第四章・雛菊の咲く人権擁護院

 久子は不安と焦燥のためジッとして居れず山田宅を訪れ
義三の母親に警察署より帰った徳治の経緯を物語った。

『やはり義三も、私如何したら良いのでしょうか?』

夫の信義も長女の節子も冬山造桟に杣夫として徴用され、家に残っているのは力にならない子供だけである。山田のおかみは深い当惑にみるみる顔が曇った。

『お父さんは私に覚悟の程を物語りましたの、案じられますわ』

徳治は三日間の飢えと寒さ、睡眠不足に精神過労の為か熱があるようだと帰宅後間もなく床に就いたその時に

『光男からの便りによってわしは始めて老後の楽しい計画に浸ることが出来たが、明日の自分をも解らぬ波瀾の為にこの先光男に会う事が出来ないかも知れん。やっと会合の歓喜が兆しかけたと言うのに…』

深刻な表情で囁いたのだ。

『本当に心配ですわ、然し諦めてなんて居られませんよ、無実の罪なんかで』

そう言う山田は悩める物同志が互いに手を取り合えば必ず勝利の道が開けると言う素振りであった。

『小母さん、何か良い考えがありまして?』

『でも、私は・・・』

山田は応答に詰まった。
その時山田の頭の中にふと思い浮かんだのはビンジュコフ村長である、この村も昭和二十二年の春から少しずつ邦人の引き揚げが始り、その該当者は政府に依って生活の困難な母子家庭や、特殊な家庭が第一条件であったが、金品を村長に贈る陰の運動で情実的に引き揚げている邦人の居る事は村人の公然の秘密になっていた。

『ソ連でも賄賂は通るのよ、だからビンジュコフ村長に何かを贈って何とか私達の立場を明らかにしていただこうではありませんか
何度もお願いすればきっと出来ないことは無いと思いますわ』

山田の話を聞いている内久子も何とか道が開けるのではないかと言う希望が心の底から突き上げてきた。翌朝早く山田と久子はリュックに馬鈴薯を入れ、佐藤部落会会長を誘い村役場に向かった。三人が役場に着いた時にはまだ二、三人の日本人職員しか出勤していなかった。

『村長はまだかい?』

佐藤が不躾に部屋を掃除している若い娘に聞いた。
娘は三人に軽い会釈を返しながら

『まだ参りませんが』

『家に居るのだろうねっ?』

娘は柱時計を見て

『はい、居ると思います。
もう三十分もしたら参ります、お座りになっては如何ですか』

娘はそう言いながら椅子を薦めた。佐藤は座ろうとせずに

『通訳さんは?』

『さあ、ちょっと見えませんが、何か急な用事でも?』

娘はリュックを背負った二人の主婦を同伴している
佐藤の様子からその様に思ったらしい。

『山田さん方、村長の家の方に行きましょう』

山田は久子の顔を見ながら、佐藤の意見に賛成した。

『それではそうしましょうか』

久子は二人の後を追い役場を出て村長宅に向かった。
村長は婦人と共に共に食卓に向い腰掛、朝食後の紅茶を飲んでいた。
村長は佐藤が来た事に気付くと

『“佐藤さん、今日は早いですね…どうかしましたか?”』

村長は訝る様に三人を眺めた。

『“村長さん、実はこの夫人達がお願いがあって伺いしたのですが”』

佐藤は村長の顔色を窺いながら、村長夫人に微笑を向け、久子らに顎で合図を送った。久子と山田はリュックを床に置き

『“ゼヘナ ノ ミユ プリネスチ ネムノゴ カルトフェルッ イ スラドキィッ カルトフェルッ ポザルイッスタ”』

リュックを村長夫人に贈った。

『“まあ!これは珍しい物ばかり”』

と、夫人は早速リュックサックを別室に運び三人に椅子を薦め
丸い小卓を三人の側に置き、其処に紅茶とパンを運んできて

『“さあ!どうぞ召上って下さい、砂糖は好きな様に入れて下さい”』

夫人は配給制の物を物ともしない様な自慢顔で三人に勧めた。

『それではご馳走になろうや』

佐藤が二人に言った時コン、コンと扉を叩く音がした。

『“お入り!”』

村長が声を掛け一人の日本人が入って来た。
山下通訳官である、山下は村長夫婦に挨拶を終えてから

『佐藤さん、今日は何の用件ですか』

『実は前に貴方から村長さんに伝えて頂いたあの件なんですが』

佐藤は山下に徳治のその後の経過を話した。

『ですが、厄介な事になりましたね』

そう言いながら山下は首を傾げ尚も

『ですが、警察でそれを既成の事実として自供なされたのでしょう?
事実として確定された以上その様な裏工作をしてみても無駄だと思いますが』

佐藤の話に対し否定的見解を述べた。
久子も山田も再び臓腑を抉り取られた如く驚き、蒼白な顔を互いに見合わせた。
久子は絶望の底で混乱した心を落ち着け
何とかして打開の入り口を見出そうと必死だった。

『通訳さん、お願いです。私のお父さんは何も盗んでいませんのよ!留置所の氷点下の寒さと飢えに堪りかけやってもいない罪を被り一時を都合したのです。
それが原因で健康を害し床に伏しているのです、何とかして私共を御助けください、御願いです、御願いします』

久子は額を地に伏さんばかりに泣き付きわが苦哀を山下に懇願した。
山下はそれを見ている内に彼女等への同情ともつかぬ熱いものが込上げてきた、久子の熱い願いが山下の心を捕らえたのだろう。

『分かりました。出来る限り貴女方の意思を伝える事を約束しましょう』

そう言って山下は事件の経過と要旨を村長に通訳した。
山下と村長、村長夫人は佐藤等と話し合い一人の婦人の名を上げた、アンナ・バラノフスキー。バラノフスキー婦人は村長婦人の学徒時代の親友であったが奇縁にも戦後バラノフスキー婦人はアニワの人権擁護院の院長として、村長夫人は村の小中学校の次席訓導として十数年ぶりに再会し、それ以降何かと交流を厚くしているバラノフスキー婦人を思い出し彼女等を又明朝来るように言い基礎的資料を集め出した。翌朝二人は大きく膨らませたリュックサックを背負い村長宅を訪れ、村長夫人は笑顔で向け入れ握手を求めた。村長は久子と山田に日本語とロシア語を交ぜながらしきりに話しかけてきた。ロシア語の解らない久子等にも以心伝心村長の言わんとする事が理解出来た。村長は鞄から二通の封書を取り出し

『“これをバラノフスキーさんに渡しなさい、必ず道が開かれる”』

力強く二人を励ました
二人は二通の封書を受け取り切々な厚意に謝意を述べ表に出た。

『まあ、ほんとに良かったわ』

二人は思わず互いに顔を見合わせこれまで奔走した甲斐があったと感激に顔が潤んでいる。しかしその感激も春の淡雪の如く次第に薄れ出した。それは第一障害を跳び越えて一憩の小庚を得た様な感じになったからだ。まだ第二、第三の障害が横たわっている様な、寒々とした気持ちに駆られ、明日にでも人権擁護院に出頭しなければならないと考えていたからだ。アニワに行く途中一理半ほど人家の途絶えた雪の平原道路を歩かねばならなかった。人倫荒廃している為かよくこの道路に悪漢が出没するという風評のある今日この頃、久子ら女の一人歩きは危険であった。一度は人権擁護院に出向しなければならないが、心を決めた事とはいうもやはり女性である。延ばし延ばしいているうちに三日が過ぎ、その内徳治の風邪も次第に回復して来た。

『久子、この分ではわしが行けるわい。』

『お父さんがアニワまで、大丈夫ですか?』

『うん、大丈夫、大丈夫、明日行くのは?』

『では馬で?』

『ただの三里半だ、歩いて行くさ。この分では明日は大丈夫だろう。』

戸外は粉雪のさらさら降る静かな夜だった。翌朝、雪が旭光を受け輝く快晴の中を

『では、お父さん。気を付けて行ってくださいね』

玄関で見送る久子の声を背にして、徳治は僅かな期待を胸に秘めつつアニワに向った。一直線の平原道路をあるいている時後ろから来た一人の男が小走りに徳治に近づき、突然『やあ、どうも』と、話しかけてきた。役場の通訳官、山下である。双方とも立ち止まり

『この間はどうも有り難う御座いました。山下さんのお骨折りで、今アニワ人権擁護院に行く所です。ところで山下さんはどちらまでですか?』

『ええ、知人の所まで』

雑談をしている内に直線の平原道路を過ぎアニワの町並みが見え始めた頃山下は

『これは空模様が変だなー、崩れるかなー』

そう言いながら空を見上げた。今まで透通る様な紺碧の空が急激に墨を塗った様に曇り出し、水分の含んだ雪が降り出した。それは風雪の予兆の様に思わせるのに充分だった。徳治は天候具合を懸念しながら、アニワ市街地に入った頃は以前にも増して風雪が烈しくなっていた。

『もし吹雪になったらこの家に寄りなさい。
私の知人の平川の家で、今晩私も厄介になるから』

そう言い残し山下は町端にある平川ブローカー宅の方向へ姿を消し、平川の家で平川夫人とで二、三言、話しかけ山下は警察署に向った。
徳治はやっとの事で尋ね当てた中の様子を窺う様に入り口の所に立ち、外套に付着していた雪を払い落とし中へ進んで行った。

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