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ぐるっと増毛プチ観光・古の文化を伝える町並みを巡る‼

増毛町

増毛町は鰊百万石場として栄えた町で、現存する明治年代の建築物をはじめとする文化遺産からも想像できる。陸の孤島と言われた雄冬も増毛のもう一つの顔ですが、中には幻の町となってしまった歩古丹がありました。ブームとは関係なく根強い人気のある暑寒別岳と周辺の自然は、国定公園の一角で静かに自然を楽しめます。

増毛町駅前観光案内所

増毛町・駅前観光案内所

観光にはガイドマップは欠かせないアイテムでマップが有ると効率的に名所巡りやグルメ旅が出来る。最初に駅前の観光案内所に立ち寄って増毛わかりまっぷを手に入れよう。此所が開いていない時は元陣屋でも手に入る。

JR増毛駅

増毛町・JR増毛駅JR留萌本線の終着駅で、列車は1日に数本しか来ない無人駅ですが、最果ての駅という印象はあまりない。駅前には木造3階建の旅館や映画に食堂として登場した建物がそのまま残っている。この駅の密かな人気は増毛の切符。そろそろ薄くなってきた貴男!お守りに一枚どう~※2016年12月にJR留萌線の留萌―増毛間が4日、最終運行を終え、95年の歴史に幕を下ろし増毛駅は廃駅となった。

北海道遺産・歴史的建物群

増毛町・北海道遺産・歴史的建物群増毛町には駅前を中心に明治年代に建築された木造建築物が4軒、大正年代に造られた増毛駅、昭和初期の建築物が4件も残されその殆どが現役で使用されており、歴史的建物群として北海道遺産に指定され施設見学可能な所も。

旧商家丸一本間家

増毛町・旧商家丸一本間家増毛町指定文化財で国指定重要文化財。築100年以上の旧商家丸一本間家を大修復し100年前の明治時代の姿を再現、2000年より有料公開している。本間家は「丸一本間」の屋号で、その建物の大部分が復元され、店鋪や居宅部を含む、広大な建物の内部をも見学できます。増毛には「本物」の建物が数多く残っているが、旧商家丸一本間家はその中の代表的な建築物で一見の価値ありです。◇所在地:増毛町弁天町一丁目 TEL:0164-53-1511

名酒國稀

増毛町・國稀酒造国稀酒造は明治15年創業と北海道では最も古い造り酒屋で酒蔵見学ができる。中に入ると売店があり蔵本にしか置いてない酒もある。試飲コーナーもあるのでお見逃し無く、お気に入りの1本がきっと見つかるでしょう。一角に湧き出る水があり誰でもが飲める、酒蔵の水(超軟水)も汲める。

鰊船

増毛町・國稀酒造敷地内鰊船明治から大正、昭和の初期にかけて増毛はニシンの千石場所として栄えた、往時より使用されたニシン船が保存されているのは極めて珍しいが、此所では2艘のニシン船が保存、展示されている。ニシン魚の仕組みを模型で併せて展示しているので、ニシン魚の様子がよくわかる。◇所在地:増毛町野塚町・問い合わせは国稀酒造迄

国稀の仕込み水 ・慈流泉

増毛町・國稀酒造仕込み水・慈流泉日本最北の造り酒屋「国稀」の仕込み水で、売店に中に入るとその一角に湧き出る水(超軟水)があり多くの人が飲めるようにした設備が備えられているが多量の水汲みは屋外の水くみ場で。昔、中歌の崖から自然湧水があり増毛の名水と云われていた場所がありました。今でも湧いているのかは判りませんが名酒國稀が生まれた町らしい。◆増毛郡増毛町稲葉町1-17 TEL:0164-53-9355

増毛町総合交流施設・元陣屋

増毛町・増毛町総合交流施設・元陣屋秋田藩は1856(安政3)年に蝦夷地警護を命じられ元陣屋を増毛に、出張陣屋を樺太と宗谷にを置き、夏の間はそちらで警備をし夏の間だけで、越冬時は増毛に戻る方法を採った。元陣屋は総建坪1160坪、平屋建28棟からなり、後年周辺に河川の水を導き入れ、濠としていました。陣屋外にも侍屋敷28軒、足軽長屋75棟を築き、150名から200名ほどの衛士が駐在。秋田藩は財政難のため、蝦夷地警備の免除を願い出ていたが、幕府は1867(慶応3)年に秋田藩の警備を免じて直轄領とした。後に陣屋は山口藩の役人の住居として利用され、明治30年頃まで残っていたという。北方警備の拠点として機能というのであれば高台へ陣屋を構築するのが当然と思われるが、元陣屋跡は砦には向いていない低地の永寿町一帯にあり、津軽藩増毛勤番越年陣屋と同じように越年陣屋としての用途が主目的だったのもか? ほんとに恐ろしかったのはロシア軍よりも北海道で越冬する事だったのかも。元陣屋総合交流促進施設では陣屋や秋田藩に関する展示はあるが、陣屋跡を示す遺稿は井戸くらいしかのこっていない。その跡地に造られた施設で、図書館、郷土文化伝習室、増毛郷土資料室からなる複合施設。郷土資料室閲覧のみ有料で当時の秋田藩と元陣屋の資料は見応えあり、大型スクリーンの映像も迫力。鎧兜は記念撮影に使える。◇所在地:増毛町永寿町4丁目49番地

秋田藩元陣屋第一台場跡砲塁並狼火台

# 秋田藩増毛元陣屋の出来た翌年に、東西の高台に台場が2か所設営された。第一台場は増毛灯台の下で増毛の町や海が一望できる場所で、台場としては最適な場所のようですが、台場跡を示す遺構は何もない。説明板によると秋田藩の台場がここにあったのは、1857(安政4)年から1867(慶応3)年まで。ドイツ製のホイッスル大砲一門と和製大砲三門が備え付けられ、また烽火台や見張台があったという。松浦武四郎の西蝦夷日誌に「ノッカ上には佐竹家陣屋を開きたり。是安政三丙辰のとし御渡しなる也」とあったが砲台については触れていず。◇N43°51’43” E141°31’63”

秋田藩元陣屋第二台場跡陣屋展望台

増毛町・陣屋展望台・砲台跡増毛の町の西の外れ、暑寒別川河口の西側にあるミニ展望台。説明板によると国道工事で出土した砲座から確認されたという台場、1857(安政4)年、古茶内三吉神社岬台地に和製大砲二門の砲塁を築き、他に見張台、狼煙台を設け海上よりの防衛に当たっていた。つまり展望台は第二台場の一部で大砲は国道部分にあったことになるようです。展望台は海に面した高台で標柱と限りなく本物に見える大砲のレプリカが設置されている。「にしん街道」という標柱とニシン漁についての説明板が新設された。高さはさほどないので眺望はそれほどでもないが、日本海に沈む夕日を眺めるには最高のスポットと云う。カフェが有るのでドライブ途中の休憩スポットにも良さそう。◇所在地:増毛町別苅1-1

にしん街道 増毛町

にしん街道標柱・増毛町説明板より転載
『増毛町の「にしん漁」の始まりは宝永3(1706)年、松前藩 下国氏がマシケ領を知行していた頃とされています。江戸中期(1750年頃)松前の商人村山伝兵衛がマシケ場所を請け負っていた頃には、松前地方に於ける「にしん漁」が不漁となり、石狩場所までの漁場が許され、この頃の「にしん」は身欠き鰊や数の子として食用に供されてはいたものの僅かで(農業?)への肥料として主に使用され、内地からの需要も増しつつあったため、〆粕・肥料として生産されていました。安政年間(1854~1860)では極端な不魚が続いたためにしんを求めて北上が続き、明治に入り「にしん漁」も増毛、留萌、天売などに漁場の中心が移ってきました。また、漁業技術も刺し網から□□(角網)へ、船も□船から大型船へと改良され「にしん漁」も飛躍的に発展しました。往時の資料から大正中期~昭和20年代にかけて増毛の「にしん」漁獲高は全国一位を誇っていましたが、昭和28年を境に「にしん」漁獲高が激減し、昭和33年を最後に増毛の「にしん漁」の隆盛も終焉を迎えました。この標柱は「にしん」で栄えた日本海沿岸地域が歴史と伝統を後世に引き継ぎ、地域の活性化に繋げる証してして設置したものであります。』
◇設置月:平成23年9月吉日 ◇設置者:増毛町・増毛町観光協会
◇所在地:増毛町別苅1 台場跡

増毛運上屋(第一次増毛駅逓)跡史跡標柱 増毛町

増毛運上屋跡松前藩商人、村山伝兵衛が1751(宝暦元)年に増毛場所を請負、増毛に出張番屋を設け、1840(天保11)年以降は増毛、天塩、宗谷方面に和人の出稼ぎが許可されるようになり、その頃から和人が定着が増えていった。出稼ぎは蝦夷地を代表するニシン番屋で、増毛もニシン場として栄えた町。場所請負制の廃止とともに運上屋は開拓使に引き継がれ、最後の場所請負人は伊達林右衛門でした。北海道宿駅制の研究では「通行屋と称し請負人伊達某駅務を行う」とあり、明治15年の駅逓取扱人は八川喜七となっているので駅逓廃止はこれ以降と思われる。明治35年に再設置された増毛駅逓と運上屋(通行屋)が同じ建物かどうかは不明ですが、取扱人は八川宇市でした。増毛は歴史的建造物が多いが運上屋の遺構はなく、港町市場の建物の前(遠藤水産)に増毛運上屋跡の史跡標柱があります。◇所在地:増毛町港町4-26

増毛山道と武好駅逓所跡

# 増毛山道は増毛町の別苅と浜益の幌を陸路で結ぶ全長約26.8kmの山道で、安政4年に2代目伊達林衛門が私費によって開削した。工事費用は濃昼山道と合わせ現在の貨幣換算で2億円以上と商人が拠出する金額としては半端ではない。増毛山道は江戸時代に開削された山道では最も険しく唯一1000mを超える山道でした。幕末の探検家、松浦武四郎が安政4年と安政5年に伊達林右衛門が自費で開削中の山道の見聞に訪れている。安政4年の見聞時は現地支配人の黒沢屋直右衛門が山道の出来具合を見るために同道している。安政5年は完成した山道を見聞するためであった。安政4年の道中は「丁巳14巻 天之穂日誌」に記されている。安政5年の通行は戊午日誌にはなかったが、まとめた記事として「西蝦夷日誌の5編 濱益毛」に濃昼(ゴキビル)山道と増毛山道についてかなり詳しく記している。のちに此路を通ったライマンは人の造った道とは思えない獣道と酷評した。明治期の山道は郵便物をやり取りする重要路となり、山道途中の「武好(ぶよし)駅逓」で雄冬と増毛、双方からやってきた郵便配達員がここで互いの郵便物を交換し、戻ったという。駅逓には管理人が置かれ(無人だった期間もある様です)旅人の宿泊などにも利用された。高橋明雄氏の「シュシュシナイの権六狸」に登場する「増毛山道物語」では、秋田藩統治時代に増毛―浜益間をつなぐ山道において、旅人が山賊に襲われたこと、後に山賊は捕えられ多くの犠牲者を供養するために地蔵が安置されたことなど語られており、地蔵は今でも町内で見ることができるという。交通網の発達にともなって廃道になって既に70年以上になるが「増毛山道の会」によって復元が進められている増毛山道。新武好駅逓跡も確定され、再び注目が集まっています。新武好(ぶよし)駅逓跡は岩尾から約7.7kmの距離です。◇駅逓設置:明治29年09月 ◇廃止:昭和16年06月 ◇所在地:増毛町別苅~石狩市幌

松浦武四郎信砂越えの地(増毛町)

増毛町松浦武四郎一行は安政3年5月7日に石狩運上屋出発し5月12日ウリウ川筋オモシロナイで宿営。5月13日ウリウ川口出発恵岱別川筋をたどって仁奈良峠を越え信砂川の川筋を通り5月16日苫前運上屋着(ルルモッペ)のヌプシャ越えを敢行しているが、道当時は絶たりとの事で、雨龍川口より3日を要した困難な探査行で文化年間以来絶えてきた留萌への道を再び開いた。信砂川河口近くの彦部橋たもと、舎熊小学校入り口の角にに「松浦武四郎信砂越えの地」の標柱が立っている。当時は大別刈から浜益まで人が通れるだけの山道も有った。◇増毛町彦部

仁奈良山道・仁奈良駅逓跡

仁奈良山道かつて松浦武四郎が安政3年に敢行した信砂越えルートに沿って殆どが囚人によって開削された。仁奈良駅逓は増毛道路にあわせて明治24年に設置された三駅逓の一つ。他には尾白利加・恵岱別の駅逓がある。現在は道道94号・増毛稲田線が通るがルートは少し異なっている。峠をかなり下った御料地区で離農跡や廃校跡等があるも目立たない。駅逓の有った所は「恵比寿橋」近くで増毛町が設置した史跡標柱が道路脇の高い所(旧道の入り口?)に有ります。
◇設置:明治24年06月 ◇廃止:明治36年02月
◇GPS N43°47’25.9” E141°40’52.08”

増毛町の自然と景観スポット・ミニギャラリー

増毛町・陣屋展望台・砲台跡 増毛町・増毛勤番越年陣屋跡 増毛町・増毛駅 増毛町・國稀酒造 増毛町・旧商家丸一本間家 増毛町・旧商家丸一本間家 増毛町・増毛小学校 増毛町・増毛の食堂 増毛町・増毛館 増毛町・漬け物やさん 増毛町・國稀酒造敷地内鰊船 増毛町・増毛町総合交流施設・元陣屋

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