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駅逓跡と記念碑を巡る旅
根室~釧路地方の旧駅逓所と駅逓跡記念碑を巡る‼

道東・太平洋沿岸の駅逓碑

諸外国との緊張感の高かった太平洋沿岸に点在する会所は藩設置の陣屋と協力し北辺防衛の任にも当たったというが、基本的には全道に点在する運上屋(会所)も同様の任務を担っていたが、明治政府に引き継がれた後も漁場持ちが廃止されるまで駅逓は漁場持の請負いが多かったようです。漁場持廃止後は公選制となも海岸部では場所請負関係者によってほぼ独占されていたが、駅逓が内陸部に開設されていく頃になると駅逓の制度も整えられてきて、開拓の拠点になっていく。ただ産業道路や中央道路と関わる部分では囚人による道路開削などに横暴な権力の顔が見え隠れしている。根釧原野では設置された駅逓に対して同じ道東部の十勝やオホーツクに比較すると少なく、駅逓と地域や入植者との関わりは希薄だったのかもしれない。

瑠辺斯駅逓所跡説明板 標津町MAP

瑠辺斯説明板 明治18年に新斜里山道が開かれて開設された官設駅逓、瑠辺斯はルベシベと同じ意味だが、留辺蘂に駅逓があり区別するため瑠辺斯としたらしい。金山の滝から約7km程上った所に有った留辺斯に標津町郷土研究会が設置した留辺斯駅逓跡説明版が更新されず判読不能になりかけていたが、平成11年に再建されている。山道開削の年に設置されたのは留辺斯駅逓のみ、斜里側には私設駅逓があったようだが冬は遭難を出すなどの難所で、道庁は標津~斜里間の山道にある駅逓を繋ぐように2里半ごとに休泊所を設け旅行者の冬道への配慮と便宜を図った。斜里側に明治21(1888)年に斜里駅逓所、明治27(1894)年には越川駅逓所を設置、標津側では明治29年に糸櫛別駅逓所が設置され体制が出来上がった。標津側では椴山休泊所と金山休泊所、斜里側に平取休泊所と赤上休泊所が設置されたというが緊急時の宿泊が可能という粗末なものだったらしい。ここでは旧説明板より読めた部分だけを掲載しています。

留辺斯駅逓跡説明板より「駅逓……明治~昭和初期にかけて人夫・馬による荷物運搬と宿泊所を兼ねた施設として旅人開拓者の移動を助けた。明治18年(1885年)に新しい斜里山道が開かれ、この駅逓所が置かれることになった。初代駅逓取扱人は高橋茂三郎で、その後、遠藤喜太、長谷川長七、長谷川米治、沢向和吉、服部次八そして麻生円蔵に引きつがれて昭和16年に廃止された。明治29年(1896年)にこの地を通った河野常吉(歴史家)は高橋茂三郎の話として駅逓開設当時は月に5人~10人の通行者が、近頃では日に2人~3人は宿泊すると、また「本年ハ屯田設置ニヨリ根室ヨリ行クモノ多シ」と北見地方の開拓のことを記している。明治18年当時で標津-留辺斯駅逓間7里16町が馬68銭人足56銭で留辺斯-斜里間8里が馬70銭人足58銭であった。標津町郷土研究会 」

 ◇北海道宿駅(駅逓)の研究では以下の通りですが、説明版の方を優先する。以前の説明板設置者は郷土研究会ですが再建は標津町教育委員会になっています。 ◇開駅:明治18年09月 ◇廃駅:昭和21年01月  ◇初代取扱人:遠藤喜平太 ◇二代:長谷川長七 ◇三代:長谷川長作  ◇四代取扱人:長谷川米次 ◇五代:笹谷捨次郎 ◇六代取扱人:沢田和吉  ◇七代:服部次八 ◇八代:服部孝道 ◇九代取扱人:麻生円蔵 ◇現住所:標津町留辺斯 ◇GPS:N43°45’02.72” E144°51’42.76” Google Maps で任意の緯度経度を指定して開く(マーカー付き) ◇G.MapsG.Maps

糸櫛別駅逓所跡石碑・説明板 標津町

糸櫛別駅逓の石碑 標津から斜里への峠越えに標津側にはそれまで瑠辺斯に官設の駅逓があっただけで、峠を越えるのは大変だった。明治29年開駅の糸櫛別逓所は瑠辺斯と標津の中継地として標津から約16kmの位置に開駅。取扱人は谷村龍之進氏で親子三代に引き継がれ昭和19年頃に廃駅、以後は旅館として昭和38年頃迄営業。以前は糸櫛別駅逓所跡の国道沿いに看板が出ていたが、看板が消えて平成11年に説明板が再建されたが目立たないので気づかないかも。駅逓碑は明治29年に駅逓所の井戸を掘ったとき出た石に刻んだものという、平成10年に谷村龍之進の祖孫より標津町に寄贈されポー川史跡自然公園で野外展示されている。金山休泊所は以前にあった金山キャンプ場付近だったようですが洪水でキャンプ場が壊滅、その後の橋梁工事などで地形が変わっている。◇開駅:明治29年12月 ◇廃駅:昭和19年02月 ◇初代取扱人:谷村龍之進 ◇二代:谷村正蔵 ◇三代:谷村滝之丞 ※明治34(1901)年開設の標津駅逓所や昭和5年に古多糠基線に設置された古多糠駅逓所など標津には5駅逓が設置されたが碑があるのは糸櫛別駅逓のみで駅逓の遺稿は残されていない。◇所在地:標津町糸櫛別 ;◇N43°43’38.71” E144°58’06.00”

虹別駅逓所跡説明板 標茶町

虹別駅逓所跡 虹別駅逓所跡には町内会が設置した看板と説明板がある。看板は錆が出てきているが当分は大丈夫そう、説明板の方は一部判読が難しいところも有るが虹別の歴史が詳しく書かれているのでご一読を。説明板は国道243号線沿いでクリーム童話の横にあり道を挟んで斜め前は郵便局。駐車スペースも問題なし。ここではソフトクリームも忘れずにチェック。 ◇設置:大正04年12月 ◇廃駅:昭和11年12月 ◇初代取扱人:木下勇 ◇二代:石渡嘉市 ◇所在地:標茶町字虹別市街5丁目1番地 ◇記念碑:表示板が虹別市街に有り。◇N43°27’56.6” E144°40’39.7” ◇G.MapsG.Maps

太田駅逓所跡史跡標柱 厚岸町

太田駅逓所跡 この地域の道路は囚人によって開削、明治22年頃に士族屯田として開かれた所なので駅逓所もできるのは早かったが、残されているのは屯田兵に関するものが殆ど。なぜかこういう所には駅逓の碑は無いという印象が強いのだが、厚岸町では駅逓跡も史跡として保存されている。碑は太田郵便局と太田神社の間の反対側横通りの道端にある。比較的近くに屯田兵屋が現存し北海道の有形文化財となっている。◇開駅:明治25年03月 ◇廃駅:大正05年06月 ◇初代取扱人:阿部金助 ◇二代:阿野恒一 ◇再開:昭和08年09月 ◇廃駅:昭和18年10月 ◇三代取扱人:森一清(正) ◇所在地:厚岸町太田南 ◇GPS:N43°05’13.2” E144°47’58.1”

片無去駅逓所跡史跡標柱 厚岸町

片無去駅逓跡 道道1128号尾幌厚岸線を途中より北片無去を経由して井上耕介殉難慰霊碑を過ぎてすぐ右側に碑がある。元々ここはシキナウシでありカタムサリと感違いしたのか、カタムサリ駅逓設置の予定だったのかは分からないが、周りには人家などは無く碑以外に当時の痕跡は皆無。道は阿歴内を経て塘路湖につながり、阿歴内と太田、雷別の三駅逓の交差部で厚岸、塘路を結ぶ交通の要衝でもあった。木製の碑は平成12年の設置だが、山間部のためか見た目以上に痛みが激しい。 ◇設置:明治23年01月 ◇廃駅:昭和02年06月 ◇初代取扱人:太田紋蔵 ◇二代取扱人:近江久太郎 ◇三代:前田虎一郎 ◇四代:横田又九郎 ◇五代:中沢吹光録 ◇六代取扱人:徳田豊 ◇七代:小川秀夫 ◇八代:小川謙吉 ◇九代:小川つる ◇現住所:厚岸町片無去 ◇GPS◇E144°41’36.8” N43°07’10.2”

駅逓所縁の人物・記念碑など

養老牛史実案内盤養老牛駅逓所 中標津町

養老牛史実案内盤 標津川上流域に位置する養老牛市街の交差点近くに大正から昭和初めの歴史を刻んだ養老牛史実案内盤と地域の案内板が設置されている。その中に駅逓も有り、碑のある場所はかつて駅逓のあった場所だそうです。養老牛駅逓所の開設は大正10年というが、官設駅逓としての期間は昭和4年からのようで、その間は民営として開設されていたものか。松浦武四郎の「戊午18巻 東部志辺都誌」に「此処の上に一つの温泉有と。是はカンチュウシブト(養老牛)より入るとわずか二里計ならでなしと云えり」と東蝦夷日誌よりも具体的、文化年間は役人の通行路にも近かったようで(養老牛)温泉の存在は早くから知られていたと考えられる。養老牛温泉の創業(養老園)は大正9年とあり、駅逓開設がその翌年だったことから、湯治客にも利用されたのでしょう。ちなみに養老牛温泉は映画「男はつらいよ」や「釣りバカ日誌」でロケ地になったところです。◇開駅年:昭和04年12月 廃駅年:昭和17年01月 ◇駅逓取扱人:佐藤儀七 ◇所在地:中標津町養老牛 ◇N43°32’36.60” E144°43’08.72”

乾定太郎顕彰碑官設中標津駅逓所 中標津町

乾定太郎顕彰碑 中標津開拓の祖であり、根室原野開拓の先駆者であった乾定太郎(1857~1928)氏は大正4年に開駅(中標津町史では大正3年)、昭和5年に廃駅となった官設中標津駅逓所の初代取扱人である。その乾定太郎氏の顕彰碑が東7条緑地公園にある。没後同氏の功績を顕彰して木製の碑、昭和23年には石碑(東2条北1丁目・駅逓跡付近)が建立され、昭和38年旧公民館新築落成に合わせ市内中心部の現在地に移設。駅逓縁の人物として掲載しました。 ◇現住所:中標津町 東7条公園内 ◇N43°09’12” E144°59’41.1”

遠太の渡し別海町の宿駅と旧道跡

遠太の渡し遠太の地名は地図からは消えたが走古丹の風蓮湖湖口に近い砂嘴に基準点の名としていまも健在とか。遠太駅逓所は古い地図を見ると根室側で砂嘴先端近くの内湾側にあったようですが、浸食で地形が変わり現地を確認するは無理でしょう。別海側の砂嘴にあった船着場が「遠太渡し」と云う事になり、陸路が出来るまで根室や厚床と別海や標津の中継地となっていました。遠太駅逓とは縁のあった「遠太渡し」の歌碑が走小丹に開基115年の碑と向かい合って建立されている。江戸期よりあった野付通行と思われる付近の遺稿調査が継続されており今後の動向に注目。走コタン砂嘴の対岸となる根室の遠太駅逓跡や標津から釧路に抜ける旧道跡では通行屋跡と思われる遺稿が確認されたようですが、厚岸から根室に至る内陸の旧道沿いにあった通行屋の位置は特定できていないようです。別海町にはかつて明治年代開設の春別駅逓、別海駅逓、奥行臼駅逓。大正年代開設の西別駅逓、上風連駅逓、中春別駅逓、昭和になって開設の上春別駅逓、中西別駅逓、西春別駅逓があり、開設駅逓の数では道東でも有数ですが、駅逓所在場所を正確に特定できているのは少ないようです

落石郵便局落石駅逓所 根室市

落石郵便局 根室市には駅逓跡を周知する碑等はないという。過去にあった駅逓の詳細な位置特定も進んでいない様ですが、落石郵便局は明治12年開駅の落石駅逓所が元になって明治13年開局という。駅逓は大正10年に廃駅となっているが郵便局は継続され現在の局舎は5代目という。僻地ではかつて駅逓取扱人が郵便取扱所も兼任(それぞれ別に請け負ったもの)する事もあったようで、考えようによっては落石郵便局が駅逓碑とも言える。初代の開設場所に関する詳細は不詳という・・・。 ◇開駅:明治12年02月 ◇廃駅:明治21年04月 ◇再開:明治41年04月 ◇廃駅:大正10年01月 ◇初代取扱人:増田忠右衛門 ◇二代:沢田栄太郎 ◇三代:(再開後)笠松 ◇四代:沢田健太郎 ◇現住所:根室市落石

スガワラ標柱・駅逓跡? 標茶町

スガワラ・駅逓跡? 塘路駅から1km先で久著呂橋(挽歌橋)、釧路川を渡り釧路川に沿ってコッタロへと進み途中で進路を変え釧路湿原を横断した簡易軌道(馬車鉄道)・久著呂線(1930年~1964年)跡は途中から道道1060号線と一部重なっているようで、googlマップ(衛星写真)で見ると久著呂線の痕跡と思われるのが散見される。久著呂線跡が進路を変えて道道1060号線と分かれ釧路川から離れて行く位置に「スガワラ」の標柱がある。久著呂線沿線には中久著呂と久著呂に駅逓の記録はあるが、ここは二本松という昇降場があった所らしいも詳細はわかりません。またこの付近に「スガワラ」という駅逓取扱人や駅逓の存在も確かめらせんでしたが、駅逓跡で人名由来というので、スガワラは駅逓管理人かもしれないが「塘路からシモクチョロまでの軌道終着点の駅逓跡」という記述とはあわない。また川舟の運送に頼っていた時代は荷揚場でもおかしくはないが。「スガワラ」はコッタロ川と釧路川交流部より下流にあるカヌー乗り場になっています。幌呂線軌道の廃線跡にも旧駅逓駅(上幌呂・元駅逓)があったというも今は何も残っていない。◇所在地:標茶町クチョロ原野 ◇GPS:N43°10’40.11” E144°28’26.23”

リウラン(璃瑠瀾)駅逓跡史跡標柱 厚岸町

ルリラン駅逓跡 道道123号「別海・厚岸線」通称「北太平洋シーサイドライン」で浜中との境界近くの厚岸側で、森が途切れて草原となり海が見えてくると間もなく道路脇に「史跡ルリラン駅逓跡」と書かれた標柱と小さい広場(旧道跡?)と柵があった。駅逓開設時名称は「リウラン」なのだが璃瑠瀾の字をあてたのでルリランと呼ばれたのか?明治年代には集落も有ったというが湾や林道の名前や地名はリルランなので本来の名前はリルランで問題はなさそうに思える。再訪時には史跡標柱が無くなっていたが破損して撤去されたという。リルランの地名から察すると海岸に下る道でもあったものか?昔の写真を「現在の風景」に重ねてみた。 ◇開駅:明治17年04月 ◇廃駅:明治35年11月 ◇初代取扱人:大竹種次郎 ◇二代:大竹カツ ◇現住所:厚岸町リルラン ◇ N42°59’28.9” E144°59’03.8”

道東・根室&釧路エリアの旧駅逓所・駅逓跡碑のギャラリー

糸櫛別駅逓の石碑 糸櫛別駅逓跡・説明板 糸櫛別駅逓石碑説明板 太田駅逓所跡02 ルリラン駅逓跡02 クスリ会所跡 虹別駅逓所跡とクリーム童話 奥行臼駅逓所01 旧武佐駅逓所 白糠運上屋跡-01 旧塘路駅逓所 塘路駅逓説明板 厚岸会所跡 白糠運上屋跡-02 スガワラ標柱 塘路駅逓看板 虹別駅逓所跡03 片無去駅逓跡02 雨竜町・伏古渡船場跡 士別市・標津北線駅逓史跡標柱

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松浦武四郎の碑を巡る

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