松浦武四郎の碑を巡る
石狩川中流域と空知川にみる松浦武四郎碑など‼

石垣山 愛別町 map

愛別町中愛別

中愛別駅南方約2.5km、標高525m、上部一帯は石狩川の浸蝕によって露出した柱状節理の巨岩奇石がせり立つ特異な景観は、層雲峡の大函小函をほうふつさせる。松浦武四郎の紀行文「石狩日誌」には、「サンケソマナイに着す。この処峨々たる崖嵌空して大岩窟なるにはいる。此所は文化年度間宮某も此所まで上がり、此窟に一宿し帰られしと申し伝うなり」とある。この岩窟は石垣山の頂上附近にあって広さ畳二~三枚程の洞窟。登山道にロープを張っている所があり、これを伝って行くと岩窟につく。更に進んだ山頂付近には八十八ヵ所を祀ってあります。石狩日誌では洞窟に宿営した事になっているが、丁巳日誌ではサンケソマナイとなっている。サンケソマナイから石垣山まで七八丁と、距離はあっているので石垣山には登っているのは確かと思われるが、それだと洞窟までの距離が合わない。洞窟は石垣山の南南東に約1km地点で愛別キャンプ場からの登山道では中間より少し石垣山よりとなる。洞窟というよりは四角く切り抜いたような穴で、底は畳のように平坦でやや出口に向かって傾き、石狩日誌の挿画とは雰囲気が全く異なる。武四郎一流の脚色なのだろうが話としては面白い。洞窟はこの写真にある岩峰の根本にある。
◇所在地:愛別町中愛別 ◇N43°53’01” E142°38’40”

武四郎街道メルヘン道路 旭川市

旭川市

かなり痛みが来ていて文字はもう読めないかも、説明看板より転記(読めなかった部分は十勝日誌を元に補足)「幕府雇いの松浦武四郎は安政五年三月五日、上川より十勝への新道切開調査を命ぜられ早朝に足軽・早朝に松田一太郎、アイヌ乙名クーチンコロ他十二名を道案内先導として、石狩川沿いカムイ忠別大番屋を出発。ベベツ大川(現・美瑛川)を越えて乙名家に待つ一人を加えここ(現見本林の下手原野)から森林(現神楽岡)に入り廃道を南下、トスシコマナイより方向巳に向かうと日誌にあり(現立札のある辺より南西柏林のある方向・現旭川空港方)に進み十キロ程さきのベベツ川岸に到着、裸になり倒木を伝って渡り草に火を着け温まり出発。美瑛から上フラノ(深山峠・石碑有り)を経てペペルイ川を遡ってフラノ(原子ヶ原)を経て十勝上流へ出、新得を経由し十勝清水の人舞に三月十三日に(碑あり)到着。上川旭川の地より十勝に越えた和人第一号は松浦武四郎で、今この末道、メルヘン道路を私どもは往事を偲び武四郎街道と呼称す」この看板があってもなくてもこの道は「武四郎街道」ということです。◇所在地:旭川市西神楽

クーチンコロ顕彰碑旭川市 map

旭川市

「アイヌ文化の森・伝承のコタン」に「明治の始め、アイヌの重鎮クーチンコロが12月3名の供を連れ石狩に出向きその不当で横暴なやり方を正論で論破、石狩浜集団強制移住計画を断念させ、兵部省の謀略を打ち砕いて上川アイヌの危機を救った」アイヌの英雄クーチンコロの顕彰碑がある。碑文に、松浦武郎ら探検家はクーチンコロの助けなしには成果がえられなかった、という部分があるが、事実彼らの助けなくて北の国の探査行などは到底無理であったろう。松浦武四郎の石狩日誌には「クウチンコロは銛槍を提て岩上に暫時佇立せしが四尺斗の潜龍沙魚を一尾に、三尺斗のチライを得来る」きっと武四郎はクウチンコロを頼りに思ったであろう。北海道の名付親として知られる松浦武四郎は安政4年と安政5年の二度にわたり当地を訪れている。安政4年は石狩川と天塩川の踏査、安政5年は残る内陸部の踏査で最初は上川から十勝に抜ける踏査であった。雪の残る未開の原野と渓谷を越えていく踏査行は現地のアイヌの協力なしには不可能で合った事は武四郎の記録を見れば一目瞭然である。その中心にいたのが上川の総首長クーチンコロであった。安政4年の石狩同行者は総勢は河口部から含めてクウチンコロ、トミハセ、セッカウシ、アイランケ、ニホウンテ、イハンハカル、シリコツ子、ハリキラ、イナヲアニ、イソテク、ピヤトキ、シリアイノの12人がそれぞれの居留地を中心に同行。安政5年の石狩河口部から十勝越えではクーチンコロ、イソラン、サタアイノ、サケコヤンケ、イコリキナ、タカラコレ、エナヲサン、ノンク、クラウンテ、シリコツネ、セッカウシ、ニボンテ、イワンバカル、タヨトイ、アイランケ、イソテク、イヤラクルの17名(十勝側のガイドは含めず)がそれぞれ役割を決めて武四郎の踏査行に同行している。晩年のクーチンコルはこちら。
◇旭川市 ◇標高 148m N43°47’32.1” E142°18’28.5”

忠別太大番屋の跡旭川市 map

画像枠-01

碑が最初に立てられたのは昭和33年、アイヌの古老から聞いて場所を特定したらしい。その後昭和46年、旭川開村80周年記念で石碑となったが、道路切り替えで移動している、従って北方約100mはズレているとのこと。碑文は痛んでいるが判読は可能で「幕末安政のころ石狩場所請負の村山伝兵衛がここから北方約100mの地に大番屋と板倉一棟ずつを建てて番人を置き、アイヌとの交易に当たった。上川地方和人最初の建物で・・・・以下略」和人最初の建物で松田市太郎や松浦武四郎もこの大番屋を利用。◇旭川市忠和4条8丁目 道々沿い 南消防署脇

史跡 松浦武四郎宿泊之地碑雨竜町 map

雨竜町字面白内 面白内神社

安政3年に石狩川をのぼり留萌に向かう途中の5月12日に宿泊したとされる場所。国道276号線を雨竜町から北竜町へと進み追分を過ぎて面白内川を越えて右折しT字路を右折するとまもなく右側に有る。石碑は面白内神社横のやや高くなった所に、その下に雨竜町教育委員会設置の説明板が有る。
☆以下は説明板からの転載です。
「江戸幕府末期より 明治初期にかけて当時蝦夷と呼ばれた本道の開拓に大きく貢献し 又数多くの著書を残した開拓判官松浦武四郎の名は北海道の名付親として道民には忘れられない人であり 本町にも縁りの人でもある 西蝦夷日記によると安政三年(一八五六年)三月本道西海岸一帯の踏査を命ぜられ函館を出発して 五月八日には石狩運上屋より丸木船二艘に総勢十二名が分乗して遡り九日美唄(ビバイ)十日浦臼内(ウムシナイ)十一日新十津川(トック)橋本を経て十二日雨竜面白内(ウリウフトオモシロナイ)のこの地に泊り楡の皮でわらじ(シトケリ)荷物を運ぶもの(シケニ)を作り酒を飲んで寝むと記されてある 翌十三日恵岱別(イタイベツ)に沿って留萌(ルルモッペ)に向う途中ヌブシャ岳を眺めて一首吟じた のぼり来て雪の峰近く成りぬらん ひたすらに肌寒くなりけり 本町開拓前の貴重な史跡として この碑を建てる」
☆この時ヌプシャ越えの経験者であった案内人、篠路の乙名エンリシウが手足がしびれる(脳血管疾患を発症?)と言い出し同行のアイヌ一人を付き添わせて家に帰している。従ってヌプシャ越え経験者の無い踏査行は困難を極めた様だ。武四郎一行は会津藩士と同じように尾白利より峠越えして恵岱別にはいり信砂越えをする予定であったが、山道がよくないとのことで面白内から恵岱別を経て今の石油沢(左股)から信砂越えとなったようです。
◇雨竜町字面白内97番地13 面白内神社鳥居横
◇標高 56m N43°31’495” E141°54’21.2”

松浦武四郎通過之地木碑角柱 富良野市 map

富良野市原始が原

ヲツチシバンザイウシベ(富良野岳)とヲツチシベンザイウシベ(前富良野岳)の間のルウチシ(特に険しい峠にある名)を越えた地にある原始が原に松浦武四郎の偉大なる足跡を偲び不滅の功績を永く後世に伝えんと有志にによって昭和48年10月に原始が原の標高1040地点に松浦武四郎通過之地標を建立、平成6年に富良野山岳会によって再建。どこかの郷土史で「江戸末期の安政5(1858)年3月、松浦武四郎は幕命を受け石狩詰の役人、飯田豊之助を従えを旭川から美瑛川筋を上り、上富良野~原始ヶ原を通過し空知川水源を越え十勝へと抜ける壮大な調査を行ったが、その時に十勝岳の大噴火に遭遇したと書いてあるのを見た記憶がある(上富良野町史?)。武四郎の安政4年の記録「石狩日誌」に“真っ黒い大噴煙が天に届くような勢いで噴き上がっている”とあるのが、十勝越えの途中に関しては十勝日誌や戊午日誌に噴火と遭遇した事を思わせるような記載はみられなかった。この十勝越えは「十勝日誌」に記されている。
◇富良野市原始が原 ◇標高 1040m N43°21’55” E142°37’06”

松浦武四郎顕彰之碑石碑 上富良野町 map

上富良野町深山峠

上富良野町の観光スポットである深山峠の観覧車のほぼ正面でやや高くなった所に碑は有る。昭和48年10月に建立、平成9年に建替え修復されているが、ここで働いている人でも武四郎の碑があることを知っている方は少ない。顕彰之碑の横に立つと以前は十勝連山がよく見えたが、観光用の観覧車が出来てその景観は望むべくもない。安政五年幕府の命を受け和人ではじめて上富良野を越えて十勝に向かった。この地から戊午日誌では“此処より辰巳(東南)の方にチクベツ岳ビエベツ岳等よく見え硫黄の燃る煙実に目ざましく天にさし上げたり”とある。石狩日誌では(安政4年5月23日)“真っ黒い大噴煙が天に届くような勢いで噴き上がっている”と。十勝岳の火山活動が活発だったようだ。◇上富良野町深山峠 ◇標高 306m N43°31’05.3” E142°26’55.5”

空知大滝 宿営地芦別市 map

芦別市滝里

空知大滝には野花南大橋を渡ってから右折し滝里ダム管理所に進み、最初の橋を越え次の大滝橋手前で空知大滝の看板で左折し坂道を下り、橋の下を抜け突き当たりの広場から見える。空知発祥の地となった空知大滝は武四郎の「石狩日誌」によると「此上十弐條斗併びし瀑布の何れも高二丈三丈、幅は二尺三車尺よろ一丈余まで有を見たり」と絵図付きで記録に残している。これから推察すると当時は9m12条の滝であった様で、so-rapchi-pet 滝がごちゃごちゃ落ちていると云う言葉通りなのだが、今では上流に滝里ダムと金山ダムという二つの巨大ダムがあり水量は激減し当時の面影はないが、増水時やダムの放水時は往時を偲ばせる景観を見ることも。武四郎一行は5月19日に空知大滝東側の広い岩盤上で野宿したとも書いている。またここまで来る途中で川獺を三匹捕った、川獺が食べ残した鱒を拾ったなどの記載があった。
◇芦別市滝里 滝見台 ◇標高 134m N43°26’20” E142°16’58”

松浦武四郎探険記念碑芦別市 map

芦別市野花南町

安政4年の宿営地に「松浦武四郎探険来宿百二十年を記念して」昭和52年10月に芦別市が標柱を設置している。芦別市街から野花南湖を越えて滝里方面に進み、空知川を渡る野花南大橋を越えた左側に、今は通行出来ない旧道が有る。入り口は半分土盛りされているが野花南大橋の際から旧道を徒歩で少し進むと標柱が見える。入り口に駐車スペースは無い。松浦武四郎は安政4(1857)年に空知川を調査し、その記録を丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌と石狩日誌に残しているが、石狩日誌によると5月18日「ビラウトル、ナヱ七ッ過チヘアケと云に到て宿す」となっており、チヘアケで宿営している。また石狩日誌では「石炭は崩れて一面黒く成りたり」など石炭に関する記録も有るが、赤平市の独歩園近くで歌志内へ行く交差点から空知川に降り、川岸の露頭に沿って川下に50m程歩くと砂岩層に続いて石炭層が見えます。厚さは30cmから最大は4m近いのまで有る。ただ空知川の水量が少ない時だけにしましょう、水の多いときは住友河畔広場の上流左岸側に一部露頭している石炭層が見られます。対岸より見る事になるので双眼鏡が有ると便利、車止めから徒歩10分、草が伸びる前が良い、広場の遊歩道に露頭の案内板が有る。一応ライマンの発見と云う事になっている様ですがライマンは武四郎の地図を貶していたのに、いつも武四郎の地図を持ち歩いていたと云う。プロは本物の価値を認めていたと云う事か・・
◇芦別市野花南町 ◇標高 113m N43°28’13” E142°16’17”

松浦武四郎宿営地跡トック 新十津川町 map

新十津川町中央町71-7

新十津川町から滝川市に抜ける国道451線と国道275線の分岐点となっている十字路で金滴酒造と道を挟んだところに碑が有る。金滴酒造の前とあって駐車スペースも有る。☆武四郎は安政4年5月15、19、22日と翌年の安政5年2月29日にトツクの乙名セツカウシ家で宿泊したことを記録に残している。特に安政5年の蝦夷地探査ではかなり運上屋からの巧妙な妨害工作があった様だが、それを切り抜けての上川紀行であった。それだけ上川には運上屋には武四郎に知られては困ることが有ったと云う事だ。標柱がある金滴酒造前は同行の案内人の一人セツカウシの家があった宿泊地であり、トックについても記録に残されている。◇新十津川町中央町71-7 金滴酒造前
◇標高 25m N43°41’17.9” E141°53’33.1”

松浦武四郎歌碑十津川町 map

新十津川町中央

「新十津川物語」の舞台となった地にある開拓記念館は新十津川中央公園内に有り煉瓦造りで洋風の雰囲気がある。その記念館前庭に新十津川短歌会が建立した松浦武四郎歌碑があります。☆歌碑は武四郎が安政4年旧暦5月15日にこの地を訪れ徳富川河口に泊まった時に詠んだ歌“日数経て突区の里に来て見ればここもかはらぬ芦ぶきの宿”(石狩日誌)が刻まれている。突区はトックの事で徳富川と石狩川の合流部を指し、かってこの地は「トックプト」と呼ばれていた。記念館には武四郎に関する資料も展示有り。◇新十津川町中央 新十津川町開拓記念館前
◇標高 26m N43°32’49.2” E141°53’06.4”

史蹟 松浦武四郎踏査の地空知太 砂川市 map

砂川市空知太239番地

国道12号線空知川大橋の手前を左に入りJR線路の下を通り抜けて工業団地用地の河川敷高台にある。別ルートは国道12号線の北七号線(パーラー太陽の看板有り)から左折しグリーンプラザくるくるに進む。グリーンプラザの突き当たりを右折するとまもなく左側に小高い丘がありそこに碑が有る。地形図では三角点の印がある所。大きな碑でその裏面に説明文が刻まれている、ここではその全文を転載しておく
☆『松浦武四郎は文政元年二月六日伊勢の国一志郡須川村に生まれた。性闊達にして大志あり。弘化二年蝦夷地及び樺太を探検して北方の開拓と防備の急を説いた。安政元年 樺太境界の事について幕府に建白し、二年蝦夷地大地図と三航蝦夷日誌を献じ、三年蝦夷山川地理取調御用掛に任じて、道路開設の調査に当たり、全土を跋歩して樺太に渡り、つぶさに状況を復命し更に札幌付近に大府を置くべきを建議した。六年 職を辞し専ら蝦夷地に関する地図記録等の著述に没頭したが、明治維新後推挙せらされ函館府判事に任じ累進して開拓使判官となり、三年三月辞任した。在官中蝦夷全図に画線を施し、十一国八十六郡の境界を査定して、道名国名郡名を選定したが その大部分が採用された。二年八月蝦夷地が北海道と改められたのはその建議によるものである。明治二十一年二月十日七十一才で歿した。北海道に地図記録等の著書二百種を越え本道開拓に寄与せられた業績は図り知ることができない。安政四年の踏査に当り空知太に立ち寄られたのは和人にしてわが砂川に足跡を印した最初の人と思われる。ここに記念の碑を建てて不朽の功績を仰ぎ史蹟として広く世に伝えんとする所以である。
松浦武四郎の石狩日誌抄録
安政丁巳(安政四年 四十才の時)トミハセ セツカウシ ニホウンデ アイラカケ四人を水夫として五月十五日朝ウラシナイを発しキナウシナイ チヤシナイ等を過ぐるところ ウツカ(はや瀬)の有けるにはか取がたく八つ過ぎ(午後二時頃)ソラチブトに行(ウラシナイより六里)此の川第二の支流なり 源はトカチ岳より来たり 過て十八丁 トツクフト是第六の支流也
“日かず経て トツクの里に 来てみれば ここも変わらぬ 芦ぶきの宿”
昭和三十九年九月建立
砂川市
砂川郷土研究会 分並書 砂川市公民館長 玉田 秀雄』
◇砂川市空知太239番地(空知川堤防松浦台)
◇標高 56m N43°31’49.5” E141°54’21.2”

松浦武四郎止宿の場カバト説明板 浦臼町 map

浦臼町晩鶴沼

道の駅鶴沼から国道275線を新十津川方面に進み於札内川にかかる樺戸橋の手前で右折、そのまま突き当たりまで進んで右折するとまもなく右側に浦臼町文化保存会設置の説明板が有ります。☆ここには「上カバトと下カバトの境 松浦武四郎(安政4年5月21日 陽暦1857年6月12日)止宿の場」と書かれた説明板があるだけ、視点は宿泊地の事実だけを記したもので強制使役等によるアイヌ民族の惨状などには一切触れていない。安政4年5月19日に石狩運上屋を出立した武四郎一行は5月21日にここで宿営している。「カバト川口向に至り露宿した。ツイシカリからこの川口までが下カバト場所で帳面には十件31人とあるが今は一軒もない。この川口からウリウ川口までを上カバトといい24軒101人と人別帳にあるが、4軒が住むばかりである」と記す。
◇浦臼町晩鶴沼 ◇標高 19m N43°16’55.1” E141°40’41.1”

松浦武四郎上陸地樺戸連山スケッチ 浦臼町 map

樺戸連山スケッチ

晩生内(おそきない)コミュニティーセンタの所から三軒屋に向かうと左側の農道際に、松浦武四郎が三軒屋に上陸し記録に残した樺戸連山のスケッチを載せた浦臼町設置の史跡表示板がある。松浦武四郎の記録を見るとこの辺は石狩川が大きく蛇行していたところですが、度重なる石狩川の大氾濫で三日月湖になって残ったのが今の三軒屋沼(西沼・東沼)ようです。西沼際にある「田園空間博物館」の説明看板では浦臼は自然形成的な三日月湖が多いとあった。川岸の崖上の平地、大曲や袋地という地形の所をノタップ言うようですが、三軒屋の場合は高さがあったのでリイノタフなんでしょう。 ◊所在地:浦臼町晩生内 ◊GPS:N43°39’27.55”  E141°77’75.29”

浦臼町郷土資料館ヌプシャ越えの図 浦臼町 map

浦臼町の郷土資料館の壁に松浦武四郎の「西蝦夷日誌」原著の中に描かれた「ヌプシャ越え」の絵を拡大し掲示してある。☆日誌には「余と立石は鍋一枚づゝを背負、8人の者は石狩の山蝦夷なれば、其背高く髭髯掩胸て、弓箭を杖とし、昨夜得たる1頭の熊を荷はせ、各々狐・獺・兎を肩にし出しは、驚かぬ者ぞなかりける。」と、また「若他日蝦夷開拓の事有て、石狩山中に手を入んと欲するの士あらば、此處を第一に切開きて糧道とし、又峠より右に下り、樺戸の方え道を切、津石狩・サツポロに路を取らば、其益また少なからず。」と。◇浦臼町字浦臼183-21 ◇N43°25’41” E141°25’41”

松浦武四郎の碑・説明板・関連ギャラリー

松浦武四郎宿泊の地・雨竜町松浦武四郎宿泊の地・説明板新十津川町中央新十津川町中央 金滴酒造前新十津川町中央 新十津川町開拓記念館前砂川市空知太239番地-02
芦別市野花南町樺戸連山スケッチ浦臼町晩鶴沼-02現代語訳「石狩日誌」挿画・愛別現代語訳「石狩日誌」挿画・雨竜現代語訳「石狩日誌」挿画・芦別
武四郎街道上富良野町深山峠松浦武四郎紀行足跡之碑千歳サーモン橋書籍間宮林蔵胸像鬼鹿・武四郎象厚田発祥の地碑
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