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にしん街道を巡る旅
追分ソーランラインからオロロンラインまで‼

北海道最長の観光ルート 松前~稚内

北海道の日本海沿岸市町村にはニシン漁最盛期の姿を象徴する「にしん番屋」をはじめ有形・無形の文化財が数多く残されています。松前町から稚内市までの日本海沿岸約700kmの道のりを「にしん街道」と命名、北海道日本海沿岸市町村の歴史と文化などから「ニシン」に今一度スポットを当て、往時のにしん文化を蘇らせ継承するとともに新たな観光ルートの確立や日本海沿岸市町村の活性化につなげようというもので、平成16年に松前町から始まった「にしん街道標柱設置」は平成25年の羽幌町まで“22市町村、25ヶ所”(確認数)に広がっている。

各地に共通の文化をもたらしたニシンも大正~昭和初期にかけて漁獲がなくなり、今ではその姿をみるも少なくなりました。激減の原因として諸説あるが、日本の場合は産卵期に「ニシン」を根こそぎ捕ってしまう略奪漁法が最大の要因とおもわれるが、それだけでは説明のつかない謎を秘めた魚がニシンでした。ニシン漁場の親方を網元と云っても広い意味(辞典的解釈)では間違いではありませんが、北海道のニシン漁場ではなぜか網元という用語は使用されず親方と云うのが普通でした。場所柄や漁場経営規模の違いで旦那衆とかニシン大尽などと呼ばれたりすることはあったようです。またヤン衆はいろいろと問題をはらんだ呼称のようで、雇い漁夫は若い衆(年配者であっても)と云いヤン衆とは云いませんでした。従って当サイトでは北海道のニシン文化遺産と云う意味で網元やヤン衆という呼称はできるだけ避けています。ここでは松前町、江差町(姥神・尾山)、上ノ国町、乙部町、八雲町、せたな町(大成区・瀬棚区)の街道碑やニシン文化遺産(主に建築物と漁具、関連施設)を紹介しています。

にしん街道標柱松前町MAP

にしん街道標柱・松前町折戸浜にしん街道碑はこの辺では数すくない砂浜の広がる折戸浜海水浴場前にるが説明板はなく標柱のみ。北海道の最南端で蝦夷地唯一の藩である松前藩の城下町、松前を起点とし、日本海沿岸地域を通り日本のてっぺん稚内を結ぶルート、総延長約700kmを『にしん街道』と命名、北海道のにしん文化を再び蘇らせ、後世に引き継ぐとともに、にしんに関連する食文化、歴史的建造物、伝統芸能を活用した新たな観光ルートの確立と、にしん漁により繁栄した北海道日本海沿岸地域の伝統を活かし日本海沿岸の30市町村の活性化に繋げようという壮大な試みというが、ニシンで栄えた街道のスタート点になんの説明板もないのは解せない。最初に設置されたようなので設置年を平成15年頃としておく。◇設置年:平成15年? ◇設置者:にしんルネサンス実行委員会? ◇所在地:松前郡松前町字館浜7番地先 折戸浜 ◇G.maps:41.436830, 140.063287

にしん街道標柱上ノ国町MAP

にしん街道標柱 上ノ国町説明板より転載
『松前の伝説の中に「大蔵鰊」という名高い伝説があります。その昔、上ノ国に大蔵郷という行方堅固な山伏が住んでいました。ある年、五月になってもニシンが群来しないので、村人はこの山伏に頼んで祈祷をさせました。すると、山伏の祈りが通じたのか上ノ国の前浜は大漁に沸いたそうです。しかし、村人たちは大漁になったとたん群来は自然のものと難癖をつけたので、山伏は怒りのあまり食物をたって死んでしまいました。翌年、ニシンは江差に群来しましたが、上ノ国には群来せず、祟りもあったので村人は恐れて、山伏を神として祀ったそうです。以後、他の村々でニシンが不漁でも、上ノ国では神の効験があって大漁の年もあったそうです。人々はこれを「大蔵鰊」と言って不思議そうにしていたということです。

いま、上ノ国に暮らす私たちは、伝説「大蔵鰊」に謙虚に学び、地域の歴史や文化を掘り起こし、そして読み解き、未来への確かな手がかりをみつけていきたいと考えています。松前町を基点に海沿いを北に続くニシン街道の一拠点の証として、飛躍の願いを込め標柱を設置しました。各地域が携えるニシンの歴史と伝説を受け継ぎ、語り伝える千鈞の柱。』
◇設置年:平成20年6月14日 ◇設置者:上ノ国町観光協会 ◇所在地:檜山郡上ノ国町字上ノ国236番地 ◇G.maps:41.803467, 140.104069

大蔵鰊傳説若宮社跡MAP

大蔵鰊傳説古跡 上ノ国町18世紀後半に蝦夷地を旅した菅江真澄氏が上国寺の松逕上人を訪ねた折、上国寺前にあった神社の事を尋ね記録(菅江真澄遊覧記2-143p)に残している。にしん街道と重複部分もあるが要約すると『百年のむかし大蔵法印秀海という修験者が庵を結んで修行をしていた。ある年鰊が全く群来ず里の人達が嘆いていたところ「私が神に祈って鰊を呼びよせよう。その代わりとれた時には私に少しずつわけて下さい。寺の修理をしたいので」と秀海が言うので、里の人はそれはたやすい願い事と約束。鯡漁期を60日も過ぎて祈りの効果は疑問視されたが「時期はずれに来てこそご利益とというもの」とまず心身を清め注連を七重に張り廻らし食物を絶って一心に祈った。7日もたたないうちにアホウ鳥が沖に集まり、鴎が海面を覆い鯨が大波を起して汐を吹き上げ鰊の群来る前の兆があり、やがて海の色が真白になり例年以上の大漁になったという。里の人達は約束の返礼品を贈ったが、1人のつむじ曲がりがいて「今年は季節が遅れていたのであって山伏のご利益なんかではない」と何かと因縁をつけお返礼品も出さず、その後も自分勝手な言い分で法印を嘲り続け悪者にするため、法印と争いになりそれが元で法印は死んでしまう。それから数日後につむじ曲がりの人が突然病気で亡くなり、続いて妻子達も次々と死に絶えてしまった。このことをみた里の人たちは法印の御霊を若宮として祀り鰊神と言うようになり、庵のあった辺りに6月になると2・3匹の鰊が打ち上げられるのを大蔵鰊と呼んだ。』という。江差姥神鰊伝説は幸せなパターン、上ノ国大蔵鰊伝説は哀しいパターンの代表的な鰊漁伝説のようです。1570年頃から大蔵法印秀海が上国寺の三代目の住職となり八幡宮の別当も兼ねたという。法印が亡くなった慶長3(1598)年に法印をお祀りしたのが「若宮社」のはじまりで、国道の南側に若宮社があり、この辺は大蔵屋敷とよばれていたという。今は八幡宮に合祀されているようです。◇所在地:上ノ国町字上ノ国

旧笹浪家住宅国指定重要文化財MAP

旧笹浪家住宅旧笹浪家は上ノ国で18世紀初めから続いたニシン漁場の網元で、初代は享保年間に能登国から松前福山に渡ったとされ、後に上ノ国に移り住んだ。旧笹浪家主屋の部材は大部分にヒバが使用され、屋根はヒバの割柾葺で置き石が印象的だが、笹浪家古文書には1857(安政4)年に家の土台替え、翌年には屋根の葺き替えを行ったという記録があるという。

北海道の現存民家では最古に属し、北海道の日本海沿岸に残るニシン番屋の原型とも言われる。築後約150年の平成2年に笹浪家から町に寄贈され、平成4年に国の重要文化財に指定された。2005年から付随する米、文庫蔵(嘉永元年建設)を上ノ国の歴史をたどるガイダンス施設として公開され、地元で発見された縄文時代~近世の出土物等を展示している。
◇入館料あり:時間 10:00~16:00 ◇毎週月曜日休館:11~3月休業 ◇所在地:上ノ国町字上ノ国 ◇G.maps:41.803454, 140.104182

にしん街道標柱江差町姥神MAP

にしん街道標柱・江差町姥神説明板より転載です。
『北海道日本海沿岸においては、北前船の交易によって大きく繁栄し、18世紀半ばのにしん漁最盛期には多くの廻船問屋や土蔵が連ねて建ち並び、「江差の五月は江戸にもない」と言われ、歴史と今に伝わる数々の郷土民芸や建造物をこの地にもたらしました。そこで、今一度、日本海沿岸の市町村を支えた「にしん」に歴史・文化等多方面からもスポットをあて、新たな産業や観光資源の創出を目的に、各町で「にしんルネサンス事業」が展開されております。このため、「にしん」に関係した日本海沿岸の市町村全体に「にしん街道」の標柱を設置することにより、往時の繁栄された頃の「にしん文化」を再び蘇らせ、後世に引継ぐとともに、新たな観光ルートの確立など各地域での活性化に繋げる証として、この標柱を設置したものです。』意外と目立たないところにあります。
◇設置月&:平成17年10月吉日 ◇設置者&:江差観光コンベンション協会 ◇所在地:檜山郡江差町字姥神町167番地1 江差地方合同庁舎横 ◇G.maps:41.867534, 140.124596

にしん街道標柱江差町尾山MAP

にしん街道標柱・江差町尾山説明板より転載
「海道日本海沿岸においては、北前船の交易によって大きく繁栄し、十八世紀半ばのにしん漁最盛期には多くの廻船問屋や土蔵が連ねて建ち並び、「江差の五月は江戸にもない」と言われ、歴史と今に伝わる数々の郷土民芸や建造物をこの地にもたらしました。

そこで、今一度、日本海沿岸の市町村を支えた「にしん」に歴史・文化等多方面からもスポットをあて、新たな産業や観光資源の創出を目的に、各町で「にしんルネサンス事業」が展開されております。このため、「にしん」に関係した日本海沿岸の市町村全体に「にしん街道」の標柱を設置することにより、往時の繁栄された頃の「にしん文化」を再び蘇らせ、後世に引継ぐとともに、新たな観光ルートの確立など各地域での活性化に繋げる証として、この標柱を設置したものです。」道の駅に隣接しているのでわかりやすい。
◇設置年:平成17年10月吉日 ◇設置者:江差観光コンベンション協会 ◇所在地:檜山郡江差町字尾山町1番地 道の駅 江差 ◇G.maps:41.894175, 140.139413

旧中村家商家建築MAP

旧中村家・江差町旧中村家は近江能登川出身で海産物の仲買商、大橋宇兵衛氏の店舗兼居宅。北前船で運ばれた越前石を土台に、総ヒノキアスナロ(ヒバ)切妻造りの二階建て、母屋から浜側まで文庫倉、回船業も兼ねていたので、浜側に倉二棟を連続しハネダシまで続く通り庭造りで、当時の代表的な問屋建築と云い北海道の土蔵造町家としては古い例に属する。大正年代初期に大橋家から中村米吉氏が譲り受けたが、昭和46年に国の重要文化財に指定されている。ハネダシ部分は昭和30年頃海岸道路の建設時に取り壊されたものを、昭和55年からの保存修理の時に根崎のハネダシを参考にして修復再現したという非常に珍しいものです。なお根崎のハネダシは北海道開拓の村に移設復元されています。◇築設年:明治22年頃 ◇築設者:大橋宇兵衛 ◇所在地:江差町字姥神町 ◇G.maps:41.869189, 140.128646

横山家商家建築MAP

横山家・江差町黒板の門塀を囲い二階は出窓を簾で覆った京風商家で落ち着いた佇まいを見せている。寛延元(1748)年に能登の国出身の初代横山宗右衛門が江差に渡り、天明6(1786)年頃には現在地においてにしん漁場の直営、商業、回船問屋を営んでいたという、道南生え抜きの漁場経営者で商家でもあった。現在の建物は今から約160年前に建てられた家屋で、母屋と四番倉にはニシン漁全盛期のころに使用されていた生活用具などが陳列されています。横山家にもハネダシがあり回船業を営むうえで必須の施設だったのかもしれません。檜山地方の漁家にはハネダシ倉は多かったようですが昭和60年頃には殆ど見られなくなりました。昭和38年に北海道の文化財に指定されています。「檜山の史跡と伝説」では網元建築横山家となっているが実態に合わせて商家建築とした。◇所在地:江差町字姥神町 ◇G.maps:41.867208, 140.125048

北海漁祖折居社跡MAP

北海漁祖折居社跡説明板より「姥神社・折居社跡 往古、折居という姥が信託を受けて、江差に鰊をもたらしたと伝えられる。その後、姥は姿を隠したが人々は姥の祀っていた像を「姥が神」として、この地で尊崇していた。これが姥神社(現在の姥神大神宮)の基となった。正保元(1644)年、姥神社が岩崎(姥神大神宮あたり)に遷ると、折居姥を敬う人々はこの地に折居明神の堂宇を建てて祀った。折居明神も天明2(1782)年に姥神社の境内に遷され、現在では折居社として祀られている。この地は折居姥にまつわる跡地として、町の人々の手によって伝説の地として、今なお大切に守られている」※元々は江差港入口付近にあったが安永3(1774)年に現在地に移され、ニシン漁の始祖として漁業家に尊信された。折居婆の庵に残された三神を祭ったのが姥神大神宮の始まりとされている。◇所在地:北海道江差町字津花町 ◇G.maps:41.866021, 140.121280

瓶子岩MAP

瓶子岩・江差町徳利を逆にしたような形の高さ約10mの岩。今から500年ほど前、ニシンが不漁続きで飢餓に至った時、折居婆(おりいばあさん又は於燐姥おりんばば)が鴎島で白髪の老翁からもらった神水を海に注いだところ、たちまちニシンが群来したとい云う。その神水を入れていた瓶子が岩になったといわれている伝説の岩(姥神伝説)で、古来より漁民の守り神として大切にされている。折居婆さんが信仰していた神様と婆さんを庵を折居社とし、鰊漁に関する道南の代表的な伝説ですが何通りかのパターンがあるようです。◇所在地:江差町鴎島 ◇G.maps:41.867926, 140.115752

群来の標柱MAP

群来の標柱群来の標柱写真の文字が不鮮明なので転載する。「鰊の群れが産卵の為に浜の浅瀬に押し寄せ、雄の精子で海面が白く濁ることを「群来」と呼び漁師たちは大急ぎで漁具を用意し鰊を追い込んでいった。「江差の五月は江戸にもない」とうたわれた繁栄の礎を築いた群来は大正2(1913)年を最後に訪れる事はなかったが、平成29(2017)年2月26日朝、鴎島の漁師が巾150メートル、長さ50メートルにわたって海面が白く濁っているのに気付き、二日後、海藻に産み付けられた透明な鰊の卵が確認された。実に百四年ぶりの慶事であった。背景には、資源保護や稚魚の放流等の地道な努力の積み重ねと江差町民の誇りである「おまつり(姥神大神宮渡御祭)」の由来となっている折居婆さんの戒めの示す深い意味があったことを伝えるとともに、この群来が江差の明るい未来を拓くことを願い 「群来の標柱」を建立する。平成30年2月26日 江差旅庭群来 棚田 清」※鰊は古くより蝦夷地の経済を支えた魚で鯡とも書かれました。産卵に押し寄せる鰊の乱獲が資源枯渇に拍車をかけた事は想像出来るが、漁法の未熟な江戸時代にも半世紀もの不魚の後に復活したりと乱獲だけでは説明のつかない謎を秘めている。また日本海沿岸に点在する多くの町では鰊漁で拓かれ繁栄し鰊漁の衰退で過疎が進行したという歴史をもっている。標柱は江差旅庭群来の道路沿いにある。◇所在地:江差町姥神町1−5

江差追分節記念碑鴎島MAP

追分碑信州中山道で唄われていた馬子唄が北前船の船子や旅人達によって伝えられ、座頭佐之市がケンリョウ節と追分を融合させ江差追分を誕生させたということですが、その成立起源については伝説に近い話で、古文献や資料もなく正確なことは殆どわかりません。ただ本歌に「忍路高島およびもないが せめて歌棄磯谷まで」とニシンの北上に伴って追いニシンで北上する漁夫(二八取り)と、それを追いかける女達が唄われている。江差沖揚音頭(ソーラン節)はニシン場での作業歌だが、江差追分節は鰊漁で栄えた江差で漁夫や商家の旦那衆、鰊場親方の交遊するお座敷など主に屋内で唄われたようです。いわばニシン漁で繁栄する「江差の五月は江戸にもない」という北辺の風土と人情を唄い込んで発展してきた歌でした。写真はかもめ島にある江差追分節記念碑で江差追分会有志によって昭和7年11月に建立されが、この頃から江差追分節が全国に広まったと言われている。いま唄われている歌詞とは異なり「松前江差の 鴎の島は 地から生えたか 浮島か」と記されている。江差追分会館前にも江差追分節記念碑がある。◇所在地:江差町鴎島

にしん街道標柱乙部町MAP

にしん街道標柱・乙部町港の見える所ににしん街道標柱が設置され、その隣には箱館戦争官軍上陸の地跡の標柱がある。以下は説明板より転載
乙部町でにしん漁が本格化したのは、およそ300年前の江戸時代中期に入ってからとされております。当時、にしんが、どこの前浜に群来し始めても、松前藩主へは「乙部の浦にて初鰊群来・・・」と報告されるほど、にしんの千石場所としてにぎわい、東北などからも多くのヤン衆(漁夫)が訪れ、乙部の浜は活気にあふれておりました。その頃の乙部は、海産物出荷量の実に9割以上がにしんで、漁業の基幹を占めるほどなり、にしん漁の賑わいとともに、そば屋・宿・雑貨屋など、多くの商店が建ち並んだのも、この時期とされております。その後、明治末期には、にしんが北上し、漁は衰退していきましたが、現在も漁業や造船の町として後世に引き継がれ、にしんの網起こしで唄われていた「沖揚げ音頭」も、夏祭りの切り声として、歌い継がれております。

松前を起点し、日本海沿岸を北上する新たな観光ルート「にしん街道」に乙部町が位置し、にしんの千石場所であった証として、この標柱を設置しました。』
◇設置年:平成22年3月26日 ◇設置者:北海道乙部町 ◇所在地:乙部町元町 ◇G.maps:41.970144, 140.133056

くぐり岩乙部町MAP

くぐり岩 乙部町国道229号線を乙部町市街から南西に1kmほど進み、海側に向かって脇道に入ると行き止まりに「くぐり岩」の案内板がある。駐車場から急坂を下って海岸に出ると北側に海まで張り出した大岩があり、人が余裕でくぐれる穴が開いている。滝瀬海岸を南北に分断する大岩はニシン漁をする上で障害になり、慶長年間(1600年頃)にニシン漁を支えるために掘削されたもの。当時はこの一帯が陸地であったと考えられており、陸路として穴をあけたので「くぐり岩」と呼ばれているそうです。人工の穴ですが長年の浸食と風化で自然の穴のように見え、穴から見た館の岬が最高。「くぐり岩」は新第三系館層のシルト岩・砂岩互層できれいな地層の重なりだが、上の方は乱れて褶曲型のスランプ構造がみられるという地質の教科書みたいな所、海岸を南西に進むとシラフラと呼ばれる真っ白い柱状の崖地があります。◇所在地:乙部町滝瀬海岸 ◇G.maps:41.963140, 140.126642

乙部町郷土文化保存伝習施設旧新谷家住宅

蛸島の家乙部町のサイトより「蛸島の家は通称で、郷土文化保存伝習施設といいます。道の駅の斜め向かいにある郷土文化保存伝習施設は、ニシンの千石場所として栄えていた時代に、ヤン衆(漁夫)たちが宿泊した家や商家をそのまま保存しているものです。夏季の海水浴シーズン(7月中旬~8月中旬)には、無料休憩所として開放されています。」とあった。道の駅の向かいにある古民家で、蛸島の家という名称は建物の旧所有者であった新谷家が1901年に能登の蛸島集落(現珠洲市)から移住してきたことに由来するという。昭和11年建築の商家で元々は少し北側の可笑内集落に所在したが、国道の拡幅工事で公有化され現在地に移転したもの。商家には見えず煙出しのない小規模鰊番屋という風情です。その隣にある土蔵は杉本家が明治29年に建築したもので2階は座敷になっている。◇所在地:乙部町字元和

悲恋塚MAP

悲恋塚乙部町のサイトでは館の岬の悲恋物語として「江戸の末期ごろ、館の岬の近くに与作と呼ばれる漁師が住んでいました。与作は親方のもとに奉公する、お岩という美しくて心やさしい女性と知り合い、恋が芽生えました。しかし親方の息子がお岩との結婚を望み、与作につらくあたるようになり、お岩も心を痛めるようになったのです。とうとう2人はこの世でかなわぬ恋だと、冥土で結ばれることを願って館の岬から身を投げてしまいました。館の岬に立つ悲恋塚は2人の悲しい恋をしのぶために建てられたのです。」とあるが「檜山の史跡と伝説」の伝説を要約すると鰊場の親方、種村喜右衛門家の雇用人であった近藤与作の物語。丹波節の歌い手でもあったことから丹波与作とも言われた近藤与作は、同じ雇用人であった飯炊き女の若くて美しい「お岩」と恋仲になるが、親方の子息が「お岩」にほれ「お岩」は与作から離れていく。与作はその後に「お岩」に元にもどってくれるように頼んだが冷たく拒否され「お岩」を殺してしまう。与作はその後に海抜80mという館の岩(館の岬)から飛び降りて亡くなったが、天保14年12月28日の事という。結末は同じ悲劇でもその内容はかなり異なっている、観光用に悲惨な表現を避けたものか?。◇所在地:乙部町館浦 館の岬

にしん街道標柱八雲町MAP

にしん街道標柱・八雲町説明板より転載します。

『ここ八雲町熊石は、「にしん漁」で栄えた北海道日本海沿岸の町のひとつです。道南の町のなかでも漁獲量が多く「にしんの万石場所」と言われいました。1845年4月、漁の最盛期に熊石を訪れた探険家「松浦武四郎」が、漁家が連立し、船の帆柱やにしんを干す竿が立ち並び、沖と岸を行き交う船の人たちのはやし声が村中に響くという活況は「真の宇宙の壮観なり」と西蝦夷日誌に記載しています。江差を過ぎての蝦夷地境界でこのような盛況を見て驚いての表現と考えられています。熊石の地名もアイヌ語で「クマウシ」「魚(にしん)を乾かすための竿が多いところ」と訳されています。「にしん」は明治後半にはほとんど獲れなくなり、幻の魚となってしまいましたが、人々の生活を支え、共に歩み、独自のにしん文化を創り上げました。当時の船や漁具、漁法、生活の様子の資料は熊石歴史記念館に展示しています。「にしんルネサンス事業」は、にしんで栄えた北海道日本海沿岸の市町村を結び、「にしん街道」を楽しませてくれます。松前を始点とし、北の彼方まで続く観光ルートの拠点である証として、この標柱を設置したものです。』◇設置年:平成19年12月吉日 ◇設置者:北海道八雲町ライオンズクラブ ◇所在地:八雲町熊石鮎川町50番1 国道229号線沿い・木村旅館向かい ◇G.maps:42.121220, 140.010756

にしん街道標柱太成区MAP

にしん街道標柱・瀬棚町太成区せたな町大成区(旧大成町)も「にしん」で栄えた町の一つで平成19年ににしん街道標柱を設置している。説明板より転載します。

『クドウ初鰊群来る大漁 ここ、せたな町大成区(旧大成町)も「にしん」で栄えた町の一つであります。天明3年の春3月「にしん」の漁期になると、松前、江差、乙部、熊石からヤン衆が漁場の親方の家へわんさとやって来て、鰊漁の準備に入りました。「にしん」の到来を今か今かと誰もが沖を眺めて待っており「にしん」が到来すると、各村一斉の狼煙の合図で出漁しました。各村から一斉に漁場をめがけ、舟を漕ぎ出す壮観さは、美事の一語につきました。「にしん」の声が巷に聞こえるようになると、町では漁師目当ての居酒屋も軒を並べ、夕方ともなると芸者連中は三味の音を響かせ、夜の街の賑わいが遅くまで続きました。「にしん」の到来は、多くの人に仕事を与え、収入も良いので町は活気に溢れ、人々の往来も繁くなりました。日本海沿岸の松前を起点とし、連なる町々は全道を一周し、これらが「にしん街道」で結ばれ、地域の特色ある歴史と伝統の数々を垣間見せてくれるのも楽しい限りであり「にしん街道」の旅道中であればこそ味わえる醍醐味でもあります。それぞれの町が、特色ある創意に満ちた標柱を設置することにより、楽しさも倍加されることでしょう』
◇設置月:平成19年10月吉日 ◇設置者:せたな観光協会大成支部 ◇所在地:せたな町大成区平浜378番地 ◇G.maps:42.212523, 139.876390

にしん街道標柱瀬棚区MAP

にしん街道標柱・瀬棚町瀬棚区海水浴場前の説明板より転載

『ここ瀬棚も「にしん」で栄えた北海道日本海沿岸の町のひとつであります。明治二十年前後、瀬棚の「にしん」の全盛時代には、春の漁期になると若者の大半が漁場雇となり、また、他の町から瀬棚の漁場へ出稼者が大勢やってきて鰊の沖揚げなどの仕事をしました。この頃「にしん」を追うように瀬棚への移住者も多くなり、鰊漁も盛んであったため、町はたいへん活気にあふれていました。「にしんルネサンス事業」は、「にしん」で栄えた北海道日本海沿岸の市町村を結び「にしん街道」の旅道中を楽しませてくれます。松前を始点とし、北の彼方まで観光ルートの一拠点である証として、標柱が設置されました。各地域が携える「にしん」の歴史と伝統の数々を受け継ぎ、語り伝える千鈞の柱』三本杉岩が前にあるこの前浜は海水浴場になるようです。◇設置年:平成18年11月吉日 ◇設置者:瀬棚町観光協会 ◇所在地:久遠郡せたな町瀬棚区三本杉96番地 ◇G.maps:42.460226, 139.852046

袋澗記念碑旧碑MAP

袋澗旧記念碑神恵内の漁業家、澤口庄助氏が江戸末期に岩礁を削って人工の入り江を作ったのが北海道独自の構造物である鰊漁袋澗の原型のようですが、本格的な築堤を伴う袋澗建造は明治32年に始まり美谷中心に発達し、鰊の北上を追って袋澗も各地に広がり終着地は礼文島でした。袋澗建造の始発地と思われる元浦に袋澗記念碑があり、碑文は『創業者新保幸吉は新潟県より渡道し漁業に□□したが明治32年、当時の技術では容易ならざる難工事を克服し鰊袋澗を完成し漁業繁栄の基礎を確立した。2代目一太郎はこれを記念して昭和10年記念碑を建立したが□雪の為破損いちぢるしく瀬棚町開基百年を迎えるにあたり先人の功績を偲び再建することにした。昭和55年 医学博士 新保幸太郎』瀬棚町開基百年記念 瀬棚町史年表に大正6年建立と書かれた「旧袋澗記念碑」の写真が掲載されているのを転載した。その袋澗は「ヤマヨ斉藤漁業」の前浜一帯に広がっていたといい、石積の堤体をもつ袋澗はこの辺から始まったらしいが、今は僅かに痕跡をみるのみ。再建された袋澗記念碑はヤマヨ斉藤漁業 直売店駐車場の左側沢地の斜面山側にある。◇建立年:昭和55年(再建) ◇建立者:新保幸太郎 ◇所在地:久遠郡せたな町瀬棚区元930 稲荷岬 ◇G.maps:42.499254, 139.843485

にしん街道標柱奥尻町

解説文のみ『ここ奥尻は「にしん漁」で栄えた北海道日本海沿岸の町のひとつです。明治14年ころ以降約10年間に飛躍的な伸暢を遂げ、最も活気に満ち、漁期雇夫(ヤン衆)も数百名を数えるなど「にしん漁黄業金時代」を現出しました。鰊漁は主として、建網及び刺網を使用し20年代になると角網が使用され始め、鰊の漁獲高は一層増加しました。やがて「にしん漁」は衰退していきますが、この「奥尻島」は、四方が海に囲まれ地理的な関係から他の魚介藻類に恵まれていたので、新たな漁業に力が注がれるようになりました。「にしんルネサンス事業」は「にしん」で栄えた北海道沿岸の市町村を結び「にしん街道」の旅道中を楽しませてくれます。松前町を始点とし、北の彼方まで観光ルートの一拠点である証として、標柱が設置されました。各地域が携える「にしん」の歴史と伝統の数々を受け継ぎ、語り伝える千鈞の柱。』奥尻島は未訪問なので写真無しで説明文のみの転載としました。標柱はフェリーターミナルの奥尻観光協会近くに。◇設置年:平成19年9月15日 ◇設置者:奥尻島観光協会 ◇所在地:奥尻町奥尻 ◇G.maps:42.174648, 139.518021

番外編 鯡供養塔

茅部の鯡供養塔

茅部の鯡供養塔茅部地区周辺は江戸時代からニシン、サケ、コンブ等の産地として知られ「茅部場所」という漁業交易区がありました。森町もかつてはニシンで海が銀色になるほどでしたが、あまりの豊漁に当時の加工技術では処理しきれず、あまってしまったニシンを土中に埋めていました。漁師たちは、そのニシンを供養するため宝暦7(1575)年に建立した石塔です。旧熊石町にはこれより前に建立された魚族供養塔がある。 ◇北海道指定有形文化財 ◇所在地:茅部郡森町字本茅部町 JR石谷駅前 ◇G.Maps:42.135524, 140.507212

にしん街道を巡る旅・追分ソーランライン-ミニギャラリー

ニシン街道MAP

ニシン漁で繁栄した日本海沿岸に残る鰊番屋・漁家住宅をはじめ、ニシン漁の栄枯盛衰、歴史を物語る碑などを集めましたが漏れがあるかもしれません。また各地に設置された「にしん街道」標柱も含めました。袋澗(跡)リストでは旧国道沿いとなるアプローチ困難な袋澗跡と痕跡程度の袋澗遺構は除外、勧めできる袋澗には☆マークを付加しました。


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