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チャラㇱセペッ“sharse-pet”で水が岩の面をちらばって流れ落ちる川(滑滝と呼ばれるのもチャラㇽセの中に含む)の意だが、小川が海に注ぐ所に岩盤がありその上を水が散らばり流れていたという所。普通はチャラㇽセ・ナィで海岸段丘崖の有る所には多い地名だが、チャラㇽセにペッという組み合わせは、地名としてはかなり珍しくそういう意味では貴重。地名板は見発見、位置的には釧路市に入るか? 残るは城山と別尺泊だがどちらも地名板の設置はなさそう。
松浦武四郎がアイヌの人から聞いた時に、聞き違えがあったのではと言う人もいます。色々な説があり海の瀬の荒い所、湧き水があってそれを飲料水にしていた所、中には旅人か此所で昼飯を何時も食べるからという説まである。釧路町の釧路町観光博物館では『アイヌ語の単語で解釈してみると、マタ(音)イ(手前の義)ト(遠く)キ(…知る)となり、一説には「山奥にいても浪の音高き所なり」と古文書にもあるため、この解釈とした』とあるが説得力には欠ける。参考までに松浦武四郎の久摺日誌では“マタは水、エトキは汲んであけるということ、で、ここに水のわき口が一つあるのでこんな名がついている”と、場所の説明だがアイヌ語地名としては謎。
地名解では“シクトゥㇽ・ウㇱ・ナィでこれから訛化したもの”というが“sikutur-us-nay”で「エゾネギそこに群生している沢」とするのが自然か。エゾネギは行者ニンニクと勘違いされたり、ノビルとも云われ多少の混乱もあるが、和名をエゾネギと云い、百合科植物の仲間でアイヌ名は“シㇰウトㇽ=sikutur”別称でノビルという人もいるが、栽培されているアサツキの原種と思われる。簡単に言えば野生種のアサツキと思えば良い。北海道では馴染みの山菜、名物のジンギスカンと合わせるには、行者ニンニクが最高ですが、その代用にはアサツキが一番手になりそうです。
蝦夷語地名解では“アチョロ・ベツ 楡皮ヲ漬ス川「アッ・イオロ・ベッ」の急言”とある。“at-ioro-pet⇔楡皮を漬す川”アッはオヒョオニレ(ニレという場合はアカダモを云う事が多くオヒョオニレの場合は単にオヒョオと云う事が多い、幹の色がやや青みがかっている)の樹皮で厚司と言う着物の原糸を取る、昔はニレの木が多かった様だが、今は楡の木を見る事は少ない。この地域を城山と呼んでいるが、城跡(チャシコツ)や烽火場等に接していたので城山としたようだ。昆布森の集落を過ぎ道道のT字路を左に進むと城山と書かれた道標が現れる、案内板看板は木陰で目立たないが文字は珍しく旧文字。東蝦夷日誌に「往古痘瘡流行し時、此岩陰に来隠れし時、水無りしを、土人共神に祈りしかば、水が涌出せしと」と当地の伝説を記している。
現在の昆布森市街付近の地名。蝦夷語地名解では“チロ・レウプ 鵜ノ棲止スル處”とある。川名として残っている、チョロベツを“マガモが降りる川”としている説も有るが釧路地方ではマガモの事をペルトン・チカプ“ペッ・オㇽ・ウン・チカㇷ゚=pet-or-un-cikap ?”と云うとの事。鳥にちなんだ名前の様であるが、山田秀三氏はアッチョロベッと同じ解釈で、アッ・オロ・ペッのアッをchiに置き換えて“チ・オロ・ペッとし(オヒョウ・ニレの皮を)我ら・水に漬ける・川“について言及している。チョロベツ川は昆布森市街に河口を持つ小さな川ですが、厚岸の尾幌川に抜けるアイヌ時代の通路が有った様です。余談になるが、昔の人はマガモのことを青首と呼んでいたと言うが、特徴を端的に表現していて面白い。
蝦夷語地名解では“コンブ・モイ 昆布湾此湾内昆布多シ故ニ名ク昆布森村”とある。“kompu-moy”コㇺプモィでコㇺプは昆布の事、モィは湾、浦、入江、岬の陰になっているような波静かな所を言う。江戸期から有る地名で、明治3年には奥羽、道南から移民が募集され、54戸、193人がこの地区に居住していたという。この地名は従来コンプモイをとって昆布の湾と解釈してきたが、地形を見ると湾より浦が適切と言うのが最近の考え。地名として古文書に早く現れるのはチョロベツで、コンブムイは比較的新しく、昆布森市街の旧名はチョロベツで、東蝦夷日誌では「此番屋近年まで川向かいなるコンブムイにありしを、ここに引来りしなり」とあり松浦武四郎がここを通った時には今の昆布森はチョロベツだった。番屋の移動で地名も移動したのでしょう
伏古籠(フシコモリ)元昆布森の岬の陰に有った集落の地名で旧昆布森役場の戸籍でフシコ昆布森となっているようだが、地図では伏古とだけ書いてある。伏古は古い村、元の村と言う意味だが、伏古籠の集落は昭和30年頃から海岸浸蝕によって浜が決壊し、住み家も不安となって昭和53年に昆布森市街に集落移転したので、ほんとうに元の村なのだ。伏古籠(フシコモリ)はフシコ・コㇺプモィの訛化したもので昔の昆布湾という意味か。伏古は道内各地に有り比較的多い地名。
この地名は北海道に良くある地名の一つですが、幌内は地域によって使われ方が違い、多い割には解釈が異なることが多い。道北では殆どが大きな川ですが、小さな川が多い所ではその中で一番大きな川や沢に付けられる事も有る。蝦夷語地名解では”小川にして魚類も又無し”と解いている。“poro-nay=ポロナィ”この辺は小さな川が多い所で、その中で一番大きな川に付けられたものか、地形からするとあるいは奥深い沢かもしれない。ただ気になるのは久摺日誌に、ホロヲンナイ(大穴のある岩がある)とありポロではなくポール(穴)と言う可能性は?。
北海道には多い地名だが「kito-us=キトウㇱで行者ニンニクの群生する所」と言う意味から付けられた地名。行者ニンニクはユリ科の多年草で地下にらっきょうに似た球根を持つ、北海道ではなじみの山菜です。行者ニンニクはアイヌの人達にとって食用として、また薬用として貴重な植物で、キトウシと言う地名の多さからも容易に想像出来ます。行者ニンニクの群生していた来止臥には、水場と簡単なトイレのみというシンプルなキャンプ場があります。先人達の暮らしに思いを馳せながらはキャンプ場から太平洋を眺めて過ごすのも良い。
トマ・チエ・ヌプに当て字をしたものと言うが“toma-ci-e”以下を略して当て字したのでしょう。トマはエゾエンゴサクの根茎、チエは我々が食う、ヌㇷ゚は湿った原野(ナィ=沢)と言う事から、エゾエンゴサクの群生地だったのだろう。エゾエンゴサク「蝦夷延胡索」は、ケシ科の多年草で高さは10cmから20cm程度。4月から6月にかけて鮮やかな青紫色の花を「変異種もあり」多数咲かせます。エンゴサクの塊茎は食用として珍重され、漢方では薬用として鎮痛に用いられた。松浦地図は“シマ・チエ・ナィ”とあり、久摺日誌ではトマチセ実の名はトイマチヌプで、遠くにトドの声を聞く、だそうである”とあるが、それだと“toyma-ci-nu-p”となり、海岸に今もトド岩がある。十町瀬から跡永賀までの砂浜は昔の街道跡と云うもその面影は無い。釣り人の中には波の静かな時に海岸沿いを歩いてトド岩、タテ岩まで行く方もいるが、普通は十町瀬川迄が無難、海が荒れると退路を断たれる事も有るので注意。入口は浦雲泊に下る道に入り、途中で右に進み行き止まりの所で数台が駐車可能、狭い道で対向車が有ると交差は困難、大型の車は厳しい。
北海道各地にある地名で特に珍しい地名では無いのだが、浦雲泊と書くと話は別で無条件に難解地名の仲間入りです。“pon-tomari”のトマリ“泊”は昆布とは逆に日本語からアイヌ語に入った言葉です。ポンは小さい、トマリは停泊港を意味し、小さい船着き場、あるいは小さな舟入間。沖合いの岩場で浪が静まり、穏やかな入り江になっていて船の出入りができる。昔は集落の裏山に炭鉱があり石炭を海上から搬出したというが、すでに廃坑となっている。石炭は今も有るようだが・・
江戸期から見られる名前で“アト゚ィ・オカケ=atuy-okake”が正しいようですが、本当の処は解りません。ブイマ、ソンテキなどを含めての総称で、アイヌ語地名解では“昔は海中なりしが今は沙湾に変ず、故に名づく”とありアトゥィ=海.オカケ=跡の意味で、浸食の激しい海岸に有って新たに出来る陸地も有ると言う事を物語っている。ただ地名は松浦四史郎の東蝦夷日誌“アトエカ。高きところより海を見越して眺ると云う儀か”と書き“atuy-ka=アト゚ィカ”に当て字をしたようだ。沿岸は川口に沿って天然の港となり、コンブのほか、タコ、サケ定置などの好漁場となっていた。1870年に和人移住以来一時はかなり栄えた集落というがその面影はない。
跡永賀の一部で、アトエカ・プイマを合わせて跡永賀と呼ばれ、地名もプイマ・アトエカと云われていたという。蝦夷語地名解では“穴のある立岩 和名ローソク岩という、大岩海中に立ちて穴あり、昔は二岩並立せしが今は一岩あるのみ”とあり、古くは、高低二つの立岩があり、仏岩あるいは夫婦岩と呼ばれ航海の目標とされていた様です。久摺日誌では“フイマアトエカこの岩穴を通るのでこの名がある”と記している。地名はこの岬の陰にあった“プィ・モィ=puy-moy”で「穴の入江」に当て字をしたというがブユマへの当て字に見える。国土地理院の地形図ではブユマ、はじめはプイマ~プユマ~ブユマになった様だが逆立ちしても読めない。ローソク岩は今も健在です。
地形図ではソムテキ、更科アイヌ語地名解でもソムテキ、蝦夷語地名解では“トンテキ 海沼”とあるが、ションテキ・ションキチなど色々な言い方が有った様です。“to-un-tek=トウンテㇰ”は沼である様な“so-un-tek=ソンテㇰ”とするとソは滝・水中のかくれ岩、テクは状態を表す。滝の様なとか、海中に岩礁が多い様子などを云うようだが、地名板のソンテキは水中のかくれ岩を採った地名か・・・ただ松浦武四郎の久摺日誌には“ホントウという沼があり、人々はこの沼は神霊のやどるところ、と崇敬している。ここはまたソムテキともいわれる”また“ソンは滝のこと、テキはある、の意味だそうである”と記す。昔は砂浜も広く、昆布の好漁場となっていた所で7~8戸の漁屋が有ったというが、今は陸波が荒く海岸の浸蝕が激しい所で地名だけが残った。
蝦夷語地名解では“ニオッケ・オマ・ナィ 桶、小川に桶あるを見て名づく”とあるが、アイヌ語地名小辞典から類推すると“niko-oma-nay=ニコ・オマ・ナィ=流木がそこにある川”ともとれ、川尻に流木が集まる川と云うのはいかにも有りそうです。同じような地名も各地に残されている。“桶が流れてきた所”と言う地名は特別な伝承でも無ければ地名として残る事に疑問も有るが、いずれしても、木がポイントなのですがここでは、川尻に流木の集まる川の説を採用です。昔はかなりひらけた所で明治40年代には宿屋が二軒もあったという。
蝦夷地名解では“チエプヌルンケプ小岩ノ崩レ落チルコト魚ノ川ヲ下ルガ如シ故ニ名ク”とある。“ケプネ 禿山”と言う記載もあり地形の様子から、はげ山で石の落ちる所としているが、まるで説話のような珍しい地名は他では聞いた事がないが、他ではウエンビラとでも云うような地形。和人が住みついたのは明治30年代といわれ、集落も有ったが1941年の豪雨により背後の山が崩壊、数戸が一瞬にして海中に押し流され、これ以降海岸の浸蝕等により人々は相次いで此地を離れた。
蝦夷語地名解では“ぺチャラセ滝”と。アイヌ語地名解では、ワッカチャラセで“飲水ちりばり落ちる”としている。“wakka-cara-se⇔水チャラチャラと音を立てる”で、小川が斜面をチャラチャラと音を立ててすべり落ちる、あるいは滝となって落ちている状態を云ったものですが、普通は最後に川を意味するナイとかベツがつくのだが、ここでナイもベツも省略されていて珍しい地名です。
ここは珍しく和名の地名ですがかつてはアイヌ語の地名が有ったのだろうと今は推察するのみ。釧路町では一番高い山(204.8m)で航海の目印として利用されていたとの事。東蝦夷日誌にはブイマより山道を通りセンポウシに抜ける途中で、ニヲケヲマ(入境学の水源の山)と休所が出てくるが、これが丸山とは思えない。地名板の周辺は眺望はなく近くに有る林道は殆ど通行不能。
松浦武四郎の「蝦夷日記」にはヲエチャンマフ、山のように海の中に着きだしている岩とだけあるが、蝦夷語地名解にはない地名で色々な説が有る。オシャマッㇷ゚はオ・サマッキ・ㇷ゚として川尻に横たわっている倉のような形となり、シュマ・マッㇷ゚で岩、倉のような山となり、川尻に蔵の形の岩山がある所となったと云いい、川口の岩は大黒岩と呼ばれその前に開基百年の碑が建立されています。川尻に鮭鱒の産卵場あるもの“o-ican-oma-p”という試論(山田試訳)もある。別尺泊での案内板の分岐点から集落までは細いながらも舗装されていて終点に港がある。老者舞付近には“オタモイ・静かな砂地の入江”という地名も存在していた。
尻羽岬、去来牛に行く手前に、知方学がある。蝦夷語地名解で“チプ・オマ・ナィ 舟のある川の意、往時舟流レ寄リシ処故ニ名クト云フ”とあるが、アイヌ語地名解でも“昔、船がここに流れ寄ったことがあるので名付けた”となっている。久摺日誌ではチエフヲマナィが本当の名前とあり音どおりとすると、チェㇷ゚・オマ・ナィで魚がいる川、となるがそんな川とも思えない。cip=船・ciep=魚とまぎらわしいので道産子でも間違って覚えている方がいるかもです。釧路町史では高見・去来牛・尻羽の三つの崎を総称し美崎地区と言ったというが、今は、高見の崎が崩落しその面影は無いという。知方学はこの辺では大きな集落で学校もある。道は狭い砂利道なので安全運転で。
蝦夷語地名解では“サクシュウウㇱ 夏鍋”と。これは“sak-su-us-i=サㇰスウㇱ”サㇰは夏・スまたはシュで鉄鍋・のある所。久摺日誌には“サリキウㇱ・サリキウㇱエト”とあり“芦や荻のある岬、芦や荻のある沢”と記されている。“sar-ki-us-i=サキキウㇱ”で芦・蘆の群生している所となる。釧路町はこの説を採用したようです。夏鍋に関しては説話があったかもしれない。去来牛には分岐点を曲がり急斜面の崖沿いの狭い道を下ると海岸に小さな船着き場がある。説明版の文字は良く読めないがかつてこの辺はハルトリコタンの村長(首長)の持ち浜だったと書かれていた。
知方学方面に進み、案内標識に沿って左折し去来牛への分岐を過ぎるとまもなく行き止まりになり駐車場。車を置いて徒歩約20分程で尻羽岬で厚岸湾を臨む景観が素晴らしい。地名解に出てくる岬の名は”シㇼパ=sir-pa”、“ノトㇿ=not-or”、“ノテトゥ=not-etu”の三つ有るがどれも尻羽岬の事。尻羽岬の読み方で釧路町ではシリッパとなっていたが地名版はシレハ、国土地理院の地形図では“シレパ”である。松浦武四郎の記録ではシレハ、シレパとあり北海道蝦夷語地名解ではシレパ、つまり地名が採集された頃はシレパと呼ばれていたものか? いつ頃からシリッパ岬と書かれているのかはわからないが、実際にはシレパと呼ばれていたようで、此辺の地名はよほど訛っていたんだしょうね。知里地名アイヌ語小辞典では“sir-pa”みさき“sir”は山“pa”は頭・原義は“海中に突き出ている山の頭”であると解説している。
更科源蔵氏のアイヌ語地名によると厚岸湾に向かった釧路町の部落。“ペッ・サク・トマリ 川が乾く船着き場 からでた地名”とある。これから見ると人が住んでいた形跡は感じられるが、陸の孤島で別尺泊への道はない。地名解では“シュウ・サック・トマリ 鍋なし泊”これだとシケのときに舟を待避させていた場所で人は住んでいなかったという様にも考えられるが、此所では更科説を採りたい。地図に載っている地名というのは人の生活と色んな意味で繋がっていると考えるからだ。古番屋と別尺泊の間には、地名板の他に地名が存在した。地名解では“ポン・ワタラ・ウㇱ小岩アル処”といい海中に岩礁が多い所なのだろう。外国船がここで避難、停泊した時に崖に炭層が露出していてこれを燃料使ったと言う話がある。古番屋の案内板付近から道道は海岸から離れ内陸を走るようになる。
地名解には無く和名のようにも見えるが、フルバンヤをアイヌ語で綴ると多分“hur-pan-ya,フㇽ=丘・パン=下の・ヤ=沖から見た陸・陸岸”となるようだが具体的なイメージが・・・。古文書にあるセンポウチはフルバンヤを指したものと考えられており、昔は陸岸も広く徳川幕府の税庫や会所、駅逓所、あるいはアイヌの砦跡があり、ここから対岸へ船で往来していたともいわれている。明治から大正にかけ湾内ニシン漁が盛んな時はここに大きな漁舎があり、その杭跡が今でも海中に残っているという。古番屋の入口に有る案内板から入れるが途中で立ち入り禁止になる。
もともと古番屋(フルバンヤ)の地がセンポウシと呼ばれていたが、漁場の移動に伴い現在の所になった様です。松浦武四郎の記録では“センポウジ。本名チェツポウシにして魚涌立と云う儀か”と書き、蝦夷語地名解では、“チェプ・ポオチ「小魚ノ居ル處・鯡多ク居ル處ナルヲ以テ名クトアイヌ云ウ・仙鳳趾村ノ原名”とある。小魚の沢山いる所という意味で、明治期のニシンは中~小ニシンが主で湾一杯にニシンが押し寄せ活況を呈していた。明治後期になるとサケ定置網も行われ、昭和初期まで、ニシン、サケなどの漁場で栄えた。明治8年から仙鳳趾村と表記され病院、宿屋等もありました。もっと古い記録では渓流魚で岩魚やヤマメの事を云ったというのもある。仙鳳趾周辺には地名板の他にも地名が存在する。別太(ベップト)河口や川の合流部の意味だが此所では河口で、今の仙鳳趾市街の河口に付けられていた。仙鳳趾の裏の地名でオタクバウシというのが有るが、これはヤチボウズの群生している所。浜中は同じ字でセンポウジと読ませる地名あり。
仙鳳趾の隣に有る集落付近の沢に付けられいた地名で蝦夷語地名解では“チプ・ランケ・ウシ 船ヲ下ス處 山中ニテ船ヲ作リ此處ニ船ヲ下ス處”とある。比較的遅くまで使われていた地名ですが、船を造るための良材が有り船を造るのに大事な場所だったのでしょう。古代の造船所と言うわけですね。“chip-ranke-ushi 船を・下す・処”という訳で重蘭窮と当て字、文字入力は手書き入力以外は不能。重蘭窮は地名板を見つける事が出来ず、厚岸町に属するのかも。※この地域を旅する場合には車は不可欠です。車は事前の整備を忘れず、燃料は満タンにして出かけましょう。簡単にスタンドは見つからないので・・・
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