松浦武四郎の碑を巡る
釧路地方にある松浦武四郎の碑や説明板など‼

松浦武四郎歌碑屈斜路古丹 弟子屈町 MAP

弟子屈町・屈斜路古丹

屈斜路湖畔で有名な露天風呂(コタン温泉)の近く、アイヌ民俗資料館前に松浦武四郎の歌碑がある。松浦武四郎は安政5年4月10日、和人ではじめて屈斜路湖入りし、久摺日誌(丸山道子現代語訳)に「クッチャロについた。ここがこの湖の落ち口である。人家が二軒有って、それから川を東岸に越えるとまた七軒の人家が有った。この辺りの家々は、“湖水に枕して家居す”の言葉通りに、風景がまことに素晴らしい」と記す。翌日は船を雇て湖中見物、東岸を廻りその時に詠った一首 “汐ならぬ 久寿里の湖に舟うけて 身も若がへる ここちこそすれ” が刻まれている。
◇弟子屈町字屈斜路古丹 ◇N43°33’52” E144°20’30”

アイヌ民俗資料館屈斜路古丹 弟子屈町 MAP

弟子屈町・アイヌ民俗資料館

昔からアイヌの人々が暮らしていた屈斜路湖畔のコタンに建つ前衛的な外観の建物。かつて松浦武四郎が安政5年に此地に訪れた時にはここで七軒のアイヌが暮らしていた。展示物はユーカラの森、コタンの大地、コタンの移り変り、山野を駆ける、コタンを支える人々の5つのテーマからなり、マルチスコープの上映もあります。また松浦武四郎の紹介と日誌や地図を目立つ所に展示。
◇弟子屈町屈斜路古丹 TEL:0154-84-2128 N43°33’52” E144°20’30”

オヤコツ地獄和琴半島 弟子屈町 MAP

オヤコツ地獄

和琴半島の溶岩ドームはオヤコツ溶岩円頂丘と呼ばれ、安政5年に当地を訪れた松浦武四郎の日誌では岸から火が赤く見えたとある。北端のオヤコツ地獄には噴気孔群あり今も火山活動が続いていて、自然観察路途中の展望台がら見下ろす事が出来る。展望台から滑りやすい粘土質の斜面を下って湖岸に降りると崖の数カ所からにシューと噴気を吹き上げ湧出口は多いが、湯の湧出量はそれ程多くない。夏場は高温の蒸気を利用して温泉卵がつくれるかもしれない。移動はカヌーあるいは自然観察路で。◇弟子屈町字屈斜路和琴 和琴半島

松浦武四郎歌碑池の湯 弟子屈町 MAP

弟子屈町池の湯

歌碑は野湯マニアには結構有名な池の湯右奥の松屋旅館敷地内に有り、草が伸びると温泉から歌碑は見えないかも。屈斜路湖を訪れた時の状況は屈斜路古丹の所に書いてあるので省略。翌日の4月11日に小舟で東岸を見て回り船上から見た温泉を詠んでいる。久摺日誌(丸山道子現代語訳)から「湖の東側の温泉セセカについた。これは岸に巾20間ほどの池になっておりそこは岩盤で、その間から温泉が噴き出していた。・・中略・・ど水乞鳥が一羽来ていたので“あの鳥の名は・・・”と聞くと“ヲユユケ”(アカショウビンの事・・)と言うそうでよく見かける鳥だそうである。」この水鳥を見て詠んだ“久寿里の湖 岸のいで湯やあつからん 水乞鳥の 水こふて鳴く”が刻まれている。
◇弟子屈町池の湯 ◇標高 122m N43°36’01” E144°20’55”

久摺日誌を読んでの碑春木南華 弟子屈町 MAP

摩周湖

碑は摩周湖第一展望台の左高台(外輪山中)に有るのだが、2010年の再訪時は残念ながら地震で碑文が刻まれた面を下にして歌碑が倒壊、土台部分が破壊されただけなのだが碑文は見えないのは残念。物が物だけに重機でないと修復は難しいとの事だった。春木南華は武四郎のスケッチを元に最後の清書をした絵師で1818年生まれ。松浦武四郎とは同年代で仕事上、松浦武四郎の記録は読んでいた事は極めて自然、「松浦武四郎著の久摺日誌を読んでの碑」というのも頷けます。
写真は石碑の倒壊している所から摩周湖を撮影したものです。
“讀多気志樓主人久摺日誌 南華稿”
“七里澄湖擁絳巒 摩周山時勢龍蟠 洞熊欲吼斜陽際 讀到那邊膽気寒“
◇弟子屈町 摩周湖第一展望台左上 ◇標高 555m N144°33’26” E144°30’24”

武四郎の浜摩周湖岸 弟子屈町 MAP

武四郎一行は安政5年4月6日に清里町清泉から清里峠を越え、ケネカ川源流から摩周の外輪山に登り反時計回りに外輪山をほぼ一周。ヨロウシと呼ばれた所から摩周湖畔に下りホロと呼ばれた大洞窟に一泊、翌日は西別岳を通り西別川上流のコトンナイに抜けた。久摺日誌で湖畔に下る様子を「左の方湖辺を指して下る(凡八丁)。是神岳の東の方なり。ヨロウシと云るなり。此処神岳の山根高数千仞掌を立し如く、木幣を作り立て拝す。小の磯は岸皆赭石の礁たるなり。依て其水辺浅き所は血を流せしが如し(三丁)。行てホロとて大岩窟の高さ一丈に巾弐丈も有、入る事五六間にて又内広く二ッに分れ其奥に幽邃にして知り難し。是を雌雄の神と云」と記している。また洞窟の壁は赤い岩で衣服などは擦れると赤く染まると、洞窟はアイヌ達の猟小屋として利用されていたが、地震で崩壊し埋まってしまった、現在は立ち入り厳禁区域。
◇摩周湖湖岸 ◇標高 352m N43°34’48” E144°34’08”

松浦武四郎漢詩碑阿寒湖畔 釧路市 MAP

釧路市・阿寒湖畔

ビジターセンターからボッケに向かって進むと坂を下った右側にある。安政5年3月に阿寒湖畔を訪れており、久摺日誌のなかで阿寒の豊かな自然を記している。阿寒湖畔にある歌碑には珍しく漢詩が刻まれている。“水面風収夕照間 小舟欅棹沿崖還 忽落銀峯千仭影 是吾昨日所攀山” 武四郎の漢詩の歌碑は阿寒以外では他に知らないが、北村の開拓記念碑の書き出しは武四郎が詠んだ漢詩で始まっていた。ここでは釧路らしく啄木の歌碑も有る散策コースになっている。
◇釧路市阿寒町 阿寒湖畔ボッケ遊歩道 ◇標高 439m N43°26’07” E144°06’04”

松浦武四郎歌碑阿寒滝見橋 釧路市 MAP

釧路市・雄阿寒岳登山口の碑

阿寒湖温泉から弟子屈、釧路方面に少し走り、阿寒湖から流れ出る阿寒川にかかる滝見橋の近く、雄阿寒岳登山口に碑がある。碑には「いつまでも ながめは盡じ あかぬ山妹背の中に 落る瀧津瀬」と刻まれています。久摺日誌には“3月28日 快晴 アカン滝を見に行こうと考えていると、首長のエコレがもう湖畔で小舟にさおさして私を待っていた。・・中略・・滝は那智の滝に似ていて、華厳の滝の何倍も有りそうである”と記されており滝見橋の滝は今の滝とは比較できないほどの大きな滝だったようです。◇釧路市阿寒町滝見橋付近 雄阿寒岳登山口
◇標高 423m N43°25’52” E144°08’09”

松浦武四郎蝦夷地探検像幣舞公園 釧路市 MAP

釧路市幣舞公園

松浦武四郎の像は小平町、天塩町、釧路市の三箇所に有るが幣舞公園のが一番古い。元々松前藩の知領であり請負場所が設けられ運上屋が置かれていたが、幕末には幕府直轄となり久寿里会所となる。それはここでも程度の差はあれども例外なくアイヌに対する抑圧と迫害、収奪が有った事を意味する。会所は請負場所の現地施設に行政機能を足したような施設で有るが、その任務は国防に関する事とアイヌの撫育・教導であり、アイヌの強制的な使役に対して特別な抑止機能は殆ど無いに等しい。釧路発展に米屋(佐野)一族の果たした役割は認めるが、少なくともアイヌ民族の苦難に満ちた犠牲がその背景にあって成り立っていたともいえよう。運上屋の城下町である釧路に和人でただ一人アイヌの養護した松浦武四郎の像が有ると言うのは意外な印象だ。幣舞公園にはエカシが指差す阿寒地方を見る松浦武四郎の像は釧路川上流を調査した安政5年から百年を記念して阿寒国立公園観光協会が有志の寄付をもとに建立された。碑文をよむと、武四郎が阿寒の地を調査し景勝を紹介した功績をたたえ、阿寒国立公園の父として顕彰している。是が当時の松浦武四郎に対する一般的な評価であったのであろう。
◇釧路市幣舞公園 ◇N42°59’38” E144°23’17”

久寿里会所跡の碑佐野碑園 MAP

久寿里会所跡

江戸時代にクスリ(久寿里)と呼ばれていた場所は松前藩主直領で、安永3(1774)年に飛騨屋久兵衛が絵鞆・厚岸・霧多布・国後場所を請負い、安永4(1775)年に宗谷場所も請負うが、この頃に釧路場所も請負ったと考えられている。飛騨屋のアイヌ酷使による場所経営が寛政元(1789)年のクナシ・メナシの戦いの原因となったとされ飛騨屋は罷免、寛政3(1791)年より大黒屋茂右衛門の請負になる。寛政11(1799)年に東蝦夷地は幕府直轄地となり場所請負制は廃止され「運上屋」は「会所」と改称される。会所は幕府の行政機関となるが、漁場の経営や交易のほか旅宿所としての機能も有った。享和2(1802)年頃に白糠場所が釧路場所に編入され、旧白糠会所は番屋となる。文化9(1812)年に幕府はそれまでの直轄を廃して場所請負制に戻し、川内屋長十郎、近江屋九十郎が釧路場所請負人となるが、会所の呼称はそのまま使用された。文政5(1822)年に新潟県寺泊出身の米屋儀兵衛(二代目米屋孫右衛門)が釧路場所請負人となり、以後は代変わりはあるが場所請負制廃止の明治2年まで米屋の独占場所だった。明治に場所請負制が廃止となるも漁場持という名で実質温存され最終的には明治9年に廃止された。久寿里会所跡は会所が置かれていた跡で佐野氏紀功碑、久寿里会所跡の碑、石川啄木歌碑などがあり佐野碑園と呼ばれている。◇所在地:釧路市南大通8丁目2

松浦郵便局風景印蝦夷地探検像 釧路市 MAP

松浦郵便局

松浦町松浦町は松浦公園、松浦通り、松浦橋、松浦郵便局と、ここではなんでも松浦である。松浦郵便局には弊舞公園にある松浦武四郎蝦夷地探検像の記念スタンプスタンプ(写真の絵柄)が有る。使用開始は平成10年10月10日。付け加えると松浦武四郎は釧路市の名付け親でもある。武四郎が釧路に足跡を印したのは弘化2年、安政3年、安政5年の三度であり、久摺日誌、蝦夷日誌、竹四郎廻浦日誌、戊午日誌の中で当時の状況を克明に書き記している。その中にあった一文を見て「松浦武四郎は不毛の久寿里場所即ち此町の如き泥炭地たりとも東蝦夷地第一の都会たるべしと絶叫したるは超達見として敬意を表すべきである此の因縁を記念の意味に於て松浦町」と武四郎の達見に敬意を表すため昭和7年に西幣舞とよばれる町名の一部を改め松浦町としたと云う。発案したのは釧路市会議町の佐々木米太郎氏とのこと。当時の釧路における松浦武四郎爺に対する評価の尺度は現在とは凡そ違っているが、当時の松浦武四郎への一般的な評価であった様だ。
◇釧路市松浦町 ◇N42°59’38” E144°23’17”

石川啄木像と港文館釧路市 MAP

釧路市04

港文館は佐野碑園に近い所にあり、レンガ造り風の旧釧路新聞社を復元した建物で脇に港文館由来記有る。石川啄木が記者として勤めていた復元された旧釧路新聞社の建物の1階には喫茶コーナーと当時の資料がある。2階が啄木と釧路新聞社に関する郷土資料の展示室になっている。港文館の右側に幸町公園から移された啄木の銅像が旧釧路川を背景にして立っている。ここには「釧路会所の図」を展示しているが本物は非公開。◇釧路市大町2-1-12 TEL:0154-42-5584

白糠運上屋跡白糠町 MAP

白糠運上屋跡

元々は独立した場所のようで1786(天明6)年頃には2カ所の運上屋があり、白糠運上屋は元々は音別の方にあったと云うが波が高く不便だった為に白糠に移設されたらしい。寛政13年頃の場所請負人は大和屋惣次郎というが、享和2(1802)年に白糠場所は釧路場所に編入され、旧会所は釧路場所の番屋となったという。些細な事は判らないが松浦武四郎は弘化二年(推定)と安政三年、安政五年に白糠で宿泊しているようです。釧路は運上屋の城下町という感じですが、白糠は会所だった頃からの気概と伝統があり釧路とは違うようてす。武四郎の記録によると享和の頃は300人以上も有った人口が安政の頃には120人前後に減少、ここからアイヌ民族がいかに厳しい環境に置かれていたかを想像できると思います。◇現住所:白糠町東3条南1丁目1-21

松浦武四郎の碑・説明板・関連ギャラリー

摩周湖第1展望台付近弟子屈町字屈斜路古丹-02現代語訳「久摺日誌」の挿画・清里町弟子屈町池の湯弟子屈町屈斜路コタン02弟子屈町屈斜路湖・池の湯02松浦武四郎碑・新ひだか町松浦武四郎碑・白老町室蘭地名発祥の坂武四郎坂・洞爺湖町山越内関所跡太田山大権現・せたな町-02太田山大権現・せたな町-03比羅夫像
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