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昔、屈斜路湖奥の藻琴山の上にニセイカウンクル(峡谷の上の人)というコタンがあり、東の方にはメナシトーチャコタン(東の湖畔のコタン)、西の方にはシュムマトーチャコタン(西の湖畔のコタン)とがあり、屈斜路には湖口のコタンをあわせると四つのコタンがあった。藻琴山のニセイカウンクルコタンは心の良くない人であったので、北見の浦士別にあったコタンに夜討したが、かえって浦士別のものに負けて逃げ帰り、追っ手に攻め込まれ全滅してしまった。このために湖の東と西のコタンも滅ぼされたが、湖口のコタンだけは人が良いので半分より滅ぼされなかったので、このコタンだけが残った。美幌町 菊池儀之助エカシ伝 ※滅ぼされたのはニセイカウンクルコタンだけで他は無傷で残ったという別の話もある。
屈斜路湖の中島はもと現在の奔渡の所にあった山であったところがこの湖に昔大アメマスが住んでいて、頭は湖の上手に岩のように水の上まで現れ、尾鰭は釧路川の出口あたりにゆれ、背鰭は湖上に現れて天の日に焦げ、腹鰭は湖の底の石に磨れているという大きなもので、湖を渡る船でもあると波を起こして船を覆して人を溺らせ、退治にいった神々も寄せ付けないという恐ろしい魚であった。あるときそれをを聞きつけたアイヌの英雄オタスウンクルが銛をもってこれを退治に来て、見事に大アメマスの目玉を突いた。然し大アメマスそんなことで容易にまいらず、大暴れに暴れどうにかすると銛の柄に結びつけた縄をしっかり握っているオタスウンクルが水の中に引きずり込まれそうになるので、オタスウンクルは必死になって近くにあった山にその縄を結び付けたが、大アメマスも必死になって暴れてため遂に山が抜け、湖の中に崩れ込んでしまった。そのため大アメマスは山の下になって動けなくなってしまった。その山が現在の中島であり、山の抜けた跡に水がたまったのが奔渡(pon-to=子である沼)であるという。現在でもこの地帯で時々地震が起こるのは、山の下になったアメマスがまだ死に切れずに暴れるから起こるのだろうという。弟子カムイマエカシ伝 ※オタスウンクル・伝説の主人公でオタスツ人。ota-sut=オタスッ 砂丘側 un-kur=ウンクル にいる人。小樽付近に限定した場合は歌棄人。
屈斜路湖畔のクトゥンヌプリという山に、昔から山男がいると言い伝えられていた。その山男は大きな山犬を一匹連れて歩いているが、この山犬は石を咥えて投げたりする事があると云う。もし山男に会ったら煙草をやるとニコニコして、熊の肉でも何でも持っているものを呉れるけれど、煙草をやらないと害を加えるそうだ。この山男は普通の人と別に変わったところはないが、木を切るときは普通は上から下ヘ伐り下ろすが、山男は下から上に切り上げるのが違う。屈斜路コタン・山中西三エカシ伝 ※kut-un=クトゥン は山で言えば「岩棚のある」と言う意味。
屈斜路湖畔和琴半島の元(付け根部分)に、義経岩というのがある。昔は半島の突端にあった岩で、この地方のアイヌに生活の方法をサマイクルカムイという神様であるといって、祭りの時は酒を捧げるのを通例としておりました。ところがある夏にこの地方に出稼ぎに来た和人の樵が「こんな岩が神様なものか」と言って岩に小便をかけた。それから数日して嵐の夜が明けてみると、サマイクルカムイの姿が見えなくなってしまった。アイヌたちは和人の無礼を怒ってサマイクルカムイは神々のいる島の上(モシリパ)ヘ行ってしまったのだと云うが、その後(この岩が湖中に落ち込んでいるのが発見され)土地の人々が名所を作るために湖に落ちた岩を拾い上げて、現在の所に運んできて義経岩と名付け、義経の弁当岩と云うのまでその周囲に並べたものである。サマイクルカムイの立っていた和琴の岬は、今でもサマイクルアパッテウシ(サマイクル神がいつも釣りをするところ ap-atte=針を-かけておく⇒釣りをする)といってサマイクルカムイが魚釣をしたところと言っている。なお藻琴山の麓の屈斜路湖畔にはサマイクルプー(サマイクル神の倉)といって、サマイクルカムイが取った魚を入れる山倉が岩になったという所があり、その近くにサマイクルオタ(サマイクル神の砂浜)という砂浜もある。弟子カムイマエカシ伝
昔、摩周湖に大きなアメマスが住んでいたが、ある時どうして降りてきたか湖畔へ一頭の鹿が水を飲みに下って来たところ、それを一呑みにしてしまった。ところがその鹿の角がアメマスの腹に刺ってしまったのでアメマスは死んで土の下をくぐり西別川の湧水池の出口に引っかかってしまった。そのため川の水が止まり摩周の水が今にも溢れそうになった。そのことを鳥の神様である郭公鳥がコタンの人々に知らせたので、上のコタンの人々は神に感謝して安全地帯に逃れたが、下のコタンの人たちは神様の云うことを聞かず水源地に行き、大アメマスを発見し大喜びで曳っぱったため、アメマスが抜けて来ると同時に恐ろしい勢いで噴き出した水のために、下のコタンの人も大アメマスも洪水の渦に巻き込まれて見えなくなってしまった。この洪水のためにあたりのものが押し崩されたり倒されたりして、今のような平らな根釧原野が出来たのであるという。なお高台に逃げた上のコタンの人達だけは助かったので、その助けられたシュネニウシという一本の楢の木のある高台に祭壇を作って感謝し、そこを今もヌサウシ(祭壇の有る所)といっている。そこは俗に荻野といわれている一面の萩の高原で、根室と釧路の国境線に当たっている所である。屈斜路 弟子カムイマエカシ伝
久摺日誌に「乙名メンカクシ(武四郎の阿寒案内人)の曽祖父タサニシという人物がその昔、何歳か年も分からないような大熊を射止めたが、その熊が倒れて湖に落ちたところだそうで、それからしばらく後に熊の死骸が西別川に流れていき、その時の矢が太かったのでクシロの首長の射た矢と分かって、ネモロ(別海)の方から熊と矢を送り返して来た、という話が伝えられている」とあり、次に赤岩の洞窟で野営したときの記録では「夕方、岸に立って湖面を眺めていると箕(竹製の農具)の様な黒い頭の魚がいるのを見た。湖面にその頭を持ち上げて、口を開いたのを見ると、口中は真赤で、まるで丹朱を含んだようである。・・・同行のアイヌ達は一向に驚く様子はなく「あれは神魚だ」という。※神魚を見たという部分については丸山道子氏の言う通りフィックションと思うが松浦武四郎の記録スタイルからこの地にあった怪魚カムイチェプの伝説を元にしてると推測される。タサニシと言う人物はチカップ美恵子氏の「森と大地の言い伝え」に寄ると釧路アイヌの十七代首長・ただ熊を仕留めたのは代二十代首長のフミウンカクシとなっており松浦武四郎の記録した「別海に流れ着いた熊」には時代のズレがあるが話の内容はより詳しいものになっている。フミウンカクシはメンカクシと同一人物です。摩周湖から別海に流れ出た巨大な魚はアメマスではなくイトウであると言う説を述べている。松浦武四郎著・丸山道子現代語訳 久摺日誌より転載
☆ 第一話
摩周湖の中にある小さな中島を、今でもカムイシュッと言っている。カムイッシュ(kamuy-sut⇔カムィシュッ⇒神の祖母と思われる)とは、神様のような老婆という事で、この老婆は北海道の下の方(宗谷稚内方面)のコタンの強い首長の母であったが、あるときこの首長の一族は隣の首長に騙し討ちにあって殺されてしまった。その時老婆はやっとの事で首長の独息子を抱いて、闇に紛れて敵の手から逃れ出て野山をさまよい歩いているうちに、自分の命よりも大事にしていた孫を見失ってしまった。悲しみながらその行方を探し探してある日屈斜路湖畔にたどり着き、疲れた老婆は一夜の宿を湖の神に頼んだが、どうしてか湖の神様は返事をしてくれなかった。それで仕方なく更に歩みを進めて摩周湖のほとりまで行って、そこでカムイヌプリに頼んだところ、快く宿を貸してくれたので、この湖の中に休むことになり、そのまま島になってしまったのであるという。それで今でもこの島に人が行く事があると、孫が訪ねて来たくれたかと思ってうれし泣きに泣くので、どんな晴天でも雨が降り、冬には雪が降ると伝えられている。弟子カムイマエカシ伝
☆ 第二話
昔十勝の足寄の山の中に妾と本妻を持った狩人がいた。妾とは仲が良かったが本妻を虐めたあげく殺そうとしたので、本妻は子供を負うて逃げだし雄阿寒の頂上に来てそこの神に「夫と妾のために殺されそうだから助けてください」と言ったが雄阿寒の神は「お前が男なら助けてもやれるが、女だからそれは出来ない」と言って断ったので仕方なく、屈斜路湖の奥の藻琴山への頂上に行って頼んでみたがここでも同じ事を言われた。仕方なく子供を負うたまま飲まず食わずに歩いているうちに雪が降って来た。そのうち摩周岳の上に息も絶え絶えになり「雄阿寒でも藻琴山でも断られたが雪も降ってきたので何処にも行きようがないから助けて欲しい」と頼んだが摩周岳もやはり同じ返事だったが、雪はみるみる降り積もってもう何処へも行くどころか、身動きする事も出来ないので、摩周岳は「このままではお前が私の頭のてっぺんで死んでしまっては、私は頭を上げる事が出来ない、それでお前をこの下の湖の主にしてやるがどうか」と言ったので女は「何でも良いからどうにでもしてください」と頼んだので、摩周岳は子供を負うたままの女を摩周湖の真ん中に投げて島にしてしまった。それで摩周に人間の男でも女でも行くと、昔の事を思い出して泣くので天候が悪くなるのだ。鶴居村 八重九郎エカシ伝 ※ここではハッピーエンドはない。
☆ 第一話
屈斜路湖の奥にトーエトクウシペ(湖の奥にあるもの・で今の藻琴山)という我儘な山があって、何かというと煙を吐いたり火を降らして乱暴ばかりはたらくので、あたりの山の神や人間達も大変こまっていた。ところが湖の落ち口の近くにあるピンネシリ(男である山)がこの無法者を懲らしてやろうと、槍投げをして勝負をつけることにした。ピンネシリの投げつけた槍は狙い狂わず、トーエトクウシペの胴腹に突き刺さり、山は二つに裂け血が奔流になって流れ、屈斜路湖畔の岩を真赤に染めた。ピンネシリのために真二つに割れて血を噴きながら、トーエトクウシペは槍を引き抜いてピンネシリに投げ返したが、狙いが外れてピンネシリの肩のところを僅かに傷つけて遙か後ろの方に飛んでいってカムイヌプリ(摩周岳)に突き刺さったので、カムイヌプリは非常に腹を立てて、ここから抜け出し、千島の国後島ヘ飛んでいってチャチャヌプリ(長老の様な山)になってしまったという。このさわぎがあってからはトーエトクウシペもおとなしくなり、火も噴かなくなってしまったが、ピンネシリの槍で割られたところは今もヌプリエベレップ()と言う大沢となり、ドンドン川という奔流が、当時の噴出した血のように流れているが、血に染まった岩でも湖畔にそのまま残っている。一方肩をかすめたピンネシリの傷跡は今も岩が露出して昔の跡をとどめているが、それ以来ピンネシリをオプタテシケ(槍のそれた山)というという様になった。摩周湖畔のカムイヌプリの裾の赤岩は、その時カムイヌプリが流した血であり、対岸の白い岩は涙の跡であるという。弟子カムイマエカシ伝
☆ 第二話
カムイヌプリが千島の国後島に行き、チャチャヌプリの東の方に止まったが、ある晴れた日に阿寒の方を見るとトーエトクウシペが見えるので、再びここを飛び立ってエトロフに行き、そこの高山の北側に降りてここに永住の地としたとも伝えられ、根室の別海や目梨の海岸地方に有るウバユリは、国後に飛んでいくカムイヌプリの山肌からこぼれ落ちたのが後に広がったのだと言い、釧路アイヌが千島に行くと雨が降るのは、カムイヌプリが故郷を思い出して涙を流すからであるという。なお国後のチャチャヌプリのそばにある大きな沼はカムイヌプリが再び飛び立った跡であるという。山本多助エカシ・阿寒の伝説より
☆ 第三話
屈斜路湖の北岸の藻琴山は男山で南岸のオプタテシケ山は女山であった。男山の藻琴山は女がどのくらい偉いのか、どのくらい魂のあるものかを試してみようと思ってオプタテシケが眠っているところへ槍を投げつけたが、槍が肩をかすって後ろに飛び、何も知らずに眠っている摩周岳に突き刺さってしまった。「何のためにこんな無茶をするのだ」と腹を立てた摩周岳は血を流しながらここを抜け出して国後島のチャチャヌプリになった。それで釧路のアイヌが国後へ行くと、自分の故郷の者が来たと言って懐かしがって涙を流して曇りあれるので知っている人は酒や煙草をあげるのだ。オプタシケは男は無茶をするものだと怒って、藻琴山に槍を投げ返したので藻琴山の頭に当たって二つに割れてしまったのだ。これは屈斜路の弟子勝太郎から聞いた話だ。鶴居村 八重九郎エカシ伝
屈斜路湖の水が釧路川となって流れ出す所に、丸山という小山があるが、この山の上に昔シュツという偉いお婆さんが住んでいて、このお婆さんの鍋のつるが鍋にあたる音は、遠い湖の奥までも響き渡ったという事である。ある年、鹿も魚も捕れない年があったので、コタンの人達はこのお婆さんに頼んだところ、お婆さんは立ち上がって「大雪ふれふれ大雪ふれふれ」と言って踊ると、夏の盛りなのに大雪が降って鹿が動けなくなったので、沢山の鹿を取ることが出来てコタンは助かった。屈斜路コタン・山中イクフチ伝 ※アイヌ伝説としては異色と云う印象があるが、丸山チャシと何らかの関係がありそう。
対岸の大きな藻琴山とやり投げをして、見事に藻琴山を負かしたというオプタテケシケヌプリは、昔オホーツク海から押し寄せてきた大津波が釧北の国境の山を越し、藻琴山も附近のすべての山もその波を被ったのに、このオプタテシケヌプリだけは頂上に波を被らなかった。それでそこへ避難していた附近のアイヌは助かったので、それ以来非常に尊い山として尊敬され、祭りの時には必ずこの山に酒をあげることになった。弟子カムイマ・エカシ伝
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