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第五章・明るみに出る弟切草(続)

 幾多の聞き込みの報告が八次早に集まってくる。過去も現在にもイヴァンは他人から恨まれたり妬まりたりする様な事は何一つとして無い。
しかし素行ではイヴァンの近くに住む青年から係長の所へ行くとそう言っていた注意を引く聞き込みがあった。この情報を持ってきた刑事は今にもアブラモフ家に突撃しそうな様子で准佐の言葉を待っている。

『“その前にアブラモフ家の周辺の聞き込みを先にすることだ。
周辺の家で酒宴の喧騒を聞いた者が居ないかどうか、居たらその時の事を詳しく。
次は彼の素行履歴、これの聞き込みが先決だ。何かしらの物的証拠無く初めから切り込むのは手落ちを伴うのも一緒だ”』

程無く周辺の聞き込み情報を持ち帰ってきた。
ご苦労と言うジヤチェンコ准佐の瞳は真剣に輝いている。

『“よし、行って見よう・・・”』

厳然とした口調で傍に居た二人の刑事と共に席を立ちアブラモフ宅に向った。
ニーナは強張った表情でジヤチェンコ警察准佐達の訪問を受けている、先程弟のアンドレイが訪れ犯した罪は今更変えられない事、したがって事後策を講ずるしか方法が無い為僕が巧みにこのアリバイを工作するから絶対にイヴァンが来た事を言ってはならない事、警察では色んな方便を用いて口を割らせようとするのでその誘いに乗ってはならない事をアンドレイに言われその事がニーナの狼狽を危うく食止め警察官との応答をさせた。

『“奥さん、昨夜お宅にお客さんが来たね”』

『“いいえ、どなたも参りませんでしたわよ?”』

『“いや、来たはずだ。
歌やタップダンスの音で賑やかにしていたそうじゃないですか”』

『“いいえ、昨夜は主人は留守でしたので誰も、私一人でしたので誰も”』

『“いいや、隣で聞いていた人がいるんだよ、十時過ぎと思われる頃だ”』

『“その時刻にはまだ主人が帰宅してなかったので
その賑わい私の所ではありませんわ!”』

村人達は冷酷無比の警察官と怖れているが、ニーナにとっては優しい弟である。何事もニーナに示してくれる親切さ、優しい思いやり、その弟の力に縋るなら、良市民の仮面を脱がずに済むであろうという自負心が泉のように湧いて来る。
総じて准佐達に対する応答もさり気無い口調に為っていた。

『“奥さん、隠しても駄目です。調べで全てが分かっているのです。
隣のご主人の話では、大声で歌うカチューシャの歌声を立証しているんですよ。
イヴァンが貴女の家に来たことを証言する人もいるのですよ、いずれ貴女にも証人と一緒に警察署に来てもらう事になります”』

穏和な顔つきで至極のんびりと斬込んで行く准佐の一問一句の証文が
ニーナの意表に食らいつく様に激突して行く。

『“これから家宅捜索に入る”』

厳然とした口調で傍らにいた刑事に指示し

『“奥さん、一応家の中を調べます”』

ニーナは口惜しそうに俯いて唇を噛締めている。

刑事はそれに構わず衣類、寝具を問わず手当たり次第に調べ始めた。
一人の刑事がニーナの凭れ掛っている机の引き出しを調べようとして

『“奥さん、奥さん、ちょっとこの席を立ってください”』

ニーナは刑事を睨んで立ち上がった。

『“奥さん、これは?”』

刑事は一枚の紙片を持っている。ニーナはそれを見て深い谷底へ突き落とされた様にはっとして次第に狼狽の色が顔に浮かんでくる。

『“それは振替を送った控えなんですが”』

『“それは分かっているのだ”』

刑事はニーナの腹を探る様に視線を向け准佐も窓際にある机の引き出しの中を調べていた。中にインク、用箋等が雑然として入れてある。
その片隅に小さな紙筒があった。准佐はその紙筒を開いて見たが中には何も入っていない、それを捨て様としたその時、准佐の目に小さな文字が映った。
その紙筒はある医療雑誌の一枚らしくそれを半分に折りたたみ、それに4センチ四方程の小さな物を包んだ形がくっきりとついている。

『“奥さん、何か医療関係の雑誌でも取っていますか。
ありましたら見せてください”』

ニーナは刑事の算問に虚を突かれ答えに窮し前後の算問にただ唇だけで答えながら、かつてない暗い表情になった。

『“おい、今帰ったよ!”』

扉に手をかけたアキームははっとして息を呑んだ。
狭い室内から警察官の査問が溢れて来る。

『“もう手が回ったのか?”』

ドアの陰にじっと身を潜めそっと中の様子を窺った。疑惑の目で聴聞を受けている妻の様子が強く彼の耳に響いて来る。彼は足音を忍ばせてドアを離れ血の気の失せた顔色で走るようにバルイシェフ宅に足を向けた。不安と焦燥で繁華街も何となく物々しい空気が漂っている様に感じられる。十字路を走る様に横切ろうとした時

『“あら、アブラモフさんではありませんか”』

ふいに横合いから呼ばれ振り返ると、そこにはロシア美人のソフィーヤがいた。頬のふっくらとした血色の良い顔に微笑みを浮かべながら彼女は

『“やはりそうでしたわ、私今お宅に御訪問しようと思って参りましたの”』

そう言われアキームは咄嗟の返事に詰まった。

『“そうですか、たった今パンの配給店に行ったばかりですが、もう三十分もすると帰ると思います、妻が扉の鍵を持って行ったものですから帰る事もできません、そこのレストランで三十分ばかり過ごしませんか?”』

アキームはソフィーヤを誘って近くの食堂に入り一番片隅の人目の引かない席にを選び腰を下ろし、紅茶を飲みながら

『“ソフィーヤさんの入隊した時は確か
私が曹長に任官した時と記憶していますが”』

『“えっ、そうでしたわ、あの当時は衛生曹長で頑張っていましたわ
そして奥さんは私の班の班長さんでしたわ”』

『“そうでしたか・・・”』

『“ではもうすぐ二十四歳になるのですね”』

『“あら!どうしてですの?”』

『“君の前ではちょっと言いにくいなー”』

『“どうしてですか?”』

『“だって僕は君の一生の事、それを考えているのでお分かりでしょう
弟のアンドレイは二十六歳なんですよ、今度会ってくれませんか。
彼も貴女に会う事を非常に喜んでいますから”』

アキームの言葉にソフィーヤは好意の微笑を浮かべて

『“えー、昨日街でバルイシェフさんをお見受けいたしましたのよ
男らしくて立派な方ですね”』

熱のこもった口調で言ったソフィーヤの頬には薄紅色を塗った様に赤く染まっていた。アキームの真横の席で、先程よりビリュコフ刑事は、彼等に視線を注ぎながらグラスのウォッカを飲んでいる様に装い、ひそひそ話しを聞いていた。
女の声・・・その横顔?

『“おっ、そうだ。あの女は!”』

アルバトフ刑事に随行してアニワ国立病院婦人科を捜査した時に居た看護婦ではないか。ビリュコフ刑事は、彼等に悟られない様に卓上に顔を伏せじっと彼等の会話に耳を傾けていた。

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