カウンター

遠別町から天塩町に残された昔話とアイヌ伝説‼

遠別川の言い伝え

『天塩山中の土人海浜に出て来たりて此處の土人と相話するを楽しみとす因多く和人「ウエンベツ」と称するは誤りなりと天塩の土人云う』北海道蝦夷語地名解・秦檍麿・西蝦夷地名解では連なる。松浦武四郎の蝦夷地紀行では鮭が遡上しないので悪い川と諸説有り。

遠別町丸松の由来伝説 マルマウツ

『マルマとは鎧の草摺(鎧の胴に付属、スカート状について腰から上脚部を守る)の事なり。又身を隠して向を窺うというような意味なり。』『何れより来候ものや鎧の草摺一枚有之たる所也と云伝ふ』秦檍麿・西蝦夷地名解※ここでウツは一般的なアイヌ語と同じで脇川のこと特別な言い伝えは無い。この辺は釣りの隠れたスポットで利尻山の眺めもよいが移動が大変。

ルベシの大山松の伝説

江戸後期以降の伝説とされている。ウエン・ベツ」とはウエン=悪い、ベツ=川という意味。流域の地形が変わるほどの暴れ川の河口にアイヌのコタン(集落)があり、ウエン・ベツアイヌは天塩や上川の人々との交流にウエン・ベツ上流を利用し、通称ルベシを主道としていました。『ある時、蝦夷地全域で天然痘が流行し、ウエン・ベツコタンでも発病者が出たため、コタンの酋長は天塩アイヌに薬草の譲渡を請うため、若者ポロカセを使者に命じます。決死の覚悟で出発したポロカセの恋人ジュカイはルベシの丘に立つイチイの木にアツシ織の衣を吊るして、恋人の無事を祈り続けました。その願いが通じ、ポロカセは薬草を持ち帰り、二人はその後、晴れて夫婦になったそうです。』北海道開発局WEBサイトより※何度も書いているが恋愛がらみで実名の出てくる話は、その殆どは創作もしくは脚色されているというのが普通という。ただ巨木は地理的位置を確かめたり、狩猟の吉凶を占ったりする特異な存在であった事は容易に想像できる。それが和人の「山の神信仰」に引き継がれ「神木」とされたのであろう。

天塩のニシン

『ニシンとウグイとがどっちが早く川に入るか競争したら、ウグイが先に入ったので、悔しがったニシンは後ろから、ウグイに弓で射った。その先が皆ウグイに刺さったので、ウグイの尾の方には矢骨(アイポネ)という骨が多いのだ。シリを射られて、腹をたてたウグイは、後ろから来るニシンに応戦して矢を放ったので、それがニシンの頭に刺さった。それでニシンの頭に骨が多いのだ。これは天塩川筋に伝わる昔話である。』更科源蔵・コタン生物記Ⅱ

岩になった美女ユリカ

須原角兵衛が天塩に運上屋を設けてから後の話と云うことです。『当時天塩アイヌの首長はキスリという人でしたが、その一人娘にユリカという評判の美人がいました。その美しい声と容姿の端麗さは他に比類無く、遠く上川、留萌、増毛までも噂は伝わっていたそうです。天塩川河口へ弁財船が入港してくると、コタンは上を下へと大賑わい、アイヌの娘達もお祝いの踊りを披露したければなりません。なかでも際だって美しいユリカの踊りに、運上屋で働く一人の和人の青年が深いため息をもらしました。そして同様に、このりりしい顔立ちの青年も、ユリカを愛してしまったのです。やがて、二人は人目を忍ぶ仲になりましたが、青年は定められた期間を勤め上げれば、天塩を去って再び内地の方へ帰って行かなければならないことになっていたのです。そんな運命の二人が、さらに愛の炎を燃やしたのも当然のことだったのでしょう。川口に冷たい風が吹き、原野にリンドウの花が咲く頃、最も二人が恐れていた迎えの弁財船がやってきた。青年は親方に強く促され、手足をつかまえられて船上の人となりました。そして、砂丘から遠ざかる船を見送るユリカの姿が、いつまでもいつまでも動きませんでした。夜になって急に天候が変わりました。間もなく「コタンからユリカの姿が見えない」と叫ぶ、老首長の声が悲しげに聞こえて来たのです。驚いた人々が河口から番屋の方まで、原野までもくまなく探し廻り、時化の海に向かって声の限り呼びかけましたが、なんの応答も有りませんでした。翌朝は嘘のように晴れ上がった天気になりました。もう一度浜に出た人々は、そこに見慣れない岩を発見したのです。しかもその上には、見覚えのあるユリカのアッシが濡れたまま広がっているではありませんか。恋人を失ったユリカが悲嘆のあまり海に身を投げて、岩になったのであろう・・・と、人々は語り合ったということです。』高橋明雄・シュシュシナイの権六狸・・因幡勝雄編・アイヌ伝承はなし集成より。※この話はかなり脚色されているというのが妥当かも。

若咲内のヲフエニシヤ

『ヲフエとは焼る、ニシヤとはうど木(空洞の有る木の事)の事なり。』『当所海岸砂地原也。已然大うど木有し所なり。蝦夷乱世の節、テシオ夷人一人宗谷にて目に矢を射られ、同所より逃げ帰り、右のうど木に入り焚火いたし凌居たる所に、風激しき折りにて右木焼失せしといひ伝の良し。故に名とす。』秦檍麿・西蝦夷地名解※寛文の乱と関係有りそうな伝説は少ないがこれはその一つかもしれない。ヲフエニシヤは地名としては残っていない。この話は豊富町になるが海岸線なのでここに入れました。※若い女や妻などが石になる話は利尻、礼文、稚内、知床にも有るが、知床以外はかなり脚色されている。神格のあるカムイや動物などにも石になった話は多い。

天塩のコロポックル伝説

『天塩のアヤチエというエカシが伝えた話となっています。『昔コロボクグンなる小人あり。五代程前に天塩に住みたりと云。竪穴はこれが住居跡なりと云ふ。昔小人なるものあり、アイヌはこれに接したことありと云ふ。アイヌが魚類が彼方にありと云ひ居れば、小人が直ちに聞き知りて先に行きては取れり、総て何なりと先回りするなり、コロボクルは雨降りて蕗の葉の下に十人ばかりも入る事ができし故に斯く名付りといふ。亦魚の外に食物を食べたしと云へば、何なりと持ち来り呉れしなり。右の如く総て先廻りなして賢きものなり、なかなか多く住居せりと云ふ。又何でも入口の窓より手を入れて置いて行けり、或時小人の女が入口へ食物を持ち来れり、女は裸体でありしを強て引入れ見れば、泣き出して大いに恥じ夫より小人は皆諸方ヘ逃げ行しと。焼き物は石にて拵へ、模様を彫刻せり、小人逃れ行くときは是を破壊して行けりとぞ、行く先は離れ島なりといふ。』大野延太郎・北海道旅行中の見聞記・因幡勝雄編・アイヌ伝承はなし集成

サラキシとメノコアハ

『土人の言に此処(沼)よりリイシリの山は一夜に抜出たりと云り。霊有とて土人此沼を崇信す。此辺一面に穴居跡多し』松浦武四郎・蝦夷地紀行『メノコアハ・此浮子其より土人等に見せしかば、是はコロホクンクルといえる丈小さき人間の昔もちひし網の浮子なりと申ぬ』『此辺り彼方此方に此人間の住しという処有。何れも穴にて、廻り凡十二三間のもの也』松浦武四郎・丁巳日誌※日本海岸で利尻山が抜け出た伝説の有る所は沼に利尻山が映るというが稚内の龍神沼以外は埋め立てられてしまった。メノコアハは北方で魚網に付ける浮き、天塩や遠別ではコロポックルに関連付けられている。留萌管内で物語としてのコロポックル伝説は天塩町だけのようです。

メノコムシリの事

『西蝦夷地の内所々に長さ三尺斗の船の櫂流れ寄たる有り。是はメノコムシリの櫂なりと蝦夷人は言うなり。メノコムシリというは女人島という夷の言なり。メノコムシリのアバなりとて、アバというは網のうけの事なり幅二寸厚一寸にて、長さ四、五寸有りて、木の皮にて木の針にて縫い合たるうけなり-中略-メノコムシリの櫂というのは其形蝦夷地の車櫂のことくにて、先にさじの如く丸く長く内を凹たる櫂なり。又小人島の船なりとて、長さ一丈斗にて幅も夫に順したる船にて、その船の櫂を掻く所六カ所有て左右にて十二人、平生の人にては漸々3人も並ぶ程なりて、右のように十二人で掻くように持ちたる船のよし。-中略-世俗いひ伝ふる所の小人島、女人島の事、蝦夷にても往古より夷とも云伝ふる事のよし。夷言に小人島の事をポンムシリと云ふ。しかしその島へ渡りて見て来りたる夷もなし。ただ話伝へにいふ事なり。』串原正峯・夷諺俗話・因幡勝雄編・アイヌ伝承はなし集成※小人の島をメノコムシリ(女人島)と呼びポンムシリ(小人島)とも、小人が住む島が有るとし、その航海用の道具が話の主題。

☆更新情報など☆

 トップメニュー、レイアウトの一部変更。

横走り pagetop  戻る  先へ

地名と伝説

サブコンテンツ

相互リンク

アウトドア市場

ムラウチ

まち楽

twitter

サイトバナー

道北の釣りと旅-baner-1