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第五章・明るみに出る弟切草

 山下はまだ平川宅に来ていなかった。警察署に出頭したのだという。

『もうすぐ帰ると思いますので、家でお待ちになって下さい。
どうぞお入りになって』

山下とこの家とはよほど懇意にしていると見へ、吹雪のかすめる玄関口に佇む徳治を鮮人服を着た平川の内儀さんが、手を引かんばかりに招し入れた。やがて通された部屋は酒精の香りが鋭く鼻に突く部屋で大きなストーブの上に蒸発皿が置かれ、皿の中でお湯が烈しく沸騰するほど赤々と燃えていて、ウォッカの密造を思われた。その傍らで使用人らしき若い男が蒸留器を黙って見守っている。徳治は一時間も炉辺で山下の来るのを待ちあぐねていた。・・中々帰ってこない、徳治は気をもみ

『山下さん遅いですねー』

呟く様に平川の内儀さんの顔をみると、平川の内儀さんも心配そうに

『本当に。如何なさったのでしょうね』

不安そうな面を夫の平川に向けた。

『なーに、彼奴もブローカーの端くれだ、叩けば埃が出るが大した事は無い。もし帰らなければ、後でバルイシェフ警察中尉様に御願いするさ』

至極のんびりした口調で言った。平川は統制経済の裏で暗躍するブローカーの黒幕だけに、バルイシェフ警察中尉に対して常に山吹色の菓子を貢いでいた。それだけにバルイシェフは平川の御願い事を適えている間柄である。平川はふいに

『ところで爺さんは何の為に又人権擁護院なんかに出向いたんだい?』

徳治は帰ってこない山下の心配する心を変えるため、聞かれるままに徴用の日から今日に至るまでの事を簡単に説明した。無実の罪に罰せられ、之まで苦しんで来た事を話し終えると、平川と原川の内儀さん、そして御内儀さんの傍らに居た男も互いに顔を見合わせ、突然朝鮮語で口早に喋り出した。何を言ってるとかは解らずとも、この異様な雰囲気で、何か自分に聞かせたくない秘密のあることを直感で感じ取り、先程、平川がバルイシェフ警察中尉様と言った言葉を思い出し

『平川さんはバルイシェフ警察中尉さんと親しいのですか?』

『いいえちょっと知っているといった程度の知人なんですが』

何かをごまかそうとする態度で言った。
更にお内儀さんが話を進め様とすると

『“(危ない!喋るな!)”』

朝鮮語で止めてから、徳治に向って

『それで弁護士先生は何と言ったかね?』

『はい、時計を弁護料の変わりに引き取ってくれました。
これで冤罪が晴れると思えば時計なんぞ惜しくもありませんが』

徳治はそう言いながら苦笑、平川は頭を振りながら

『全く、腹の立つ事だね』

部屋の片隅に積まれている十数個の
バターやソーセージの箱に視線を向け話題を変えて

『あんなに多くのソーセージなど良く買えましたね?』

『アレですか、アレは警察官の特配品を
バルイシェフ警察中尉さんが私に幹旋してくれた物で』

翌朝、着剣した二人の兵士が警察署の留置所の扉を開きながら

『“山下取調べだ”』

山下の傍に立ったそう言いながら。その兵士に男は静かに一言

『“ドブレ ウトロ(おはよう)”』

微笑みをたたえ朝の挨拶を交わしながら出て行くのを兵士は無表情で見送った。これはどう考えても凶悪犯に対する処置ではない、取調室まで行く途上に不吉な予感が山下の脳裏に次々に去来する。

『“山下さん、最近日本紙幣をルーブル紙幣に交換したそうだね、その紙幣の中から血液の着いた指紋が発見されたんだ。いい加減に吐いたらどうなんだ”』

バルイシェフ警察中尉は凄い目付きで山下を詰問したが

『“ベゼシュトケ(冗談じゃない)”』

伝法の口調で否定したが、その時扉を叩く音と共に一人の男が入って来た。
その男はバルイシェフ警察中尉と握手を交わし終えると

『山下君』

憤々しい口調で山下に言葉をかけた。

『(あっ!)』

昨夜の男だ、山下は心中絶叫した。凶悪犯と言う昨夜の陰惨で不潔な面影は微塵もなく、不精髭は綺麗に剃り落とされ矯正な服装。山下の思慮は混乱と焦燥に包まれ、目が異様に血走り、心臓が鷲掴みされた様に痛く、鼓動を脳髄に響かせた。

『山下君!解ったろう、ネー君謀られたのだよ!』

その男は陰険な眼で山下を見下しながら懐中から身分証明書を取り出し
それを指し示しながら

『“僕は刑事です。昨夜の芝居で一挙に犯行の核心を衝いたのですが、君は僕の計画に陥ちた、それだけじゃない、徳田殺しの有力証拠を掴んでいるのだよ。
聴きたくば、これから調べてやる”』

田村刑事はバルイシェフ警察中尉に聞かす様にロシア語で声を怒して斬込み、その後に昨夜の顛末を詳細に中尉に報告した。山下は驚きの余り顔から血の気が失せ、膝に置いた手が微かに震え出し今までの虚勢が一片に消えた。心なしか威厳を感ぜられる素振りで山下を凝視し、ポケットからシガレットケースを取り出しながら

『“一本どう、君の腕も相当なものですなー”』

そう言いながら田村刑事に差しだし、ジッポーのふたを開ける音を鳴らした。
中尉は煙草をふかしながら冷酷な口調で

『“もう一度僕の前で昨夜の啖呵を切ったらどうだね?
どうした・・・早く切らんか”』

陰険に山下の応答を待っている。山下は眉を寄せ深刻な表情になって中尉の凝視を浴びている。田村刑事に大きな釘を打ち込まれ逃げも隠れも出来ない身、隠せない罪、観念した、それは現実からの絶望である。

『御手数をかけました』

それだけを言って山下は唇を噛み、がっくりと首を落とした。良心に攻め苦しまされてる後悔の情と、絶望に苛まれる心情か? 数日前まで山下は事態を甘く見ていた、事件の通訳で迷宮入りにさせた事を楽観し最近、日本紙幣をルーブル紙幣と交換した、それが仇となり日本人の間に噂が広まり田村刑事の聞き込みの焦点に触れたのである。バルイシェフ中尉は田村刑事の報告書類を見ながらペンを白紙に走らせている。

『“山下、奪った金は?”』

『“イスポィズエミィィ(使ってしまいました)”』

『“解らん奴だ、その使途はどうした?”』

焦れた様に言う中尉の言葉を打ち消す様に扉の軋む音がし、ベシカレフ署長が表れた

『“署長、とうとう吐きました“』

中尉はそう言ってペンを置き、思いがけなく分かりかけてきた事件の全貌。その事に素直な喜びを満面に浮かべ署長を見上げた。そのバルイシェフ中尉の気持ちは察せられるが、なぜかこの喜びに気後れする様な威圧を署長は感じるのである。自分の心にボギンスキー殺人事件の不解感が繋がっているいるからだろうか?
署長はしみじみとした調子で

『“田村君、君の努力に対して栄誉ある報奨が後日贈られるだろう“』

田村刑事の肩を叩き、田村の薦めた椅子に腰を下ろした。

捜査の手を休めている中尉に気付いた署長は

『“アンドレイ君、僕にかまわず取調べを続けてくれたまえ”』

パピロスをくわえ火をつけ、机に顔をうつ伏せている山下を黙ってみていた。150cmそこそこの小柄な青年だが、なんとなく肝っ玉の太々しさが表れている。中尉は田村の捜査メモを見ながら尋問している。

山下の犯罪が当然平川ブローカーに累を及ぼす事は必然、山下の理性は崩壊し自分の弁護する心理的余裕も喪失し空白な無気力な状態に陥っていた。結納のために平川ブローカーに二万ルーブルを支払ったと…

『“なに、平川ブローカーに”』

反問する中尉の顔に暗い翳りが走った。署長はこの応答をじっと聞いていた。食糧統制が厳しい時に匹夫に等しき者が食糧品を誰から求めたのか?一足飛びに麻酔剤殺人事件の被害者、イヴァン・ボギンスキー食糧公団倉庫手青年が殺されるその夜、母に言残した”口止め料”の一言を思い出し、二本目のパピロスに火をつけ推理の糸を手繰るかの様に物思いに沈んでいる。古今東西を問わず統制経済に着いて回るブローカーの暗躍。この貨物食糧品もブローカーの暗躍によって遠地からはこばれた物かも知れな。しかしイヴァンと何か関係があるとすると、ジヤチェンコ准佐の報告でイヴァンの死因が国立病院解剖室で検査された結果、胃液中から麻酔剤チクロパントナトリウムが検出され毒殺と断定された事を。

『“今回の事件は殺人なので至急捜査を開始する。迅速にこれを解決しなくてはいけない、したがって諸君は第一にイヴァンの行動の聞き込み。
第二に被害者イヴァンの対人関係
恨みや妬まる原因あるかどうかを徹底的に聞き込む事。
第三に麻酔剤関係方面を調べる事、この麻酔剤はアニワ国立病院の婦人科等で使用されているという事だ。その方面を聞き込む事・・”』

俊敏なジヤチェンコ准佐の指示の元、警察官は八方に飛んだ。

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