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最終章・林檎の花が咲く頃に咲き乱れる葉牡丹(続)

 朝からどんよりと曇り一雨有りそうな空模様である。久子は裁判所に出向いた徳治のことを思うと、仕事が手につかず(・・もし、舅さまや光男さんと別離の運命にでもなったら・・)そんな不安に胸を苛まれるのあった。
いつしか陽は西に傾いている、そんな時。

『母ちゃん、どこかの小父ちゃんが
大きな荷物を背負って家に方に来たよ、変だなー』

今まで表で遊んでいた広光が突然居間に駆け込んできた。それを追う様に

『おーい、戸を開けてくれんか?』

その男は喚く様に玄関戸をガタガタ揺らした。広光は怖気づいて肩で息をしている、戸の方も広光が中から施錠をしたのだ。戸を揺さぶった拍子にそれが外れ、男は無雑作に戸を開けて中に入って来た。そして上がり框ちの障子を開いた。

久子は目を見張った、夢寝の間にも忘れたことの無い夫、光男だった。
光男は復員荷物を背にしたまま上がり框ちに腰を降ろした。
久子は光男の側に寄添って

『貴方・・お帰りなさい・・待っていたんです。
貴方の帰ってくる事を、それだけを頼りに』

久子の言葉は震え、湧き出る涙が頬を濡らす。

『お前もずいぶん苦労したろうな?』

五年ぶりに見る久子の顔は別人のように所帯疲れている。
それが光男には何か一家の波瀾を物語っているかのように感じられた。光男は一月三日ナホトカ港からホルムスク港(樺太・真岡港)に上陸し、その後市中の雑役に従事していたが三日前突然捕虜解除になったのだという。

『皆無事かな?』

『いいえ』

久子は寂しそうに答えた。無事の生還を喜ぶはずの徳治は、無実の罪で裁判所に呼び出され、有罪とも無罪とも計り知れないし、生きていると思っていた母、その母は位牌となり変わり、あり日しの写真だけが、にこやかに光男の帰りを待っていた。光男は位牌に手を合わせて泣いた。夕日が窓辺に映し、周りを赤く染め上げている。

『爺ちゃん、父ちゃん帰ってきた!!』

『父ちゃんが?』

広光は、父の帰った喜びを徳治に告げようと
帰るかどうか分からない徳治を道端で待っていたのだ。

『久子・・・遂に無罪になったぞ・・・』

徳治は嬉しそうに上がり框ちに出迎えた久子と光男に静かに言った。

『光男、お前も無事で本当に良かった、これで我が家にも春が来た様なものだ』

徳治は目を光らせ言った。苛酷な寒さを耐え忍び爛漫とした春を向えようとする水仙の芽が夕陽に映え黄金に輝いている。
部落はすっかりソ連のコルホースに変わっていた。それから一ヵ月後、家族は無事に引揚げ船に乗る事が出来た。光男は甲板に立って、遠ざかる眞岡港を見詰め、隆々辛苦三十余年築き上げた生活と人生を奪われ、永遠に故郷を失ったのである。
戦争という大きな傷は光男だけでなく細井家に暗い烙印を押し付け、その眼には涙が泉のように止め処なく流れ落ちる。
三十年間の想いの日々が走馬燈の様に流れては消えてゆく。
眞岡港は光男の目には遠く涙で歪んで見えるだけである(・・長かったなー、でも何もかも悪夢は終わったんだ。これから新しい生活が待っている、二度とこんな事に遭うことも無いだろう・・)

『広光、父さんは頑張るからな~』

自分に言い聞かせる様に言って、動かずに立ったまま・・・

最後までご覧頂きありがとうございます

小説の中に有る「部落」という用語について。一般に「部落」と言うと差別用語として扱われる事が多いと思います。ただ北海道の北部から樺太にかけては小集落とその自治組織を含めて「部落」と一般的に呼ばれていました。北海道の一部では今でも使用されている方言。ここでいう「部落」はそういう意味で使用されています。誤解を招く可能性の有る用語なので敢えて付記致しました。小説に出てくる地名について、北海道内にある地名と同名の地名がたくさんありますが全て旧樺太の地名です。ソ連軍が真岡に上陸した時の惨劇は日本テレビ開局55年スペシャルで「霧の火」というタイトルで放送されました。引き揚げ列車に関する部分はなかったようですが、実際の惨劇はこちらの方がすさまじかったようです。管理人の母親はその時の数少ない生き残りでした。

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