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昔斜里場所の付近に一匹の歳をとった狐が住んでいて、時々場所の蔵のあたりに遊びに来て、時には蔵の屋根の上などで昼寝をしていたが、アイヌ達は歳をとったこの狐を神様として、尊敬していたので誰も悪戯をするものはなかった。ところがある年、斜里場所の漁場働の吟味に来た木村万作という鉄砲自慢の足軽が、蔵の上に眠っている狐を見つけて、鉄砲で撃ち取ろうとした。アイヌ達は驚いて、あれは神様だから獲ることを止めた方がいいといって留めたけれども、万作はアイヌ達の云うことを聞かず、狙いを付けたところが、火縄の火が燃え移らず消えてしまったので、益々腹を立て、ある日のこと狐が良く寝入っているところヘ忍び寄って、棍棒で殴りつけた。急所を打たれた狐は、くるくると廻って蔵の屋根から転がり落ちると、急に鳥になって飛んでいってしまった。それを見た足軽は急に恐ろしくなり、その晩からは外にも出られず、身の毛が立って物に怯えるようになったが、それからというものは、何をしても悪いことばかり続き、しまいには斜里場所の掛かりもやめなければならなくなった。そしてある時、鉄砲で鳥を撃ったところ、弾がそれて板垣伝太という者に当たったので、危うく死罪になるところであったが、相手の傷が思ったより浅かったので許されたという。これらは皆斜里の狐を殺した祟りであるといわれた。更科源蔵編・アイヌ伝説集の証有世話より・作者不詳とある。
明治の初め頃、イぺランケと言う老婆がいた。この老婆が若かった頃の話であるという。イぺランケの夫は毎日海でアザラシ猟をするのを仕事にしていたが、ある日のこと綺麗な斑のあるアザラシをとってきた。ところがこれが本当のアザラシではなくて、コンシュプという化物の化けた姿であったので、夫はこの化物に取り憑かれて、イぺランケを邪魔にしてひどく虐待する様になった。毎日の虐待にたまりかねたイぺランケは、きっと夫に何か憑物があるに違いないと思い、ある夜のことこっそり起き上がって、家の入り口にマサカリをもって待ち構えていると、夜中頃にあまり背の高くない者が家に入ろうとしたので、マサカリで一撃を加えたところ、手応えがあって何か落ちたので、拾ってみると綺麗な女の片腕であった。それでそれをこっそりしまっておいた。すると次の晩、綺麗な女の人が家に入ってきて、イペランケに向かって泣きながら言うには「私はコンシュンプだが、斑のあるアザラシに化けて、あんたの夫に憑いたため、昨夜は片腕を取られてしまった。然しこれからはあなたの夫もあなたを虐待しないようにするし、あんたには一生不自由をかけないようにするから、夫だけは片腕を取られた代償として私に呉れて欲しい」そういったと思うと夢から覚めた。さめてみると昨夜とってしまっておいた、女の片腕が無くなっていた。それからはコンシュンプの言う通り、夫はイペランケに対して優しくなったが、まもなく若いのに他界してしまった。それはコシュンプにとられたのであるという。そしてイペランケはコシュンプの言った通り一生不自由なく暮らす事が出来たという。名寄市 北風磯吉エカシ伝 ※“kosumpu⇔コスムプ”山野あるいは海に住む妖精、ここでは妖怪。
爰にて義経公の船へ垢多く入沈まんとせしを漸々汲捨て助り玉いしと、其垢取に入れて持上り玉ひし水の跡、今川に成たり。松浦武四郎 知床日誌 ※“o-pe-ke-p⇒そこでアカ(船に染みこんだ水)を欠きだした所”と云う意味。海で掻きだした水がどうして川になるのか、その発想がとても気になる。それがオケケプ川というが。
むかし判官様船を破りしによって号するとかや 松浦武四郎 戊午日誌 ◇船が難破して引き上げた荷物が岩になったという。時代によって場所が移動しているが現在の位置になった。地名探訪斜里 ※現オシンコシン岬近くにあった地名“cip-sike⇒船の荷物”チプシケオロとも云う。オシンコシンの滝パーキングから見える。
義経公の船が遭難した時、沈んだ船底が岩になったという。弁財崎の沖に平たく顔を出しているトッカリ岩のことだろうか。地名探訪斜里 ※ベンザイとは弁財船で交易船のこと。アサムは底ということ。弁財トンネル近くに有る海中の岩で二つ岩とか親子岩とよんでいる岩。
斜里の義経伝説でベンザイアサム、チプスケ、オケケプに関しては他の義経伝説とは明らかに違う部分がある。それは乗ってきた船が弁財船に象徴されるように松前藩の交易船であること。これを義経からアイヌ文化神サマイクルに置き換えてみると、交易船にサマイクルが乗ってやって来る事はあり得ない話しで、それが義経に好意的ではない伝説となって残されたものか。
シヤツルエラン、この所に昼所の小屋跡有、是にて昼食す。此処の傍にシロサブロコタンといへる処有るなり。その訳を聞に、昔シロサブロといえるアイヌここにいて、後津軽え渡り字鉄村を切開き、彼地に子孫を残したりといえり。戊午摩之宇日誌 ※四郎三郎は津軽字鉄村の首長として1670年頃実在する人物で有るが、斜里に実在したかは不明。後に子孫が津軽藩士の従者として来たときに先祖の墓参をしたと伝えられている。存在が事実としたら口承の生命力は凄いとしか云いようがない。四郎三郎コタンは斜里山道の途中で現在の札弦よりかなり上流側と思われる。
斜里の奥には昔から性の悪い獰猛な熊がいると言い伝えられている。ある漁師が斜里川の奥ヘ狩りに入って、大きな一位の木の下に野宿していると、夜中になった頃木の上からバリバリ、バリバリという音がするので、気持ち悪くなって逃げ帰り、あとでそこに行って見たら、その一位の木のまわりを滅茶苦茶に囓り、焚き火をしたあとも散々に荒らしてあった。それは一位の木がバリバリ音を出して人を食う悪い熊の来る事を知らせたので、あとヘ来た熊が怒って木を痛めつけたのだった。弟子屈町・山中西三エカシ伝 更科源蔵編・アイヌ伝説集
原作は大変に長いのでその概略を記した。知床半島を挟んでアツカンベツコタン(現斜里町朱円)の若者とシベツコタンの首長の娘が恋に落ちて駆け落ちしたことが引き金となって、コタン同士の争いになり15年戦争の末、アツカンベツコタンが破れるという話です。最初の伝承者として名前が出てくるのが知床半島に文吉湾の名を残した坂井文吉エカシ、この方は知床コタンの末裔と思われ、後にウナベツコタンの首長となられた方。物語は約500年前からの伝承と云うが坂井文吉エカシ⇒鈴木養太氏⇒広沼定治氏⇒栗沢喜重郎氏へと伝承が伝えられているため、伝説全体に脚色や和人風の解釈が有る。物語としては面白く仕上がっているが、原伝説の骨子をそのまま引き継いでいるかは疑問が残ります。標津にはチャシ同士の戦いに関する伝承は残っているが、朱円との戦いを想定出来る伝説は知らない。出来るならば本人の話をそのまま記録しておいて欲しかったと思う。なお宇登呂オロンコ岩の伝説など多くの伝承を残された坂井惣太郎エカシもウナベツの方※斜里町 栗沢喜重郎 「反逆-哀愁のアツカンベツ」 昭和44年 ※再録 本田克代 伝説 海鳴りの彼方に
現在の斜里町峰浜に有ったカムイベツの水源はヤチマナコの様な沼になっていた。その沼に得たいの知れない主が住んでいるというの皆知っていたが、それまで見た者はいなかった。ある時その主を見たという人が現れた。その人は草むらを移動して歩き、又沼に戻って行ったのはクジラほどの大きさがあるイトウだったという。古老の話によると山の主でも川の主でも人に姿を見られたら二度とその場所には現れないとか、そのイトウは沼の主であったことは間違いないと教えてくれた。この沼は大変綺麗な深い沼でもし汚れ物などを捨てようとすると「捨てるな」と叫ぶ声がどこからともなく聞こえたという。姿を見られてからは汚れ物を棄てても、何のとがめもなかったという。カムイベツの両岸には特に蛇が多く、コタンの人達は一抱えも有るような縄状になった蛇をカムイと尊称していた。斜里町 栗沢喜重郎 「反逆-哀愁のアツカンベツ」 昭和44年※この話は長いので要旨だけを爰に掲載しています。アイヌ伝説で大アメマスが主として良く登場するが、イトウもアメマスについで主として登場する。ただアイヌ民族は蛇は嫌いなので蛇に関しては良い話をあまり聞かない。蛇神オヤウムカイのような事も有るので何とも言えないが、この民話のような例は聞いたことがない。
昔義経公が合戦の時幕を張ったところで、その跡が土塁の形になったのだという言い伝えが゛有る。知床日誌 ◇斜里アイヌ古老の話として「地名ナキ処ハ間宮氏(間宮林蔵)自ラ地名ヲ地図ニ記載シタル事多シト此ノ「マクオイ」ナドモ間宮氏ノ付シタル名ナリト云フ「マク」ハ和語ニシテ「オイ」はアイヌ語ナリト 蝦夷語地名解 ※斜里の町から知床半島宇登呂に向かう途中に有る真鯉の地名伝承。二説有るが説得力はまいち。ただ斜里町に二つしかないチャシ跡のひとつ真鯉シャシ跡との関連は気にはなる。
義経公野宿し玉ひし時にキナを投げ玉捨玉ひし由故事有。知床日誌 ◇その浜は黒白の石綺麗に敷きたるが故に此名有るなり。戊午日誌 ※同じく戊午日誌ではオショコマナイでもキナ莚を投げたという記載が有るがウカウフと書き違えたか?浜の石模様とキナの文様は似ているような気はするが、滝との関連は想像出来ない。
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