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斜里町には斜里市街と宇登呂にそれぞれ道の駅がある。斜里駅前の方が「道の駅しゃり」来運神社の「来運絵馬」販売中、神社に行くより確実。珍しいのはネブタを展示してあること、駐車スペースは道の駅としては狭い。宇登呂の道の駅「うとろ・シリエトク」は典型的な観光地の物産館という印象で外観は番屋風。駐車スペースは十分に確保されている。◇所在地:斜里町本町37番地
文化4年に幕府より北辺の警備を命じられた津軽藩が斜里前浜のこのあたりに陣屋三棟を築き同年七月から藩士百名が常駐しその任務に当たった。しかし遡北辺境の厳しい気候に耐えがたく多くの犠牲者を出し翌年故郷に戻った藩士は17名だけだったという。◇所在地:斜里町本町52-24
碑文の一部から『文化4年7月よりよく文化5年6月まで津軽藩士百名が蝦夷地の守備に赴きこの地に駐留してその任に当たった。遡北辺境の気候風土は耐え難く越冬期間中、病に次々と倒れ帰還したもの僅か17名、藩士の多くは斜里場所創世記の礎石と化した。』以下省略・慰霊碑はそのゆかりの地に建立されている。◇所在地:斜里町本町
近江商人の藤野家が箱館や松前を根城に海運業から場所請負に乗り出したのは文化年代からのようです。斜里場所は1790(寛政2)年に宗谷場所より別れ斜里場所が開かれが開かれ村山伝兵衛が場所請負人となるが、村山家が没落後は藤野家が請負人となる。文化4年に幕府が蝦夷地を直轄としたとき運上屋の名称は会所と改められた。藤野家は1806(文化3)年に上下ヨイチ場所請負人となったの始めに、1808(文化5)年、栖原三右ヱ門・伊達林右ヱ門と共同で斜里・宗谷場所(ソウヤ,エサシ,モンベツ,トコロ,アバシリ,シャリ)請負人、1817(文化14)年・国後場所請負人、1823(文政6)年、利尻、礼文場所請負人1832(天保3)年、根室場所請負人、根室場所は藤野家最大の経営基盤となったとされる。1859(安政3)年、網走場所請負人という状況でオホーツク側では藤野家の独壇場という感じでした。維新後もオホーツク側漁場の独占が続きますが、漁場の不振で明治末には撤退しているようです。経営は徹底した植民地経営方式だったようで石狩とともにアイヌ民族の疲弊が最も激しかった地域で、国後に送られたら生きて2度と帰れないとアイヌの方には恐れられていた。こうした酷使に対して、1857(安政4)年10月に箱館奉行所が「最もアイヌ使役の烈しい場所」として、石狩、天塩とともに紋別の請負人に酷使禁止の論書を出すという処置をとったが効果はあったとは思えない。開拓使への引き継時漁場持は山田寿兵衛、紋別、網走、国後などに又十(屋号)の名は有るが斜里には見えず。明治5年に又十藤野家が斜里の漁場持になり駅逓取扱も又十藤野家に変わっている。◇所在地:斜里町港町8-28
斜里場所の場所請負人であった藤野家の番屋がもとになった駅逓で、市街東部の星印刷所向かいに建物が現存しているが番屋形式の駅逓は他には標茶に有るだけ。補修を繰り返している様で昔の面影はあまり残っていない。藤野家の運営だった頃は、漁業繁忙期は法外な料金を請求するなどして馬を出さない等があったらしい。斜里から越川を経て峠越えで標津、別海を経て根室に結んだ。昭和4年の鉄道開通で駅逓所廃止。近い位置に「シャリ運上屋(会所)跡」がある。いずれも知床博物館から徒歩圏内。◇設置:明治21年04月 ◇廃駅:昭和04年06月 ◇所在地:斜里町本町42-8
斜里市街地から約4km程の所に有りオホーツク海沿岸に沿って広がる広大な原生花園。原生花園内ではエゾスカシユリ、ハマナス、エゾカワラナデシコ、センダイハギなどが四季ごとに咲き競うが、エゾカンゾウの大群落は見事。周辺にはオホーツク海越に知床連山を背景に記念撮影のスポットも有る。草原性の野鳥が数多く生息し野鳥観察にもお勧めです。◇所在地:斜里町以久科
斜里町の朱円地区、海岸から約1.5kmのオクシベツ川流域にある円形の土塁を巡らした中にストーンサークルが有る遺跡で昭和23(1948)年に河野弘道氏らによって調査され古代人の墳墓遺跡であることが確認された。大陸に分布する環状石籬(ストーンサークル)に似ているが日本では類例が少なく、北海道以外では例のない珍しい遺構で学術的価値が高いとされる。土手の高さが70cm~1mの朱円環状土籬は直径28mのA号土籬と、直径30mのB号土籬が隣り合わせに並んだ規模の大きなもの。A号土籬の内部には、直径5m、内径3.5mの集石群があり、中心部にお墓が有る。B号土籬の内部に径2m程の集石群があったようで、復元された遺構でその全体像を見ることはできるが土籬の内部は立入禁止。発掘ではストーンサークルの下にあった彫り込みがあり人骨が埋葬されていたというが、中に火葬された人骨も出土、墓である事から「朱円周堤墓」ともいう。副葬品は縄文時代後期の土器が含まれていたということで2000~3000年前の遺構になるようです。入口に説明と案内板が設置されているがトイレや駐車場などはないが下草などは刈られている。斜里町知床博物館の前庭に復元したストーンサークルを展示している。◇所在地:斜里町朱円
越川駅逓所記念碑より
『官設越川駅逓は明治27年12月斜里山道の開削に伴い、その開設が許可され、以来昭和16年3月廃止に至る間、北見管内拓殖移民の宿所、人馬の継立、郵便逓送の引継所となり、祭文語りや、根室への護送囚人等も泊り、北見根室の両国を結ぶ交通の要所として明治大正昭和の3代に及ぶ開発の拠点としての役割を果した。昭和8年国道の変更により幾品川沿より現在地越川234番地へ移転した』以下碑文省略。碑は国道244号線沿いで峠に向かって右側。国道を峠に向かっていく時は発見しやすいが、逆の時は見落としそう。なお斜里町には平成の初め頃まで知布泊にも駅逓舎が現存していたが、すでに解体されその痕跡は残されていない。駅逓関連の詳細は「駅逓跡を巡る旅」の参照を。◇所在地:斜里町越川
1940年に完成した越川橋梁は全長147m、高さ21.7mの10連のコンクリート造アーチ式橋梁で、鉄道橋梁としては道内最大のもの。鉄筋を使用しない構造に戦時下の建造物の特徴があり、当時のコンクリート建築技術を伝える建造物として文化庁登録有形文化財に指定されている。国道244号線の工事で橋梁が2本撤去され現在の姿になりました。斜里から越川間は昭和32年に根北線として開通したが、越川橋梁までは線路は延びることなく一度として使われる事はなかった。橋の中には人柱が使われたという話もある。◇所在地:斜里町越川
かつて車道は宇登呂で行き止まりとなりその先は素堀のトンネルで人が通れるだけの道がついていた。今では高台に大型のホテルが建ち並び当時の面影を残すのは三角岩やゴジラ岩、オロンコ岩だけと云う感じだが、そのオロンコ岩をトンネルで抜けた先の公共駐車場に松浦武四郎の歌碑と説明板が有ります。松浦武四郎は6回の北方探検をしているがそのうち知床には3度訪れ貴重な記録を残している(詳しくは秋葉實編“知床紀行”を参照されたい)碑は松浦武四郎没後百年を記念し建立され“山にふし海に浮寝のうき旅も 馴れれば馴れて 心やすけれ”と刻んである。宇登呂は武四郎の宿営地でもあり「ウトルチクシ。名義、岩間を舟が越る義か」と記している。近くに森繁久弥の知床旅情の碑が有りそちらの方は観光客を集めている。◇所在地:斜里町宇登呂 公共駐車場
『ウトロ近海は古来、サケ・マスなど水産資源豊かな海域として知られここに魚場が開かれたのは遠く天保年間シャリ場所請負人であった藤野家が当地前浜に番屋などの漁業施設を設けたことに始まっております、その頃の漁業は、春のニシン漁に始まり、夏のマス漁と続き秋のサケ漁をもって終わる三漁業が中心で、産物は北前船により遠く本州方面に移出されていました。幕末の北方探検家、松浦武四朗の「古い資料」によると彼は1858(安政5年)年知床岬からの帰途ウトロ番屋に一泊したことが記されており、当時の規模は梁四間・桁七間でほかに倉庫が二棟と付近には弁天社のあったことが書かれています。明治に入り場所請負制度は廃止され、魚場は一般に開放されましたが大正11年に至りこの藤野番屋は網走の東漁業部(東田重蔵)は譲渡され、以来東出番屋と呼ばれ、昭和55年頃まで遺されていました、しかし第二次大戦後は漁港の造成工事が大々的に進められたことから、当時この前浜一帯に散在していた古い施設は次々と姿を消し、今日では当時を偲ぶ遺構は全く皆無となりました、よってここに記念の標柱を建てこの歴史を永く後世に伝えるものである。松浦武四郎没後100年協賛会 設置』松浦武四郎は樺太探険の帰途(弘化3年)、宗谷より枝幸、紋別、網走、斜里を経て、知床半島突端に達し再び宗谷に戻っているが、その時にウトロには通過しただけのようで真鯉で宿営している。1858(安政5)年には斜里廻りで厚岸に行き、そこから根室にいたり知床半島を舟で周廻してウトロに陽暦の6月17日に宿泊、遠音別付近より陸路で6月18日は斜里、以後も陸路で網走に入っている。◇所在地:斜里郡斜里町宇登呂 知床グランドホテル北こぶし敷地内
ウトロ市街の中心を流れる川で河口部から港湾の一部として人工的な環境に変わり魚の姿を気軽に見るという事はできなくなってしまった。川沿いの遊歩道を登っていけば、川底の砂利が残されている所で、産卵シーンを見られるかもです。更に強運に恵まれたらシマフクロウの姿を見られるかも。川沿いにはサクラの木が多く、春には隠れた花見スポット。◇斜里町宇登呂
名前通り夕陽の名所で知床国設野営場の一角にあり、市街地やホテル街からも近いので簡単に沈む夕陽が見られる場所。ただ視界の一部樹木で遮られ以前とは変わっている。樹木が葉を落とした晩秋から流氷で白く覆われた黄金色に染まる冬が良さそうです。公衆浴場夕陽台の湯が隣接してある。
◇所在地:斜里町宇登呂香川 ◇バスターミナルから約1km、徒歩約15分。
知床の絶景と夕日の名所として人気上昇中!!ウトロから国道334号を知床峠方面へ5km オホーツク海、オロンコ岩・ウトロ港を一望できる。ここから眺める夕陽は広大な海や流氷原に太陽がしずんでいくスケールの大きさがよい。水平線には能取岬も望め、写真ファンには知られた場所。歩いてもそれ程時間はかかりませんが自転車はかなり辛い。◇所在地:斜里町宇登呂
知床番屋祭"は1998年から開催されている秋の恒例イベントで例年10月中旬~11月中旬。アキアジやホタテ、キンキ、ホッケ、タコ等の魚貝類にトウキビ、ジャガイモ、知床鶏、知床赤豚など、知床の新鮮な味覚を好きなだけ食べられるという。番屋祭ではその他にも大鍋でつくった鉄砲汁やアキアジ鍋、鮭のチャンチャン焼き、鮭とイクラの親子丼なども用意。それぞれ好きなものを好きなだけ取って、あとは席に用意してある七輪で自ら焼いてたべるだけの素朴なイベントだが、本物の番屋ではなく宇登呂港近くの特設の会場となる。◇所在地:斜里町宇登呂
以前と比べると観光船も増えて目的に合った観光船を選択出来る様になってきたのは嬉しい事だ。ネイチャーウォッチングボートは往路を岸の近くを時間をかけて運行するので、些細な部分まで観察出来る。当然ですがシャッターチャンスにも余裕があるでしょう。野生動物の観察、知床西海岸の地名と奇岩巡りや滝の探行に最もむいていると思います。野生動物に関しては逢えるかどうかは運次第ということですが、僕が以前に利用した事のあるクルーザーではまともに写真を撮るのも困難でした。少しでも知床の自然について理解を深めたいと思っている方にはネイチャーウォッチングボートが一番のお勧めですね。運行期間が7月8月と短いのが惜しまれますが。
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