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にしん街道を巡る旅
日本海オロロンラインのにしん街道碑と番屋‼

オロロンラインのにしん街道碑

オロロンラインは石狩市から稚内市までを結ぶ海岸沿いの国道沿線の通称です。ここでは小平町、苫前町、羽幌町、初山別村、稚内市の街道碑やニシン文化遺産(主に建築物と漁具、関連施設)を紹介しています。現存する最北のにしん番屋は小平町までとなります。かつては苫前町と羽幌町にもにしん番屋がありましたが、苫前町の岡田家番屋は倒壊、羽幌町にあったニシン刺し網漁漁家住宅は北海道開拓の村へ移築されています。

南無大師地蔵菩薩百年記念碑

南無大師地蔵菩薩百年記念碑時々釣り人を見かける秀浦の海岸線の国道沿い山側に策で囲まれた中に碑が建っていて横に建物(御堂?)が一軒ある。正面の文字は潮風で消えかかっているが何とか読める「南無大師地蔵菩薩百年記念碑」裏面に「昭和53年3月24日 百年祭実行委員会 (氏名省略2名) 別当興聖寺」とあり、台座裏面の碑文は「明治拾壱年三月中旬津軽ヨリヤン衆ヲ乗セ来リシ船、此ノ沖ニテ遭難シ積荷ヲ投棄セル中ニ『カクラサンボウズ』有リテ此ノ浜ニ漂着ス、当時此ノ地ニテ鰊魚場ヲ営ミシ(屋号)関寺家ノヤン衆達コレヲ見ツケ幾度海中に打捨ルモ同ジ処ニ打チ上リヌ、域晩『カクラサンボウズ』(屋号)関寺家ノ妻女ノ夢枕ニ立チテソノ仏縁有ルヲ説キ御祀ラレン事ヲ願ワルル。婦女早速部落民一同ト図リ御堂ヲ建立シテ御祀リシ興聖寺住職市野智透師ヲ招キ供養セリ。爾来此ノ地ハ鰊ノ千石場所トシテ繁栄ヲ極メ、又、御堂ハ災、厄除けケノ祈願所トシテ参拝人絶エズソノ後御堂ハ幾度カ火災ニヨリ焼失セルモ御本尊様ハ無事ナリ。今慈ニ御祈リシテヨリ百年トナルヲ記念シ信者、部落民、碑ヲ建立シ、ソノ由来ヲ記スモノナリ 若松由太郎敬白」※碑のある秀浦海岸は海底に岩盤が陸と並行にのびて鰊の産卵場として好条件を備えている場所でした。興聖寺とは小平町鬼鹿田代にある曹洞宗の寺院と思われる。またここは関寺家のニシン漁場であり、前浜はニシンの千石場所だったことがうかがえます。◇建立年:昭和53年3月24日 ◇建立者:百年祭実行委員会 ◇所在地:留萌郡小平町鬼鹿秀浦 ◇G.Maps:44.116828, 141.658053

にしん街道標柱小平町MAP

にしん街道標柱・小平町説明板より転載
『ここ小平町は、江戸時代後期から昭和30年代に到るまでまで「にしん漁」で栄えた町です。「にしん」は身欠き鰊や数の子として食用とされ、これらは京都の「にしんそば」や東北地方の「数のこ豆」「鰊の山椒漬」など全国各地に鰊食文化をはぐくみました。しかし、多くは「〆粕」に加工され、江戸から明治時代を代表する肥料として本州へ出荷され、木綿や藍などの商品作物の生産を伸ばして私たち日本人の生活を豊かにし、稲作や畑作などに広く利用され私たちの食を支えていったのです。

小平町でにしん漁が行われてのは鬼鹿地区と臼谷地区。
鬼鹿地区には、現存する鰊番屋では最大規模となる国指定重要文化財「旧花田家番屋」があり、経営者である親方家族の住居であると同時に、最盛期200名を越える漁夫や職人が寝泊まりする漁場の拠点となった施設で、明治38(1805)年頃建築の代表的なにしん漁遺産です。さらに、明治34(1901)年瀧川弁藏氏によって小樽から「松前神楽」が伝えられ、道南から当地鬼鹿へ来住した漁夫達によって盛んに演じられ、いまも鬼鹿松前神楽保存会によって脈々と受け継がれています。

臼谷地区には、享保21(1736)年、村山伝兵衛と施主名がある小平町有形文化財「臼谷弁財天碑」があり、場所請負人として蝦夷地各地の漁場経営を担い、当時豪商として全国的に知られた村山伝兵衛の此地での活動を明らかにしています。江戸・明治・昭和の長きにわたり、広く全国に行きわたり日本人の生活を支えた「にしん」。その「にしん」のもたらした繁栄の歴史と「にしん文化」息づくまちを結ぶ道しるべとするとともに、あらたな観光ルートとして確立し地域の活性化につなげるために、この「にしん街道」の標柱を設置します。』 ◇設置月:平成24年9月吉日 ◇設置者:小平町 小平町観光協会 ◇所在地:小平町広富 にしん文化歴史公園 ◇G.Maps:44.137449, 141.654315

旧花田家番屋国指定重要文化財MAP

おびら鰊番屋国指定の重要文化財で鰊番屋の代表的木造建築物、平成13年には北海道遺産に認定されています。小平町教育委員会が旧花田家番屋の説明板を設置しており転載する「重要文化財旧花田家番屋 建築年月日 明治37年(推定) 指定年月日 昭和46年12月28日(文部省告示第220号) 構造形式 木造平屋一部二階建 寄棟造 こけら葺 外部下見板張 基礎 自然石 土台規模面積 一階801 二階105㎡ 所有者 小平町」「重要文化財と指定された本遺構は、旧天登雁村(現在地)の鰊漁家花田伝作氏によって建築されたものである。花田家は屋号をマルニと云い最盛期には18ヶ統の鰊定置網を経営する道内屈指の鰊漁家であった。この番屋はその本拠として5ヶ統の漁夫の他外船大工、鍛冶職、屋根職、曲師等総勢200人前後の人を収容していたもので、その空間を生み出している木材は、すべて地元【大椴】の山より切り出し、三半船で海上を運び、木挽きの手によって製材されたものである。当番屋は道内に現存するものでは最大の規模を有し、木割りは大きく豪壮であり、空間は雄大である。玄関から奧に土間を通し、その北側に親方居住部分を、南側に漁夫の生活部分を設け、漁夫の寝台(ねだい)を中二階に備えて三段とし、その機能と合理性を求め、俗に番屋と呼ぶ鰊漁家特有の平面構成である。小平町では、重要文化財の指定と共にこれを買収し、3年の月日と約1億9千万円の費用を投じて解体修復したもので既に希有となった古民家建築物鰊番屋の代表的遺構である。」ニシン漁場の規模は鰊番屋で判るという程で、かつて前浜はニシンの千石場所と云われ旧花田家番屋には常時200人程の人が働いていたと云い、小樽鰊御殿の多くて120人の漁夫が寝泊まりと比べると旧花田家番屋の規模がわかる。ポンオニシカから番屋の沢川河口付近は明治前から漁場への出稼ぎ人が多く宿屋などもあったと言う。旧花田家番屋の見学は有料・写真撮影は出来ます。◇所在地:小平町字鬼鹿広富35番地 ◇G.Maps:44.136403, 141.655386

道の駅 おびら鰊番屋

道の駅 おびら鰊番屋ニシン番屋風の道の駅『おびら鰊番屋』で旧花田家番屋の見学受付も此所しますが、外観を見るだけなら必用ありません。道の駅周辺は『にしん文化歴史公園』として整備され、松浦武四郎の歌碑と銅像、三船遭難慰霊之碑、鰊街道標柱などがある。簡易的な郷土資料館ともいえる道の駅で、展示内容も一新され、小平沖で魚雷攻撃により沈没した三船遭難関係の展示もある。なお小平町で発掘された首長竜は文化交流センター、その他の化石類は埋蔵文化財資料館・オピラウシ(見学は完全予約制)で展示されている。化石マニアはそちらの方が良いかも。◇所在地:小平町鬼鹿広富48

旧藤田番屋 漁家住宅有限会社 藤田水産MAP

旧藤田番屋国道ぞいに藤田水産の直売所看板があり建物前に駐車スペースがあるので立ち寄りには便利。明治後期から大正初期の鰊番屋がもとになっていると思われるが正確なことは不詳。鰊番屋としては小規模~中規模のように見えるが、鰊番屋にみられる望楼やケムダシはありません。デザイン的にはまとまりがよく他の鰊番屋とは趣がことなる。現在は住宅と店舗として現役で使用中であり内部は建設当時とは変わっていると思われるが非公開です。買い物をされる方は店舗部分は見られるかもしれませんが・・・ ◇設置年:不明・明治後期以降か ◇所在地:留萌郡小平町字鬼鹿広富90 ◇G.Maps:44.145172, 141.655158

にしん街道標柱苫前町MAP

にしん街道標柱・苫前町説明板より転載
『苫前町は、漁業を主要産業として栄え、その中でもにしん漁業が90パーセント以上の占めていた時期が長く続きました。明治末期から昭和初期までには不魚と回復を繰り返しながらも本州や道内各地から「若い衆」「ヤン衆」と呼ばれる漁夫が大勢訪れ、浜は活気であふれていました。また、戦中、戦後の食糧難の時代に「にしん」が重要な役割を果たして来ました。

しかし、約2世紀以上にわたって苫前町を支えてきた「にしん」も昭和30年に激減、数年間でほとんど姿を消すとともに、かつて苫前町が「にしん」によって支えられていた記憶さえも忘れ去られようとしています。それらの「にしん」がもたらしたマチの活気や歴史などを後世につなげるため、にしん漁が行われていた各地を「にしん街道」とするとともに、この苫前町にも標柱を設置するものです。』

苫前町にあった道内最北の中規模にしん番屋「岡田家」は平成13年の豪雪で倒壊、当時の漁具などは苫前町郷土資料館でみられます。◇設置年:平成24年11月吉日 ◇設置者:苫前町 ◇所在地:苫前町夕陽ヶ丘11:ホワイトビーチ ◇G.Maps:44.315361, 141.662545

史跡 苫前運上屋跡MAP

史跡 苫前運上屋跡苫前場所の開設は天明5年と云うが、史跡は場所請負人の栖原家が文化元(1804)年に苫前運上屋を開設した跡。運上屋との関係で天売、焼尻への航路は苫前からであった。苫前場所請負人は増毛と同じ栖原(すはら)家、沿岸のニシン資源が苫前場所請負の動機になった様で、6代栖原角兵衛が1786(天明7)年の天売、焼尻に続いて1787年に苫前場所請負人となり運上屋が設けられた。幕末の頃は恵比寿岡田屋が請負人だったかもしれないが、最後の漁場持ちは十代栖原角兵衛でした。運上屋と周囲の様子は松浦武四郎が弘化3年に当地を訪れた蝦夷日誌の中に「運上屋北向。座敷、玄関美々敷立たり。後ろの方白岩崩岸に立靠り、蔵々、長屋有り。弁天社、運上屋の南小高き山ぎしに有」と書かれている。碑は苫前漁協前駐車場前、バス停傍にあります。◇所在地:苫前町苫前 ◇G.Maps:44.313771, 141.649489

にしん街道標柱羽幌町MAP

にしん街道標柱・羽幌町新たな観光ルートの確立など、各地域の活性化につなげていくことを目的に、サンセットビーチ駐車場にヒバの木を使用した高さ2.7mの「にしん街道」の標柱を設置されている。

説明板より転載
『ここ羽幌町は、明治20(1887)年頃から「にしん漁」で栄えた北海道日本海沿岸の町の一つです。にしんは春告魚とも呼ばれる春の魚で、雪解けが始まる3月下旬ともなれば同内外各地から「若い衆」「ヤン衆」と呼ばれる出稼漁夫がどっと繰り込んできて、長い冬の間、人気のなかった浜は漁期を間近に控え、一気に活気づきました。出稼漁夫は石川県河北郡内灘町(旧内灘村)から来た者が大多数を占めていました。また、青森県、秋田県の出身者も少数おり、道内からは渡島、日高、十勝地方の出身者が占めていました。次第にこの地域に定住する者が増え、町が形成され、此地に文化、歴史を育んだのです。眼下に広がる沿岸には群来たにしん(産卵のために大量に海岸に寄ってくること)の白子により海面が乳白色に変化することもめずらしくなく、あふれんばかりににしんを満載した漁船がところせましと帰港するする様子はまさに壮観の一語につきると言われました。その後、にしんは豊漁、不漁を繰り返しながらも、この地域の主要産業として、地域経済や地域住民の生活に大きな潤いと活力を与えました。しかしながら昭和32(1957)年にはにしんの漁獲量がわずか199トン(最盛期2万4千トン)にまで激減し、昭和36(1961)年以降は沿岸から全く姿をけしてしまったのです。にしんがこの地にもたらした歴史と伝統の数々に想いをよせ、羽幌町形成の礎となった漁夫に敬意と感謝の誠を捧げ、この文化を後世に引き継ぐために「にしん漁」で栄えた日本海沿岸の一拠点として、この羽幌町にも標柱をせっちしたものです。』 ◇設置月:平成25年9月吉日 ◇設置者:北海道羽幌町 ◇所在地:羽幌町港町 サンセットビーチ ◇G.Maps:44.365371, 141.693350

旧秋山家 漁家住宅北海道開拓の村MAP

旧秋山家漁家住宅明治末期に秋田県から移住した秋山家が1919年に羽幌町で建造した漁家住宅で、現在は北海道開拓の村に移築し公開されている。秋山家は他の鰊漁家とは異なり、ニシン刺し網漁を中心に磯まわり漁を続けながら1978年まで三代に渡りこの住宅に住まわれていた。約30の平屋造りで少し大きめの一般住宅と変わりない広さ、俗に言うニシン御殿とは違いシンプルな作りですが、当時の一般住宅よりは豪華という印象。※開拓の村にリンク 北海道開拓の村・旧秋山家漁家住宅 ◇所在地:札幌市厚別区厚別町小野幌(北海道開拓の村)◇G.Maps:43.046508, 141.501281

旧小納家 焼尻郷土館商家建築MAP

焼尻ニシン御殿 焼尻郷土館加賀国塩屋村出身の初代小納宗吉氏は北前船の船員として明治維新前後に単身渡道、松前にてアワビとナマコの乾物を扱う貿易商として成功し、その資産を基に40歳頃に海産物の宝庫という「天売・焼尻」で事業を展開し焼尻島に移住したようです。旧小納家の建物は明治33(1900)年に有力なニシン場親方衆となっていた2代目小納宗吉氏が建築、間口 34m、木造2階建、1階だけで500㎡という和洋折衷の大きな建物で、広い玄関を真ん中に右が郵便局、左が店舗で食料品・呉服・雑貨・医薬品・漁具など島での必需品を販売、実用的ながら随所にモダンな装飾を凝らした和洋折衷の造りで宿泊施設も備えていた。往時の繁栄を今に伝える豪華な家具や什器にまじって、ゴルフクラブやミシン、電話機、オルガンなどもあり、中庭にはオンコの荘と互角の庭木もある。ニシン漁あっての小納家であり、ニシンが不漁になると小納家は焼尻島から撤退。1977年に荒屋となった建物の寄付を受けた羽幌町が全面修復し、当時の生活用具などを展示して翌1978年から焼尻郷土館として一般公開、1979年には北海道指定有形文化財に指定された。碁盤ができるほどの太い黒檀や檜材で天井の梁、オロロン鳥の剥製などが珍しいも建物内部の写真撮影は不許可。焼尻にはかつて武田家番屋、武田家(分家)番屋、白旗家番屋、斉藤家番屋など何件もの鰊番屋があったが現存する番屋はない。◇設置年:明治33年 ◇設置者:小納宗吉 ◇所在地:羽幌町焼尻 ◇G.Maps:44.439447, 141.427319

旧池田家番屋漁家住宅

旧池田家番屋羽幌町天売も多くの鰊番屋があったと思われるが、断崖が続く海岸線が多く漁場は焼尻に比べると鰊番屋は少なかったと思われるが、現存する鰊番屋として旧池田家番屋がある。旧池田家番屋は寄棟、平入、平屋、中2階という建築形式で581.0㎡の規模。海岸の丘陵部に建ち入母屋の主屋を海岸に向け、背面に別棟の座敷棟と石蔵 が配されている。30年程前まではユースホステルとして使用されたと云うが現在は閉鎖中。内部の改変は少しあるようだが中規模番屋としては保存状態の良い鰊番屋ですが建物内部は非公開。◇建設年:明治34~5年頃 ◇所在地:苫前郡羽幌町天売富磯 ◇G.Maps:44.421510, 141.325469

にしん街道標柱初山別村MAP

にしん街道標柱・初山別村説明板より転載
『ここ初山別村は、明治中期から「にしん漁」で栄えた漁村の一つです。大正末期から昭和中期にかけてほぼ毎年、一万石を越えるにしんが漁獲されており、当時のにしん場では、作業員の脚を埋め尽くすほどにしんが漁獲されていたそうです。

「にしん漁」が始まる雪解けの季節になると、多くの「ヤン衆」と呼ばれる漁夫が数百人単位で東北地方及び道南地方から入来し、一気に地域全体が活気づいたと言い伝えられています。 眼下にひろがる沿岸には、産卵のため沿岸によってきたにしんの白子により乳白色に海面が変色したと言い伝えられております。「にしん漁」は当時、初山別村の主要産業であり、地域経済や地域住民の生活に大きな潤いを与えました。地域の大人から子供まで全員が毎年「にしん漁」が始まるのを心持ちにしていた様子や地域のにぎやかな様子が初山別村史に綴られています。このようなにしん文化の歴史と伝統の数々を追想し、この文化を後世に引き継ぐと共に、松前を支点として「にしん漁」の歴史・文化で結ばれる日本海沿岸市町村の一拠点の証として標柱を設置しました。』 ◇設置月:平成24年11月吉日 ◇設置者:初山別村 ◇所在地:初山別村豊岬 道の駅初山別 ◇G.Maps:44.563857, 141.774623

にしん街道標柱稚内市MAP

にしん街道標柱・稚内市にしん漁で栄えた日本海沿岸の松前町から最北の稚内まで約700kmがにしん街道と命名しされ、稚内は各地域の活性化の一つとして標柱を設置。にしん街道最北の稚内に21番目のにしん街道碑がある。

説明板より転載
『稚内は、日本海とオホーツク海に面する恵まれた立地条件により、北海道の中でも明治初期から漁場開拓の先駆的な役割を果たしてきました。その歴史を語る中で忘れることができないのが「にしん漁」で、稚内の沿岸ではかつて、早春になると産卵のため大群で岩場の海藻に押し寄せる「にしん」で海水が真っ白に変わる「群来(くき)」という現象が見られた。「にしん漁」は北海道の西南部が主要漁場だったが、明治から大正にかけて漁場が日本海沿いに北上し、稚内においては昭和28年まで地元経済を支えた。
ヤーレン ソーラン ソーラン
ソーラン ソーラン ソーラン (ハイハイ)
にしん来たかと 鴎に問えば
わたしゃ立つ鳥 波に聞け チョイ
ヤサ エーエーンヤーサーノ
ドッコイショ
(ハー ドッコイショ ドッコイショ)

「にしん漁」の沖揚げ音頭(※作業歌のひとつ)として知られる「ソーラン節」は、今の時代に合わせた曲調に乗せて振り付けされ、市内の小中学校を中心に文化教育の一環として子ども達によって踊り継がれている。松前町を始点とし日本のてっぺん稚内まで新たな観光ルートの証として、この標柱を設置する。』 ◇設置月:平成23年12月吉日 ◇設置者:稚内観光協会 ◇所在地:稚内市港1丁目6-28 ◇稚内副港市場屋外(第一副港側) ◇G.Maps:45.408874, 141.676827

旧瀬戸邸漁家住宅MAP

旧瀬戸邸旧瀬戸家住宅は機船底曵網 を主とする漁業主(瀬戸常蔵は北海道機船漁業共同組合長などを歴任)の住宅であり、木造モルタル塗り2階建、玄関から中廊下を通し左右に3室を並べ、その内左手前は洋室である。戦後の地方漁業主の住宅として平成25年6月に国の登録有形文化財になった。かつては稚内の声問に旧高橋家住宅のような木造腰折れ屋根、切妻妻入の倉庫や作業小屋がよく見られたが、最近はなくなって木造腰折れ屋根の民家が二軒残るだけ。腰折れ屋根に関しては農村部の古い牛舎などに希にみる。◇築設年:1952年 ◇構造:木造モルタル ◇所在地:稚内市中央4丁目8-27 ◇G.Maps:45.413952, 141.675308

枠船雪形とジオラマ利尻町MAP

ジオラマ山岳の融雪が進むと特徴の有る雪形が出現するが、東日本ではかつて農業の開始時期を決める農業暦であったという。利尻には最北の雪形という「猫顔」と「枠船」が極限られだ場所から見えるというが、名前からしてニシン漁に関する伝承をもつ漁業暦だったのかもしれない。利尻の雪形を一度は見てみたいが、名前にもなっている「枠船」が利尻町立博物館の屋外に展示されています。「枠船」は鰊の建網漁で使用された船の一つで「起こし船」と対で使われました。同博物館にはニシン船やニシン番屋を復元したジオラマもある。◇所在地:利尻町仙法志本町13 ◇G.Maps:45.112979, 141.216036

鰊泊の観音岩古名:カムイヌカMAP

鰊泊の観音岩利尻島の北東部、神恵内神社と八大鰊泊神社の中間付近で海岸の岩場にある奇岩。江戸期の今井地図には北西部海岸と鰊泊付近の2ヶ所にカムイヌカの名があるが、その1つがこの観音岩のようです。前回訪問時に当地の古老から聞いた話では大正から昭和にかけて観音岩の南側に4件のニシン番屋と船着き場、北側に六個の井戸があったという。観音岩はオカムイ様と呼ばれ、しめ縄がかけられ岩に上がるのを厳禁、漁師の守り神で信仰のシンボルでもあった。上部の岩は乗っているだけで隙間もあるが絶妙なバランスでその姿をたもっている。アイヌ語のカムイ・ノカ(神の・姿)が語源のようで、熊が生息しない利尻のカムイは海と関わりの深い神だったのかも。アイヌ民族の神から鰊番屋の神になり、今は観音岩という時の流れです。観音岩にはかつて昆布を運ぶため作られた作業道は崩落し、現在は北側から海岸に降りる苅分道を利用するしかない。◇所在地:利尻富士町鬼脇鰊泊 ◇G.Maps:45.209889, 141.307054

旧柳屋秀一鰊番屋桃岩荘ユースホステルMAP

旧柳屋秀一鰊番屋大正年代と思われる鰊漁業家番付表の中で前頭に礼文の柳屋石松と粕屋慶治の名がにあった礼文島への移住第1号と言われる柳谷万之助は、青森県津軽郡三厩村出身の人で、 弘化3年に礼文島へ渡り漁場の開発に取り組みました。当時の漁場は「場所請負人」の独占事業であり早期の漁場開設は場所請負人の下請負で始まるのが多いようで、柳谷万之助氏もその一人だったと思われるが、場所請負制度が廃止されると多くの漁民や商人がニシン漁に参入します。和人によるニシン漁は道南に始まり、次第に西海岸を北上して漁場を拡大、昭和に入ると漁獲高は急激に減少し昭和30年頃を境に礼文島でのニシン漁は終わりを迎えました。礼文で鰊魚場を経営した柳屋の築後100年余という鰊番屋は鰊魚が終焉するとして使われ、その後は桃岩荘ユースホステルとして利用され今に至っている。昭和50年代に一部拡張されているので創建当時の姿ではないが外観は鰊番屋の面影が残されています。そのほかに尺忍にはかつては民宿に利用されていた旧鰊番屋を思わせる建物が残っている。外観は積丹でニシン場親方であった斉藤家が積丹の入舸に建てた番屋によく似ており、入り口部分は現存する旧鰊番屋の花田家や藤田水産の建物によく似ている。もうひとつは香深井の旧郵便局舎で鰊番屋を再利用したものと云われ建物外観に番屋の鯡雰囲気が少しのこっている。◇所在地:礼文郡礼文町香深元地 ◇G.Maps:45.290691, 141.026041

にしん街道を巡る旅・日本海オロロンライン-ミニギャラリー

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