日高東部を巡る旅‼
日高・大平洋ライン-ぐるっとプチ旅‼

新ひだか、様似、浦河、えりもを巡る‼

アイヌ民族資料館新ひだか町 MAP

アイヌ民族資料館

静内の真歌公園にシャクシャイン記念館とアイヌ民族資料館とがある。資料館はアイヌ文化の伝承と理解を目的に1982年に開設され、アイヌの人々の暮らしを再現した実物大家屋や、彼らが使用していた民具、衣類、さらに外洋船の復元模型「イタオマチプ」、ヒグマやエゾシカの剥製などを展示している。その中で神送りに使われたというエゾオオカミの頭蓋骨があるが、これは日本でここだけという貴重なもので新ひだか町の文化財となっている。北海道にはアイヌ民族の資料館が多数存在するが、無料で入館できる施設は少ない。公園内にはアイヌ野草園やシャクシャイン像、シベチャリのチャシ跡がある。◇所在地:新ひだか町静内町真歌

シャクシャイン城砦跡新ひだか町 MAP

シャクシャイン城砦跡

真歌公園内にあるチャシ跡。寛文9年のシャクシャインの戦いの拠点として知られて「シャクシャインのチャシ」とも云うが普通はシベチャリチャシ跡と呼ばれる。チャシは複数の堀で囲っている事が多いが、ここは深い堀が1本有るだけで意外でした。◇所在地:新ひだか町静内町真歌

戸長役場跡新ひだか町

戸長役場跡

明治13年に設置された静内、新冠両郡の戸長役場跡。静内市外地にある北洋銀行建物の壁面に戸長役場のレリーフが埋め込まれている。明治時代には建物の位置に戸長役場があった。三石設置された日高最初の戸長役場跡碑の有無は不明。◇所在地:新ひだか町静内御幸町

東静内漁場跡の碑新ひだか町 MAP

東静内漁場跡の碑

場所請負人の漁場があり倉庫や番屋が立ち並んでいた所で明治4年、静内に移住した旧稲田家臣団はこれらの建物を仮の宿とし、国元から携帯してきた衣類・夜具をはじめ、家財道具などを漁場倉庫に保管していたが、火災のため焼失するという災禍に遭う。その落胆と焦燥は想像を超えるものがある。碑は国道235号線沿い海側、静内会所跡に近い所にある。◇所在地:新ひだか町東静内

開拓者集団(稲田藩)上陸記念碑新ひだか町 MAP

開拓者集団上陸記念碑

徳島藩主は蜂須賀家で稲田家は蜂須賀家の家老。明治3年に藩籍奉還が元で起こった庚午事変の結果、新政府は喧嘩両成敗とでもいうべき処置で、北海道静内郡と色丹島の開拓を命じられた稲田邦植と総勢137戸、546人の旧家臣の人々は明治4年、大阪丸、大有丸、鍋焼丸の三隻に米麦、農具、家具などを満載し洲本港を出発、同年5月2日に当地地へ上陸した。石碑は船の形を表し、直径15センチほどにくり抜かれた丸い穴のあいたデザインで静内町百年記念事業で設置された。目名には稲田家屋敷跡がある。◇所在地:新ひだか町春立538

高田屋嘉兵衛翁之碑新ひだか町 MAP

高田屋嘉兵衛翁之碑

高田屋嘉兵衛は択捉航路を開き千島周辺に新たな漁場を設けるなど、北方の海の開拓者として活躍した。高田屋嘉兵衛の碑は嘉兵衛の遺徳を偲び1927年に三石小学校前に建立されたのを三石海浜公園内に移設したもの。新ひだか町に移住した稲田家と同じ洲本出身というのも因縁めいている。函館の高田通りと根室の金刀比羅神社に高田屋嘉兵衛翁の銅像があります。回船業や請負人で道内に銅像があるのはこの人くらいでしょう。◇所在地:新ひだか町三石鳧舞

様似郷土館様似町

様似郷土館

日高管内最初の歴史資料館です。館内には、縄文式土器などの出土品やアイヌ民族の儀式道具、開拓時代の生活用品などを展示、なかでも蝦夷三官寺・等澍院古文書や矢本家文書は資料は貴重なものです。個人的には幌満駅逓所で使用された貴重な備品が気になりました。様似山道越に江戸期は会所が、明治以降は駅逓が重要な役割を果たしました。◇所在地:様似町会所町1

様似会所跡様似町

様似会所跡

 幕府は諸外国との関係が緊張したことで1799(寛政11)年に東蝦夷地を直轄とし、様似山道を完成させその翌年に油駒運上屋をシャマニ会所と改めた。幕府は1821(文政4)年に蝦夷地の大半を松前藩へと返却したが、1855(安政2)年には再び幕府直轄としている。文化10年以降は駅逓業務も請負制になり、会所(運上屋)が人馬継立、継立馬の飼育、旅籠屋の業務を担った。安政2年に函館奉行が東西蝦夷地への妻子同伴を可としたので妻子を伴って赴任する役人も増え、峠を控えた会所では婦女子の山越用に山駕籠を用意し人足が配置されていた。様似最後の場所請負人、漁場持は万屋(佐野)専左衛門(シツナイ、ウラカワも同様)でした。◇所在地:様似町会所町1

等澍院と観音山様似町

等澍院・護摩堂

江戸幕府は享和2(1802)年に蝦夷地入りしている和人の宗教行事の執行、宗教政策としてアイヌ民族のと教化と宗門改め、キリスト教の侵入防止やアイヌ民族の親ロシア化対策などのため蝦夷地に5寺院の建立を決定、先だって有珠、様似、厚岸の3カ所に建立を決めた。等澍院は1811(文化8)年に護摩堂を建立するも、官寺故に檀家制度が貧弱で明治維新後に一時廃寺となる。等澍院再興のため様似に来ていた塚田順田氏はアイヌ語でソピラヌプリ(現・観音山)と呼ばれた円山の山頂近くに、信者からの寄進により西国33札所にならい33体の観音石像を建立、等澍院も明治30(1897)年に再興、カシワの古木が御神木となり観音山と呼ばれるようになった由来でもある。災害や国道建設などにより何度かの移転改築があり、かつての面影を残しているのは護摩堂だけという。等澍院の古文書や百万遍念珠箱がなどが平成17年に国の重要文化財指定、聖観世音菩薩像や薬師如来三尊仏像は様似町指定文化財となっている。◇所在地:様似町潮見台

カムイチャシ記念碑様似町

カムイチャシ記念碑

等澍院裏の台地は観音山はチャシとしての自然条件は揃っているも、チャシと即断出来るような遺構はみられず。カムイの名のつくチャシには多いような印象があるが、チャシを舞台にした伝説は多い。ジオパークの説明板に変わっているので、旧カムイチャシ記念碑の説明板より転載
「カムイチャシ記念碑 大昔、約一千年以上前、トカチアイヌの掠奪軍が攻め込んできて、破竹の勢いで日高アイヌをたたき伏せ、さらに進んで勝ちほこった余勢をかって、ただひともみにとシャマニアイヌも攻めた。シャマニ側では、ソビラヌプリ(観音山)に陣地を構え、これを防ぎ死力を尽くして戦ったので、さすがのトカチ軍もどうすることもできず何日も何日も勝敗が決まらず日を重ねた。そのうちに、シャマニ軍の方にいくらか暗い影が見えてきたので、彼らはソビラヌプリの彼方のウンベツ(海辺川)を渡り、川の向かいの山手の下に鯨形の砂山を一夜のうちに作り上げてこれに拠った。トカチ軍は、これをみてフンペ(鯨)は海の王様だ、これに弓を引くことはできないと無条件で仲直りを申し込んだので事なくすんだ。今に残るホタフンペ(砂鯨)はこうして作られたものである。北海道ウタリ協会様似支部」※これらの話は松浦武四郎の蝦夷日誌や廻補日誌などにもあり、これとは異なる伝承2話が宇田川洋著「アイヌ伝承と砦(チャシ)」に掲載されている。◇所在地:様似町本町2丁目

観音山公園展望台様似町

観音山公園展望台

等澍院の裏山になる観音山公園には2階建の展望台があり眼下には様似の町並みや様似漁港とゾビラ岩、少し離れてローソク岩、親子岩、エンルム岬がみえるが左右の視界はそれほど広くはない。展望台に案内マップがあり見える風景を確認出来るのは便利です。車で行けるが車道は狭く交差は困難、駐車スペースはカムイチャシ記念碑の所にあるだけです。◇所在地:様似町潮見台2

観音山のカシワ様似町

観音山のカシワ

明治28(1895)年に等澍院の塚田順田氏が三十三観世音の石像を安置した標高101mの観音山頂上付近にあり、樹齢400年以上といわれるカシワで巨大な盆栽を想わせる風格。直径116cm、樹高12mで昭和48(1973)年に北海道記念保護樹木に指定されている。◇所在地:様似町潮見台2

キリシタナイ様似町

異教徒を取り締まる蝦夷三官時のお膝元にあったキリシタナイ。寛永12(1635)年に海辺川支流(ホロナイ沢)で金鉱を発見、幕府直轄の金鉱山が開発され、海辺川河口付近が当時は様似の中心地だったという。また採掘作業で暮らしている人々の中に隠れキリシタンがいて、天草の乱を生き延びたという児玉喜左衛門が生保元(1664)年に幕府に捕まり江戸に送られ処刑された。隠れキリシタンの居住地であった場所がキリシタンナイの由来と云えそう。松浦武四郎の三航蝦夷日誌(弘化)ではキリイカシナイとあり満潮時の迂回路で松浦武四郎も通過しているが、廻補日誌(安政)はキリシタンナイ?で地名が変わっているようにも受けとれ、蝦夷語地名解ではキリシタンナイ。東蝦夷日誌には「キリシタン。本名キリイカシと云ふ。また切支丹宗の昔有しともいふ。是より満潮の時は山道あり」と記した。元々は迂回路の名で、kir-ika-us-i(山?・越え・ている・処)のようだが、発音が似ている為か日本語のキリシタンと入れ替わり、さらに地図への登録ミスで「ン」が抜けキリシタナイになった?。◇所在地:様似町西町

ローソク岩とフンベエト様似町

ローソク岩とフンベエト

塩釜の名は近くに製塩所があったことに由来するというが、古い松浦地図ではロウソクイシの横にフンベエトとある。伝説では「巨神が落とした焼串がローソク岩でトンネル背後の丘は巨神が尻もちをついた跡であるある」と、塩釜の岬は鯨でそれを焼いた串がローソク岩、尻跡の窪みらしい地形もあり西様似には鯨を意味する海辺(フンベの音訳)川や小山もある。鯨の伝説に関する舞台は整っているようです。ローソク岩はもっと高かったが十勝沖地震で先端部が崩落したという、元々は串に例えられるような形の岩だったのでしょう。◇所在地:様似町塩釜

親子岩様似町

親子岩

様似市街の西端ある親子岩ふれ愛ビーチキャンプ場の洋上浮かんでいる3つの岩で、伝説もいくつか有るようです。ビーチから桟橋のように海に伸びた展望台から見る親子岩が良さそうで様似八景という。観音山の展望台からもよく見えます。◇所在地:様似町西町

ソビラ岩様似町

ソビラ岩

松浦武四郎の東蝦夷日誌に「ソウビラ、大岩峨々、是に一條の瀧有、下は平磯」とあり元々は観音山海側の大きな崖の事だった。様似漁港内にたたずむソビラ岩はソピラレプンケで海(沖)にあるソピラといい陸と沖が対になっていたようです。岩の形から烏帽子岩とも呼ばれ、親子岩と併せて「父と母子の岩」という伝説もあるという。◇所在地:様似町港町

エンルム岬様似町

エンルム岬

太平洋に突き出たエンルムはアイヌ語で「尖り頭」という意味と、度重なる地震でぐずれ今では文字通り尖り頭の岬だが、その前はチャシとして機能する広さがあったという。高さ70mの小高い岩山で、途中まではダートの急坂を登ると広場があり説明碑がある。そこから急な180段以上の階段を登ると視界180度の展望台で「エンルムチャシ跡」の標柱が立っている。松浦武四郎の東蝦夷日誌に「遠見番所」とあるがアイヌ語で「インカルシ」と呼ばれた見張り場だった。高所恐怖症の方とカモメの子育期は要注意かも。◇所在地:様似町会所町

冬島(フユシマ)の穴岩様似町 MAP

冬島の穴岩

冬島の奇岩、冬島はアイヌ語のプュシシュマ、プュ(穴)シュマ(岩)で穴岩のこと、冬島の字をあてた。明治30年頃迄は満潮時に昆布漁船が穴岩を往来していた。もっと古くは松浦武四郎の東蝦夷日誌に「此処に大なる石門有。往来の者是を潜り行也」と、江戸時代は通路だった。陸側の浸食が進んでいるようだが、港湾工事で今の穴岩は陸地になっている。 ◇所在地:様似町冬島 冬島漁港

日高耶馬渓様似町

日高耶馬渓

冬島の穴岩から幌満川河口までの間(約6km)の海岸線を、長い年月をかけて侵食しできた絶景が日高耶馬渓。核心部は山中トンネルと幌満トンネルの区間だが、旧道は崩落などで立ち入り禁止なので見られる所は少ないが、様似側の山中と幌満川河口の旧道入り口付近で其の一端を見ることが出来る。山中トンネルの様似側で旧道入口に駐車スペースがある。◇所在地:様似町山中

幌満の風景様似町

幌満の風景2

幌満のトンネルのえりも側は幌満川で垂直に切り立った断崖になり河口部に新旧3ヶ所のトンネルが見える。また河口部から続く断崖絶壁の海岸線がアポイ岳の山麓が太平洋に落ち込む日高耶馬渓の入り口になる。旧道の幌満橋からはその全体像が眺められるが奥は立ち入り禁止。様似山道はトンネル前の幌満橋脇から階段を降りて右岸を上流側に進むとよい。◇所在地:様似町幌満

和助地蔵様似町

和助地蔵堂

斉藤和助は江戸時代後期に幌満に居住していた南部出身の人で、昆布採りのかたわら旅館を営んでいた。寛政11(1799)年の様似山道開削時にも尽力した事で、冬島から幌満に至る海産物に関する一切の権利を幕府から与えられるが、東蝦夷地が松前領に戻ると権利全てが剥奪されたという。松浦武四郎は東蝦夷日誌に「松前家複領になるやシャマニ場所を藩士櫻庭某と申す者へ請負申付しに、其威権を以て此の和助を追て、今はシャマニ領に管轄せしむ」と松前藩に批判的で和助に同情している。人々に慕われていた斉藤和助は文久2(1862)年に91歳で亡くなるが、その徳を偲んだ様似と幌泉場所請負人らにより建立された白御影石の地蔵尊が和助地蔵。この祠の川向こうの沢が様似山道の東口になる。◇所在地:様似町幌満

旧道跡幌満トンネル様似町

旧道跡幌満トンネル

現・幌満橋(平成9年竣工)とトンネル完成前の旧道と旧旧道は日高耶馬溪と称される断崖が続く幌満から冬島への海岸道路で、幌満側入口は旧国道に架かる幌満川河口の旧3代目幌満橋(昭和42年竣工)でそれ以前は橋の上流側にある旧幌満隧道(大正12年の2代目幌満隧道?)でした。対岸から見ると古い隧道がひとつあるようにしか見えませんが、隧道側を新幌満橋から下って見ると断崖と平行にもう一つの隧道、明治24年にできたという初代の幌満隧道?がみえる。同時期に日高耶馬溪で開削された隧道は全部で11ヶ所あるというが、今も見られる(中には入れません)のは多分ここだけでしょう。また新幌満橋と旧幌満橋の中間部に2代目幌満橋の親柱と橋台の一部、旧々道の一部が残っている。◇所在地:様似町幌満

郷土資料館ほろいずみえりも町

えりも郷土資料館

えりも町にも江戸期の山道「猿留山道」があるも、林道が入り組んだ紛らわしい所もあり、郷土資料館ほろいずみで事前にルートを確認してからのほうが安心できます。復元された「猿留山道」には標識も設置されているが、山岳ルートであり単独の山道紀行はお勧めしません。郷土資料館ほろいずみは「猿留山道」の情報館という役割を受け持っているようで、幕末の探検家、松浦武四郎に関する展示も「猿留山道」つながり故か充実している。。◇所在地:えりも町新浜207-1

幌泉灯台記念塔えりも町

幌泉灯台公園

かつて灯台山だったえりも町灯台公園。明治24年に小高い山へ木造やぐら式の灯台が設置されたのがはじまりで灯台山とよばれた。灯台は昭和3年に建て替えられたが昭和53年に観音山(住吉山)に新築移転。不要になった灯台を町が国から譲り受け、灯台山(約17m)を切り崩し平地にして旧灯台を幌泉灯台記念塔として保存したもの。あるのは現役リタイヤした灯台にトイレとステージにベンチ、スペースは広くイベントに利用されている。◇所在地:えりも町字本町53-1

百人浜えりも町

百人浜展望塔

道道34号線の庶野から襟裳岬まで全長12kmの砂浜の海岸をいうが、かつて江戸時代に大型御用船が難破し百余名の乗組員が飢えと寒さで息絶えた事から百人浜という名前が付いたという話がある。かつて森林だった百人浜の乱伐で植物の育たない襟裳砂漠とまでいわれた陸地から強風で海に運ばれた泥や砂で海藻が育たず漁獲量は激減。1953年から植樹活動が始まり苦労の末、クロマツの森ができた海も豊かさを取り戻すことができた。百人浜には道道34号線沿いにある駐車場ちかくに四階建ての展望台がある。◇所在地:えりも町字庶野

一石一字塔えりも町 MAP

えりも町・一石一字塔

百人浜の悲恋沼近くの国道沿いにあります。文化3年に海難者の供養のため百人浜にたてられた慰霊碑。かつては現在の地より東側の渚近くにあったが、昭和31年に現在の地点に設置された。平成14年にえりも町文化財に指定されている。襟裳岬周辺は風が強く多くの船が難破した難所で知られる。一石一字塔の碑文によると、海難事故による遭難者の魂を鎮魂するため、蝦夷三官寺の一つ様似等樹院の住職が、百人浜で法要を執り行ったということです。一石一字塔は等樹院の境内にも建立されている。 ◇所在地:えりも町字庶野

望洋台えりも町

望洋台・黄金道路

国道336号線の広尾から庶野までの約33kmの区間は断崖を切り開く難工事で、7年の歳月をかけて1934年に開通したが、開通までに黄金を敷き詰められるほど莫大な費用がかかった事から通称「黄金道路」と呼ばれている。日高山脈が海に落ち込む景観はすばらしいが、海が荒れると通行止めとなる事も多く崩落事故等もあってトンネル化が進み、景観も釣り場も其の大半は過去の話となってしまった黄金道路南端に望洋台がある。◇所在地:えりも町字庶野

日高東部・太平洋ラインミニギャラリー

シャクシャイン像碑文新ひだかアイヌ民族資料館1新ひだかアイヌ民族資料館2静内会所跡様似会所跡エンルム岬2
エンルム岬チャシ跡様似等澍院カムイチャシ説明板冬島の穴岩2冬島の穴岩3様似山道小休所跡
日高耶馬渓・山中幌満のカンラン岩東洋・三本岩えりも岬・風の館一石一字塔2悲恋沼
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