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北見市の駅逓跡遺構
北見の駅逓遺構と中央道路沿線慰霊碑‼

常呂駅逓所跡木標

常呂駅逓所跡

常呂駅逓開設前は藤野番屋が駅逓のような役割を果たしていたようです。常呂駅逓所は明治25年に一度廃駅としたが鐺沸駅逓廃止で開設されたというが新築移転なども有り開設地の詳細は不明。ただ駅逓廃止時の場所は判明していて昭和58年頃に標柱が設置された。木標は経年変化で痛んでいるも文字は何とか読める。常呂エリアでは他に鐺沸駅逓、ワッカ駅逓、太茶内駅逓、手師学駅逓があったが碑を設置したのは四ヶ所でそのうち碑を確認出来たのは三カ所、ワッカ駅逓の場所(第2湖口から第1湖口の方に約8.5km行った砂州)は立ち入りが出来ないようです。
◇設置:明治17年07月 ◇廃駅:昭和05年06月
◇初代取扱人:(大越善三郎)大島仁吉◇二代:江里口秀市
◇三代取扱人:渡辺冨八 ◇四代:渡辺貞子 ◇五代取扱人:福島恒次郎
◇現住所:北見市常呂町本通り ◇GPS:N44°07’19.0” E144°04’39.6”

ワッカ駅逓所跡木標柱倒壊 北見市

ワッカ駅逓所跡

 昭和58年に常呂町開基百年を記念して木柱を設置したというが、第2湖口から第1湖口の方に約8.5km行った砂州という事で、自然環境が最も厳しい所で碑は倒壊が確認されているが、再建を検討しているとの情報があったので掲載した。上原熊次郎や松浦武四郎にも記録(竹四郎廻浦日誌では昼休所となっている)され、古くからあった宿駅のようで早期の再建を願ってやまない。◇設置年(再設置):明治21年04月 ◇廃駅年:大正09年12月 ◇初代取扱人:福士休右エ門 ◇二代:福吉?村右上衛門 ◇所在地:サロマ湖砂嘴中間部

太茶内(フトチャナイ)駅逓所跡木標

太茶内駅逓所跡の碑

明治33年に石橋伝蔵は大越善三郎の放牧地の一部を借りて農業を続けながら旧太茶苗基線21号線に官設太茶内駅逓を開設、運営した。今の22号と23号の間で、伝説のイワケシ山裾にあたる豊川、道道北見常呂線のバス停「福山23号」の常呂川寄で日吉方面に20歩ほど戻った道路下に木標柱がある。虎杖の中に埋もれてるので、虎杖が枯れている時以外では碑を見つけるのは困難。常呂町開基百年(昭和58年)記念で各所に設置した木標柱のひとつですが経年劣化で文字は不鮮明、駅逓名は読めるが設置年は読めない。太茶苗は旧村名でアイヌ語の「プトº.イチャン.ナイ」に太茶苗を当てた。名前の元になったプトºイチャンナィは常呂川右岸の小沢で日吉橋より下流の28号付近らしい。松浦武四郎は安政5年にプトºイチャンナィで宿営し上流の見聞に向かっている。
◇所在地:北見市常呂町福山 ◇設置:明治34年04月 太茶苗駅逓所として設置
◇移転:明治44年12月 手師学に移転、再開 ◇GPS:N44°01’40,0” E149°59’37,01”

手師学駅逓所跡木標

手師学駅逓所跡の碑

旧太茶苗基線21号線に太茶苗(フトチャナイ-福山)官設駅逓所が設置され、明治44年に手師学字ポンクマアシリコタン(ポン隈川橋付近)に移転し手師学(テシマナイ)駅逓所として再開。昭和58年頃に太茶苗駅逓所跡に標柱を設置したらしいが今は無いようです。手師学駅逓所は20年ほど前まで駅逓舎が残っていたというも、今はその痕跡もありません。駅逓の碑は手師学駅逓所のあった場所と道を挟んだ向かい側(ポン隈川橋のT字路付近)の道路際民地にあります。ポンクマアシリコタンは明治になってから出来たコタンで明治20年頃は三軒だったという。
◇設置・明治34年04月:太茶苗駅逓所として設置
◇移転・明治44年12月:手師学に移転、再開 ◇廃駅年・昭和05年06月
◇初代取扱人・石橋伝蔵 ◇二代・石橋平四郎 ◇三代取扱人・石橋藤エ門
◇現住所:北見市常呂町日吉114 ◇GPS・N43°57’47.5” E143°56’16.5”

鎖塚供養碑・鎖塚観音像・六地蔵

端野区緋牛内・鎖塚供養碑・六地蔵01

鎖塚供養碑 碑文 端野町開基八十年記念
明治24年北海道長官永山武四郎氏は、網走と旭川を結ぶ国道開設の急を感じ網走、空知両監獄の囚人凡そ千人を動員し、5月上北両端より着工12月完成の突貫工 事をした。此の道路が北見の開発に貢献した事は言うまでもないが、工事の際死亡し路傍に埋められた墓標なき囚人は三百に余るとも云う。此の三基も亦(また)彼等を縛った鎖だけがその上に残されてあり是を鎖塚と呼ぶようになった。此処に供養碑を建て尊くも哀れな御霊を永く弔う。
昭和五十一年十月 端野町緋牛内鎖塚慰霊奉賛会一同建立

北見市指定文化財「鎖塚の区域」案内板
明治24年(1891)、網走・上川間に中央道路が開削された。この工事には約1500人もの釧路集治監の囚人が使役されたが、4月から12月という短期間に約163kmもの距離を開削するという突貫的な難工事のため200人以上の囚人が倒れて亡くなった。この鎖塚の土饅頭はそのとき亡くなった囚人の墓標のひとつとされている。ただし地形の変化等があり、その形状については現在よりもかなり低かったと考えられる。端野町の開拓は明治30年(1897)の屯田兵の入地により、本格的に始まったが、その入地に至る道路はこの工事によって作られた。
平成4年2月27日指定 北見市教育委員会
◇設置場所:北見市端野区緋牛内 菊池坂

2号駅逓所跡(第二次)の碑と案内板

端野区緋牛内・2号駅逓所跡01

2号駅逓跡案内板
端野町の駅逓は中央道路開削翌年、明治25年(1925)二区に設置された。その後美幌端野間の道路が開通した事により、明治38年(1905)中央道路との合流点である現在地に移転した。当時の駅逓取扱人は斉藤嘉藤次で有り、大正11年(1992)駅逓としての役目を終えた。石碑の位置は当時の駅逓の井戸の近辺にあたり、石碑のある高さが、当時の道路の高さでもあった。
平成5年3月 端野町教育委員会

2号駅逓跡碑文
明治38年1月浜網走、緋牛内間の道路の開通にともない中央道路との分岐点にあたるこの地に、2区東17号線から2号駅逓が移設され、斎藤嘉藤治が駅逓取扱人となった。(2号駅逓跡碑は階段を登った所で周囲三面を金網で囲まれている)以下省略

沿革と歴代取扱人
明治25年3月開駅、取扱人:生田錫三郎 明治38年2月移転『緋牛内』と改称
明治36年8月~斎藤嘉藤治 明治43年9月~斎藤正雄 大正11年2月10日廃駅
◇設置場所:北見市端野区緋牛内 ◇標高87m ◇N43°53’03.5” E144°00’11.2”

2号駅逓所跡(第一次)の碑

2号駅逓所跡(第一次)

中央道路開削翌年、明治25年(1925)二区の現在地に設置された。その後美幌端野間の道路が開通した事により、明治38年(1905)中央道路との合流点である端野区緋牛内に移転した。旧2号駅逓所跡碑(昭和59年建立)は国道沿いでバス停東17号線近くの民家前に有るが道路からは目立たない位置にある。駅逓の沿革と取扱人に関しては2号駅逓所跡の方に書いてあるので省略します。
◇設置場所:北見市端野町二区657

野付牛駅逓所跡の碑

野付牛駅逓所

通称は田尾駅逓ですが正式名称は野付牛駅逓所で私設駅逓という。地理的に官設でなくとも採算がとれたものか、駅逓の性格も12箇所の官設駅逓とは違い地域密着型であったようです。ただ官設の三号相内駅逓は実質15年程度の稼働年で、相内駅逓の廃駅後は重要な駅逓といえそう。野付牛公園に古い駅逓碑があるとの事で探してみたが、発見出来ず公園の管理人も知らなかった。平成8年の記念碑新設の時に撤去したのか? 8.5.4号野付牛モール(石北線敷地跡を利用した遊歩道)に平成8年に設置された「野付牛駅逓所記念碑」がある。
◇設置:明治33年01月 ◇廃駅:大正12年09月 ◇初代取扱人:田尾民五郎
◇現住所:8.5.4号 野付牛モール 東4号線高架下横

三号相内駅逓所跡の碑

三号相内駅逓所

国道39号線沿いラーメン寶龍さん横の角地(北見市東相内町210)に平成8年に碑が設置された。駅逓としての稼働期間は比較的短命に終わった官設の駅逓で明治25年開駅で明治40年頃廃駅となっている。
沿革と取扱人 ◇明治25年3月開駅 ◇明治40年頃廃駅
◇初代取扱人:菅原兵蔵 ◇設置場所:北見市東相内町210

中央道路開削犠牲者慰霊碑

北見市・中央道路開削犠牲者慰霊碑01

慰霊碑碑文 北見市 明治24年春、北海道長官永山武四郎は拓殖と北辺防備のため、旭川網走を結ぶ中央道路の建設を急ぎ、網走集治監の囚人を使役し開削工事に着手した。約8ヶ月間の難工事に動員された囚人千百余名中想像を絶する苛酷な労働により相次ぎ亡くなられた犠牲者は200名を超え、その多くは路傍に仮埋葬され墓標なきまま今日に至っている。平成4年7月、第5区仮監跡と考えられる当地国道の南側、豊田569番地の畑地から一体の遺骨と共に鎖錠前が発掘され手厚く供養のうえ改葬した。北見市開基百年の意義ある年に当たり当市の発展の端緒となった中央道路、現国道39号へ感謝を捧げつつ未だこの地に眠れる尊い犠牲者のご冥福を、お祈りし慰霊碑を建立する。 ※設立者は北見市、以下省略 ◇設置場所:北見市豊田
国道39号線沿いの相内市街端に案内板ありかなり目立ちます。駐車スペース数台分あり。

第四号駅逓所跡の碑

第四号駅逓所跡の碑01

丸山峠の留辺蘂四号駅逓の取扱人は北村七平から千葉新太郎に代わり、明治35年9月に宮下町ヘ移転、駅逓の宿泊の部分は宿屋とし、郵便・荷物を運ぶ部分を郵便局に分離して留辺蘂郵便局を開設。初代局長は次女の夫千葉能章。千葉能章は後に町会議員議長を歴任、留辺蘂の功労者とされる。第2次第四号駅逓所跡の碑は留辺蘂宮下町市街で国道103号線沿い。
◇明治25年3月開駅 大正12年3月廃駅 ◇現住所:北見市留辺蘂町・丸山峠&宮下町

中央道路開削犠牲者慰霊之碑 丸山峠

中央道路開削犠牲者慰霊之碑

慰霊之碑 碑文 丸山峠
中央道路開削犠牲者慰霊之碑 留辺蘂町長坂本悟朗書
明治24年、旭川・網走間に網走監獄の受刑者使役し、粗食と過酷な労働により、約1000名の従事者中200名以上の犠牲者を出し、この中央道路が開削された。昭和59年6月3日、当町花園55号で遺骨2体を発掘した。留辺蘂町発展の端緒となった道路への感謝と犠牲者の冥福を祈念するため開町70年の意義ある年に当り追悼碑を建立する。昭和60年11月15日 中央道路開削犠牲者追悼碑建設期成会 留辺蘂町

※以上碑文の内容で説明に代える。碑は丸山峠の花園側、第四号駅逓跡の碑を過ぎて間もなく
◇設置場所:北見市留辺蘂町丸山・丸山峠

五号佐路間駅逓所跡の碑と説明板

五号佐路間駅逓所跡01

丸山峠から若狭に向かい佐呂間町の境界より少し手前の花園、遠藤氏宅敷地内に五号佐路間駅逓所跡の碑と説明板がある。説明版には「網走-旭川間に中央道路が開通されるや明治25年(実際に業務が行われるようになったのは明治28年)この地に佐呂間5号駅逓が開設され、宿泊、人馬の継立、郵便物の逓送等の業務が行われた。初代取扱人に永井友吉が就任、官馬6頭、雇人1名が配置されていた。」と有りました。 ◇明治25年3月16日開駅 大13年3月31日廃駅。
◇現住所:北見市留辺蘂町花園 遠藤宅敷地内

共立峠駅逓跡 通称:5号峠

通称:5号峠

「中央道路」の生田原と佐呂間の峠は麓に設置された「5号佐呂間駅逓」の名をとって「5号峠」と呼ばれた。大正8年に旭峠を迂回する道路が開通して廃道となっていたが、昭和57年に佐呂間町共立から峠までが林道に改良され「共立峠林道」として再開された。この地域は強制労働で多くの犠牲者を出した所でもあり、昭和59年に旧「5号佐呂間駅逓」の近くから2体の遺骨が発掘されている。峠には「留辺蘂町郷土研究会」が平成3年に設置した説明板がある。

旧武華駅逓・北見市留辺蘂町開拓資料館

武華駅逓・開拓資料館

北見市留辺蘂町の重要史跡で現存する管内最古の駅逓です。その建物は日本建築学会から近代日本の名建築に選ばれています。大正9年、官設駅逓として開駅、取扱人は佐野準一郎氏。昭和11年廃止、建物は佐野氏に無償譲渡され住居として使用されていた。昭和45年、佐野氏の子息が住宅新築を機に留辺蘂町に寄附。留辺蘂町は駅逓開設時の様子を昭和59年解体修復し復元、開拓史料も展示し、開拓資料館として開放。武華駅逓は国道39号線沿い、温根湯温泉の西8km、国道を挟んで滝の湯温泉が220mと至近距離にある。

閲 覧
◇開館日 金曜日・土曜日 ◇開館時間 09~17時 ◇閲覧料 無料
※入館希望者は前日までに留辺蘂教育事務所0157-42-2723に連絡
◇所在地:北見市留辺蘂町字 滝の湯

上武華駅逓所跡の碑

上武華駅逓所跡

営業の状況は不明だが旧武華駅逓の佐野準一郎氏の弟さんで兄弟で駅逓を運営されていたと地元の方は話されていた。イトムカ鉱山の関係も有ってか比較的遅くまで利用されたようです。くまがいキタキツネ牧場より留辺蘂市街地方向に100m程に下った所にある電波塔横の草原・国道際に石碑がある。武華駅逓から約13kmの距離。草が伸びると見落とすかも。
◇設置:明治11年12月 ◇廃駅:昭和18年08月 ◇現住所:北見市留辺蘂町富士見

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