第参章・エゴイズムに染まったアイスランドポピー(続)

 蒼白な顔に決意の程がありありと浮かび

『“ニーナ、まだ注射液が残っているだろう”』

ニーナはその薬剤が中枢神経に及ぼす薬理を充分に心得ていた。

『“だがニーナ、発覚していなければ良いが発覚していれば私や弟の誇りは地に伏して身の破滅だ、ニーナその時はお前の協力が是非必要だ!”』

アキームの激しく波打つ胸の動悸が何時の間にニーナの胸に煽伝し共鳴し、やがて夫婦はアロマキャンドルに火を灯し気持ちを静めているとイヴァンが訪れてきた。

『“やあイヴァン君、さあお入り”』

夫婦は手を取らんばかりに彼を迎え入れた。イヴァンが既に目撃した事実はニーナの期待していた希望を粉々に打ち砕くには十分だった。
絶望と虚脱感に囚われたニーナの思いを察しアキームは

『“何とかして承知してくれ 頼む、男が腹を割って話したんだ。そんな邪険な事は言わないでうんと言ってくれ、私は周到な計画で実施したが君に目撃された。他は誰一人知る者はいない、だから分け前だけでも君の給料の一年分に相当する”』

イヴァンは高潔な心の持ち主でアキームの行為を、軽蔑し嫌悪していた。

『“冗談じゃない!その様な事は出来ません”』

アキームへ反抗的にそう言い放ち興奮していたが
高潔な心の持ち主と云えども次第に金の魔力に心引かれていった。
冷静になるほどに己の正義感との葛藤も、金の魔力を封じ込める事は出来ず

『“では、15.000ルーブル下さるんですね”』

イヴァンの正義感は金の魔力に敗北し
金の魔力に捕らえられた様子からこの勝ちを確信し

『“そうです、あげます。ただ今晩は無い、明暁まで待ってほしい”』

『“宜しいです、では明暁必ずお願いします”』

『“必ず。だがイヴァン君、この事は誰にも言っていないんだろうね?肉親にも?”』

『“はい、誰にも言ってはいませんよ!”』

『“そうか、それで安心した”』

イヴァンの様子を観察し安堵の目をニーナに注ぎ眼で何かを指示した。 ニーナは戸棚からウォッカとソーセージ、パンなどを運んできて二人の卓上に置き

『“さあ、どうぞ”』

グラスをイヴァンに薦め、ウォッカを注ぎ

『“貴方も・・・”』

夫のアキームにも注いでからナイフで洋皿のパンを適当に切り

『“さあ!ほんの有り合せの物ばかりですが充分飲んでください”』

ニーナは又イヴァンのグラスにウォッカを注いだ。

『“おっ、おっ、マダム、これはどうも”』

イヴァンは注がれたウォッカを飲み干した。陶酔が何時しか二人の体の隅々まで廻り、唄が出て宴席が次第に昂じて来た。二人は酒で今までの事を忘れすっかり投合していたが、ニーナだけが違っていた。
表向きには融和したかの様に見せているだけである

『“マダム、一緒に飲もう”』

『“それでは、私もいただこうかしら”』

『“お前が?”』

『“係長、良いって事よなあマダム、三人で乾杯しよう”』

『“ちょっとだけ飲むわ、乾杯は充分飲んでからよ”』

ニーナはイヴァンの差し出したグラスを受け取り一口飲み、それを卓上に置くと

『“私もグラスを持ってきますわ”』

そう言い残して席を立ち戸棚の方へ歩き出した。ニーナはイヴァンの動きに注意しながらグラスを取り出し、そのグラスをイヴァンに薦め、ウォッカを注いだ。

『“婦人、もう充分、係長、もう一杯と
そうだ乾杯、乾杯といこう、婦人乾杯しよう”』

イヴァンはそう言いながらグラスを突き出し立ち上がった。
ニーナもそれに応えて

『“貴方、乾杯よ”』

夫を促しグラスを手にし起立し、アキームも続いた。片手に持ち上げた三個のグラスは目の前でカチッ!と触れ合いそのグラスの酒を各自一口に飲む干し、イヴァンは乾杯を済ませるとすぐに帰途に着いた。イヴァンの出て行った後、家の中では嵐の後の静けさの様にひっそりと静まり返っている。二人ともしばらく沈黙を守っていたがやがてニーナがぽつんと

『“貴方、今夜は冷え込むわ”』

そう呟いた後は、黙って窓の方を眺めている。ほろ酔い気分のイヴァンは深閉として物音一つしない公団倉庫の横にある小路を通り抜けた、寝静まる付近の家の側を。抑留三日目の朝、徳治は熱湯を浴びせ飲む思いで、バルイシェフ警察中尉の差し出した調書にやってもいない事を署名し、その結果やっと釈放された。街頭スピーカーの振る打つ旋律と、クリスマスの装いに包まれたにぎやかな繁華街を通り過ぎ浪々とした足取りで歩いていた。
いつしか食糧公団倉庫の横に来て、前方の沢山の人垣を発見した。(・・何があったのかな?あの人垣は・・)不審に思い近くの男に近づいて

『もし?何か見世物ですか?』

『なんだか解りません』

そう言うと、人垣の中を覗き込む男は周りをうろつき出した。
スチームカーテンの様な人混みに徳治は中を覗こうと
体を入れる隙が無いかと人垣の後ろでうろついていると

『“どけ!全員どけ!”』

荒々しく野次馬を叱責する声が聞こえた。

『あっ、警官だ』

その声で徳治はハッとして後ろを振り返った。
すぐ後にジヤチェンコ警察准佐を先頭に四人の警官が居て
彼等は人垣を追い散らす様にして中に入り、徳治の前の人垣が無くなった。

『おやっ、凍死した人が居るらしいぞ』

母と妹であろう人が死体に取りすがい泣いている様子が徳治の目に映った。

『“あのー、その人のお母さんですか?”』

『“はいそうです)』

『“この度の事、ご愁傷の程、御察し申し上げます。この度の事を取り調べたいのですが?知っている事、何か気付いた事があれば言ってください”』

ジヤチェンコ検事官は母親に優しく訊ねかけた。

『“はい、この子は昨夜、家を出たまま帰りませんでした、この様な姿になって”』

母は冷たい屍となった我が子を見て又も堰を切ったように泣き崩れた。
そして涙を拭きながら

『“昨夜この子が家を出る時、何でも口止め料を貰いに行くと言って”』

『“口止め料、いったい何の口止め料ですか?”』

『“そう言って聞く間もなく家を出ましたので、何の事やら?”』

『“何処に出かけたのですか?”』

『“それもよ分かりません”』

口止め料の件は警官の経験上聞き落とす事の出来ない一言である。準佐もアルバトフ大尉等警官達は一同顔を見合わせた。予期せざる犯行が潜んでいる事を直感したからである。準佐は内心(・・これは予想以上の熾烈を極める難事件になるのではないか?・・)と感じていた。

『“息子さんは酒をどの位飲みますか?”』

アルバトフ大尉は、死体を覆っていた毛布を除きながら母親に聞いた。毛布を除かれた死体は凍った雪に顔を擦り付けたまま眠ったのか穏やかな表情だった。徳治は既にこの名も知らぬ死人とその家族に対し憐調の涙を注ぐ崇高な心情に達していた。死体の横顔がどうも見覚えがあり、しばらく考えているうちに公団倉庫が眼に映り徳治はハッとした(・・そうだ、公団倉庫手のイヴァンだ・・)と心中に絶叫した。食糧輸送で公団倉庫から馬橇に荷物を積むとき義三と徳治の側に来て

『“貴方達、この荷物の数をパーヴェルに良く確かめるようにしなさい”』

と徳治に忠告した男である。徳治は今までその事を考え、心の底に描きつつ彼の証言を期待していたのだ。徳治は死体を見詰め、自分の見方を失った様な最後の頼みの綱を失った衝動で目先が真っ暗になり、自分の立場がますます不利な条件のもとに導かれて行くのを感じていた。検死医師は既に検死にかかっている。眼を開けようとしたが凍結した瞼は容易には開かない。死相には苦悶の表情もなく致命傷もない。結局、酒に酔って路上で睡眠し凍死したのが直接の死因という事になった。検死作業を注視していたアルバトフ大尉が医師に死因を求めたのに対し

『“これは、一応外面上の検死結果ですので決して正確だと言えませんが”』

前置きした後に説明をした。

『“酒に酔い路上で眠った事が直接の死因ですね、襲われた形跡も無い。
尚この寒さの影響もあり死体が凍結硬直していますから
死亡時間は昨夜の12時頃と思います”』

医師の答えを検事は物足りなく感じた

『“大尉、死体を解剖に廻しましょう。
このお母さんの話によると何か背後関係が潜んでいると思われます。
新しい事実でも現れればそれが捜査の基盤を再構成しますが”』

検事は口止め料の一件で推理の糸を手繰り寄せる様に自己解釈を大尉に述べた。

『“解剖に振りましょうか”』

大尉も検事の意見に相槌を打つ様に言うと母親に注がれていた人垣の視線に

『“見世物ではない!”』

いかつい顔で怒鳴り散らした。

『なんでー、つまらねー』

黒山の人の輪が散り散りと散って行く、ふと母親に視線を向け、その眼はある決意を浮べていた、秘密を保持しなければと徳治は海辺に沿った道を歩いていた。
渚より積雪が凍結して長い氷の築堤となってそれが亜庭湾の悠曲した水平線に浮かび上がって中知床岬の山陰と交わって見える。その右手の遠くに紫色になって紺碧の水平線に浮かび上がって見えるのが西能登呂岬だ。
徳治は歩みを止め

『良い天気だ、能登呂が見える。此処から岬まで約二十五里、そして約十一里の宗谷の海を渡れば北海道だと言うに、わしはあの時の船賃があれば密航船に乗り北海道に渡れたのだが、此処が陸続きなら子の様な苦労は無かったのに』

紺碧の空と海が交合わせている羨ましい一夜帯氷の宗谷海峡を眺めながら、思いは再びバルイシェフ警察中尉に移った、これからどの様な地獄の責め苦に遭わねがならぬかと思うと、又心寂くなり自らの悲憤の泪が両方の眼から徳治の心情を表すかの様に怨差の波が涙になり次から次へと渚の氷壁へ無情に降り注いだ。

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