第六章・同胞に咲き乱れる北社(続々)

 徳治の落胆振りは、見ると哀れであった。両目からは、涙が溢れている

『佐藤さん、人と言うのは体が憔悴すると、こうも涙脆くものでしょうか』

恥じ入るように佐藤部落会会長の顔を見上げて、痩せた手でそっと涙を拭った。佐藤はその心情に思いやられ、そのやるせなさがひしひしと感じられる。何とか談合して徳治の心情を幾分だも慰めてやりたいのだが、なのものか佐藤の喉元に立ち塞がっているものを感じる。佐藤はビンジュコフ村長の忠実な走狗で今も村長の厳命を又携えて来たのである。今もその命を口に出そうとしているのだ。

『うん、うん』

頷く様に徳治の顔を見守っていたが、やがて仮面を脱ぎ捨てた様に

『嫁さん、明日馬で出役に出てくれんか、村長の命令なんだが』

久子に話題を転じた。徳治の看病の為、家より離れる事の出来ない久子の立場を分かりきって佐藤が何故に明日の出役に駆り立てねばならないのか、とにかく言い出したら聞かない佐藤の事である。久子は急に深刻な表情になった。
佐藤は釈明する様に

『部落中大騒ぎだ・・・部落を上げての出役なんだ、ルースキの移住民がこの部落に来るんだよ。細井さんの家に居住するソ連人の移住民を貴家で迎えに行かねばならない、それが村長の命令なんだ・・・』

村長の命令、厳命、久子は致し方なく佐藤の命に従わねばならなかった。
やがて帰り際に

『まず我慢してくれ、春になったらこの部落はソ連のコルホーズに代わる。そうなったら、私等日本人は引揚げになるんだ、それまでの辛抱だ』

語り添えて隣家に足を向けた。深雪がようやく融けて、長い冬が終わりに近づき、春を迎える頃、この部落はコルホーズに代わり、部落民の待ちに待った引揚げの日が遂に来ると言う。この日を期待し、自粛し、虐げられ、素足の様な苦しい生活を今まで、忍従して来たのも、この引揚げの日があればこそである。
久子は泣けて泣けて、自分を抑える事が出来ない、枝とも柱とも頼る夫は極寒のシベリアに一片の黒パンに命を託しながらの捕虜生活、舅徳治は無実の罪で引揚げも覚束無いと言う、久子の親族は降伏時、木の葉の様な漁船にて北海道へと逃避航中大時化によって難破し、宗谷海峡の藻屑に消えたと言う。
舅の兄が秋田に居る。これを頼って久子母子だけで引揚げて行っても快く迎えてくれるであろうか?、迫害を忍び自我を制し、ひたすら待ったその日が家族の別離の日になるのではないのかと、その日が来るのが怖く、さまざまな想念が涙と共に脳裏に錯綜し眠ろうとしても、眠れない。何時しか十二時を知らせる柱時計の鐘の音が鈍く久子の耳に響いて来る。彼女が寝返りしたその時、ふと徳治の深い溜息が隣部屋から聞こえてくると、徳治の心情が良く分かり(・・すいません、私が悪かったんです。あの時、私が佐藤さんの命令どうり食糧輸送に出ていたら、温情な舅をあのように苦しめなくてもすんだのに・・)と思うと、この責任は自分にある様にいっそう責められる。自分が舅の身代わりになる事が出来ないであろうか。そうしなければ夫への義が立たぬ、夫を信愛する表れ、そうしなければならぬと心に誓った。
その頃ソ連船、サコーフ号は大陸のナホトカ港を離れた。甲板に日本人捕虜が呆然と立っている。細井光男は手摺に凭れ感傷深げに海面に瞳を注いだ。寄せ合う黒い三角の波頭にキラリ、キラリと今より三年前、多数の戦友と共に踏んだ海岸部落の変貌したナホトカの火影が明滅する。

『しかし、変わったものだ』

呟くように後ろを振り返った。背後に居た男が

『うん・・・あの頃は、あの辺は海だった。
日本人捕虜で埋立てたんだ。捕虜でシベリアを開発すると言うのだからな』

その男を憤激した様に離れて行く陸地を目を凝らし焼き付けている。次第に海の静寂が立ち込めてくる。船は薄い浮氷を砕きながら進行する。

『何処へ連れて行くのかなー』

一人の捕虜が不安そうに言う。これに追従する様に別の男が

『帰国じゃないのか?今日の今日まで帰国だとばかり思っていたんだ』

『あー早く帰りたい』

栄養失調している様な力無い低い声で抑え切れない胸の内を告げた。この捕虜中隊は、四ヶ月程前まで波状形に起伏した緩やかな丘陵に拓けた集団農場に居た。このコルホーズは四、五日のも雨に降られた時や、春の融雪期に丘陵の上の方から大量の水が押し流されてくる。その為畑に悪影響を与えていた。捕虜達はこの水を防ぐため壕の様に深い人丈程の排水路を掘り続けるのが毎日の作業であった。来る日も、来る日も飢えに耐へ生きる為、互いに励まし助け合い何十里もこの排水路を掘った。念願かなって地表の凍結する十月初旬に帰国が許可され、それから汽車にゆられ、ナホトカの捕虜収容所に入所する事が出来、一同は喜びに湧きかえったが直に乗船させてはくれなかった。それは非民衆的だと言う理由を附されているからであった。民衆教育の云々、二回に渡る詳しい身元調査が実施され、失望しながらも主だった者達が色々と事の次第を釈明し帰国を懇願した。この様な運動をしている内に来春まで引揚げ休止の十二月下旬と為ったのである。そして突然この船に乗せられたのだ。いつしか捕虜の憂虜を漂せた一夜が明けていた。

『明るくなった、朝だぞー』

誰かの声が船室に響いた。その声に吊られる様に捕虜兵が一人、又一人と凍りついた甲板に出て行った。捕虜達は船尾の手摺に凭れながら蒼い海原に白く浮き出て筋をなす航跡や、大海原より真紅に昇らんとする美しい旭光の景を無言のまま見とれていた。程無く中程に居た男が

『あっー?』

何か重大な事を思いついた様に素頓狂な声を上げた。

『おいどうした?』

『船が北海道の方向に進んでいる』

その男は真顔になったサコーフ号の進路方向を指差した。思い思いに皆は朝日に向ってサコーフ号の進路方向を確かめた。サコーフ号は陸地の見え失せ様とする大海原を北東に向って進んでいる。

『おや? やはり北海道へ向っている』

『おー、うぉー・・・』

誰かの喚く様な歓声が上がった。その雰囲気を尻目に一人の男が

『何言ってるんだ、北海道に連れて行くくらいなら二ヶ月前に乗れたんだ、今度はシベリア開発のようなカムチャッカにでも連れて行くんだよ』

五、六人の話題を強く否定した。
先程からこの話を聞いていた三十台後半位の男が静かな口調で

『皆勝手なことばかり言って、この船は樺太の定期連絡船だよ。
如何見たって千トンあるかないかの貨客船なんだ』

嘲笑うかの様に言う、それを聞いた四、五人の視線はその男の顔を睨む様に集中する、中の一人が

『君、どうしてそれが分かるんだ、又デマと違うのか?』

『いや、そうではない。船首に乗り込んでるソ連人は何だと思う?あれは樺太に移住する移民団だよ。彼等が乗船するのを私は今の位置からずっと見ているんだ。その時真下の乗船口で母に手を引かれた五、六歳の子供が「お母さん、サハリンに行く船か?」と、聞いていたのをこの船の針路方向で思い出したんだ!』

樺太、この言葉がさっと細井光男の背筋を走った。デマと知りつつ、やはり心の中の幾分かの疑念が晴れず何か重要な秘密を抱く様な重苦しさだった。ふと側を見るとシュバーや汚れ垢じみた綿服を着た移住民が五、六人、朝日を観賞しながらそぞろ歩きして来た、光男はその側に静かに歩み寄り朝の挨拶を交わし

『“あなたは何処へ行くの?”』

『“なぜ?”』

酷しい語調で若いロシア人が見返し、同時に多くの蒼い眼が光男を捉えた。それは、暴風に襲われた一瞬の様に感じられる、何年もこの憤激に耐えてきた光男はもう蛙の頭に水の如く無表情に

『“私の故郷はサハリンですが
もしかするとこの船はサハリンに行くのではと、思いまして”』

『“えっお前さんが?”』

髪に大分白いものを交えた老年の男が立ち止まって聞き返した。

『“はいそうです、農民でした”』

『“農民か!”』

別の男が眼を丸めシガレットを光男に差し出し、光男を取り囲み

『“サハリンの雪?どのくらい寒い?何が良い土壌ですか?”』

などと色々、さまざまな事を問い掛けた。光男は彼等の関心の的になっている。
その会話を日本兵捕虜も聞いていて

『どうだ、やっぱり樺太への移住民だろう』

例の捕虜が得意になって息巻いている。
光男も樺太へ行けると思うと急に妻久子の姿が目先に浮かんで来た。

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