江戸期の宿駅跡を巡る旅
江戸期の宿駅跡(会所・通行屋・番屋)碑を巡る‼

宿駅の記念碑

 記念碑の素材(木標柱、コンクリート標柱、鉄板、自然石、加工石など有り)によっては、残っていない可能性もあるので、確実性については保障出来ません。傾向として市町村や郷土史研究会などが建立している場合は複数の碑が存在する可能性が高いかもしれませんが、平成24年に再確認したものに関しては、碑や標柱については当分は大丈夫と思います。ただ長い年月で碑文などは判読の難しい碑も有ります。

当縁番屋跡(通行屋)説明板 大樹町 MAP

当縁番屋跡

 浜大樹から当縁川河口方面に進むと、当縁川右岸の先端部付近台地上に「当縁番屋」跡がある。大樹町設置案内板の文字は殆とが判読不能の状態で、何とか享和二年ごろ美楼会所の設置と書いてあるように見えた。美楼、ビロウは広尾の旧名で、松前領時は運上屋、幕府直轄時は会所、幕末時は十勝会所と称していた。松浦武四郎の蝦夷日誌(初航)に「馬有。継立ニなる也。非常御備米蔵、弁天社、運上屋。勤番通行上下とも止宿になる」とあり、東蝦夷日誌では「前に土手有、是は南東風を防ぐ為也」と記されている。番屋と称しているが、東蝦夷日誌では運上屋となっているので美楼会所の出張所か?土手跡は今もその大部分が残っており、その手前(山側)に運上屋(番屋)が有ったことになるが、土手の長さから推測すると、それなりに大きな建物だった様に思える。◇所在地:大樹町当縁 当縁川河口付近 ◇N42°30’20.79” E143°27’27.90”

十勝会所跡史跡標柱・広尾町 MAP

十勝会所跡

 十勝場所の設定年代は詳らからではないが寛永12年の松前藩による戸賀知金田の開設と同じ頃と考えられている。寛政11年に松前藩から幕府直轄となり運上屋は会所と改められた。文化年間に高台に移転したという。運上屋の機能は会所にそのまま引き継がれた他に駅逓と幕府の役所が置かれるようになった。十勝会所では酒造が試みられていたとのことで他の会所には無い特徴が知られているが標柱に酒造に関する表記はない。最後の十勝場所請負人は箱館の福島屋杉浦嘉七、維新後に会所は廃止となるが漁場持として駅逓はそのまま継続していたようです。福島屋杉浦嘉七が漁場持を返上した明治7年以降は大津駅逓と同じなので省略しますが、十勝漁業組合が解散した後については詳細不明、旧札幌本庁管内駅逓取扱人一覧(明治15年)では高橋仁太郎とあり駅逓の廃止はこれ以降のようです。◇所在地:広尾町会所通り ◇N42°17’06.14” E143°19’10.92”

ビロウ運上屋跡史跡標柱・広尾町 MAP

ビロウ運上屋跡

運上屋は東蝦夷地が幕府直轄になる前の呼称で寛政11年に松前藩領から幕府直轄地となり運上屋は会所に改められ、ビロウ運上屋も十勝会所と改められた。東蝦夷地では松前藩に複領となっても会所の名称はそのまま使用されているが、松浦武四郎の蝦夷日誌では運上屋となっていて、当地の広尾では運上屋と呼んでいたのだろうか?。西蝦夷地では運上屋、運上家などで会所という呼称は使用されていない。ビロウ運上屋は元々海岸に近い所にあったが文化年間に高台に移転したという。広尾町の海岸通りに高台への避難階段が有りその登り口に史跡標柱がある。◇所在地:広尾町海岸町
◇N42°28’38.59” E143°31’97.49”

コトニ小休所跡説明板 様似町 MAP

コトニ小休所跡

 西口の山道起点は冬島川にかかる「押木橋」なのだが、コトニ小休所だけが目的の場合は「東冬島トンネル」を抜けて左折(山側に入る舗装路)し山道に入る。突き当たりに←様似山道→と林道の看板がある所で林道側に左折すると昆布干し場の奥にコトニ小休所の看板が見え、右折すると様似山道につながる。以下は由来書より「様似山道の古趾 コトニ小休所跡
様似山道が開設した1799(寛政11)年、旅人の心をいやす眺めの良いこの場所に、往来する人たちの休息の場として、2間に3間の小屋が建てられた。往来の人たちはここで焚火をして暖をとったり、時には仮眠もしたという。東口(幌満)から来た人は熊や鹿に脅かされながら、うっそうとした山中を通りここに辿りついてようやく安心したという。また西口(冬島)から来た人はこの先の難所に備えて支度を整え、この眺望も見納めの心境でシャマニを背に東へ向かったとか。悲喜交錯の多く残された所です。様似町教育委員会」◇所在地:様似町コトニ
◇N42°09’14.51” E142°99’98.49”

様似会所跡石碑・様似町 MAP

様似会所跡

 幕府は諸外国との関係が緊張したことで1799(寛政11)年に東蝦夷地を直轄とし、様似山道を完成させその翌年に油駒運上屋をシャマニ会所と改めた。幕府は1821(文政4)年に蝦夷地の大半を松前藩へと返却したが、1855(安政2)年には再び幕府直轄としている。文化10年以降は駅逓業務も請負制になり、会所(運上屋)が人馬継立、継立馬の飼育、旅籠屋の業務を担った。安政2年に函館奉行が東西蝦夷地への妻子同伴を可としたので妻子を伴って赴任する役人も増え、峠を控えた会所では婦女子の山越用に山駕籠を用意し人足が配置されていた。様似最後の場所請負人、漁場持は万屋(佐野)専左衛門(シツナイ、ウラカワも同様)でした。開拓使に引き継がれた後の明治5年9月より、様似駅逓となり取扱人は矢本蔵五郎。廃止年は不明だが旧札幌本庁の駅逓取扱一覧(明治15年)は三上幸助なので明治15年以降の廃止と思われる。明治33年に様似駅逓が再設置されているが、北海道宿駅制の研究では矢本藤五郎(矢本蔵五郎の間違いか?)が駅逓取扱人となっています。駅逓は昭和6年に廃駅。◇所在地:様似町会所町1
◇N42°12’46.00” E142°92’13.86”

静内会所跡碑石碑 新ひだか町 MAP

静内会所跡碑

 国道235号線沿い山側にある民家の前の設置されている。幅3mの台座に高さ1m前後の青石二つが並べられ、碑文のほかに会所建物の当時の造作を刻んだ銅版の副碑がはめ込まれている。1802(享和2)年、幕府は蝦夷地を直轄支配とし運上屋を会所と改め行政機能を持たせ付属施設も拡充された。交易の取引所であった静内会所は、1858(安政5)年に東静内に移され明治までその姿を留めたといわれている。会所廃止後は駅逓として使用されたようだが旧札幌本庁管内駅逓取扱一覧(明治15年)に静内はなく、同年に下下方駅逓と改称されているようです。引き継ぎ時は及川甚兵衛となっていて新冠会所と同じです。◇場所・駅逓請負人:佐野専左衛門 明治3年~駅逓取扱人:稲田邦植 ◇明治15年05月下下方駅逓と改称 ◇廃止年:昭和03年06月 ◇明治15年~駅逓取扱人:及川甚兵衛 取扱人:服部久元郎 取扱人:沼田虎太郎 ◇所在地:新ひだか町東静内61番地13 ◇N42°17’57.69” E142°27’13.77”

新冠会所跡石碑・説明板 新冠町 MAP

新冠会所跡

 新冠町発祥の地と呼ばれている判官館の前浜のにあり、節婦漁港東側、昆布干し場用道路入り口から判官館ふもとまで徒歩30分。1812(文化9)年から請負制が復活し、東蝦夷地は19場所に統合され、ニイカップ場所は箱館の浜田屋が1813(文化10)年から1869(明治2)年の請負制度の廃止まで経営を独占した。会所廃止後は駅逓(通行屋を使用か?)として使用されたようだが、引き継ぎ時の駅逓取扱人は及川甚兵衛、旧札幌本庁管内駅逓取扱人一覧(明治15年)では細野善之助になっている。同年に賀張に移転開設、駅逓の廃止年は?。最初の頃は通行屋を元にした駅逓と思われます。◇場所・駅逓請負人:浜田屋 井口佐次兵衛 ◇会所廃止:明治2年 駅逓は継続 駅逓取扱人:細野善之助~及川甚兵衛?◇廃止・新規開設:明治15年05月、賀張(現・日高町内)に移転開設とあった。◇廃止年? ◇駅逓取扱人:中村世吉 取扱人:長谷川弥平 取扱人:山中某 取扱人:濱田佐治兵衛門 ◇所在地:新冠郡新冠町字高江 ◇N42°36’51.65” E142°29’87.83”

勇払会所之跡石碑・説明板 苫小牧市 MAP

勇払会所之跡

勇武津資料館と説明が重なるので概略のみにどどめます。寛政11(1799)年には東蝦夷地を直轄地とし直接経営に乗り出し、アイヌと和人の交易の拠点として東蝦夷地屈指の商業物資の集散地として栄えていた勇払に15場所を統括して勇払川の東側に会所を設置したが、文化元(1804)年、波浪浸食により現在の石碑建立地に移動。明治2(1869)年に開拓使勇払役所が置かれ、明治5(1872)年は開拓使出張所が置かれたが明治6(1873)年出張所が当時の苫小牧に移され行政の中心は苫小牧に移る。かつて交通・交易・行政の要であったことを伝える史跡として苫小牧市指定文化財に指定されている。◇所在地:苫小牧市勇払50-11 ◇N42°37’34.82” E141°44’09.88”

千歳川会所跡説明板 千歳市 MAP

千歳川会所跡

 千歳川とその周辺のサケやシカといった豊富な天然資源もありシコツ場所と呼ばれていたが、のちにユウフツ場所に編入されている。幕末の頃は資源も減少して会所も1カ所であったが、内陸部で会所が設置されている所は他にほどんとない。千歳は「シコツ越」「ユウフツ越」と云われ東西を結ぶ内陸交通の要衝たせったのでしょう。最後の場所請負人は山田屋文右衛門のようです。
千歳川会所説明板より
『江戸時代、松前藩では藩士たちにアイヌの人々と交易をする独占的な権利を与えました。やがて藩士たちはこの権利を商人に預け運上金(税金)を納めさせます。権利の及ぶ範囲を「場所」といい、交易所として「運上屋」と呼ばれる建物がたてられました。寛政十一年(1799)年、幕府は蝦夷地を直接支配し「運上屋」を「会所」と改名します。「会所」は幕府の役人もいて交易の他に役所の出張所の役割もしました。千歳では文化元(1804)年、売場会所と買場会所がたち蝦夷地で初めて鉄銭が交易に使われました。文化6年(1809)二つの会所は1カ所にまとめられ「千歳川会所」となりました。安政4年、蝦夷地探検家そして北海道の名付け親として有名な松浦武四郎(1818~1888)は千歳を訪れ千歳川会所のにぎやかな様子を上図(説明板の上半分の絵)のように描いています。絵によると会所はちょうどこのあたりに置かれていたようです。昭和65年5月 千歳市教育委員会』千歳川会所とその船着場は、現在の千歳橋の近く、ホテルかめや(本町1丁目)の所にあった。◇所在地:千歳市本町1 ホテルかめや前nbsp;昭和54年に千歳神社が設置。 ◇N42°49’11.09” E141°38’49.31”

白老会所跡石碑 白老町 MAP

白老会所跡

 寛文年間にはすでに開設されていたらしい。白老場所はシャタイ(社台)、シラヲイ、シキウ、メップもアイロからなり、秋鮭、鰯粕、昆布が主な交易品でした。白老場所請負人は文化から文政にかけては南部の新保屋、天保12年から明治2年までは野口屋でした。安政3年に仙台藩元陣屋が置かれてからは共に北方警備の役割も付加されたようです。駅逓業務は文化10年から請負制となって場所請負人が担っていましたが、場所請負制の廃止で会所は明治2年に廃止されるが、一関藩の元で漁場持ちとして請負場所を実質延長するが廃藩置県で漁場返上、駅逓は開拓使が引き継つぎ、その後を大沢周次郎が引き継いだようだが札幌本道開通に伴い移転している。白老会所は碑のある下水道終末施設付近に有ったというが、当時の痕跡は残っていない。◇開駅年:寛文年間 ◇廃止年:明治2年頃 以後は駅逓舎しとて再利用されたようです。◇所在地:白老町高砂町4丁目439番地付近? ◇N42°32’37.10” E141°20’59.96”

有珠会所跡説明板 伊達市 MAP

有珠会所跡

 会所のあった場所の南側は小高い丘になっていたというが、海軍が魚雷艇の造船所を建設するため昭和19年に丘を削平したという。幕末の探検家、松浦武四郎も有珠会所に宿泊し、絵図や記録を残している。説明板より一部抜粋「有珠の会所が、正確にいつ設けられたのか明らかではありませんが、文献に初めて現れるのは寛文年間で、おそらくこのころに設立されたものと思われます。会所では運上金の収納、駅逓人馬継立、通行人の宿泊、日用品の供給等の業務がおこなわれ、当時の蝦夷地での経済や交通などの重要な機関でした。明治2年、伊達邦成が支配地検分のとき最初に到着したのもこの会所です」伊達市教育委員会。亘理領主伊達邦成が一門を率いて移住するが、それに先立って明治2年に田村顕允を北海道へ先発させた。田村顕允は有珠会所内(この頃は本陣と思われる)に開拓役所を仮設、翌年の移住第一陣も有珠会所が宿営の要となったようです。開拓使に引き継がれたときの駅逓取扱人は白鳥宇兵衛、明治15年の旧札幌本庁管内駅逓取扱人でも白鳥宇兵衛なので駅逓の廃止はこれ以降のようです。◇開設年:寛文年間 ◇廃止年:明治2年 ◇所在地:伊達市有珠町86 ◇N42°31’10.78” E140°46’48.61”

運上屋(会所)縁の人物・記念碑など

浜マシケ運上屋と旧白鳥番屋石狩市 MAP

旧白鳥番屋

松浦武四郎の「再航蝦夷日誌」によると「マシケ場所」は現在の「浜益」と「増毛」を含むエリアだっが、天明5(1785)年に「マシケ場所」と「ハママシケ場所」に分割されたという。また蝦夷日誌(弘化3年)では「此地本名をセロカロウシ。又訛てヘロカロウシ(現・浜益)とも云るなり。此ハママシケと云は此地の惣名なり。則其を今用ひて此運上屋元の名となす」とあり、運上屋は今の浜益市街で本沢川河口付近の海岸線にあったようです。「西蝦夷日誌」に「岬を廻りてテキサマ 番屋一棟 萱蔵あり」とある場所付近にはまます郷土資料館になっている旧白鳥番屋がある。浜マシケ運上屋の遺構はありませんが、白鳥番屋は運上屋の下請鰊漁業番屋が始まりのようで、明治期の開設ですが関連施設としてあげておきます。マシケ場所(浜益・増毛)で最初の請負人は村山伝兵衛ですが、伝兵衛失脚後の寛政8(1796)年に伊達屋林右衛門が引継ぎ幕末まで伊達屋が独占していた。群別稲荷神社は伊達林右衛門により建立されたものという。最後の請負人(明治初期)は中川屋勇助でした。 ◇N43°61’24.91” E141°37’39.42”

弁財船投錨地の碑とアツタ運上屋石狩市 MAP

弁財船投錨地の碑

八幡神社の下に見える押琴(旧名オショロコツ)の入江は天然の良港として多くの弁財船が停泊、運上屋や弁天社があり、江戸期から明治の頃の厚田中心地だった。アツタ場所で最初の請負人は阿部屋のようですが、文化7(1810)年頃より松前の浜屋与三右衛門、天保から弘化にかけて宮川増蔵、嘉永5(1852)年より場所請負廃止まで浜屋与三右衛門となっているようです。運上屋は元々アツタ(厚田川口)に有ったが不便なのでオショロコツ(押琴)に移転したと云い、運上屋の規模は現存する余市運上家と同程度という。運上屋の遺構は残っていないようですが、当時の繁栄を物語る弁財船投錨地の碑が「厚田村発祥の地」と並んである。約300年前から和人が往来し明治時代から昭和初期までニシン漁で栄え、最盛期の明治14(1881)年には人口は1万2000人を超えたというが、ニシン漁の衰退で過疎化が進んだようです。 蝦夷日誌に「弁天社運上屋の上にあるなり」と記されていた元押琴弁天社の手水鉢、唐獅子は八幡神社に最設置されたという。◇所在地:石狩市厚田区古潭

野口屋又蔵功績碑と白老会所石碑 白老町 MAP

野口屋又蔵顕功績碑

野口屋又蔵顕彰碑は北海道の名付け親として知られる松浦武四郎が安政安政3~5年に宿泊したという1822(文政5)年開設で明治2年廃止の幌別会所の関連費を探していた見つけたもの。肝心の幌別会所跡の説明板は既に無く地形も陸橋工事などで様変わりしていた。野口屋は文政年間から4代にわたり白老の場所請負人でしたが、とかく悪評がついて回る場所請負人の功績碑があること自体が珍しいことです。他の場所請負人との違いは其れまでの略奪漁法から育てる漁法への転換を図ったこと、4代目又蔵は自らこの地に定住し地域発展に尽力したことが支持されたのではないかと思える。顕彰碑は虎杖浜神社境内に建立され白老青空博物館と銘打った説明版が設置されている。白老会所に関しては既に説明済みなので省略する。◇所在地:野口屋又蔵・白老町虎杖浜289-2 ◇N42°27’17.4” E141°12’19.8”

和田屋茂兵衛墓碑と虻田運上屋洞爺湖町 MAP

和田屋茂兵衛墓碑

 元文4年頃のアブタは酒井逸学の給預地であったが、寛政11年の幕府直轄で請負制廃止とともにアブタ会所と改められ、蝦夷地初の牧場経営が行われたが、1821年に松前藩に返還される。1812年から場所請負制が復活し場所請負人は福山(松前)の和田屋茂兵衛、松前複領後も場所請負はそのまま引継がれる。1822(文政5)年の有珠山大噴火でアプタコタン焼き尽くし、アブタ、ウス両場所の牧士・アブタ場所請負人和田屋茂兵衛・同支配人など40余人、牧馬数百頭が犠牲となり、牧馬一千頭ほどが行方不明という壊滅的な被害をうける。アブタ会所はフレナイに移転しフレナイ会所ともよばれたが、やがてこの地をアブタと称し廃村となった旧アブタをトコタンとよんだ。1827年の場所請負更新期には和田屋の息子茂吉が請負人となり、のちに茂兵衛を襲名した。1854年再度幕府直轄地となるが、1849年頃に再び和田屋荘吉が請負人となるも1853年に有珠山が噴火し、アブタ会所はレブンゲを仮会所にして一時避難、後に請負人は岩田屋金蔵に変わっている。1855年に再び和田屋茂兵衛がアブタ・レブンゲ場所の請負人として復活、元治2年頃まで続いたが、慶応2年の盛岡藩支配時には米屋佐野孫右衛門、明治2年の請負人は泉州屋藤兵衛に代わっており開拓使への場所返上も泉州屋が行った。トコタンにあった墓碑が道路拡幅工事の時に歴史公園に移設されたという。松浦武四郎の蝦夷日誌ではフレナイであるがアブタと名乗るとあり、立岩と川を挟んで奥側に会所が描かれた図を残しているが、立岩は1977年の有珠山噴火の時に崩れたという。◇所在地:虻田郡洞爺湖町入江103 虻田歴史公園
◇N42°52’65.18” E140°77’75.89”

ムロラン(室蘭)地名発祥の地説明板 室蘭市 MAP

ムロラン地名発祥の地

 説明板の下部にモロラン会所の図があるので掲載したが、会所の説明はありません。以下は説明文の一部を転載です。「室蘭の名付け親は,松浦武四郎(1818~1888年)である。6回に及ぶ蝦夷地探検の際,1845年には噴火湾沿岸を調査し、さらに明治2(1869)年に明治政府の開拓判官となって「北海道」と命名、また道内の国郡名選定を行なう。彼は室蘭郡の命名の理由として「会所元ヘ何レヨリ行テモ チイサキ坂ヲ下ル故ニ此名有ニテ御座候」と、この地の坂路の印象を挙げている。かくて、時の太政官は明治2(1869)年に「このたび蝦夷地一円を北海道と称す」と布告,同時に胆振国室蘭郡(モロラン村など7ヶ村)も制定された。やがて、開拓使が明治五(1872)年、港と札幌本道建設の拠点としてモロランの小沼を選ぶが、着工直前に黒田清隆(当時の開拓使次官)の決断で対岸エトモ(絵鞆)側のトキカラモイ(現在の海岸町3丁目の港側)に変更となる。以来、この地は開港した「新室蘭」に対して「旧室蘭」と呼ばれるが,さらに地名発祥の誇りをこめて「元室蘭」と呼ばれることになり、現在は「本室蘭」と呼ばれている。町名としては現在「崎守町」と称しているが、これは室蘭の地を守る防人の心意気を伝えるものである。平成元年(1989)8月 室蘭市」元々は絵鞆(えとも)に交易所が開かれ運上屋もありかっては絵鞆とよばれていたが会所が移転。会所に行くにはどこを通っても小さな坂を下るのでモロランと呼ばれる事になったというのが地名の由来という事のようです。場所名としてはモロランが使用されるのは慶應年代からのようでそれ以前はエトモでした。大黒島でその名を知られている恵比須屋(岡田)半兵衛は嘉永から慶應にかけての場所請負人、最後の場所請負人は種田德之亟のようです。◇所在地:室蘭市崎守町338 崎守地域振興センター前 ◇N42°22’24.66” E140°55’31.53”

旧茅部街道 三軒茶屋跡石碑・説明板 森町 MAP

三軒茶屋跡

 JR函館本線東山駅の山側を通る旧茅部街道の国道交差部に近い所に「史跡 旧茅部街道 三軒茶屋跡」という石碑と説明板がある。室町時代末期に茅部場所が開設されると多くの漁師が出入りするようになり、函館近郊から街道筋の要所には宿屋や休憩所等があり三軒茶屋もそのひとつですが、この茶屋は特に賑わっていたという。茅部街道は改修されて札幌間本道となり、国道5号線の開通により「旧街道」となった。かつて茅部街道と呼ばれる主要道路でイザべラ・バードや松浦武四郎も通った道、武四郎の紀行文に三軒茶屋の記録はないが、茶屋という名が付く宿場は多く、駒ヶ岳がよく見えると記しているのもある。◇開駅年:詳細不明 ◇廃止年:詳細不明 ◇所在地:森町駒ケ岳39 ◇N42°03’57.24” E140°36’13.98”

蝦夷地とは性格の異なる会所

旧東エゾ箱館在六箇場所 臼尻会所跡石碑 函館市 MAP

臼尻会所跡

 木古内、鹿部、砂原、掛潤、鷲ノ木、茅部の六ヶ村で箱館の人びとが運上金を納めて請負っていたのを称して箱館在六箇場所というとのこと。臼尻は茅部に属するが臼尻会所の設置は場所請負制廃止後の開設なので行政機関としての色合いがつよいのかも・・明治9年3月より駅場取扱人とあり駅逓業務も取り扱ったようです。碑は函館市臼尻会館前にある。松浦武四郎の渡島日誌・巻の4に「此地昆布魚の盛んなる事、此近村をもて第一とする」と、仮家の屋根まで昆布干し場になっていて此を見た昔の人が松前では昆布で屋根を葺くと笑い話のような事も記してあった。◇開駅年:明治3年5月 ◇廃止年:詳細不明 ◇駅逓取扱人:詳細不明 ◇所在地:函館市臼尻町234-1 函館市臼尻会館前 ◇N41°93’35.44” E140°94’31.89”

能登屋会所跡石碑 江差町 MAP

能登屋会所跡

 文化13(1816)年に秋田出身の豪商、能登屋6代目「平井三右衛門」が町医者、本田快庵から庵・句碑と共に屋敷を購入し、それからこの坂道が「能登屋の坂」と呼ばれるようになったという。問屋会所だったようで能登屋会所と呼ばれ、建物は坂の中段にあり幕末から明治初期には旅籠屋で土方歳三や榎本武揚が仮宿したという。旅籠屋という呼称から豪邸を宿泊専門の駅逓としたものか? 明治5(1872)年の火災で焼失した。屋敷跡には文化11年に「本田快庵」の屋敷内に建立され、昭和6年に鴎島の厳島神社境内へと移された芭蕉句が、建立されてから202年を迎えるということで里帰り、また火災により風化が進み修復困難ということもあり新たに句碑が建立されている。坂の入口の道路上に「能登屋の坂」の表示があるので判りやすい。◇所在地:江差町字姥神町 ◇N41°51’59.76” E140°07’28.06”

大野会所跡説明板 北斗市 MAP

大野会所跡

 説明板より「1805(文化2)年、大野は幕府の手により諸国から集められた農民500人によって庚申塚(本郷)に90町歩(90ha)、文月に50町歩(50ha)が開田された。それには箱館奉行の山田鯉兵衛、村上次郎右衛門、石坂武兵衛、代島章平らの役人が当たった。広い敷地内に開田の役所である会所を置いた。それが後に大野小学校の敷地になったのである。周辺には多くの杉がそびえていたが、その大木の切り株の一つがこれである。文化財指定になっている「大野村絵図」には元御本陣跡と記され、会所の建物のあった所が示されている。以下省略 平成6年10月 大野町教育委員会」とあり東西蝦夷地に開設された会所とはその役割が異なるものです。松浦武四郎の紀行文(渡島日誌)に「人家132軒、文化度97軒、小商人5,6軒、はたごや有」「本郷村人家28軒、当時(安政3年)36軒、是大野村の本郷地と云えり」とあり、内陸部にある集落としては大きかったようです。また「竹四郎廻浦日誌」では「当所に会所あり、通行人皆此処で止宿す。此村人馬継立は十ヶ村にして継立る也」と当時の宿駅としては規模が大きかったようです。◇開設年:文化2年? ◇廃止年:明治5年 ◇所在地:北斗市大野町 ◇N41°53’10.67” E140°38’27.00”

探索不発の運上屋(会所)跡

 瀬棚町は瀬棚運上屋と駅逓跡の史跡表示板は設置予定のままいまだに設置されていない。登別市の旧ホームページで史跡と幌別会所跡が紹介されていたが、会所跡付近は陸橋工事等で地形が以前とは変わっており既に失われたようです、白老関連で野口屋又蔵功績碑を追加しました。また直接関係ある人物の顕彰碑などがあれば紹介していきます。

江戸期の駅逓(会所・通行屋・番屋)ギャラリー

千歳川会所跡-02静内会所跡碑-02新冠会所跡-02勇払会所之跡-02山越内会所・井戸山越内関所-01
山越内駅・関所有珠会所跡-02ムロラン地名発祥の地-02三軒茶屋跡-02森桟橋跡上昆布駅逓所跡
白老会所跡-02山越内関所跡-03和田屋茂兵衛墓碑-02紋別場所藤野番屋跡-02三軒茶屋跡-03臼尻会所跡-02森桟橋記念碑野口屋又蔵功績碑
コンテンツ内容の修正と新規に写真を追加しました。
横走り pagetop  戻る  先へ

駅逓(記念碑)を巡る旅

松浦武四郎の碑を巡る

日本海にしん街道碑

道北,道東・特集編

掲示板 BBS

  • NEWゲストブック
  • 更新情報TXT掲示板
  • 新着情報画像掲示板

リンク集 My Links

W3C準拠 RSS配信

正当なCSSです!

W3C準拠で作成しています

rss10 rss20

相互リンク

ウエブリンク

カニ一番

カニ一番01

楽 天

楽天・季節特選  楽天・ファミリー市場  楽天・アウトドア市場 

サイトバナー

道北の釣りと旅-baner-2