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明治維新の悲劇の立役者、坂本龍馬ゆかりの方が今も眠っている。竜馬が計画していた北海道の開拓という遺志を、竜馬の実の甥である坂本直寛が引き継ぎ、最初は北見に入植するが翌年に浦臼に移住、先に入植していた武知安哉を指導者とする聖園農場を引き継ぎ、浦臼の発展に尽力する。坂本直寛の実兄で竜馬の養嗣子の坂本直が没した後、妻留と長男直衛が直寛を頼って浦臼に移住しその生涯を全うしている。浦臼郷土資料館に資料があのます。◆浦臼町札的
北海道八十八ヶ所霊場 第十一番札所で石仏が並ぶ霊場ですが、暗い印象はない。周囲には桜の名所にも近い鶴沼公園の傍にあり、境内には山口誓子の句碑があります。浦臼と山口誓子との関係はわかりませんが『夕焼けて西の十萬億土透く』と刻まれている。京都市出身で高浜虚子に師事する。現代俳句の指導者として知られる。
鶴沼神社から浦臼神社に名称が変わったが、開拓の碑がある歴史ある神社。以前は桜やカタクリの名所として知られていたが、最近はエゾリスの撮影スポットとして訪れるカメラマンも多い。道の駅つるぬまの隣から山に登っていく石段が見え、四国八十八ケ所巡りの散策道もある。参拝よりも観光とカメラマンの方が多いかも。◆浦臼町キナウスナイ186
道の駅鶴沼から国道275線を新十津川方面に進み於札内川にかかる樺戸橋の手前で左折、そのまま突き当たりまで進んで右折すると、まもなく左側に浦臼町文化保存会設置が設置した「上カバトと下カバトの境 松浦武四郎(安政4年5月21日 陽暦1857年6月12日)止宿の場」と書かれた説明板で。宿泊の事実だけを記したものであり、強制使役等によるアイヌ民族の惨状などには一切触れていない。松浦武四郎一行は安政4年5月19日に石狩運上屋を出立し5月21日にここで宿営している。「カバト川口向に至り露宿した。ツイシカリからこの川口までが下カバト場所で帳面には十件31人とあるが今は一軒もない。この川口からウリウ川口までを上カバトといい24軒101人と人別帳にあるが、4軒が住むばかりである」と記す。「上カバトと下カバトの境 旧ウラシナイは古地図では浦臼沼から新沼までの間に示されており、旧ウラシナイ川の河口は新沼と呼ばれる川跡湖で浦臼町の元名。鶴沼近くでピラ沼ふきんの農道脇に、近くにある川が樺戸境川とあるのは上カバトと下カバトの境から付けられたようだ。
◇浦臼町鶴沼 ◇標高 19m N43°16’55.1” E141°40’41.1”
晩生内(おそきない)コミュニティーセンタの所から三軒屋に向かうと左側の農道際に、松浦武四郎が三軒屋に上陸し記録に残した樺戸連山のスケッチを載せた浦臼町設置の史跡説明板がある。松浦武四郎の記録を見ると、この辺は石狩川が大きく蛇行していた所ですが、度重なる石狩川の大氾濫で三日月湖になって残ったのが今の三軒屋沼(西沼・東沼)ようです。西沼際にある「田園空間博物館」の説明看板では浦臼は自然形成的な三日月湖が多いとあった。武四郎が石狩川を遡ったときは此辺を通ったものか? 川岸の崖上の平地、大曲や袋地という地形の所をノタップと言うようですが、三軒屋の場合は高さがあったのでリイノタフなんでしょう。◇浦臼町三軒屋
碑は浦臼町の道の駅から少し北上した「道の駅鶴沼まで2km」の表示板がある所で、浦臼からだと国道275号線の左側、古い商店の建物の脇で平成10年に更新されている。石狩川の船着き場に近い所に駅逓が有るような印象で、樺戸川駅逓所も石狩川の船運とは密接にかかわっていそうです。同じ所にあるもうひとつ碑は「稜位」「浦臼先住者為 青木六蔵氏贈之」と刻まれている。樺戸川駅逓所の初代取扱人、青木六蔵氏に贈られたものか、青木六蔵氏が寄贈したのかで意味は違ってくるが、青木六蔵氏が寄贈したとすれば「稜位」で先住民族に敬意を示したものか? 松浦武四郎の十勝超日誌(安政五年)ではウラシナイにアイヌの方々が数人の住んでいた。
◇開駅:明治24年06月 ◇廃止:大正01年10月
◇初代取扱人:青木六蔵 ◇現住所:浦臼町於札内
渡船は明治から昭和30年代までは重要な交通手段でしたが、橋が建設されるにしたがい姿を消している。美浦渡船は大正5年8月に「関矢渡船」として開設され、その後「美浦渡船」と改称し、道内に残された唯一の渡し船として、美唄市と浦臼町で共同運行されている。美浦大橋の建設後は存続の危機に直面したが、地域の貴重な財産の存続を求める流域住民をはじめ多くの方々の努力により、平成19年3月に「美浦渡船を守る会」が設立されたが平成23年9月に廃止になった。◆浦臼町晩生内第3町内
天狗鼻という山が石造り倉庫(ワイン資料館)のそばにある。山道を15分ほど登ると山頂になるが展望は鶴沼ワイナリーのぶどう畑は良く見えるが視界はそれほど広くない。草か延びて仕舞えばもっと視界は狭くなりそうだが気軽に行ける距離なので時間があればよってみると良い。石造り倉庫まで行った時の寄り道には良いかも。◆浦臼町字黄臼内
樺戸の山々に向かう道筋のひとつに集治監沢と呼ばれる沢道があります。この沢は集治監分館(作業所)を置き囚人を使役して森林の伐採作業をしていた。(説明板より)沢沿いの道をそのまま進めばやがて大きな砂防ダムの前でゲートを迎える。道はその先も続いていて浦臼山の山頂で行き止まり。ゲートが実質的な登山口となるが林道は足に負担が・・
チャシとはアイヌ語で砦、館、柵、柵囲い等を意味する。伝承などでは英雄の住んでいる館をいう事が多い様です。浦臼には四ヶ所のチャシあり、その殆どは丘陵の先端にある『先丘式』で石狩川を望む丘の頂にあり、チャシとして機能していた時は見晴は良かったのでしょう。比較的容易に近づけるのは晩生内1号チャシと鶴沼チャシくらいの様です。行く前に浦臼郷土史料館で場所を確かめた方が良いと思います。
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