第六章・同胞に咲き乱れる北社(続)

 吼えるような吹雪の音も収まって、久子は床より離れ窓のカーテンを開き外に眼を向けた。僅か夜の内にあの猛威を振るっていた吹雪が夢かと思うほど空は朝日に染まり、昨朝徳治がアニワ人権擁護院に赴いた時の様な静かな朝に戻っている。久子はほっとしたものの何となく落ち着かない。昨夜遅くまで徳治の帰宅を待っていたのだが遂に帰ってこなかった。それから察すると沿道の日本人家に御厄介になったものと考えられるが、一縷の望みをかけて赴いた人権擁護院でどんな進展が有ったのであろうか・・・そんな事を考えながら朝食を済ませた。表は腰も埋まる程の吹き溜まりの雪丘が覆い尽くしている。

『少し除雪をしなくては・・・』

彼女は身支度を整えて除雪にかかった。以外にも除雪に時間を費やして既に正午近くになった。正午頃までには徳治も帰宅するものと考えていたのだがその気持ちも空しく人影らしきものは未だに見えない。久子は次第に懸念になって来た。小さな雪丘はもう影も無く除かれていた。

『あっ来た、来た!』 『・・・?』

久子はその言葉に反射的に後方に振り向くと畜舎の道路から何事かを示そうとはっはっと息を切らして来た広光が

『お母ちゃん、あれ、お爺ちゃんだよ』

『どれ、何処に、あの人なの?・・・』

広光の指差す国道筋に小さな黒い人影が見へ次第に久子等の方に近づいて来る。久子はショベルを杖代わりにして眼を凝らしていたが如何見ても徳治の姿には見えない。

『広ちゃん、違うわ。他所の人の様よ。』

『違わないわい!お爺ちゃんだよ!』

そう言って広光は母親の顔を覗き込んで大きく肩で息をしている。
よく見えるように広光を抱いて

『そうら、今度は見えるでしょう』と、囁いた 『・・・』

近づいて来る人影は全く見覚えが無い人で急に広光は塞込んだ。その我が子の姿を見ている久子の胸に熱いものが沸いて来るのを感じぜずにはいられない。

『広ちゃん、お爺ちゃんが心配なの?』

『うん、お爺ちゃん如何したのかな?・・・』

幼い我が子の無邪気な質問。祖父の身を案じながらその帰りを待ち侘びている心のいぢらしさに急に物悲しくなって来る。それが運命なのだろうか?。そうであったなら心の底から楽しく笑う事の出来る日が果たして来るだろうか?。こんな感傷をよそに広光は近づいて来る人影より眼を離さないで居た。

『あれー、変だな~母ちゃん
おの小父ちゃん変だな~母ちゃん、家の方に来るよ』

久子は全然気付かずに居た。もう既にこの家の出入り道に歩みを向けている。彼女は見知らぬ日本人の訪れを不審顔で凝視めた。男は五十歳前後と思われる。

『御宅は細井さんですか?・・・』

久子に軽い挨拶を交わした後、歩き疲れた表情で口篭る様に問いかけて額の汗をそっと拭いた。彼女はこの男の真意に戸惑って

『はい、細いですが・・・』

その男の用件を探る様に静かに答えた。
するとその男はやれやれやっと訊ね当てたという表情を面に浮かべ

『私は隣の部落の者で工藤と言います・・・今御宅の御爺さんが重体なんです。すぐに迎えに来ていただきたいのですが』

男の意外な言葉に彼女は一瞬硬直せんばかりの衝動に目先が真っ暗になり思わず自分の耳の聞き間違いでは無いかと疑った。

『家の御爺さんでしょうか?本当に・・・』

真偽を確認するように問い返した。

『えー、御宅の御爺さんですが・・・』

工藤は手帳を破いたような小さな紙片を久子に差し出した。その紙片にはロシア文字が走り書きされ、何者かの署名がくねくねと記入されている。

『(何か重要な事でも認た書面なのかしら?)』

そう思いながらその文字に目を注いでいるとある不気味さが潮騒の様に胸に響いて来る。それは何か徳治の死を暗示する様に感じられる。彼女は紙片から目を離すと

『これはなんと書いているのでしょうか?』

困惑に蒼ざめた顔を工藤に向けた。

『あっ、申し遅れました、それは貴女の通行証なんです。』

『私の?・・・』

『ええ、そうなんです。』

工藤は気の毒そうに言葉を続けた。工藤が半信半疑で注射したビタカンフル強心剤の効果に依り徳治の意識が回復し、重々しい気だるさと堪えられない疲労感と頭痛を訴える症状に手を焼きながら夜明けを迎え、夜明けと共に吹雪が鎮まったのを幸いに、この事を近隣の人達に知らせ助力を請った。四、五人の近隣の人達が駆け着け、治療について思案したが日本人医師の居ない当節、手の施し様が無かった。集まって見たものの、只々動物が手負いの傷を舐めるのに等しかった。居並ぶ内の一人が他の者に

『駐屯部隊の軍医に診てもらったらどうかな?・・・』

一人が相談を持ちかけた。

『そうだな、それがいい!』

衆議は一致し一人が部落に駐屯する国境海岸警備隊に出向いた。程なくその者が帰って来たが何となく沈んでいる、徳治の就辺にいた男が聞いた。

『おいどうした、軍医の方は大丈夫か?』

『うん、通訳が居なかったのでよく話が通じなかった。
歩哨には頼んではきたんだが』

『自信がなさそうだな、お前の露語は日本人しか分からんからな』

一人が冗談めいた口調で言った。

『まあ、来なければ、今度は俺が行って来るよ』

工藤が二人の会話を割る様に口を入れた。その会話が徳治の耳に激情となって飛んで来る。この何枚も重ねた厚い布団、昨夜からの親身も及ばぬ親切さ、その温情の深さに年寄りの感傷が交差し、感涙が目尻から膨れ、一滴、一滴、枕に滴り落ちる。

『爺さん、今直ぐに医者が来るから心配するなよ』

工藤はその涙を見詰めながら徳治を慰めた。その時、表戸を荒々しく開き土間で靴の雪を掃う音がした。緊張と安堵の入り混じった面を音のほうに向け

『来た!来たらしい・・・』

その期待を裏切る様に以外にも皆の眼に映ったのは、厚いフェルト製の防寒靴を履いたまま、一同の居並ぶ茶の間に表れたのは、腰に拳銃を着けた隊長大尉と少尉の通訳、そして銃を担いだ兵士の三人で軍医は居なかった。 大尉は居並ぶ者を睨みすえ

『“皆さん、何の話をしていましたか”』

鋭く質問の矢を放って来た。何を話しているのだ、北海道に密航する事でも話しているのだろうと言う意味らしい、動作から察しても只事でない事が分かる。又も言葉の良く通じない事から誤解を招いたのだ。

『嫌な事になったぞ』

一同、目を見合わせた。少々の違法でも厳罰を持って臨む大尉である。
皆の背筋に一瞬ぞっと冷たいものが走った。

『“ニヤット(違う)”』

工藤が大尉の言葉を強く否定した。夏頃の漁期、仲間の漁夫が筵を二枚縫い合わせて筵船を造って沖に出漁する所を巡哨に発見されて、その漁夫はカミンテールン団の抑留村に封ぜられ、ロシア人漁夫頭の口添えで三日目にやっと釈放された事がまだ彼等の記憶に刻まれている。

『“何故談合していたのか”』

一人一人の目を追う様に再度迫った。 一人が恐る恐る通訳を介し昨夜からの徳治の病状を詳しく伝へ救護を願った。工藤は話を付け足す様に

『その様な訳で何とか助けたいと思いまして隣近所の人達が集まった次第です、何とか御助力下さい・・・これ、この通りです』

徳治にかけてある布団を捲り上げた。

『“何故こうなった”』

大尉は徳治に詰問し、徳治の弱々しい言葉に耳を傾けた。徳治はアニワから猛吹雪の中、やっと工藤宅に辿り着き、急に体を温めて意識を失ったと少尉は大尉に通訳

『“では、身分証明書を所持していますか?”』

少尉は聴聞した。もし徳治が身分証明書をこの場に所持して居ないのなら只事では済まぬ、何処からか来た入国者と疑われるであろう。居並ぶ者達の視線が仰臥している徳治の口元に一斉に向けられた。

『はい、上着のポケットの中に』

低く弱い声で答えた。一同はほっと内心喜び、工藤は早速上着のポケットの中から身分証明書を探り当て、これを少尉に渡した。少尉は身分証明書を大尉に指し示しながら何ら密航者と関わりの無い事を立証した。大尉と少尉は笑みを浮かべ何やら話し出し、話し終えると

『“細井さん、今軍医が来るよ。そして皆さん、ヤポーンスキはとても親切だと言って感心してます。ですが仕事を無断で休むことは駄目です。
政府の命令を無視することです、仕事をして下さい”』

ここに集まっている村人の殆どは国営漁場に登録している漁夫の身分だけに少尉に抗着めいた口も聞けず仕事に向わねば為らなくなり

『工藤さん、俺等は帰りますから後は頼みます』

言い残しそれぞれ自宅に向った。一同が帰った後に兵士の知らせによって軍医が来て、診断の結果、一時は虚脱にまで陥った徳治であるが、既に危機を脱し約四週間で全快の見込みとの診断であった。工藤は人事ながら我が事の様に嬉しかった、無知な自分の救急療法に依って失いかけた一命を取り止めた、この事を久子に詳細に物語った。久子の顔にやっと僅かな安堵の色が現れて来た。徳治が床に伏してから七日が過ぎた。今朝は昭和二十三年正月三日と言うのに、正月らしい雰囲気は少しも無く部屋には暗い憂鬱さが漂っている。日本統治下の下にあった頃に、晴着を身に着け、一家団欒に興じた楽しい御正月を思い出すと久子は悲しくなった。食べて行く事さえ事欠く苦しい生活に衣類を奪われ、色褪せた継接ぎのもんぺに、国防色の上着を着た男の様な姿で神棚の前に立ち、黒い瞳が涙で曇っている。頭の中は苛まし続けられている徳治の事やら、良人の事やら、これからどの様に食べて行くのかの心配で一杯なのだ。彼女は頭を垂れ神に祈る他なかった。

『神様、どうか舅の身が晴れる様に、夫が無事に帰還する様に御助力下さい』

幾分か心に安らかさを感じるまで何度も繰り返し黙祷を唱えた。しかし神は久子の真摯な祈りを叶えてはくれなかった。それから数時間たち、凍傷で腫れ上がった徳治の指先に薬を着け終えてほっと一息居れて居ると、表で遊んでいた広光が突然ガラリと表戸を開き

『母ちゃん、ロスケが来たよ』

茶の間の障子を開いて声を潜めて、不堪そうに背後を振り返った。この広光を追う様に従卒を従えた厳つい将校が入って来た。えび茶にコバルト色を含んだ襟章の色で警察准佐である事ことが分かる。准佐は無言のまま久子を見詰めた。
何の用件なのか?何の為に来たのであろうか、思わず雷光の様に閃いた。徳治の一件・・・久子はハッと思った。

『“アナタ、ホソイサン?・・・”』

兵卒が久子に言葉をかけた。もう喉の奥まで渇ききって声にならない久子はコックリと頭を下げながら声にならない声で答えた。

『“あなた主婦ですか、御主人が居ますか?”』

准佐が問いかけた。その質問の語調は物静かで久子に警察と言う威圧感を興えないよう気を使っている。何故だろうか?それが敏感な久子には逆に大きな衝撃だった。自然に深刻なものが面に出た、准佐は尚声を低くし

『“私警察、話有ります、私、貴女の御主人にお会いする事必要です”』

久子はロシア語が苦手である、日本語とロシア語の混同した解り易い言葉すらも直に理解する事が出来ず困惑していると准佐はじれったそうに、手を振り体を動かして、もう一度 久子に話しかけ

『“ポ解りますか?私の話を”』

久子の顔を覗う様に聞いた。

『“はい、解ります”』

どうにか理解する事が出来た、徳治を呼べと言うのである。

『“早く話を伝えよ”』

早く言い伝える様に急き立てる、この警官は何の意図を持っているのであろうか?配給店のベレスネフの様に食糧貨物窃盗の疑いで難題をかけようとするのだろうか、そう思うと久子の胸中は只事ではなかった。致し方なく徳治の部屋を指差し

『“ボンヤスィー(病気)”』

『“病気?”』

准佐は疑念顔で聞き返した。

『“ダー エイツォ(はい、そうです)”』

襖越しより徳治の溜息が漏れて来て、准佐の目が声の方向に注がれ

『“オン オトリィ(開けよ)”』

襖を開けと目配せする。久子は襖を開き、狭い茶の間を隔てた徳治の部屋が手に取る様に准佐の目に映る。

『“あっ、そうか”』

准佐は釈然とうなずき、防寒靴を履いたまま、徳治の枕元ににじり寄り

『細井さん、君はコリアンのブローカー平川に食料品を売ったそうだね?』

日本語で問い掛ける。

『食料品?いいえ、私は売りません。
鮮人、平川?その人とは面識も無いが何故?』

『“では君はなぜ窃盗罪として起訴されました?その訳話しなさい・・・君は間近に裁判が有るのですよ?”』

『“裁判が?“』

『“もちろんです、有罪となるでしょう”』

『“えっ矢張り。私、盗んでません、警察で私が盗んだ様にしたのです”』

『“馬鹿な、そんな事は無い”』

准佐は穏やかに徳治の応答を否定する。

『“いいえ、私は警察の取調べが辛かったんです・・・”』

『“理由があるなら、公判で話すのです。そんなことよりも、コリアン言っている、山下がこの部落でバターとソーセージを密売していたそうだね。思い当たる事アルですね?”』

『“話をしなさい、山下ユジノサハリンスクの留置場にいる”』

『“えっ通訳さんが?何故ですか?”』

『“徳田を殺した”』

山下の徳田殺し、ブローカーの平川?ふと徳治の脳裏に浮かんだのは、人権擁護院に赴いた時・・・もし、吹雪になったらこの家に泊まりなさいよ、私の知人の平川さんの家です、私も今晩この家に厄介になりますから・・・平原道路で二人連れになった山下が町端にある鮮人平川の所で別れた事が思い浮かんだが、徳治等の生活は統制経済に暗躍するブローカーとは縁が遠い存在だった。徳治は二人で帰ってくる予定で平川の家で待ち合わせた事しか覚えていなかった。久子は広光を膝に抱いき、哀切に首を垂れたまま身動き一つしない。大きく肩で息をしている広光が静かに顔を上げ視線を玄関の方に向けた。佐藤部落長だった。

『“誰だ”』

『“部落会会長の佐藤です”』

『“あ、そうか”』

准佐は佐藤部落会会長にロシア語で言葉を転じブローカー平川の行動を聴き質した。佐藤はロシア語が巧みであり4,5分で会話を終えた。

『細井さん、何とか濡れ衣を剥したいもんだね、どうだい?体の調子は・・・』

佐藤は准佐の顔と徳治の顔を見比べながら、徳治に問い掛けた。無論、准佐に理解出来なさそうな早口で・・・

『ええ、御蔭様で体も大変楽になったんですが・・・』

『本当に申し訳ありません』

久子が青褪めた徳治の顔を見て言った、その目には涙が浮かんでいる。准佐は二人の会話を只聞いていたがパピルスを吸い終えると

『“さようなら”』佐藤部落会会長と握手を交わし帰途についた。

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