松浦武四郎の碑を巡る
オロロン&宗谷・松浦武四郎の碑や説明板など‼

はじめに

◇市町村別に分散した松浦武四郎関連の記事をまとめ見やすいように再構成したものです。
◇碑や説明板等はできる限りマップを作成、記事欄にGPSデーターを添付していますが全てではありません。
※個別マップはGoogleMapに変更、航空写真で確認不能な山岳地域などは従来の電子国土で継続しています。新規作成のマップはGoogleMapになります。

松浦武四郎宿営の地猿払村 map-ic

松浦武四郎宿営地の碑01

北オホーツクでは稚内に次いで2番目の武四郎碑。江戸末期の鬼志別は小休所であり宿泊は浜猿払にあった通行屋(番屋?)だったので、猿払公園に武四郎が宿営したという事ではない。ただ実際の宿営地で誰の目にも触れないよりは「道の駅」に設置し、説明板で誰にでもわかるようにする方がよいだろう。弘化3年は猿払の番屋が無人でアイヌ民家に宿泊、懇ろに世話をしてくれ歌も聴かせてくれたが疲労で歌どころではなかった様子。竹四郎廻浦日記ではこの碑がある所は「イシヤンベ」と呼ばれ「此所に到りてカムイト(北見神威岬)を見る」と確かにここからは神威岬が見える。宿泊はサルブツ(浜猿払)で「舟渡し。超えて通行屋一件」とありと、ここで宿泊している。安政5年、3度目の猿払入りでは初日は当地の役アイヌであったアヤシ宅に宿泊、翌日に枝幸からの同行者と当地乙名の娘が案内してポロ沼を一巡した後に猿払川を遡っているが、ホロナイで流木に阻まれ先に進めず引き返し、当日は番屋泊まりだった。
◇猿払村浜鬼志別 道の駅・猿払公園

宗谷300年記念碑宗谷運上屋跡 稚内市 MAP

宗谷300年記念碑

宗谷は天正10(1582)年に松前藩領となり、貞享2(1685)年には松前藩主の直領として宗谷場所を開設している。幕末の頃は藤野家の独占場所だったが明治3(1870)年に漁場を返上している。宗谷は安政6(1859)年に秋田藩の支配となるが明治2(1869)年には開拓使、明治3(1870)年には金沢藩に属すも明治4年の廃藩置県で分領支配は終わり、明治12(1879)年に戸長役場が設置されているが、明治21(1888)年に戸長役場と郡役所が稚内に移った。宗谷300年記念碑のある所は松浦武四郎の絵図にある宗谷運上屋の一角と重なってみえるが運上屋や駅逓の碑は無い。近くに陣屋跡、津軽藩兵詰合の記念碑、旧藩士の墓、間宮林蔵顕彰碑などがあり、天明元(1781)年創建の厳島神社に奉納された鳥居に藤野家宗谷支配人、粂屋八右衛門の名前がみえる。 ◇所在地:稚内市宗谷村字宗谷 ◇N45°29’12.49” E141°52’45.73”

間宮林蔵渡樺出航の地稚内市 map-ic

間宮林蔵渡樺出航の地

日本人でただ一人、世界地図に名を残した間宮林蔵と松田伝十郎が幕府から命を受け、文化5年4月13日に第1次樺太探検へ出発した地。宗谷岬から西へ3kmの国道238号線沿いの第2清浜地区に『間宮林蔵渡樺出港の地』がある。かつて間宮林蔵像もあったが宗谷岬に移転された。此地から松浦武四郎も樺太へ渡った。廻浦日誌に「此処本名はピリカトマリなるべし。其地未に向ひノツシヤフ岬と対して其湾内一澗となる。其澗内暗礁多くして出入りの船は至て容にくし。然れども海底一面の平暗礁なるが故に、其ピリカトマリに入る時は如何なる風波も障ることなし」と。
◇稚内市第二清浜 ◇N45°30’53” E141°54’14”

松浦武四郎宿営の地稚内市 map-ic

稚内市声問-01

松浦武四郎に思いを寄せる人々が呼びかけカンパを集めて完成した、稚内と北オホーツク最初の松浦武四郎碑。碑のある所は稚内市街から宗谷岬へ向ヘ進み声問川手前カーブ山側の国道沿いにある。☆松浦武四郎は声問には弘化3年、安政3年、安政5年の三度訪れ、安政5年には声問川を遡り踏査、その時の内容を「戊午山川取調日誌 西部 古以登以誌」に残している☆説明板の最後に「松浦武四郎踏査による東西蝦夷山川取調図完成150年を記念し、松浦武四郎の偉業を称え、後世に長くその遺徳を伝えると共に、アイヌの人達の助力に感謝する為有志相図ってこの宿営碑を建立する。平成21年12月6日とある。宗谷サロベツ松浦武四郎の会有志一同。声問に説明板を建立するまで、宗谷場所と呼ばれた地域に武四郎に関連する説明板等は無かった。
◇稚内市声問・国道沿い ◇N45°24’16” E141°45’07”

稚咲内止宿所跡説明板 豊富町 map-ic

豊富町稚咲内-01

サロベツ原野から道道444号を日本海に向かい、道道106号(稚内天塩線)を稚内方面に右折、約200mの直進で「砂丘のえき」があり、その駐車場海側に止宿所跡説明板がある。アイヌ語でワッカ・サク・ナィ(水が・ない・沢)と呼ばれたこの地は稚内と天塩の中継地で、旅人の休息と給水の地として1840年代に止宿所が設けられ井戸も掘られたが、それ以前は水を天塩より馬で運んだと云う。松浦武四郎は1846年と1856年、1858(安政5)年にこの地を通過し、利尻山の雄大な眺めとともに、建物や蔵と井戸があった事を記録に残す。実際の止宿場はここより2km程稚内寄りの富士見橋(ツツミ川)の北側200m付近で、後に駅逓として使用されその痕跡がわずかに残る。※2015年の再訪時も説明板は撤去されたまま、早期の説明板再設置を期待。
◇豊富町稚咲内 ◇N45°05’14” E141°37’49”

天塩運上屋跡史跡標柱 説明板 天塩町 MAP

天塩運上屋跡

 天塩での場所請負制は1786(天明6)年頃よりと云われ運上屋その前から有ったかもしれない。天塩場所最初の請負人は栖原家で以後維新までの殆どを請け負っている。場所請負人に共通するのは不平等交易と植民地経営方式ですが、天塩場所は安政4年に箱館奉行所が「最もアイヌ酷使の甚だしい場所」として請負商人に論書が発せられたが、場所請負人の専制支配による無法構造は変わる事なく維新を迎える。明治2年の場所請負制廃止で運上屋は廃止なり、駅逓は開拓使に引き継がれるが、実質場所請負制と同じ漁場持となった栖原家が取り扱う。漁場持廃止で明治9年以降は駅逓取扱人が公選となった。天塩運上屋の建物は大正元年(1912)まで現存していたという。文化4年、幕府による西蝦夷地の全域直轄にともない場所請負人に対し区域を定めて道路の開削を命じ、各地の要所に通行屋を設け官馬を配備している。松浦武四郎が最初に訪れたのは弘化3年、この頃は天塩川の鮭漁が不調で本拠地は苫前だったようです。武四郎は安政4年にアイヌの人々に助けられ天塩川を遡り、内陸部の克明な記録を丁巳日誌に残した。その時の始発と帰着点は天塩運上屋でした。◇天塩町海岸通4丁目3975 番地の2 ◇N44°52’58.79” E141°44’39.05”

苫前運上屋跡標柱 苫前町 MAP

苫前運上屋跡

留萌~天塩沿岸では寛政年間の頃、増毛、留萌、苫前、天塩の4箇所に運上屋が設置されたとあるが、苫前場所の開設は天明5年と云うが、史跡の運上屋は文化元年(1804年)に開設されたという。経過は天塩とほぼ同じなので省略する。運上屋廃止後の漁場持は栖原家て駅逓として継続していたようだ。運上屋と周囲の様子は松浦武四郎の蝦夷日誌の中に「運上屋北向。座敷、玄関美々敷立たり。後ろの方白岩崩岸に立靠り、蔵々、長屋有り。弁天社運上屋の南小高き山ぎしに有」又「蝦夷人小屋 此所に十四五軒有り皆笹屋根也」と書かれている。運上屋の現地支配人については武四郎にしては珍しく好意的。武四郎は弘化3年、安政3年はから安政5年は続けて苫前に訪れている。安政5年は運上屋に一泊、古丹別で二泊し古丹別川を岩見付近まで遡り内陸部の踏査をしている。碑の場所は苫前漁港前の「北るもい魚協」駐車場角、苫前下町バス停傍にある。碑以外に痕跡を示すものは無い。庄内藩陣屋跡は古丹別川付近と市街地からは離れている。
◇苫前町下町・苫前下町バス停 ◇GPS:N44°18’49.5” E141°38’58.0”

松浦武四郎像と歌碑小平町 map-ic

小平町・道の駅『おびら鰊番屋』-05

道の駅『おびら鰊番屋』前のトワイライトアーチ右側に、幕末の探検家で北海道の名付け親でもある、松浦武四郎翁の銅像が設置され、鰊漁場の賑わいを極めた往時の鬼鹿の歴史を詩に残している。夕陽をイメージしたモニュメントには、小平町には4度訪れている武四郎翁が鬼鹿で詠んだ短歌“名にも似ずすがたやさしき女郎花なまめき立てるおにしかの里”が刻まれています。武四郎が訪れた頃はポン・オニシカ呼ばれこの辺が中心で現在の鬼鹿は後に開けた所だった。後に通称・番屋の沢、現在道の駅となっている花田番屋などがあったからそう呼ばれたのでしょうか・・・国道を挟んで向かい側、にしん文化歴史公園「おびら道の駅」内に有る「花田家番屋」は北海道遺産に指定され、当時の姿が再現されており内部の見学(有料)も可能。武四郎像は撮影は難しい所で出来れば午前中に、腕自慢の方は夕陽の時に・・
◇小平町鬼鹿広富48 松浦武四郎扇公園 ◇N44°08’11” E141°39’16”

松浦武四郎踏査の地顕彰碑 留萌市 map-ic

留萌市大町・望洋遊園-01

留萌港が見渡せる大町の高台に有る望洋遊園内に松浦武四郎顕彰碑と湊神社が有るも地図には記載無し。留萌市内から黄金岬に進み大町3丁目の信号を右折し次の十字路を左折すると右横にパーキングスペースとその先に旧赤灯台があり、その右奥に松浦武四郎顕彰碑があります。☆武四郎はヌプシャ越を含めて留萌は4回の通過、宿泊しておりルルモッペ運上屋のスケッチを残しているが、碑の建っていら場所から描いたものらしい。運上屋は古くは苫前場所に入っていたがルルモッペ場所として独立、藩直領で場所請負人は栖原家である。管理人が学生の頃に老人達が留萌と書きルルモッペと呼んでいたのを覚えているが、留萌の地名も武四郎が提言したと云う。武四郎とは関係ないが公園にある赤灯台は昭和6年に留萌港西突堤に建てられ、60年以上船舶の安全航行を見守り平成9年に引退。その後は歴史的遺産として望洋遊園に保存されている。付け加えると「海のふるさと館」横にも引退した高橋灯台が復元保存されています。
◇留萌市大町・望洋遊園 ◇N43°56’46.5” E141°38’08.1”

松浦武四郎信砂越えの地木碑角柱 増毛町 map-ic

増毛町彦部-01

信砂川河口の国道にかかる彦部橋の増毛側で舎熊小学校入り口のT字交点角地に「松浦武四郎信砂越えの地」の標柱が有る。☆文化5年に信砂越えの開削が行われ、翌年に会津藩兵が山道を通って石狩川筋に出て帰藩したあと殆ど利用されず当時は道が絶えていた。松浦武四郎一行が安政3年5月11日トックを出発し5月12日は面白内に宿営、最初は会津藩士と同じ尾白利より峠越えして恵岱別にはいり信砂越えの予定であったが、山道がよくないとのことで面白内から恵岱別を経て、今の石油沢から峠を越え信砂川上流域に抜け山中で一泊。川筋を下り増毛町彦部に到りルルモッペ運上屋着、5月16日苫前運上屋に着く。一行にかつての道を知る者なく、痕跡も殆どない「信砂越え」は雨龍川口より3日を要した困難な探査行で、文化年間以来絶えてきた留萌への道を再び開いた。後に増毛道路が開削され増毛側に仁奈良駅逓が設置され仁奈良山道(西仁奈良山系)と呼ばれた。◇参考までに苫前場所には天塩場所が含まれている時期があり知行主は松前家だが、安政6年(1859)に庄内藩の所領となる。文政以後は場所請負人が板垣屋~栖原家、安政年間は栖原家である。◇増毛町彦部 ◇N43°52’29.8” E141°35’04.3”

増毛運上屋跡増毛町 MAP

増毛運上屋跡

 松前藩商人、村山伝兵衛が1751(宝暦元)年に増毛場所を請負、増毛に出張番屋を設け、1840(天保11)年以降は増毛、天塩、宗谷方面に和人の出稼ぎが許可されるようになり、その頃から和人が定着が増えていった。出稼ぎは蝦夷地を代表するニシン番屋で、増毛もニシン場として栄えた町。場所請負制の廃止とともに運上屋は開拓使に引き継がれ、最後の場所請負人は伊達林右衛門でした。北海道宿駅制の研究では「通行屋と称し請負人伊達某駅務を行う」とあり運上屋廃止後は駅逓として利用されたようです。運上屋の遺構は残されて居ませんが、港町市場の建物の前(遠藤水産)に増毛運上屋跡の史跡標柱があります。幕末の探検家、松浦武四郎が安政4年と安政5年に伊達林右衛門が自費で開削中の山道の見聞に訪れ宿泊している。
◇所在地:増毛町港町4-26 ◇N43°51’21.30” E141.°31’42.67”

増毛山道増毛町 石狩市 MAP

増毛山道口

増毛山道は増毛町の別苅と浜益の幌を陸路で結ぶ全長約26.8kmの山道で、安政4年に2代目伊達林衛門が私費によって開削した。工事費用は濃昼山道と合わせ現在の貨幣換算で2億円以上と商人が拠出する金額としては半端ではない。増毛山道は江戸時代に開削された山道では最も険しく唯一1000mを超える山道でした。安政4年に松浦武四郎が新道見聞に訪れた時は現地支配人の黒沢屋直右衛門が山道の出来具合を見るために同道、安政5年は完成した山道を検分するために再訪している。安政4年の道中は「丁巳14巻 天之穂日誌」に記されているが、安政5年の検分は戊午日誌に記録は無く、まとめた記事として「西蝦夷日誌の5編 濱益毛」に濃昼(ゴキビル)山道と増毛山道についてかなり詳しく記している。のちに此路を通ったライマンは人の造った道とは思えない獣道と酷評した。明治期の山道は郵便物をやり取りする重要路となり、山道途中の「武好(ぶよし)駅逓」で雄冬と増毛、双方からやってきた郵便配達員がここで互いの郵便物を交換し、戻ったという。駅逓には管理人が置かれ(無人だった期間もある様です)旅人の宿泊などにも利用された。交通網の発達にともなって廃道になって既に70年以上になるが「増毛山道の会」によって復元が進められている増毛山道。新武好駅逓跡も確定され再び注目が集まっています。単独での入山は認められていず今回は入り口までにてパス!!
◇所在地:増毛町別苅~石狩市幌 ◇増毛山道入り口:N43°51’27” E141°30’58”

にしん街道石狩市厚田区 map

にしん街道標柱・石狩市厚田

説明板の文字が不鮮明なので転載します。

「あつたの地名は、歴史を遡ると松前藩の「新御国絵図」(1661年)に見る事ができます。また、1840(天保11)年以降は増毛、天塩、宗谷方面に和人の出稼ぎが許可されるようになりましたが、それまでは厚田場所が西蝦夷地の北限でした「にしん」の北上とともに松前、江差方面の漁夫も北上し、松浦武四郎の「西蝦夷日誌」オショロコツ(押琴)の項によれば、訪れる和人は一万人もいたとされています。押琴の泊は、弁財船(千石船)が30隻も停泊できる良港で運上屋も建てられ、古潭、押琴一帯は大変な賑わいを見せたといわれています。「にしん」は魚偏に非ずという字を書き、米の取れない蝦夷地では米(と同様の価値)であるという意味で、単位も米と同じ石が用いられたといいます。

厚田が再び「にしん」で群来ることを願い、往時の繁栄と記憶を後世に引継ぐとともに、新たな観光ルートとして確立し、地域の活性化につなげるため、この「にしん街道」標柱を設置します」平成20年設置  ここでも松浦武四郎の「西蝦夷日誌」が引用されている。
◇所在地:石狩市厚田区厚田12番地4幌 ◇N043°24’18,89” E141°25’85.93”

弁財船投錨地の碑とアツタ運上屋石狩市 map

弁財船投錨地の碑

鰊街道碑に書かれているオショロコツ(押琴)にある弁財船投錨地の碑、この辺にかつては厚田運上屋があったのでしょう。隣には厚田発祥の碑が並んであります。押琴(旧名オショロコツ)の入江は今も八幡神社から眺望ができる入り江で、江戸期から明治の頃の厚田中心地でした。アツタ場所で最初の請負人は阿部屋のようですが、文化7(1810)年頃より松前の浜屋与三右衛門、天保から弘化にかけて宮川増蔵、嘉永5(1852)年より場所請負廃止まで浜屋与三右衛門となっているようです。運上屋は元々アツタ(厚田川口)に有ったが不便なのでオショロコツ(押琴)に移転したと云い、運上屋の規模は現存する余市運上家と同程度という。約300年前から和人が往来し明治時代から昭和初期までニシン漁で栄え、最盛期の明治14(1881)年には人口が1万2000人を超えたというが、ニシン漁の衰退で過疎化が進んだようです。 蝦夷日誌に「弁天社運上屋の上にあるなり」と記されていた元押琴弁天社の手水鉢、唐獅子は八幡神社に設置されたという。武四郎は安政4年と安政5年に押琴に立ち寄っている。◇所在地:石狩市厚田区古潭

松浦武四郎の碑・説明板・関連ギャラリー

稚内市声問-02伝説のカムイ沼-龍神沼松浦武四郎宿営地・猿払-02松浦武四郎宿営地・猿払-03松浦武四郎宿営地・猿払-04豊富町稚咲内-02
豊富町稚咲内-03小平町・道の駅『おびら鰊番屋』-02小平町・道の駅『おびら鰊番屋』-03小平町・道の駅『おびら鰊番屋』-04小平町・道の駅『おびら鰊番屋』-05小平町・道の駅『おびら鰊番屋』-06
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