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永田地名解では“weu-pet ウェン・ベツ 悪川”として2例を記載している。上原熊次郎地名考や松浦氏知床日誌でもぞれに悪い理由がはっきりしている。これ自体は珍しい事ではないがそれぞれに溺死とか悪路など悪い理由が違う。これを同じ原因に起因する事として考えてみた。河口では融雪時を除けばおぼれるような川では無いが、川の奥に入ると峡谷になり、函の中を泳ぐ事や激流の渡渉など凄まじい難所で、渇水期以外は落ちれば溺れたりする可能性は今と違いかなり高かったと思う。釣り人には憧れの地で僕は三度挑戦して三度とも敗退した。
地名解では“sakipe-moi サキベモイ 鱒湾 一説 シャクモイ 夏湾の義此湾夏日鱒漁を為す故名く”と。古い地図にはサケペモイとあるが“sak-ipe”は夏の魚と呼び鱒の事を意味する。意味は何となくわかるが釈然としない。元崎無異川の元も“mo-ota”か“moi”なのか今となってはわからない様だ。鱒釣りのエリアとしては面白い所。
地名解では“kunne-pet 黒川 此川の魚黒し故に名く”と。知床日誌には“暗川と云義”とあるが更科地名解では、魚が黒いのは川底の色に合わせての保護色という説明をしている。実際に川を見てみると確かに黒いところもあるし、中流域は函を作り暗いが上流はむしろ白っぽい。魚が黒っぽいのはオショロコマに関して云えば間違いなく他に比べると黒い。鮭や鱒に関しては長年の孵化放流事業によって、その川特有の個体群が殆どなくなってしまった今では確かめようが無い。秋には多数のサケが遡上する観光スポット。上流に有名な薫別温泉がある。
地名解では“kotanoka コタノカ 村跡 コタンオカケに同じ、往古アイヌ村アありしときは コタヌカ と云いたり。コタンウカの急言にて村上の義なり。コタンケシ即ち村端に対したる名なり”と説明。最近海岸の浸食が激しい。
元来は川の名でサマツケヌプリ山に発して国道に沿うようにして流れ下り根室海峡に注ぐ“ciw-ruy チゥ・ルィ”は波、水流・激しいの意と言うことで急流を意味するが、河口近くや中流域は穏やかな清流です。此川は金山の滝付近より上流で一休橋まで間は急流のレベルを遙かに超え渇水期以外は遡航は極めて困難で、ベテランの釣り人でも簡単には入れない。釣師の視点で云うと時期を選べは安全ではあるが遡行が困難な所が有るのが“ciw-ruy”場合によっては命がけになる可能性があるのが“weu”という具合に押さえた方が良いかも。
“ru-pes-pe”ルペシペで山を越えて向側にある路に降りていく路のある川。斜里側に抜ける新道が出来た時に駅逓が置かれた頃は留辺蘂、瑠辺蘂等があり瑠辺斯の字を当てた様だ。今は国道が走り途中の公園に標津十景の金山の滝がある。スキー場の方に行くと女滝も見られる。
忠類川の本流からわかれて国道に沿って右手の沢へ入る川で幾品川と交差している。カスィは渡渉するという意味かあるとい〈地名アイヌ語小辞典〉“kasui-us-nay カスィ・ウシ・ナイ”で渡渉いつもする川。多分此川から山越えして幾品川に入り斜里方面に抜けたのだろう。このような川を良く歩いたものだ。
戊午志辺津日誌ではイジヤニ、地名解では“ichani 鮭ノ産卵場 イジヤニ又イザリと云ふは訛なり”と“イチャン・ウニ ican-un-i”のなまったもので鮭鱒の産卵場のある所の意味と、今は川と集落の名となっている。集落の北のはずれは標津・目梨の郡境でイチャニケシと呼んだ。秋には海岸線に鮭釣りの竿が並ぶ。
知床日誌には“サンホッキ、魚懸棚と云義、東西クナシリに対して眺望よろし”と、戊午志辺津日誌では色丹から引き取ったアイヌが“此処え出稼を致し来り、其魚を乾棚を砂浜え作りたりと云儀”と逸話かもしれないが具体的である。地名解では“saun hugi サヌ・フギ 前の濱 で松浦氏は誤聞した”と書いてあるが、最近の説では“サン・ホルキ san-hork-i”で出崎のため川水が後戻りすると云うのだが、川筋の変わりやすい河口部近くでは想定しづらい。道内で見る“horka”は其の川の形が中流や上流で全体的に河口、もしくは本流に向かって大きく回り込んでいるのが多く標津川の様な例が有るのを知らない。今は湿原と遺蹟の名前として残って居る。
地名解では“ karakara-us-i カルカルウシ 鷲鳴ノ小川”とあるが・・標津町のポー川横の丘陵に広がる1000年~3000年前の遺跡群で竪穴住居跡が1500以上という道内最大規模。古い地名からカリカリウス遺蹟と呼ばれている。意味は手持ちの資料では何とも言えない、松浦武四郎の記録を見ても出てこない。古いアイヌ語では“kar”は鳥を意味する事もある様だというのを聞いた事はあるが管理人の手には余る。付け加えるとこの地方は鷲の猟場でもあった様だ。
伊茶仁川の南支流でポー川史跡自然公園。意味が良く判らない地名だったが松浦武四郎の図面では そこはフルホクと呼ばれていたようだ。松浦日誌では“フルホク 然るに此処に少しの坂有て其傍を川が通ると云儀によって号るとかや”とある。地名解では“huru-pok 丘蔭”となつている。山田秀三氏は“hur-pok”で、丘の下と説明。公園内の標津湿原(国の天然記念物)に設けられた木道を抜けるとポー川がある。川を渡った所にカリカリウス遺蹟の石碑があり直ぐに高台に登る。それはまさしく松浦武四郎の言葉道理の地形。同じ地名としては虹別にフルホククシナイと云うのが有り“フルとは坂の事、ホクとは下ると云う儀”と書いてあった。普通の人にはフルポとしか聞き取れない様で、なぜフルが省略されたのかは不明。丘の上に古代の遺蹟が分布、其の一部の住居が復元されている。
知床日誌に“シベツは、シベヲツの訛り、鮭有る義なり”戊午志辺津日誌では“志辺津、本名はシベヲツなり。シベとは鮭のこと、ヲツとは居ると云儀とも云。また一説に昔はシベウシベツなりとも云。其訳鮭多き川と云よし”と、地名解では“大川(シベオツ)鮭居る処の説あるも非なり”と。標津町史では大川の説を採用。管内には同規模の川が多数有るが、標津川は内陸への交通路として要な川で有るから大川と云うよりは本流という意味の方が重いと。志辺津日誌の中で“一説に武佐川(むさがわ、モーと呼ばれたとも-支流の事)を分かってから上をシペッと呼んだのがもとか”と書かれ、この事は本流がsi-petと呼ばれていた事を証明するのだが、遠い昔は武佐川より上流をsi-petと呼んだ事をも意味していると思うが。
チャシ・コッは砦跡の事だが茶志骨にはオンネチャシ、タブ山チャシ跡、浜茶志骨チャシ跡、会津藩の陣屋跡と思われていたアイヌ伝説の残されているホニコイチャシ、公園となっている望ヶ丘チャシ跡が有る。狭い間にこれだけのチャシ跡が有ること自体驚きですが、更に標津の遺跡にはそれぞれにチャシが存在。チャシ跡は見晴らしが良い事が多いが、望ヶ丘チャシ跡はチャシの面影は殆ど無い。
元々は標津町と別海町の町堺を流れる釣り人には有名な川で、地名解では“to-horo トーホロ 沼川 アイヌ云ふ ホロ は川の義”と、「戊午志辺津日誌」では“トウボトウホは沼有る義”と此処では“ト・ホロ 沼の・川”とは異なった説明をしている。河口で云うなら川と沼の区別は昔は難しい所もあっただろうとは思うが・・・・
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