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檜山・渡島エリアを巡る旅‼
追分けライン・松前国道ぐるっとプチ旅‼

厚沢部,江差,上ノ国,松前,知内,木古内を巡る‼

概要説明

旧南部家住宅厚沢部町MAP

旧南部家住宅道道67号線沿いにある明治39年建築の農家住宅で、厚沢部町内に残る数少ない古農家建築。5間×7間半の寄棟造、妻入玄関で柱、梁には主としてヒノキアスナロ(ヒバ)が用いられています。現在は「滝野庵」という手打ちそばの店舗として活用されている。◇所在地:厚沢部町滝野517-1

滝廼神社厚沢部町

滝廼神社旧南部家住宅のすぐ近くで平坦地にあった滝廼(たきの)神社、明和9(1772)年の創立で内陸部にある道内の神社としては歴史が有る。環境のせいか神社にしては明るく雰囲気はよい。獅子狛犬は社殿前に1対の配置で筋肉質で逞しい印象だった。かつて学校があったのか鳥居の右側に滝野小学校跡の門柱があり、左横には大きな松が3本あった。◇厚沢部町字滝野

凱旋門の跡厚沢部町MAP

凱旋門の跡日露戦争で日本軍が旅順、奉天などで勝利しバルチック艦隊を日本海海戦で撃破、北海道出身兵士が所属する第七師団も中国大陸で戦闘に従事していたが、厚沢部出身兵士の凱旋が決まると兵士の功績を讃えナラの巨木で「凱旋門」この地に建てたという。軍国主義に傾倒していった時代の古址、反面教師としての存在価値はありそうです。◇所在地:厚沢部町上の山

鷹落しの跡厚沢部町MAP

鷹落しの跡鷹羽は古の頃より重要な交易品の一つで蝦夷地の特産品でもあり、近世以前にも松前(蠣崎)家は豊臣秀吉に鷹羽の献上をしていた。松前藩藩主資広の頃は蝦夷地全域で390箇所の鷹の捕獲する鷹場があったと云い、宝暦年間の頃は厚沢部町周辺に多くの鷹が生息していたと言われ、鷹の生息地であった松前藩の鷹場の一つがこの付近にあったという。鷹侍が鷹を撃ち落とすので「鷹落し」と云われたようです。◇所在地:厚沢部町上の山

ホイド穴岩陰遺跡厚沢部町MAP

ホイド穴岩陰遺跡昭和初期までホイド(乞食)が住んでいたのでホイド穴と呼ばれ、焚火の煤でホイドがいなくなった後も岩陰の中に臭いが残っていたという。旧幕軍が館城攻撃をした時、村の婦女子や老人は山や沢に逃げこの洞窟にも隠れたというが、道路周辺工事で発見された海蝕性の岩陰(洞窟)は続縄文期遺跡と確認されても、「ホイド穴岩陰遺跡」でホイドの呪縛は説けず。◇所在地:厚沢部町上の山

三上超順力試之石厚沢部町MAP

三上超順力試之石館城で戦死した三上超順由来とされる円礫。相撲好きの山田某という人が館城内を通る旧道沿いにあった石を持ち帰り、毎日力試しをしていたところ奥さんが病気になってしまったそうです。これは館城で戦死した三上超順の祟りだろうと館町の寺院に永らく安置されていた。昭和 43(1968)年に開道百年、館城百年の記念として正定寺境内から館城内へ移設。◇所在地:厚沢部町館町

江差の繁次郎像江差町MAP

江差の繁次郎像江戸時代の江差に実在していた「とんち」の名人で町中に笑いを振りまいていたと伝えられる人気者というが詳細がわからない。ただ繁次郎の銅像に思わず笑ってしまうのだが、「笑い」で町おこし、江戸時代の鰊場の雰囲気を盛り上げる。◊所在地:差町字尾山町1番地 繁次郎浜 道の駅 江差

江差町会所跡現・会所会館 江差町

江差町会所跡1845年の建築で2001年復元(旧町会所の建材も用い、木造平屋建地下1階)される。1993年11月に新庁舎に移転するまで約150年間は江差町役場として用いられた。中歌地区のインフォメーションセンターで町会所の歴史を展示。建物横は国道の交わる地で1928年に道路元標が立てられている。入場無料・4~10月の9:00~16:00◇所在地:江差町字中歌町

能登屋会所跡と芭蕉句江差町

能登屋会所跡新旧の芭蕉句があある。元々は町医者「本田快庵」の屋敷内に建立された碑で「いかめしき 音やあられの檜 笠はせを」とあるも旧句碑の文字はみえない。この屋敷は能登屋6代目が購入し、それからこの坂道を能登屋坂と呼ぶようになったという。豪商で問屋だった能登屋会所とも呼ばれたようで、明治期は豪邸を活用した一流の旅籠屋で土方歳三や榎本武揚が仮宿したというが、明治5年に火災で焼失。路上に描かれた「能登屋の坂」入口の目印。◇所在地:江差町字姥神町

姥神大神宮江差町

姥神大神宮創立年代は不詳というが言い伝えでは姥神大神宮は文安4(1447)年、折居姥の草創とされ鰊と縁が深い神社、北海道最古を標榜するが神社としては3番目?古いことだけは確かだ。津花町より正保元(1644)年に現在地に移転している。神社の起源がアイヌ時代の伝承が基になっているという説もある。◇所在地:江差町字姥神町99−1

瓶子岩(へいしいわ)江差町

瓶子岩江差の人々にニシン漁を教えた折居婆、昔の話、ニシンが不漁続きで飢餓に至った時、折居婆が神水を海に注いだらニシンが群来、その神水を入れていた瓶子が瓶子岩になった。またかもめ島で翁から渡された小さな瓶を海に投げたのが石と化して海上に現われ瓶子岩になった。折居婆が身を清めた白い水を詰めた小瓶を海に投げたのが石となって海上に現れ瓶子岩になったなどいろいろな説話があるようで、姥神大神宮とは別に折居婆を祀った折居社がある。毎年7月の第1土日に伝説の瓶子岩で全長30mの〆縄が町内の若者たちによって掛け替えられる◇所在地:江差町かもめ島

江差追分記念碑江差町

江差追分記念碑信州中山道で唄われていた馬子唄が元になり、江差では座頭佐之市がケンリョウ節と追分を融合させ江差追分を誕生させたということでした。江差追分記念碑はかもめ島と江差追分会館にあるが、写真はかもめ島にある記念碑で江差追分会有志によって昭和7年に建立されたもの。この頃から江差追分が全国に広まってきたと言われている。◇所在地:江差町中歌町

江差追分会館・江差山車会館江差町

江差追分会館江差追分節の源流は江戸時代の頃から信州中山道で唄われていた馬子唄で、江差では座頭佐之市がケンリョウ節と追分を融合させ江差追分を誕生させたということでした。山車会館では13台の山車(ヤマ)の中から2台を1年交代で常設展示している。◇所在地:江差町中歌町

菅江真澄歌碑江差町MAP

菅江真澄歌碑

「レストラン江差家」が開業20周年記念に故郷の礎となった先人の志を偲び、その証を克明に伝えた江戸時代の国学者・菅江真澄を顕彰し平成14(2002)年に建立された。「すくも焚く 煙りの末も治まれる 風にしたがふ 浦の夕なぎ」すくもは藻くずや塵芥のこと、砂浜を清めている江差浜の情景を詠んだ一首。◇所在地:江差町字中歌町(レストラン江差家前)

開陽丸(レプリカ)資料館 江差町

開陽丸(レプリカ)江戸時代末期の幕府海軍の主要艦、開陽丸が展示されている。開陽丸は慶応2年、オランダで建造され、翌年3月留学中の榎本武揚らが同乗して横浜に回航した。3本マストの機帆走木造軍艦で、全長73m、標準装備大砲26門、乗組員350~500人。当時における最新鋭の軍艦といわれる。日本に回航された慶応3(1867)年は幕府終焉と明治維新の胎動ともいうべき戌辰戦争が勃発。翌年の10月、新天地を求めた榎本武揚ら徳川家臣団が函館戦争に参戦、開陽丸を旗艦として蝦夷地鷲ノ木沖に到着その後、箱館に入港した。同年11月、江差に停泊したが暴風雨に遭遇し荒天のため座礁、沈没。昭和50(1975)年から「開陽丸」の遺物引揚げ作業を開始し、収容した遺物は3万5千点以上という、世界でも数少ない海底遺稿。平成2(1990)年に実物大で復元された「開陽丸」内にて展示。 参考サイトWEB開陽丸 ◇所在地:江差町中歌町 追分会館裏庭

伝説・荒神堂跡上ノ国町

伝説・荒神堂跡1514年に本拠地を松前大館に移し、勝山館は脇館として城代が置かれた。1548年に上ノ国の守護、蠣崎基広が謀反を企て4代目季広に討たれる。その後、夜な夜な基広の亡霊が暴れたことから、その墓所に堂を立て祀ったと伝えられている。上ノ國八幡宮横から勝山館跡に登る途中に「荒神堂跡」の看板があり、堂があったとされる平地がある。◇所在地:上ノ国町字勝山

上ノ国八幡宮上ノ国町

勝山館八幡宮跡文明5年に武田信廣が勝山館の守護神として創建、創建時は館神八幡宮と称していた。現在の上ノ国八幡宮本殿は元禄12(1699)年の改築と推定され、道内最古の木造建築になるというが公開していない。明治9年現在地に本殿を遷宮、伝説大蔵鰊の若宮社を合祀している。上ノ国八幡宮拝殿は1845(弘化2)年に江差正覚院金比羅社として建設され、明治9(1876)年に上ノ国町へ移築された。夷王山山頂の夷王山神社は上ノ國八幡宮の末社。◇所在地:上ノ国町字上ノ国

上国寺上ノ国町

上ノ国上国寺上ノ国八幡宮の隣にあり、松前藩の初代藩主の松前慶広が松前祖の武田信広(勝山館初代館主)を弔うために建立した浄土宗の寺院。現在の本堂は宝暦5年(1758年)の建立とされ、寺院建築としては北海道最古とされるが、開創は菅江真澄の記録によると永禄年間とあるようです。本堂は平成20~23年に保存修復が実施されたそうで綺麗です。◇所在地:上ノ国町字上ノ国

松前城 国指定史跡松前公園  松前町

松前城 国指定史跡北海道唯一の城下町、松前を象徴する建物。北方防備を強める幕府の命令で、12代藩主松前崇広により大館(徳山館)より福山(現在の松前城の位置)に移り築城され、1854(安政元)年に完成。日本式城郭で正式名称は「福山城(福山館)」で、明治維新の戦いで落城、今ある城は2度の火災の後1959年に再建されたもので、唯一当時のまま残る「本丸御門」は国の重要文化財で現在の天守閣は松前城資料館。◇公開期間 04月10日~12月10日◇公開時間 09:00~17;00
◇入館時間は16:30まで、小学生以上は入館料あり ◇所在地:松前町字松城

耳塚・闇の井戸松前町MAP

耳塚・闇の井戸松前藩のアイヌ民族支配強化に対し、アイヌの人々が団結して抵抗を示したのが、1669(寛文9)年のシャクシャインの戦いだった。はじめはアイヌ側の優位で戦いが経過したが、松前藩は幕府や津軽藩の援助を得て新冠(新ひだか町)まで陣を進め、シャクシャインたちをだまし討ちにして戦いが終結した。耳塚はこの時に処刑されたアイヌの首謀者14人の首を持ち帰るかわりに、耳をそぎ落として持ち帰り埋めたといわれる所。耳塚は北海道にある碑の中では、際だって野蛮で忌まわしいもの。かつて本丸すぐ横の大手門傍らにあったというが、目立たない城の裏側に移されている。闇の井戸というのも人には聞かれたくな松前藩の話ではある。
◇所在地:松前町字松城(松前公園内)

ロシア人 ゴローウニン外幽閉地松前町MAP

ロシア人 ゴローウニン外幽閉地徳山大神宮の境内に「ゴローウニン幽囚の地」の説明板より『千島列島の水路調査と測量に従事していたロシアの提督ゴローウニンは国後島に上陸したとき6人の部下と共に南部藩の守備隊に捕らえられてしまった。これは文化3年から4年におきたロシアの北辺襲撃に対する報復の為であった。ゴローウニンらは高田屋嘉兵衛との交換までの文化8(1811)年8月から10年8月までの間、松前に幽閉されていた。この沢の奥に牢屋の跡がある』国後から根室に移され陸路で箱館に護送される。函館で50日ほど監禁の後松前に移され大館下の旧家臣宅に幽閉されたが、翌年6人が山中に逃走した事もあって徳山大神宮の西側のバッコ沢奥に牢屋を造営し拘置した。幽閉中のゴローウニンは知識人にロシア語を教え、翻訳を助けるなど、日本人のロシア語研究に貢献した。松前幽閉中に体験、見聞した手記「日本幽囚記」がある。◇所在地:松前町神明

徳山大神宮松前町

徳山大神宮説明板より一部抜粋『徳山大神宮は古くは伊勢堂と称し唐津内浜(現・唐津)に有った。1652年、松前家9世高廣により遷座され神明社と称した』元々は秋田、津軽の漁民が春になると当地に渡って漁をし、秋に帰っていたが、アイヌからの危難を逃れるた小祠を建立し「伊勢堂」と称していたというが創建の年代は不明という。天正10(1582)年に松前季広が福山に遷座し神明社と称し、承応元年に松前家9世高廣が現在地に新殿を造営し遷座した。明治4年に現社名「徳山大神宮」に改称している。昭和46年に本殿が北海道有形文化財に指定され、同52年に公費で修復されたが是に合わせ拝殿を神明造に改築している。徳山大神宮の境内に「ロシア人 ゴローウニン外幽閉地」の石碑と「ゴローウニン幽囚の地」の説明板があり、その手前と背後が大館跡に行く山道の入口がある。◇所在地:松前町神明

白神岬松前町

白神岬北海道最南端の岬で、条件が良い時は青森県竜飛岬(ここから19.2km)が見渡せ、階段で海岸に出ることもできトイレ完備のミニ公園という印象です国道228号線沿いで舗装されたパーキングの海側に「白神岬」と刻まれたモニュメントと「北海道最南端」と刻まれた石柱がある。白神岬は日本国内で見る事が出来る野鳥500種類のうち300種類が見られるという、日本屈指の渡り鳥中継地となっている。◇所在地:松前町字白神

旧雷公神社の杉知内町MAP

雷公神社海道で最初に砂金を採取した伝承を持つ知内町、鎌倉時代に甲斐から来道した人達が雷公神社を創建したという。雷公神社に伝わる古文書「大野土佐日記」によると元久2(1205)年、砂金を求め甲斐国からこの地に来た荒木大学が天下泰平と当所の安全を祈願し、賀茂の上社と下社を創建したのに始まるという。神社として創建された社として北海道最古というが、宗教施設として見るなら函館船魂神社(観音堂)が1135年起源と北海道最古となるようです。大正4(1944)年に上雷から元町に移転、上雷には杉の木の他に赤い鳥居、拝殿がある。◊知内町字元町232

荒神(あらがみ)社知内町MAP

荒神(あらがみ)社松前の内紛で打たれた松前数馬介由広の霊を鎮める為に建立された神社で説明板より転載する。『荒神社 祭神は松前藩初代藩主慶廣の4男数馬助源由廣(千早振由廣霊) 慶長19(1614)年、大阪冬の陣の頃、豊富方だった数馬助は、徳川方へ加担しようとした父慶廣と衝突し、その家来によって追っ手をかけられ、奮戦しくしく力つき自害した。ときは12月21日、数馬助弱冠21才であった。元和4年(1618)になり由廣の霊が巫女に託して「成我神其名云雷天荒神」と云わしめたという。それを聞いた3代藩主公廣は供養のため、数馬助の脇差を御神体として羽織箱に入れて土中にうめ、雷天荒神社と号して創建したが、後に千早振神社と称し、更に現在の荒神社に改められた。平成7年3月 知内町』松浦武四郎の渡島日誌(蝦夷地紀行)には『雷荒神社 元和4年草創のよし、所祭 松前由広の霊なりと』とあり、幕末の頃は雷荒神社と呼ばれていたものか? 松前の内紛で討たれた上ノ国守護の蛎崎基広(1548)の墓所が荒神堂(現・荒神堂跡)と荒神で共通する特別な意味があるのか?。◇所在地:知内町元町 知内公園内

荒神社の黒松

荒神社の黒松碑文によると「寛永14年、荒神社の祭神である松前数馬介由広の弟で知内を知行地にしていた、松前安広(仙台藩白石城主)が兄の霊を弔うため仙台から差し送り奉納した12本の成長した姿である」とあった。島原の乱があった寛永14(1637)年頃に荒神社の参道に植栽された黒松、単純計算で樹齢約380年となるが、その風格からはもう少しありそうな感もする。周囲の風景とは異質で陰鬱な感じも・・◇所在地:知内町元町

知内公園の姥杉 知内町MAP

知内公園の姥杉根もと近くに乳房の形をした瘤がある杉の巨木で母乳の出ない女性がお参りすると乳が出るようになったという伝説があり乳母杉、乳神様と呼ばれるようになったという。説明板に「雷公神社の祖、終了徳院重一の妻玉之江を葬った場所に植えられた杉と伝えられる」とあり、それから推測すると弘長2(1262)年後となり樹齢750年余となる。杉の根元に姥杉社がある。◇所在地:知内町元町

開拓使判官 松本十郎の碑木古内町MAP

松本十郎の碑禅燈寺山門脇に庄内藩の松本十郎の碑がある。松本十郎は1839(天保10)年、山形県鶴岡市に生まれ、庄内藩士として蝦夷地の警備、江戸市中取締の任にあたる。戊辰戦争では新政府軍に対抗して庄内藩の幕僚として活躍。庄内藩の降伏後は新政府軍との折衝にあたる。黒田清隆の推挙により北海道開拓判官となり、初期の開拓行政に尽力。明治6年には開拓大判官となるが、黒田清隆とアイヌ民族擁護について意見が合わず、同9年官を辞し鶴岡に戻り晴耕雨読の生活にはいる。「アツシ判官」の異名で知られる。◇所在地:木古内町鶴岡

庄内藩士上陸の地碑木古内町MAP

庄内藩士上陸の地碑碑文の要約し掲載『明治18年から19年にかけ庄内藩士佐藤洋孝とともに105戸が北門の警備と自立自営の北海道開拓を目的に木古内の大谷地、棚部岱、瓜谷、吉堀、中野、建川に入植。多くの先達が壮絶な辛苦と苦難を乗り越えて、今日の繁栄の基礎を築き上げた志を受け継ぎ、後世に広く伝えるために昭和48年に建立』もう一つの碑には移住者氏名が刻まれている。◇所在地:木古内町鶴岡

禅燈寺仁王門木古内町MAP

禅燈寺仁王門禅燈寺は山形県鶴岡市の禅宝寺の末寺で鶴岡地区に入植した旧山形鶴岡藩士らの要請によって明治35(1902)年に本堂、大正7(1917)年に仁王門完成。2階建て高さ9.5m、幅は10.6mあり2階は鐘つき堂となっている。2体の金剛像は高さ2.4mで函館市内に工房を構え活躍していた仏師、初代風間壮慶の作。2010年に金剛像の修復をされたようです。禅燈寺入口の仁王門近くに松本十郎の碑の碑がある。◇所在地:木古内町鶴岡103

サラキ岬木古内町

サラキ岬サラキ岬の沖合に幕末に活躍した咸臨丸が眠るという。咸臨丸はオランダで建造された日本初の軍艦で、万延元(1860)年に勝海舟を館長とし福沢諭吉やジョン万次郎等を乗せて太平洋を横断しサンフランシスコに入港した。明治4(1871)年、北海道開拓使所属となっていた咸臨丸は蝦夷地開拓移民(旧仙台藩士四百人余)をのせ函館から小樽に向かっている途中のサラキ沖で座礁、乗客乗組員全員が救助されたが船は沈没。サラキ岬の中央に咸臨丸モニュメント、津軽海峡を望み、函館山も眺られるサラキ岬の先端部に咸臨丸終焉の碑がある。◇撮影地:木古内町亀川

追分ライン・松前街道ミニギャラリー

江差カゴメ島 福山城跡 資料館 福山城跡 案内碑 福山城跡 闇の井戸 徳山大神宮説明板 大館入口で見た焼き物 白神岬 原口館跡 渡島大島 知内公園 知内公園 姥杉の碑 荒神(あらがみ)社碑 荒神社黒松の碑 建有川柴門 咸臨丸 咸臨丸終焉の地 旧雷公神社の杉 開拓使判官 松本十郎碑 江差山道説明版 江差 山道入口 松前藩戸切地陣屋跡 松前藩戸切地陣屋跡碑 茂別館跡 円空上人滞洞跡 厚沢部・松前氏城跡 菅江真澄歌碑2 福山城跡 資料館 福山城跡 標柱 福山城跡 本丸表御門 庄内藩士上陸の碑2 古戦場二股入口

☆更新情報など☆

レイアウトを変更してレスポンシブタイプにしました。併せてもHTML5構文エラー修正とリンクの見直しをしています。

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