江戸期の宿駅跡を巡る旅
江戸期の宿駅跡(会所・通行屋・番屋)碑を巡る‼

江戸期の宿駅について

 江戸期の宿駅は一般的には通行屋(家)、下宿所(旅宿)と呼ばれ会所元については基本的に併設、規模は3~4間だが幅があり、初期の宿駅は会所内に、後に別棟という経過が多いようです。会所(運上屋)と会所(運上屋)間の距離がある経路では中継地に通行屋が設置された。呼称は機能や規模に応じて通行屋、止宿所、小休所、昼休所など色々あり。番屋はその規模が多彩ですが昼休所や通行家・下宿所を兼ねる所も多かったようです。

リイシリ運上屋石碑 説明板 MAP

準備中-01

18世紀初頭の頃に場所請負制度に変わっていきますが、明和年代の知行主は松前藩主、寛政元(1789)年には松前岩松、文化4(1807)年は直領となっているようです。明和2(1765)年に松前藩主より預けられた利尻場所最初の請負人は恵比須屋岡田弥三右エ門で、文化4(1807)年には岡田源兵衛、天明4(1784)年より恵比須屋岡田治助だったようです。文政6(1823)年にリイシリ場所(礼文島を含む)が恵比須屋より柏屋(藤野)喜兵衛に譲渡され、水戸藩より利尻島請負罷免された明治2(1869)年まで藤野の独占場所でした。本泊にある運上屋跡は利尻町の指定文化財ですが、此処にあった運上屋は5間半×13間という大きさであったようですが、運上屋の規模としては普通ですが、離島の運上屋として見るなら大きな施設でしょう。駅逓として見ると北方防衛の任にあった陣屋との関係が注目されます。◇所在地:尻富士町鴛泊字本泊

宗谷300年記念碑宗谷運上屋跡 稚内市 MAP

宗谷300年記念碑

宗谷は天正10(1582)年に松前藩領となり、貞享2(1685)年には松前藩主の直領として宗谷場所を開設している。幕末の頃は藤野家の独占場所だったが明治3(1870)年に漁場を返上している。宗谷は安政6(1859)年に秋田藩の支配となるが明治2(1869)年には開拓使、明治3(1870)年には金沢藩に属すも明治4年の廃藩置県で分領支配は終わり、明治12(1879)年に戸長役場が設置されているが、明治21(1888)年に戸長役場と郡役所が稚内に移った。運上屋・会所(駅逓業務)は開拓使に引き継がれ、漁場持の伊達林有衛門が駅逓を引続き運営、漁場持廃止後の明治15(1882)年駅逓取扱人名簿では小田幸太朗となっている。宗谷300年記念碑のある所は松浦武四郎の絵図にある宗谷運上屋の一角と重なってみえるが運上屋や駅逓の碑は無い。近くに陣屋跡、津軽藩兵詰合の記念碑、旧藩士の墓、間宮林蔵顕彰碑などがあり、天明元(1781)年創建の厳島神社に奉納された鳥居に藤野家宗谷支配人、粂屋八右衛門の名前がみえる。◇所在地:稚内市宗谷村字宗谷 ◇N45°29’12.49” E141°52’45.73”

稚咲内止宿所跡説明板倒壊・再設置待ち 豊富町 MAP

豊富町稚咲内-01

 説明版は松浦武四郎止宿の地に関してのもの。サロベツ原野から道道444号を日本海に向かい、道道106号(稚内天塩線)を稚内方面に右折、約200mの直進で「砂丘のえき」があり、その駐車場海側に止宿所跡説明板があったが倒壊し撤去された、取りあえず再建を期待してそのまま掲載。稚内と天塩の中継地で、旅人の休息と給水の地として1840年代に止宿所が設けられた。明治になってからも実質的には継続されていた様で、明治32年に止宿所が昇格して稚咲内駅逓所となるとある。ただ実際の止宿所跡はここから2km程稚内寄り、ツツミ川(富士見橋)の北200m付近、駅逓も同所に有ったという。◇設置:明治32年03月 ◇廃止:昭和04年06月
◇現住所:豊富町稚咲内 砂丘のえき ◇N45°05’14” E141°37’49”

天塩運上屋跡史跡標柱 天塩町 MAP

天塩運上屋跡

 天塩での場所請負制は1786(天明6)年頃よりと云われ運上屋その前から有ったかもしれない。天塩場所最初の請負人は栖原家で以後維新までの殆どを請け負っている。場所請負人に共通するのは不平等交易と植民地経営方式ですが、天塩場所は安政4年に箱館奉行所が「最もアイヌ酷使の甚だしい場所」として請負商人に論書が発せられたが、場所請負人の専制支配による無法構造は変わる事なく維新を迎える。明治2年の場所請負制廃止で運上屋は廃止なり、駅逓は開拓使に引き継がれるが、実質場所請負制と同じ漁場持となった栖原家が取り扱う。漁場持廃止で明治9年以降は駅逓取扱人が公選となったが、旧札幌本庁の駅逓取扱人一覧(明治15年)に天塩運上屋の現地支配人だった菊地和三郎の名があるので、その頃まで駅逓は続けられていた事になる。天塩運上屋の建物は大正元年(1912)まで現存していたという。◇記念碑:天塩町指定史跡(S57.1.26)標柱と説明板 ◇天塩町海岸通4丁目3975 番地の2 ◇N44°52’58.79” E141°44’39.05”

苫前運上屋跡史跡標柱 苫前町 MAP

苫前運上屋跡

 留萌~天塩沿岸では寛政年間の頃、増毛、留萌、苫前、天塩の4箇所に運上屋が設置されたとあるが、経過は天塩とほぼ同じなので省略する。運上屋廃止後の漁場持の栖原家が駅逓取扱人ととして継続されていたようだ。明治9年から駅逓取扱人は公選となっているが、旧札幌本庁の駅逓取扱人一覧(明治15年)に戸沢儀八の名があり廃駅はそれ以降ということになる。運上屋に関しては松浦武四郎の記録の中にも出てくるがその跡に碑が建っている。場所は苫前漁港前の「北るもい魚協」駐車場角、苫前下町バス停傍にある。碑以外にその痕跡を示すものは何も無い。
◇N44°18’49.5” E141°38’58.0”

増毛運上屋(第一次増毛駅逓)跡史跡標柱 増毛町 MAP

増毛運上屋跡

 松前藩商人、村山伝兵衛が1751(宝暦元)年に増毛場所を請負、増毛に出張番屋を設け、1840(天保11)年以降は増毛、天塩、宗谷方面に和人の出稼ぎが許可されるようになり、その頃から和人が定着が増えていった。出稼ぎは蝦夷地を代表するニシン番屋で、増毛もニシン場として栄えた町。場所請負制の廃止とともに運上屋は開拓使に引き継がれ、最後の場所請負人は伊達林右衛門でした。北海道宿駅制の研究では「通行屋と称し請負人伊達某駅務を行う」とあり、明治15年の駅逓取扱人は八川喜七となっているので駅逓廃止はこれ以降と思われる。明治35年に再設置された増毛駅逓と運上屋(通行屋)が同じ建物かどうかは不明ですが、取扱人は八川宇市でした。増毛は歴史的建造物が多いが運上屋の遺構はなく、港町市場の建物の前(遠藤水産)に増毛運上屋跡の史跡標柱があります。◇記念碑:増毛町史跡説明板 ◇所在地:増毛町港町4-26
◇N43°51’21.30” E141.°31’42.67”

対雁番屋・駅逓所跡史跡標柱・説明板 江別市 MAP

江別市・対雁駅逓所跡

 享保年間に石狩13場所のひとつとして商場が開かれ、その後番屋が設けられ鮭漁と石狩川を利用した内陸への交通と舟運の要所となっていた。駅逓所の開設は明治12年で翌年対雁・江別両村戸長役場が置かれたが明治15年の鉄道開通で市街中心地は江別や野幌に移る。主な輸送手段が舟運から鉄道に変わった明治18年に対雁駅逓所は廃止。また樺太アイヌが強制移住をさせられ、明治19~20年にはコレラの流行により、300人以上の犠牲者を出す悲劇にみまわれた歴史があり慰霊碑がある。碑は新石狩大橋に近い国道337号沿いの榎本公園に隣接、榎本公園は戊辰戦争で旧幕府軍として戦った榎本武揚の営んだ農場跡で榎本武揚の像があります。幕末の探検家、松浦武四郎は安政3年から安政5年までの間に当地には5回訪れ計6泊している。◇開駅:明治12年03月 ◇廃止:明治18年08月 ◇所在地:江別市工栄町 ◇N43°12’73.62” E141°51’51.04”

オタルナイ運上屋跡石碑・説明板 小樽市 MAP

オタルナイ運上屋跡

 オタルナイ運上屋の設置時期は明らかではないが享保年間と考えられており、元々はヲタスツにあったらしい。知行主は松前藩重臣の氏家氏、場所請負人は恵比寿屋岡田家でしたが、1865年に場所請負制度が廃止され本陣となるも、建物は1866年の火災により消失。メルヘン交差点そばに「史跡オタルナイ運上屋跡」の石柱と看板がある。北海道宿駅制の研究では開拓使への引継ぎ迄は「運上屋に番人を置き駅務を行う」とあり、明治15年の旧札幌本庁駅逓取扱人一覧では松本勝三となっている。駅逓は運上屋消失後、場所を変えて明治15年までは営業していたと思われるも廃止年は詳細不明。北海道の名付け親、松浦武四郎も弘化3年、安政3年に1泊、安政4年には2泊し、その時の様子を書き残している。◇駅逓請負人:恵比寿屋岡田家 ◇記念碑:史跡脊柱と説明板 ◇所在地:小樽市堺町6 ◇N43°07’12.28” E140°43’43.87”

ルペシベ通行家跡記念碑石碑・説明板 仁木町 MAP

ルペシベ通行家跡の碑

  碑文『建立の誌
ルベシベ通行屋は余市、岩内間の新道開削に伴い稲穂峠を越える旅人のために安政4年の初夏余市運上家によって建てられ、次いで人馬継立が設けられた。以来、蝦夷地の探検家松浦武四郎をはじめ函館奉行村垣範正、堀利凞、北海道の歴検図の筆者目賀田帯刀が蝦夷地の開拓や北方の警備状況など検分のため奥地に赴く途次ルベシベ通行屋で旅の疲れを休め、また鰊場に向かう出稼人夫や商人等もここで急速あるいは宿泊した。明治初年には開拓使主席判官島義勇一行、英国の生物学者ブラキストン、開拓使顧問ケプロン等、安政時代から明治時代にかけて北海道の開拓史上欠くことのできない著名な人物が往来し、その報告書や日記類、絵図など多くの歴史的文書類を遺している。時代の推移と共に通行屋は脇本陣、旅籠屋とその名称は変わったが、明治38年北海道鉄道(株)が開通するまでの間、北海道を往来する旅人の安息の地としてその役割を果たしてきた。仁木町大江三丁目(ルベシベ)は、昔も今も交通上の要所として、その重要性は変わらない。』 ※碑文では松浦武四郎も泊まった?ようになっているが、松浦武四郎がここを通過した時は、通行屋の建設中で、丁巳第二巻 曽宇津計日誌では「笹小屋」というタイトルでその様子を綴っている。ただ石狩日誌では笹小屋に泊まったとあるので、碑文は石狩日誌を元にしているようです。通行屋跡は仁木町大江から赤井川へ抜ける1022号線にはいり、ルベシベ川にかかる橋の近く、中央バス「稲穂峠下」バス停奥にある。◇開設年:安政4年 ◇廃止年:明治38年? ◇初代取扱人:竹屋林長左衛門か? ◇所在地:仁木町大江3 香坂氏地所内 ◇N43°04’09.76” E140°42’24.61”

しゃこたん場所 運上屋跡史跡標柱 積丹町 MAP

しゃこたん場所 運上屋跡

 シャコタン場所は1706(宝永3)年に初めて置かれ、シャコタン(志屋古丹)場所請負人が置かれたのは1786(天明6)年で、知行主は藤倉八十八、請負人は福島屋金兵衛、1818(文政元)年~1875(明治8)年迄は「岩田金蔵」が請負人で蝦夷日誌にもその名がある。積丹は神威岬から北は女人禁制とされた海上交通の難所で、日司より小泊への陸路は岩田金蔵が開いたという。北海道宿駅制の研究の明治前期編で「岩田某宅にて駅努を扱う」と有り駅逓の記録があり、明治15年の駅逓取扱人名簿に岩田金蔵の名前があるので廃駅はそれ以降か、またこの辺は早くから和人の進出があったようで神社の創建は古いのでは1600年代という。◇場所請負・駅逓取扱人:岩田金蔵 ◇所在地:積丹町日司町 ◇N43°21’15.85” E140°27’52.90”

しゃこたん場所 運上屋出張所跡史跡標柱 積丹町 MAP

運上屋出張所跡

 「海辺の宿・運上屋」の角地に「しゃこたん場所運上屋・出張所跡」の史跡標柱がある。この宿は積丹場所請負人だった岩田金蔵がニシン漁が衰退した後に運上家の脇本陣として建てられた施設を利用し旅館業をはじめたのが元というが、建物は世帯交代している。場所請負制度が明治2年に廃止され、運上屋の役割も大きく変わり、役所の出張所、宿泊施設、運送などが主体になり、名称も運上屋(元)は本陣、それに変わる施設(江戸期の通行屋、止宿場、番屋など)は脇本陣となる。この名称は2年間だけで紆余曲折を経て最終的に駅逓所となる。脇本陣という呼称から駅逓も含まれていたと考えるのが自然だが確証はなにもない。松浦武四郎の蝦夷日誌2編と竹四郎廻浦日誌にも記載され、安政3年には陸行で通過。その時に見た番屋、おかむいなどを記している。◇所在地:積丹町来岸町42 ◇N43°19’49.85” E140°23’41.26”

角十佐藤家 磯谷運上屋跡石碑 寿都町 MAP

磯谷運上屋跡

 嘉永5年に歌棄磯谷両場所請負人の佐藤定右衛門は、場所請負人としては桝屋栄右衛門と称した。初代定右衛門の没後は定右衛門の甥、伊三右衛門が磯谷場所を継ぐ。伊三右衛門は行成網を発明し漁法の改革でこの地方の繁栄の基礎をつくったと云われる。歌棄場所は初代定右衛門の実子重三郎が引き継ぎ、佐藤家は歌棄と磯谷の両家に別れます。江戸末期には島古丹、歌棄、寿都に運上屋があり、磯谷の中心地は島古丹で松浦武四郎の西蝦夷日誌にも島古丹の繁栄ぶりが記され、江戸時代には旅籠が10軒以上あったという。島古丹の運上屋はのち横澗に移転、横澗漁港の横に磯谷場所運上屋跡碑が建立されている。維新後の場所請負制廃止で運上屋は開拓使に引き継がれ駅逓も継続されているが、明治15年の旧本庁駅逓取扱人名簿に磯谷も佐藤伊三右衛門もない。明治31年に駅逓が再設置されるが現存する建物(カクジュウ佐藤家)は運上屋本陣の跡に1892(明治25)年頃新築(佐藤家の口伝によると明治3年頃)されたもので、再設置された駅逓舎は別にあった事になる。◇開駅年:明治05年08月 ◇廃止年:詳細不詳 ◇場所請負・駅逓取扱人:佐藤定右衛門 取扱人:佐藤伊三右衛門 ◇再設置:明治31年12月 ◇廃止年:明治39年02月 ◇所在地:寿都町字磯谷町横澗 横澗漁港 ◇N42°50’43.33” E140°19’40.47”

紋別場所・又十番屋御用所跡史跡標柱 紋別市 MAP

紋別場所藤野番屋跡

 場所請負の経過は斜里で書いてあるので省略するが、場所経営は徹底した植民地経営方式だったようで、1857(安政4)年10月に箱館奉行所が「最もアイヌ使役の烈しい場所」として、石狩、天塩とともに紋別の請負人に酷使禁止の論書をだしている、オホーツク海側と離島はアイヌ民族の疲弊が最も激しかった地域でした。場所請負制廃止で当時の請負人山田善吉から場所返納されたが、オホーツクでの漁が不振な事と交通不便な所で場所経営が困難なため、漁場持を引き受ける者はいなかったという。北見方面で場所請負人の力を借りずに蝦夷地開発を推し進める事が困難と考えた開拓使は又十藤野伊兵衛に頼み込んで漁場持になってもらったようだ。明治5年に漁場持の又十藤野家が斜里と紋別に駅逓所を開設しているが廃駅は詳細不明だが、漁場持廃止の明治9年以降とおもわれる。◇所在地:紋別市弁天町 ◇N44°35’61.91” E143°36’02.40”

又十藤野網走分店跡斜里運上屋・網走藤野番屋 MAP

斜里運上屋・網走藤野番屋

のちに初代藤野喜兵衛が網走に番屋を設置、網走で和人が本格的に漁業をはじめた最初の根拠地だった。番屋は平屋で、間口28間、奥行8間5尺、248坪(818㎡)と云い、幕末から明治の頃には戸長事務所、郵便取扱所、通行屋(後の駅逓)があったようです。又十藤野は文久2(1862)年に会津藩より斜里場所請負人を罷免されるが網走場所は直轄領として残された。藤野網走番屋は斜里運上屋の支配番屋だったので、斜里場所請負人罷免後は網走番屋が又十藤野の拠点となったようだ。明治6(1873)年に漁場持として斜里も復活するが、明治9(1876)年に漁場持が廃止され、又十藤野は一漁業経営者となります。駅逓は明治5年に藤野番屋から網走駅逓として独立、中央道路(囚人道路)開削が始まる頃に中央道路起点付近に移設されていたようだが、民営の期間が長く詳細が良くわかっていない。又十藤野網走分店(網走運上屋)があった白田鋸店の駐車場の端に史跡標柱がある。◇所在地:網走市南4東6(旧・北見町中通一丁目) ◇N44°01’18.01” E144°16’36.49”

シャリ運上屋(会所)跡史跡標柱・説明板 斜里町 MAP

シャリ運上屋

 天明2(1782)年に飛騨屋久兵衛の場所請負が最初のようですが、寛政の乱で飛騨屋が罷免。宗谷場所より別れて開設された1790(寛政2)年が実質的な斜里場所のはじまりとされているようで場所請負人は村山伝兵衛でした。藤野家は1808(文化5)年に栖原三右ヱ門・伊達林右ヱ門と共同で斜里・宗谷場所(ソウヤ,エサシ,モンベツ,トコロ,アバシリ,シャリ)請負、文化12(1815)年より藤野家の単独請負となる。1817(文化14)年・国後場所請負、1823(文政6)年、利尻、礼文場所請負、1832(天保3)年には根室場所請負、オホーツク側は文久2(1862)年に会津藩より斜里場所請負人を罷免されるまで藤野家の独壇場でした。会所(運上屋)廃止は明治2年で開拓使引き継ぎ時の漁場持は山田寿兵衛ですが、明治6(1873)年に斜里の漁場持として復活、駅逓取扱も又十藤野家に変わっているが明治9(1876)年に漁場持が廃止され一漁業経営者となり明治末には撤退している。駅逓廃止年については詳細不明だが漁場持廃止の明治9年以降か。明治21年に再設置された斜里駅逓は藤野番屋がもとになった。◇所在地:斜里町港町8-28 ◇N43°54’50.51” E144°39’47.98”

又十藤野(東出)番屋跡漁業発祥の地の由来・説明板 MAP

ウトロ藤野番屋跡

説明板では安政5年に当地に宿泊した松浦武四郎の日誌から引用している。安政5年当時はウトルチクシ(宇登呂)とホロベツ(幌別川付近)に番屋があり元々の規模は梁4間・桁6間だったようですが、ウトルチクシの番屋では秋田家が来るとのことで桁1間を継ぎ足し梁4間・桁7間にした(宿泊用の増設?)という。番屋以外ではウトルチクシに備米蔵と雑蔵、ホロベツには雑蔵と雇蔵があったという。安永4(1775)年に飛騨屋久兵衛がソウヤ場所請負、下請けしていた三代目村山伝兵衛が斜里に漁場を開設したのが最初のようですが、ウトロに関しては記録が見当たらず。◇所在地:斜里町宇登呂 知床グランドホテル北こぶし 前庭 ◇N44°07’21.49” E144°99’45.93”

野付通行屋別海町 訪問予定 MAP

画像枠-03

野付半島先端部で野付岬と呼ばれている所にクナシリ島へ渡るため寛政11(1799)年の通行屋が置かれたが、藤野喜兵衛請負中の天保4(1833)年に新規に建直され和賀屋卯右衛門・浜田屋兵四郎請負中の弘化4(1847)年、藤野喜兵衛請負中の嘉永7(1854)年に建増されている。建物のほか、弁天社、御制札場、井戸が1か所と国後島渡海のための通行船3艘、通行荷物積船2艘、持符船2艘、磯船1艘が配備され、通行屋を預かる番人は妻同伴で定住し、アイヌが詰め、渡海用の船、荷を運ぶ船も用意してあったという。野付半島外海面の海岸には場所請負人の鰊漁場があり、鰊漁の時期にはネモロ場所内のすべての番屋から漁民が集結したらしいが、幕末の頃は潮の流れが変わり不漁だったようです。明治になって(明治2年)別海に移転し野付通行屋は終焉を迎えた。野付通行屋跡近くには墓碑が残されています。◇所在地:別海町野付

厚岸会所跡史跡石柱・厚岸町 MAP

厚岸会所跡

アッケシ場所の開設は慶長9(1604)年の頃のようで、場所請負人は安永3(1774)年の飛騨屋が最初のようでに松前藩への貸金回収のため無理をしアイヌ酷使が寛政元(1789)年のクナシ・メナシの戦いの原因となったとされ罷免。その後は村山伝兵衛が場所請負人になるも寛政8(1796)年に罷免、変わって南部大畑・熊野屋忠右エ門,江戸・小林屋平四郎が請け負った。

ロシアの推し進める南下政策をを警戒した幕府は、寛政11(1799)年に東蝦夷地を、文化4(1807)年に西蝦夷地を直轄地とし東蝦夷地各場所は幕府の直営とし運上屋を会所に改め幕吏を滞在させた。文政4(1821)年に蝦夷地を松前藩に戻すが、再び緊張が高まった安政2(1855)年に渡島半島の一部を除いて幕府の直轄地とし諸藩に地域を割り当て警備を担当させた。時代は変わり明治2(1869)年に開拓使が設置されるが、財政基盤が貧弱だったことで諸藩による分領支配となるが明治4(1871)年の廃藩置県で終える。

場所請負制は文化10(1813)年より復活し松前・米屋藤兵衛、文政3(1820)年より竹屋長七(松前畑屋七左エ門?)でした。文政10(1827)年より栖原三郎兵衛の請負だったが、天保3(1832)年に山田文右衛門に譲渡され、明治2(1869)年の場所請負制が廃止されるまで山田文右衛門でした。場所請負制廃止で会所(運上屋)はその歴史を閉じるが駅逓業務は開拓使に引き継がれ、明治5(1882)年の駅逓取扱人は漁場持ちの榊富右衛門となっているが、場所請負制が実質温存された漁場持も明治9(1876)年に廃止となっている。明治21(1888)年に厚岸駅逓所が再設置されるがその時の駅逓取扱人も榊富右衛門でした。場所運営の特徴は徹底した植民地経営方式で専制的な支配権を行使しアイヌ人に有無を言わせず集め、過酷な労働条件で酷使、厚岸でアイヌ人口が減ると、沙流地方や勇払地方からアイヌを連れてきて漁業労働に従事させたのだという。 ◇所在地:厚岸町湾月1丁目121 ◇N43°03’29.73” E144°83’97.43”

佐野碑園 久寿里会所跡説明板・石碑 釧路市 MAP

久寿里会所跡

 江戸時代にはクスリ(久寿里)と呼ばれていた釧路は、1799(寛政11)年に幕府の直接支配地となり交易場所であった「運上屋」は「会所」と改称され、交易のほか旅宿所や漁業の経営、行政機関としての機能も有し当時は釧路の中心地であった。クスリ場所請負人は新潟県寺泊出身の「佐野孫右衛門」で(1841年~1899)、会所が置かれていた跡に佐野氏紀功碑、久寿里会所跡の碑、石川啄木歌碑などがあり佐野碑園と呼ばれている。明治2年に場所請負制が廃止され会所(運上屋)は幕を閉じるが、場所請負制は漁場持という名で実質温存され最終的には明治9年に廃止された。全てではないが会所(運上屋)は開拓使に引き継がれ、本陣・脇本陣~旅籠屋~駅逓取扱所などになるも、駅逓業務は漁場持が引続き取扱人となった所が多く、漁場持廃止後は民営で駅逓という事もあったようです。◇所在地:釧路市南大通8丁目2 ◇N42°97’40.81” E144°37’53.29”

白糠運上屋跡石碑 白糠町 MAP

白糠運上屋跡碑

 白糠駅から約徒歩5分に有る白糠公民館敷地内の国道側に白糠運上屋(白糠番屋)跡の石碑が立っている。白糠番屋を経営していた佐野孫右衛門が明治7年に駅逓も含めて漁場持ちを返上、駅逓業務は豊島三右エ門が引き継ぎ、その施設を白糠駅逓所として利用していたという。白糠駅逓は明治21年再設置となっているが制度の関係で民営から官設駅逓に昇格になったという流れのようで、駅逓業務は白糠会所から白糠番屋を経て官設駅逓になるまで継続していた。そういう背景が有るので白糠運上屋が白糠駅逓所という事も出来る。◇再開:明治21年07月 ◇廃駅:明治35年11月
◇初代取扱人:豊島三右エ門 ◇二代取扱人:港屋春平
◇現住所:白糠町東3条南1丁目1-21 ◇N42°57’16.1” E144°24’53.9”

江戸期の駅逓(会所・通行屋・番屋)ギャラリー

白糠運上屋跡-02ウトロ藤野番屋跡-02オタルナイ運上屋跡しゃこたん場所 運上屋出張所跡ルペシベ通行家跡-02ルペシベ通行家跡-03
ルペシベ通行家跡-04磯谷運上屋跡-02磯谷運上屋跡-03奥行臼駅逓所02武佐駅逓所02旧ソーケシュオマベツ駅逓所
旧簾舞通行屋上昆布駅逓所跡1上昆布駅逓所跡2赤井川道の駅・バス時刻表うらに駅逓説明版貝殻沢駅逓所跡地・上目名峠付近画像枠1
川汲山道駅逓所・宿泊人名簿貝殻沢駅逓取扱人・田下積信碑有珠会所の井戸跡画像枠2画像枠3画像枠4画像枠5画像枠6
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駅逓(記念碑)を巡る旅

松浦武四郎の碑を巡る

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