無人地帯と化している。学校跡には門柱とひー記念碑が残り、駅跡は整地され再建された「北海道鉱業所 倶知安鉱山記念碑」がある。◇建立年:平成5年9月12日? ◇建立者:倶知安鉱山友の會他 ◇所在地:北海道虻田郡京極町脇方 ◇Gmap:マップコード

朝鮮人物故者慰霊碑脇方鉱山関係

朝鮮人物故者慰霊碑 倶知安鉱山の経緯については省略して戦中、とくに太平洋戦争末期の労働者処遇にかんして、当時は戦争により労働力が極端に不足しておりいわゆる強制連行で集められた人達が鉱山の担い手だった。当時の鉱山主婦の会・会長の回想によると「戦時中は増産のため朝鮮から募集して来た労務者と、中国人の捕虜とを3交替で日夜通しの作業でした。朝鮮人寮は社宅区域内に十数ヵ所あり、中国人は社宅外の左沢の奥に大きな収容所があり、規則正しい生活と作業のようでした」とあった。「京極村史」に日本が敗戦になった1945年8月15日現在で13の寮に1,004人の朝鮮人がいたとあり、町史に「町内の寺院に預けられた遺骨を集め共同の慰霊碑を建て丁寧に葬った」とも記され、町営川西墓地に昭和35年8月15日建立の朝鮮人物故者一同ノ墓があるが犠牲者の名前は刻まれていない。また川口組と日鉄北海道鉱業所に連行された中国人は鉱山社宅の外の左沢につくられた中華寮に収容されたが、寒風と一緒に雪が吹き込むような粗末な建物で寝具は毛布1枚という過酷な環境だった。露天掘なので鉄鉱石を掘ったり、鉱石を積んだトロッコを押したりする単純作業のようですが、切羽の崩壊やハッパ等による事故が多発したという。川口組脇方出張所は青島収容所から連行した297人中26人(船中で1人死亡)死亡、日鉄北海道鉱業所は塘沽収容所から連行した300人中11人の死亡であわせ37人の死亡者をだしたが、全中国人死亡者の死亡診断書が病死という。危険と隣り合わせの現場で日本人や朝鮮人の事故死はあるのに、中国人だけに事故死がないというのは不可解。食料に関しては他の連行事業所と比べると若干良さそうではあるが、診断書にある病死の半分は餓死だったのではと疑いたくなる。死亡者は火葬のあと遺骨は村内の瑞法寺と西寺に保管され生存者が帰国時に持ち帰ったという。◇建立年:昭和35年8月15日 ◇建立者:朝鮮人物故者墓石建立期成会 ◇所在地:北海道京極町川西 ◇Gmap:マップコード

現如上人像と本願寺道路跡碑喜茂別町MAP

現如上人像と本願寺道路跡碑東本願寺によって新道開削が行われた虻田―札幌間(現国道230号)の工事で、指揮をとった現如上人の業績を記念して中山峠に1967(昭和42)年に建立された。現如上人の背面に大自然と闘いながら道路を開削する僧や武士、アイヌの人達が描かれている。旧本願寺街道の石碑もある。◇所在地:喜茂別町 中山峠 ◇Gmap:マップコード

雪月花廊 旧双葉小学校史料館MAP

雪月花廊旧双葉小学校を再利用した郷土資料館&カフェ&旅人宿&キャンプ場&ライダーハウスという雪月花廊。小山村の資料館としては異色のできばえで壮渓珠駅逓所の写真もありました。旧校舎敷地の片隅に白花豆植栽発祥の記念碑があった。ブログで最近の様子を見られます。雪月花廊
◇所在地:喜茂別町双葉 ◇Gmap:マップコード

白花豆植栽発祥記念碑MAP

白花豆植栽発祥記念碑 旧双葉小学校グランド端、国道沿いに開拓50年記念碑と並んでたっている。白花豆というより白いんげん豆の方が通りがよいかもしれない。煮豆などでは人気のある豆ですが甘納豆、餡の材料など和菓子系にも使用される。最近は北見地方の留辺蘂が主産地のようですが、その大元はここにありました。碑文表面より「下山嘉吉翁の白花豆植栽発祥記念碑」裏面より「明治44年4月下山嘉吉(45歳)現・山梨県甲府市落合村から入植、大正13年、苦闘の末、白花豆の純化を完成する。以下省略」◇建立年:平成9年10月吉日 ◇建立者:下山喜三・志村あさの・青木長通・塩沢一彦 ◇所在地:虻田郡喜茂別町中里 ◇Gmap:マップコード

道の駅230ルスツ留寿都村

道の駅230ルスツ以前に道の駅230ルスツに松浦武四郎が登場する「ルスツ開拓物語」という展示があったという話を聞いて立ち寄った事がある。道の駅は新鮮野菜の買い物客でにぎわっていたが、その時は「ルスツ開拓物語」の展示はなかったが、道の駅の横に横に座っていた浪越徳治郎さんの笑顔に救われました(^^;。◇所在地:留寿都村字留寿都

赤い靴公園留寿都村

赤い靴公園留寿都村に開拓に入るために幼い娘をアメリカ人宣教師に預けた母親が娘を案じた心情を、歌詞家・野口雨情が「赤い靴」として発表したもので、留寿都村では「赤い靴」ゆかりの地として女の子の像を建てました。像は童謡「赤い靴」の歌詞にある少女をイメージして建立、少女の名前は岩崎きみで母親の像は「ルスツふるさと公園」にあります。◇所在地:留寿都村字留寿都 ◇Gmap:マップコード

曽我北栄環状列石ニセコ町MAP

曽我北栄環状列石ニセコ町の史跡に指定された遺跡で、開墾中の農夫が土の下に一群の列石があることに気づき、昭和26年に東京大学教授、駒井和愛氏が発掘調査を行ない人の骨と思われる骨片、硬玉、深鉢型縄文後期式土器が発見された。3000年前の遺跡と推定され、環状列石墓とみられている。遺跡は畑の中に有り周りをブロックで囲ってある。ただ遺跡の中に史跡の碑というのは違和感がある。◇所在地:ニセコ町字曽我252-5 ◇Gmap:マップコード

カムイワッカ真狩村

カムイワッカ 各地にカムイワッカと呼ばれる湧水があるが、三タイプのカムイワッカがあるようです。一番多いのは渇水期でも水枯せず厳冬期も凍らない湧水で一番多いタイプです。もう一つは有毒成分が含まれた水、この場合のカムイは魔と云う意味となりますが、有名なのは知床のカムイワッカでしょう。最後のタイプはあり得ないような場所の湧水、例えば高山の山頂付近の湧水や伝説の水などです、斜里岳の龍神の泉がそのタイプにはいるかもしれません。真狩村のカムイワッカは最初のタイプですが湧水量は驚くほど多い。◇所在地:虻田郡真狩村社215 ◇Gmap:マップコード

攝政宮殿下行啓記念碑馬頭観世音碑

川崎神社 川崎神社右手前の川崎地区研修センター前にある攝政宮殿下行啓記念碑は大正天皇の攝政宮(後の昭和天皇)が北海道行啓を記念して大正11年7月12日の建立だが、発起人の中にある「萱野藤助」氏の名前に注目した。萱野藤助氏は旧官設御保内駅逓所(明治34年9月~昭和16年10月)初代取扱人と思われ、川崎土場神社とも関係がある人物思われる隣にある馬頭観世音の碑は昭和6年頃の建立らしいが当地の農場関係者が建立されたのでしょう。川崎農場の農地解放は大正元年で道内でも希な早さで自作農創設となった地域。川崎土場神社は現存するが、旧官設御保内駅逓所の痕跡は無く牧草地となっている。◇建立年:大正11年7月12日 ◇建立者:発起人・萱野藤助氏他 ◇所在地:虻田郡真狩村川崎 ◇Gmap:マップコード

川崎土場神社

川崎土場神社 明治34年に官設御保内駅逓所が開設され翌年になって弁辺~真狩別間の道路開削が完成し路も出来て川崎農場が創設された。また早瀬吉松が川崎土場を開いたが、木材の運送手段はなく、一カ所に集積した木材を春先の増水時に流す流送の拠点となった。原木の丸太は土場に積重ねるため意外と危険を伴い、安全を祈願するために神社が建立されたと考えても良さそうだ。川崎土場神社は菅野家でお不動を祭っていたというが、水難や厄除けの意味ではおなじみかもしれない。土場は神社と貫気別川の間にある平地ということになりそうですが、貫気別川に架かる土場橋を渡った右側に御保内駅逓所があったようですが痕跡は何もありません、◇所在地:虻田郡真狩村川崎 ◇Gmap:マップコード

羊蹄山麓から追分ラインミニギャラリー

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