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人権に関わる碑(いしぶみ)巡り‼囚人とタコ部屋の強制労働・強制連行・アイヌ民族・女性差別

1・はじめに

○○ 人権に関わる碑(いしぶみ)をまとめて掲載したが、その中心にあるのは人権と極めて密接な関係がある囚人とタコ部屋による拘禁強制労働の犠牲者を慰霊、顕彰した碑となります。いま何故と思うかもしれませんがタコ部屋の問題は形を変えて現代に復活しつつある事が問題だからです。掲載した慰霊碑で宗教的な動機で建立された碑は別として、多くは殉難者追悼碑や殉職者慰霊碑であり犠牲者と刻まれた慰霊碑は希です。「殉難」を国語辞典でみると「国家・宗教や公共の利益のために一身を犠牲にすること」とあります。囚人の強制労働や監獄部屋労働、強制連行で亡くなった人達はどうでしょうか、国家や宗教などにかかわる危難のために一身を犠牲にしたとは言えず、どう見ても一方的な犠牲者です。これらの犠牲者を殉難者という言葉で慰霊する事は、加害者の責任を曖昧、不問にする玉虫色の決着で、真に被害者の名誉回復とはならないでしょう。犠牲者と刻まれた慰霊碑は歴史の中で誰が加害者で誰が被害者なのかを明確にし、民主主義と人権、企業や国家の犯罪に対する地域住民の理解の深まりを反映しています。

2・北海道の近代概略

日本が資本主義への道を歩み始めた頃、先進資本主義国は世界各地で植民地獲得競争を繰り広げていました。このままでは日本も植民地にされかねないと危惧した為政者は、資本主義経済を成長させるため殖産興業政策と富国強兵を二本柱とする政策を展開、また日本がいち早く先進資本主義国に追いつくためにどうしても植民地が必要と考えた人達がいました。明治政府、日本資本主義は他国を侵略する帝国主義的性格をもって生まれてきたという事になり、明治維新の功労者とされる吉田松陰の尊皇攘夷・植民地主義思想が影をおとしています。

中央の和人から見た北海道は日本が列強の追いかけて近代国家へと飛躍するために不可欠な天然資源の宝庫でした。明治政府は従来よりアイヌ民族の土地利用権を無視し一切を奪っただけでなく、入植する和人の都合での強制移住と同化政策(皇民化)で民族固有の言葉や文化を奪い、同時に旧土人という差別を推し進めた。最も重要な事は南下をはかるロシアへの防衛拠点を築く事で、一刻も早く殖民を進め北海道を内国化することが迫られたのてした。そのため開拓使は欧米から技術者や教師を招き、他方で留学生を海外に派遣もした。亜寒帯の入口にある北海道開拓は津軽海峡以南の文化や技術では立ちゆかなかったからです。また北海道の開発(開拓)を推し進める上で道路などの基盤整備は不可欠で、北海道を流刑地とし凶悪犯と政治犯を収容する集治監を設置し受刑者を開拓のための労働に強制動員したのです。

明治5年に「北海道地所規則」及び「北海道土地売貸規則」を制定し移住者への土地処分をしていたが、明治19年に新興資本家や旧大名などを優先した「北海道土地払下規則」が制定され、かつて例をみない資源独占や大土地所有を生み、その資本主義的大土地所有と封建的な小作制度は農村の疲弊(特に東北地方)を招き農民の都市流出、あるいは出稼ぎ労働者となったが、その多くは囚人労働に代わって台頭した北海道の監獄部屋(タコ労働)に吸収されていきます。北海道には封建的土地制度の遺制ともいうべき共同体的土地所有や入会的利用がほとんどない。私的土地所有の概念は資本主義の発達と共に形成されて来たものです。北海道で資源独占、大土地所有等と囚人労働とタコ部屋労働で資本の原始的蓄積期を経て植民地を求め海外侵略に乗り出す。昭和43年の国連総会で戦争犯罪や人道に反する罪に時効不適用が採択されたが、日本は条約案全体を棄権し戦犯が温存された。明治から続く反動的な性格と底辺労働者を消耗品とみる価値観が日本経済界の底流に引き継がれている印象が強い。

3・北海道の集治監と囚人労働

集治監とは明治時代に作られた刑務所の前身、1881(明治14)年に監獄則改正を行い、徒刑、流刑、懲役刑12年以上の者を拘禁する集治監を北海道の地に求めた。 北海道はロシアの南下政策に対抗する開拓が急務とされ、1881(明治14)年月形町に樺戸集治監、1882(明治15)年には三笠に空知集治監、1885(明治18)年標茶町に釧路集治監、分監として1890(明治23)年網走囚徒外役所が設置され、受刑者は開拓のための労働に強制動員された。最初の集治監設置目的は矯正労働として農地開墾に従事させ、放免後の道内定住化を意図というが、明治19年の太政官大書記官・金子堅太郎が提出した復命書を切っ掛けに大きく変わった。

復命書一部抜粋「彼等ハ因ヨリ暴戻ノ悪徒ナレバ、其苦役ニ堪エズ斃死スルモ、尋常ノ工夫ガ妻子ヲ遺シテ骨ヲ山野ニ埋ムルノ惨状ト異ナリ、又今日ノ如ク重罪犯人多クシテ徒ラニ国庫支出ノ監獄費ヲ増加スルノ際ナレバ、囚徒ヲシテ是等必要ノ工事ニ服従セシメ、若シ之ニ堪エス斃レ死シテ其ノ人員ヲ減少スルハ、監獄費支出ノ困難ヲ告クル今日ニ於テ、万已ムヲ得サル政略ナリ。又尋常工夫ヲ使役スルト、囚徒ヲ使役スルト、其賃銭ノ比較ヲ挙レバ、北海道ニ於イテ尋常ノ工夫ハ、概シテ一日ノ賃銭四十銭ヨリ下ラス。囚徒ハ僅カニ一日金十八銭ノ賃銭ヲ得ルモノナリ。然ラバ、則チ囚徒ヲ使役スルトキハ、此開築費用中工夫ノ賃銭ニ於テ、過半数以上ノ減額ヲ見ルナラン。是レ実ニ一挙両全ノ策ト云フヘキナリ。現時ノ如ク十年以上ノ大罪人ヲ北海道ノ辺境ニ移シ、房屋飲食衣服等一ヲ之ヲ内地ヨリ輸入シテ、非常ノ金額ヲ費シ、其使役ノ方法ニ至ツテハ軽罪犯ニ異ナラス之ヲ優待シ、悔悟ノ日ヲ待テ之ヲ土着セシメントスルモノハ、重罪犯ヲ懲戒スルノ効ナキノモナラス、又政府ノ得策ニアラサルナリ。宜シク此等ノ囚徒ヲ駆テ、尋常工夫ノ堪ユル能ハサル困難ノ衝ニ当ラシムヘキモノトス。」とあり、月方潔が大政官金子堅太郎に送った提案書の内容と殆ど同じ内容です。 簡単に言えば「彼らは悪徒であるから、必要な工事に使役すると工費は安上がりになるし、働かせて囚人が死んでも監獄の維持費用が少なくなるので一石二鳥という」恐るべき提案を内務卿伊藤博文が採用。

武家社会の看板を替えただけ明治政府(薩長新政権)の体質を顕わに示し、現在に至るまで保守支配層に内在する反動的体質そのもので、その後のタコ部屋労働を誘発する起点となった。こうして開拓のインフラ整備として樺戸以来、空知、釧路、網走へと置かれた集治監の収容者(囚人)達が過酷な労働に駆り立てられ、多くの収容者が命を落としている。囚人達の大半は佐賀の乱や新風連の乱、秋月の乱、萩の乱、西南の役などで新政府に対峙した人々や、困窮農民の人達(秩父困民党)、自由民権運動など犯罪者ではない人達も多く含まれていたが、全てを極悪人として北海道に送られた。囚人を安上がりの労働力として使役する政策は、明治20年代に全道的に普及したが、過酷な囚人労働は世論に大きな衝撃を与え、帝国議会においても取り上げられ、明治28(1895)年以降、集治監の外役工事は廃止されるに至った。だが実態は明治31年以降も外役工事が行われ、音更川上流の森林開発や道路改修工事などに囚人が動員されていたが中央道路開削ほどの悲惨さはなかったようです。

中央道路沿線には工事途中でなくなった慰霊碑が存在するが「殉難」と刻まれているのが多いが、「殉難」とは国家・宗教や公共の利益のために一身を犠牲にすることとあり、本人の意思とは関係なく、または意思に反して強制などにより犠牲になった場合は被害者であり、国家や企業の責任の所在を曖昧にしてしまう役割をはたし、真に被害者の名誉回復とはならない。また人権意識を見る尺度になるかもしれない。

碑文について

碑は郷土の歴史証言者という側面があり、碑文はそのまま掲載するのが最良なのですが、ヘームページでスペースの確保や縦書きから横書きへの変換にともなう制約もあり一部は漢数字から算用数字に変更し、旧字も現行の常用漢字に改めています。また読みやすいように句読点などを追加しているのもありますが内容の変更はありません。判読不能の文字は■や□としています。写真はできるだけ最新のものを使用していますが、未訪問や写真DATAを失ったものもあり総ての碑をカバーしていません。

☆更新情報など☆

 新規開始のコンテンツですが、完成には時間がかかりそうです。

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