利尻島のアイヌ伝承話と利尻山‼

利尻町のアイヌ伝承話

利尻島で最も有名なのは北海道や樺太から一夜に抜け出して利尻山となったと云う伝承。樺太を除き道内では抜け出た後の沼から利尻山が見えるというのが特徴となる。漂着伝説は主に石狩川を下り海に出で漂うと云うのが多いが他にも有る。これらに関しては利尻島外の伝承で有り、利尻島内となれば伝承話は少なくその原型も不明瞭な話が多くなる。時雨音羽は有名な詩人で作曲家で有り「島ものがたり」は伝承というスタイルではあるが話の出所が不明で有り、その内容は緻密な文学作品に近く、本来の伝承を日本人の好みにあわせて脚色や創作を加えて完成された様に思える。巧みな表現で人を引きつけますが、アイヌ伝説を発表した当時はこれが文人の風潮だった様で、伝説を素材にした時雨音羽の作品という事もあり得るかもです。少なくとも恋人が実名で出てくるような伝説は創作疑惑が極めて濃厚、一般的にアイヌ伝承話は簡単明瞭です。

戦争と恋愛悲話

松浦武四郎の西蝦夷日誌によれば利尻島の本泊は『本名トノマ・名義殿澗にして往古大将分の人の船来たりし処と云』と有り古くは松前城主の商場で有った事が想定出来る。「津軽一統志」によると利尻島の史実としては『寛文10年6月28日に松前藩船の船頭忠兵衛が交易のために「るいしん(商場)」に来たところ「いそや」のアイヌ(シャクシャインに味方するアイヌ)達が追いかけて来て、和人と戦に加わるように説得したが、利尻島のアイヌは闘いに加わらず忠兵衛殺害を防いだ。忠兵衛は「いそや」のアイヌたちに償い金を支払って8月4日に松前に帰った』という。争いがあったとすればその時くらいか。1758年に宗谷アイヌがメナシ連合アイヌに襲われ、宗谷アイヌから救援を求められた時は、礼文は応援隊を出したが利尻については、関連する様な記録を見たことが無い。

妖女イムパッコ

時雨音羽の「島ものがたり」にある伝承話で、二パターン有り長いため要点のみ掲載。『ポンドマリ(鴛泊となっている)運上屋に詰める松前藩の青年とポントマリコタンの酋長の娘が恋仲となったが親は許さず二人は逃走を企てる。それを知った酋長は運上屋の企みと誤解し運上屋を襲い戦争になる。和人軍はポンドマリに、アイヌ軍は付近の丘に陣を取り対峙。その時妖術を使うイムパッコが現れペシ岬の岩に立上がって平和を乱す者は呪われるだろうと叫んだ。しかし戦いは止まず、イムパッコを妖術使いと云い殺そうと迫った時に、大音響と共に岩が崩れたり火が出たりして、それに驚き戦は収まる。空が明けてアイヌの陣の後ろの岩にはイペオプが立っていた。その後にタンネトンナイで自害した青年と娘が発見された』原文に有るアイヌ語のイムパッコ「imu-pakko」はヒステリー婆、イペオプ「ipe-op」は人食い槍「ipe-tam」は人食い刀、血を見なければ収まらない槍や刀と云う事。ブシはトリカブトの方言で、物語では矢毒としてブシ矢というような使われ方をするが元々は日本語らしいが。

利尻山の登山伝説

利尻山の登山に関しては、アイヌ達は何らかの形で祟りがあると考え利尻山に登らなかった。最上徳内や間宮林蔵が来て登ったという記録も有るがアイヌの人たちは反対したらしい。松浦武四郎の日誌には『夷人(アイヌの人達)の申けるには此山霊が有て一歩として上がりがたしと』『嶺には往昔より誰も登りし者なし。若し押て上る時は岩石が転び落ちるよし』と。『松前随商録』ではなぜか宗谷の若いアイヌが登ったと有り。登ったけれど不思議な獣が出たり、山頂に沼が有りそこから暴風雨が起こりやっと帰ることが出来たと。また老アイヌが利尻の山頂を極めたいと出かけ戻らなかったとも。以来利尻山の山頂は魔物が住む所として登山を禁止して誰も登らなかった。山頂に沼が有りという部分を重視すれば、中札内のポロシリ伝説とよく似ていて、利尻山はかつてカムイシリと呼ばれ、山頂に古代の祭場があった事を連想させるのだが

利尻登山史

アイヌ伝承に有る二人の登山者を除けば和人で最初に利尻山に登ったのは樺太探検で知られる間宮林蔵が登ったと云うが年代不明。記録の残っている所では1972(寛政4)年の最上徳内が最初だが二人とも山頂までには至っていない。その後の登山は1890(明治23)年に紀州の行者、天野礒次郎が現在の港湾地区から登り不動明王像を山頂(北峰)に安置。公式な初登頂の記録としては是が最初の様です。アイヌには恐ろしい山で、利尻山自体が御神体という印象が有り、最初の登頂者が行者と信仰の山そのもの。そして幾多の登山者の命を呑み込んだ未だに恐ろしい山である事には変わりない。不動明王像は現在鷲泊の大法寺が保管。

北のいつくしま弁天宮と龍神の岩

「昔、嵐で岩に打ち砕かれそうになった弁財船を弁天様が救い、そのご加護に感謝した海の男たちがこの弁天宮を建てた」と云う。海岸に突き出た岩場にある祠が印象的です。突き出た岩場を「龍神の岩」と云い「大正の初期、ある日暮時、大沢より地鳴りをたてて下りて来る何物かがあり、それがこの大岩で消えたと伝えられ当時は吉凶何れかのお告げとして誰もが黙して語らず、ある時、通りかかった修行者が、この大岩に祠を建てて信仰するよう宣して立ち去ったと云う」観光協会の手により昭和54年に北のいつくしま弁天宮の標識がたてられた。伝承の由来は比較的新しいもので和人社会になってからの様です。

利尻島漂着伝説

利尻島漂着伝説は山津波又は大津波で押し流され石狩川に沿って海に押し出され止まってしまったのが利尻山と云うのが特徴です。元々の山は千歳コタン近くに有った山でサマツキフプリ(馬追山)にぶつかり、その山をねじり倒して更に石狩川に沿って海に出た、浦臼のクマネシリの一部がかけて海に出たと云う形で利尻島になるという伝説。出典ははっきりしないがアイヌ伝承としては他の伝承と併せると間違いないと思われる。礼文島の場合は天塩川と石狩川に有ると云うが、内容は単純なすじ書きで判りやすい。

津波伝説 ポンピラの津波

ボンピラ(宗谷線天塩中川駅)のところに、ペンケヌプリ(現ペンケ山)、パンケヌプリ(現パンケ山)と云う2つの山があり、この山は昔はつながっていた山だが、あるときの大津波で真ん中が切れて海に押し出されそれが利尻島になってしまったと云う。北風玉二老伝

抜け出した利尻山 龍神沼

松浦武四郎の日誌に『エナヲトウゲに至るや神沼(カモエトウ)、周り8丁、リイシリの島は是より抜け出たと云て、土人(アイヌの人達)至て尊信して、エナヲを指して通る』またカモヱトウという沼があって『是は利尻島の山霊の神水と申し伝うなり』また『カムイトウといえる沼有。此長三丁ばかり巾一丁ばかり。岸には蘆萩生茂り中程にいきて深し由、夷人(アイヌの人達)共決して此水を飲事を禁ずる也・・・又小魚有る由なれども、此沼はリイシリの霊神の御手洗なりて捕る事なし。これを恐れ崇むること甚だし』と記している。この沼は稚内市の坂の下に有り今は「龍神沼」と呼ばれ、現在も龍神信仰があり坂の下神社社殿が沼の側に有ります。

抜け出した利尻山 サラキシ沼

現在は埋め立てられ見えないが「天塩町史」では大正時代に書かれた記録に、この沼から利尻山が一夜にして抜け出たという伝説が残っていたと。松浦武四郎の西蝦夷日誌では『長廿余丁、巾七丁其深さしれ難しと。土人(アイヌの人達)の言にこの沼からリイシリの山は一夜に抜け出たりと云り。霊有りとて土人(アイヌの人達)此沼を崇信す』と云う記録が残される。日本海岸の利尻山が抜け出た跡といわれる沼からは利尻山が見えるだけでなく湖面に映り込むと云う。今で龍神沼だけとなってしまった様です。

利尻山は女神か男神か?

礼文島の漂着伝説では礼文島の男神に恐れをなして利尻の女神は逃げて樺太でトッソ山になったと有る。樺太では松浦武四郎の日誌に『トッソ山はリイシリの女神。またリイシリも此山の後ろより抜け出て彼方ヘ飛びしものと。また其の跡有り』と有りトッソの後ろにに有った山がとんで利尻山が男神になっている。「北夷談」に樺太のトウキタイウツが女山で利尻山が男山だという記録が有るとの事だが、樺太からは利尻山が見えないらしい。それに利尻の神は男神という伝承が多く、利尻では恐れられている神の印象が強い。

利尻島と蛇

北海道の伝説に『利尻島の沓形にはどうものか昔から蛇がいない。もし他から持って行ってもそれは忽ち死んでしまう。それは此の島の神様が蛇が嫌いなので皆殺してしまうとも。神社の祭神が蛇を嫌うからでも有るといわれている』と有った。利尻島は蛇の棲息に適しない動物学的な理由があるらしく蛇は生息しない。今は野生のクマは生息していないが、島内にある遺跡よりクマの骨が出土しているので太古には生息。アウトドアを楽しむには好都合だが、怖いスズメバチもいる、オマケにツタウルシ迄有ると云う事で安心は禁物。

大穴澗と伝説のプシウンノツ岬

大穴澗と云う先住民族の遺跡で洞窟が有ったが道路工事でなくなり今は「寝熊の岩」と呼ばれる岩だけが残されている。地元では今でもここを穴澗と呼んでいる様ですが、由来を記した看板が立っている。プシウンノツ岬は現在何処を意味するのか管理人には判りませんが、此の穴澗にまつわる話なのかも。プシウンノツの意味も不明だが「puy-un-not」で穴有る岬の訛りかとも妄想してみたが確かな事は謎、利尻の古地図を調べると判るかもしれない。ここでは「プシウンノツ岬(時雨音羽・島ものがたり)」の概略を紹介しておきます。『フシウンノツ岬の中程にある大きな岩山は太古の噴火口で、其の溶岩が冷えて出来た大穴にやがて人が住む様になる。此の大穴は魚もあるし海草もある城で有るが困った事に水がない。隣のコタンに水の有る泉が有るが、水を貰うにはそこの者の云う事を聞かなくてはならない。そこで水をもらわなくても良いタネトンナイに越した』と他に水に関する話は2話ある。

ヤマセカムイの碑

「若いアイヌの夫が沖で遭難し、その帰りを神に祈りながらその妻と子供がヤマセ(東風)のたびに石になってしまったという」と云うが出典は不明。別説として「ニシン魚が盛んな頃、ヤマセが吹けば漁が出来ない事から、ヤマセが吹かないよう祈願し建立された」とも。ヤマセは漁師の言葉でもありその辺を考慮して見てください。アイヌ伝説に関していえばストーリは単純で物語りとしては面白いと云うのは意外と少ないです。アイヌ語の地名に関しては「カムイミンタル」のサイトに詳しい。

利尻町、利尻富士町とも同内容、原文の部落と言う言葉はコタンに変更。

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