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『狩勝峠を越えて、汽車が十勝平野に(旧鉄道路)辿りおりたところに新得がある。その地名は昔アイヌが儀式に用いた行器と関係が有るという伝説が残っている。昔、十勝のアイヌが日高にシントコを買いに行って、新得のところまで帰ってきたら日が暮れたので野宿をする事になったが、かねがねこには大きな蛇がいるということを聞いていたので、買ってきたシントコを頭にかぶって寝ていたところ、夜中になって頭の方が「バリ バリ」という音がする。飛び起きてみると、大きな蛇がシントコの方から人間を呑もうとしているので、山刀を抜いてズタズタに斬ってしまった。それからここをシントコというようになったのだという』池田町・山越三次郎エカシ伝・更科源蔵・アイヌ伝説集より。※シントコは「行器(ほかい)」の事で、足付き蓋付き漆塗りの容器、宝物としたり色々な用途に使用した。更科源蔵氏は伝説集に掲載しているのだが、この説を後人の偽作だと言う、他にも説が有るようだ。また新得の語源は別に有る。
『十勝川の上流がパンケニコロベツ川を合した下流にカムイロキというところがある。カムイロキとは神の座とも云うべきで、熊の越年する穴が有ったところから名付けられたものらしいが、河畔の絶壁の途中にある岩窟であたりには異様な奇岩がたっている。昔一人のアイヌが山の頂から縄を下げてこの穴に入ったところ、それっきり帰ってこないので、その子供が父を探しに入ったところこれもまた帰ってこなかったので、その後はここに入ったものは帰ってこれないと云って木幣を立てて祈り、ここに入ることを厳しく戒めたという。もう一つは、このカムイロキは昔フレウ(普通はフリーまたはフーリカムイという)という巨鳥がすんでいたところで、フレウは毎日遠く浜まで行って、鯨や魚類を獲ってきて食べ、その食い残しや骨を山の窪に投げ散らかしていたが、人間には決して悪戯をしなかった。ところがある日のこと、フレウがいつも飲み水にしていた綺麗な流れの小川を、女が尻をまくって渡ったので、フレウは大変憤ってメノコを嘴でくわえて、山に連れて行き(カムイロキ?)そこへ投げ捨て、こんな人間に汚された所に入られないといって、遠くの国へ飛んで行ってしまった。残されたメノコは帰ることも出来ないので、フレウの食べ残しの骨などをしゃぶっていたが、それっきりどうなったか分からなくなってしまった。それから数年たって一人の青年が熊狩りに行って道に迷い、鯨の骨など散らばっているところへ行ったところ、ふしぎな女が「現れて連れていってくれ」といった。気味が悪いので逃げ帰ったが、青年はそれから間もなく病気にかかって死んでしまった。それ以来コタンの人達はここをウェンシリと言うようになったが、そこには今もフレウの棲んでいた穴が残っているという。』工藤梅次郎・アイヌ民話・更科源蔵・アイヌ伝説集より。※かなり脚色されている様だが、最初は北海道蝦夷語地名解に有る『カムイロキ 神座 熊が冬越しする處』とした部分と十勝日誌を元本に書かれたと思える。「ロキ」は座るとか座らせるという意味の様で越冬という意味は無いようです。伝説の内容は各地に有る地獄穴と同じ印象でフーリカムイに関する元ネタはカムイロキが地獄穴と同タイプの伝説とすれば有ったかもしれないが、伝承者不詳で創作の可能性も否定できない。カムイロキの神を「キムンカムイ」とするのは地形的に無理。
『アイヌの間では昔から「カムイロキ」と呼んでいる。洞穴は「中に入ると絶対に戻って来られない」と言われていて、この岸から木幣を立てて拝んでから通る習慣である。言い伝えによれば「昔一人がこの岩崖の上から縄を下げ、それを伝わって穴に入った事があったが、とうとう帰って来なかった。その子もまた同様に試みたが、それも戻らなかった。以来、この洞穴に入って行くことは禁じられている」とのことである』松浦武四郎・十勝日誌現代語訳より『カムイロキは此川の東岸、断崖峨々たる絶壁の色灰色なる大岩の半腹に穴あり。是に昔より神霊有るによって、此処へ行くことは敵わざるが故に、此方より木幣を奉るによって号るとかや』松浦武四郎・戊午日誌上巻より
『大昔、石狩にエシカという大川があり、十勝にはシベ即シアンルル(十勝川)があって、この二つの川はもと夫婦の神で、シアンルルが男、エシカは女で、その間に生まれた子供が音更川と札内川の二つで有ると伝えられている。そして昔は石狩アイヌと十勝アイヌの間に争いが起こると、よくこの伝説を基礎にして和睦をさせたという。或る年、石狩夕張の首長と十勝サチナイの首長ナイコモクヤとの間に争いが起こった。その時夕張にいたシラチッカという一人の少年が、オベリベリ(帯広)生まれであることから、十勝方に使いに出されたので、現在の狩勝国境近くの佐幌岳を超えてサチナイに行き、首長ナイコモクヤと会見して、十勝川と石狩川は同じ石狩大岳に源を発した川であり、その二つの川に住む人々は乳を分け合った兄弟ではないかと説いて、遂に両コタンの争いは解決したという』吉田厳・アイヌの伝説について・工藤梅次郎・アイヌ民話・更科源蔵・アイヌ伝説集より。※伝承者不詳で若干脚色されているかも、似た話は清川ネウサルモンフチの残した伝説にもある。新得町の佐幌岳頂上には石狩アイヌと十勝アイヌの伝説にまつわるチャランケ岩があるという。
『十勝の国内を流れている川に男と女がある。太陽が出る方から流れてくるのは男の川で、オトフケやトミサンベツはそれであり、札内川などは女の川である。十勝川の水源には十勝を見守っているシーペッペニウンカムイシセという神様がいて、男の川には山にある宝物を送ってよこすので、それで音更川の奥から石炭とか硫黄とかが出るのだ。』音更町・細田カタレフチ伝・更科源蔵・アイヌ伝説集より
『十勝の奥で小さな熊がサマイクルカムイの頭に傷を付けた。それから人間を襲うようになった。』芽室町・勝川ウサカラベフチ伝・更科源蔵・アイヌ伝説集より。※伝説で十勝の奥となっているので新得町に入れました。
『十勝サオロのケネという所に雷神の角があると云われ、それを出すとどんなときでも雨が降り雷鳴が鳴り渡ると伝えられていた。この雷神の角は、昔石狩の或るアイヌが初夏に山に行ったところ、急に落雷に遭った。剛胆な男だったので、彼は持っていた弓を雷神に引っかけたところ、その角が抜け落ちてしまった。それからこの男をエオオクテアイヌと人々が呼ぶようになったが十勝にある角はこの時のものだということである。』吉田厳・人類学雑誌・更科源蔵・アイヌ伝説集より
『十勝川と石狩川の分水嶺のあたりに、どんな寒い冬でも凍らない川が有って、その川縁に山男の村があり、夜になると犬の吠える声がしてくる。その付近はとても川獺が多いが、どうしても獲れないのにないし、うかうかしていて山男につかまると容易に帰れないから近寄れないところだという。山男は煙草が好きで、煙草をやると喜ぶが、そうでないと殺される事もある。大きなマサカリで木を伐るのに下の方から伐りあげ、雪輪を使うのに人間とは反対にはいているし、犬の足跡も後ろに歩くように付いていると旭川の老人に教えられた』音更町・細田カタレフチ伝・更科源蔵・アイヌ伝説集より
『昔ある貧乏な老人が十勝川の上流に狩りに入って行くと、顔に毛の生えた目の恐ろしい大男が、大きなマサカリを活いてくるのに出会った。きっと山男に違いないとびっくりして逃げようとしたが、もう逃げることも出来ないほど近くになってしまったので、仕方なく火を付けたばかりのキセルを差し出したところ、急に身体を小さくするほど恐縮して、這うようにして手を上げたり下げたりしてキセルを頂き、二三服うまそうに煙草を吸うと、急におそろしい目も優しくなり気持ちも落ちついて、その話をするのもわかった。それによるとこのキムン・アイヌは十勝岳の山奥へ天から用を言いつかっておろされたが、煙草の匂いがすると二里も三里も先からわかるほど好きなのに、天から下されるとき煙草をもらって来なかったので困っていたところ、今日は何よりのものをくれて本当に有りがたかった。お礼にこれをやるから決して他の人に見せないようにしておくと、きっと運がよくなるからといって、大マサカリをくれた。大マサカリはとても大きくて使い物にならなかったが、キムンアイヌの云う通りにしておいたら、それまで貧乏だった老人がそれからは猟運がよくて、とても豊かな生活をするようになった。』音更町・細田カタレフチ伝・更科源蔵・アイヌ伝説集より。※キムンアイヌの伝説はどちらも十勝川上流ということなので新得町に入れた。
明治維新後の話で、秋田佐竹藩では新政府に黙って貨幣鋳造を続けていたため、新政府より没収されるのを回避するため金の延べ棒を隠したという。隠し場所は当時の領地だった蝦夷地(北海道)という事だが、史実はここまで。以後は伝え語りというが、元領地だった宗谷方面に船を出したが、日本海が荒れたので津軽海峡を経て十勝川河口の大津に入る。十勝会所(幕府統制下の取引所)をくぐり、十勝川上流に時価三十億円の金塊を埋めたという話。
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