松浦武四郎の碑を巡る
オホーツク&十勝・松浦武四郎の碑や説明板など‼

松浦武四郎踏査跡地 北見市 MAP

北見市小町泉通

江戸時代の探検家松浦武四郎がロシアの南下に備える蝦夷地調査の為、川舟で常呂川を遡り北見盆地に到ったのは1858(安政5)年5月13日で今から150年以上前。また当地のアイヌが置かれている惨状やアイヌの人たちの氏名等が克明に記録に残されている。常呂内陸部が文献の中に出てくるのは、武四郎の登古呂誌が最初であり、北海道の名付け親でもある松浦武四郎がオホーツク沿岸八郡の広域区画名として提案した「北見国」元となって市政施行時に野付牛村から北見市に変更している。そういう意味では武四郎は北見市の名付け親ともいえるでしょう。
◇北見市小町泉通 ◇標高 62m N43°47’40” E143°54’60”

松浦武四郎初踏査の利用河川北見市 MAP

北見市光葉町 中の島公園

案内板によると「当地が歴史上の記録に初めて登場する事となったのは松浦武四郎によってです。幕府により東蝦夷地(東北海道)の調査を命じられ、最後の蝦夷地踏査に出発したのは安政5年1月で3~4月には帯広・釧路・阿寒・津別・美幌と経由し、斜里廻りで太平洋岸の厚岸に行き、再度知床半島を舟で周廻して、斜里から陸路網走に入り1858(安政5)年5月13日トコロコタン(常呂市街)に到着している。北見への行程は翌日の5月14日常呂川を舟で遡りクトイチャンナイ泊、5月15日に野付牛村(端野)に達し、更に5月16日には同中の島・北光附近を経て訓子府町日の出附近に達している。常呂川は流木による塞がりが所々にあり途中から陸路での踏査で有った様だ。5月18日には常呂に戻っている。以後湧別を経て宗谷に達し、これより道央部を南下して浦河、室蘭を経て8月21日箱館に帰還、全行程240日に渉る大踏査を終える。」とありました。凄いと言うしか言葉が見つからない。
◇北見市光葉町 中の島公園 ◇標高 61m N43°47’27” E143°54’08”

紋別場所 又十番屋御用所跡史跡標柱 紋別市 MAP

紋別場所藤野番屋跡

 場所請負の経過は斜里で書いてあるので省略するが、経営は徹底した植民地経営方式だったようで石狩とともにアイヌ民族の疲弊が最も激しかった地域で、国後に送られたら生きて2度と帰れないとアイヌの方には恐れられていた。こうした酷使に対して、1857(安政4)年10月に箱館奉行所が「最もアイヌ使役の烈しい場所」として、石狩、天塩とともに紋別の請負人に酷使禁止の論書を出すという処置をとったが効果はあったとは思えず、オホーツク海側と離島はアイヌ民族の疲弊が最も激しかった地域でした。場所請負制廃止で当時の請負人山田善吉から場所返納されたが、オホーツクでの漁が不振な事と交通不便な所で場所経営が困難なため、漁場持を引き受ける者はいなかったという。北見方面で場所請負人の力を借りずに蝦夷地開発を推し進める事が困難と考えた開拓使は又十藤野伊兵衛に頼み込んで漁場持になってもらったようだ。
◇所在地:紋別市弁天町 ◇N44°35’61.91” E143°36’02.40”

松浦武四郎宿泊之地美幌町 MAP

美幌町字都橋 峠の湯峠の湯びほろ

松浦武四郎は美幌町に1858年に二度訪れている。以下は美幌町郷土史研究会の編集した「北海道を探検した男 松浦武四郎」から一部抜粋で『第6回目の蝦夷地調査で釧路を出発した武四郎は1858年5月13日5月14日にかけて、美幌の地を訪ねています。釧路より根北峠を越え、網走川沿いに津別町に入り豊幌付近の"ワワウシ"と呼ばれる地点で網走川を渡り豊幌川、アヤメ川、魚無川、駒生川、駒の沢川から美幌川を越え、現在の都橋地区にあったと推定される集落(アシリコタン)に一泊。更に同年6月20日には網走川を船で遡りヘテウコビで一泊した後再び網走川を下っている』とあった。戊午日誌では「人家三軒ばかり山の間の十丁計り平目に住す。是を則アシリコタンと云」と、又「人家三軒で一村をなしぬ」とも、そのアシリコタンで古老シユイベリキン家に宿泊し、最上徳内、近藤重三の事や間宮林蔵への随行時の話を聞く、また大塚惣太郎が逗留していた事など先人達の事を聞く事が出来て「一夜をおもしろく明しぬ」と書いた。「詳しくは戊午日誌の東部安加武留宇智之誌参を参照」※久摺日誌には人家六軒、シユイベリキンより新しい笠をもらったと有る。美幌町博物館では第19回特別展「北海道を探検した男 松浦武四郎」で作成した同タイトルの書籍を販売しています。
◇所在地:美幌町字都橋 峠の湯峠の湯びほろ前 ◇N43°48’13” E144°10’02”

大空町の松浦武四郎碑再建か

かつて旧女満別町では安政5(1858)年に松浦武四郎通過が通過したと考えられるルーサンなど三カ所に木碑を設置したというが、10年ほど前に判読不能になっていた「ルーサン」と思われる標柱が残っていただけで他の碑は確認できず消滅したものと諦めていたが、大空町の開基10周年記念事業で平成28年の秋に石柱で再建するという情報がある。ただ詳しい内容はわからないのでしばらくは様子見です。再建されたら駆けつける予定でいます。

又十藤野網走分店跡網走市 MAP

斜里運上屋・網走藤野番屋

初代藤野喜兵衛が網走に番屋を設置、網走で和人が本格的に漁業をはじめた最初の根拠地という。番屋は平屋で間口28間、奥行8間5尺、248坪(818㎡)と云い、幕末から明治の頃には戸長事務所、郵便取扱所、通行屋(後の駅逓)があったようです。又十藤野は文久2(1862)年に会津藩より斜里場所請負人を罷免されるが網走場所は直轄領として残された。藤野網走番屋は斜里運上屋の支配番屋だったので、斜里場所請負人罷免後は網走番屋が又十藤野の拠点となったようだ。明治6(1873)年に漁場持として斜里も復活するが、明治9(1876)年に漁場持が廃止され、又十藤野は一漁業経営者となります。ここも武四郎の宿泊地の一つだったようです。又十藤野網走分店(網走運上屋)があった白田鋸店の駐車場の端に史跡標柱がある。
◇所在地:網走市南4東6 ◇N44°01’18.01” E144°16’36.49”

知人岬跡 網走市 MAP

知床岬跡・しおさい公園

網走の市街地と網走港、帽子岩、はるか彼方の知床が一望できるしおさい公園にに知人岬跡の標柱がある。碑文より「岬の名はアイヌ語の陸地の突き出たところシレトに由来する。松浦武四郎の西蝦夷日誌にも記され、後に知人の和名が当てられた。明治35年にポンモイへの道路開削のため突端部が爆破され、後に大量の砕石によって幻の岬となった」と、大量の砕石は港湾工事に使用する為だったようです。北海道では知人、知床などの地名が時々出てきますがその殆どは岬の地形で、松浦武四郎の西蝦夷日誌巻の6草稿、(アバシリ領)に「シリエト岩岬此処崖下大難所」とあり、碑文の西蝦夷日誌にも記されとあるのはこれか? かつてここにコロポックルが住んでいたという洞窟があったというが、二重の意味で伝説となってしまいました。ポンモイの柱状節理の場所も同じように採石された跡のようです。◇所在地:網走市台町2丁目70番地 しおさい公園

斜里運上屋跡標柱と説明板 斜里町 MAP

斜里運上屋跡

近江商人の藤野家が箱館や松前を本拠地に海運業から場所請負に乗り出したのは文化年代からという。斜里場所は1790(寛政2)年に宗谷場所より別れ村山伝兵衛が場所請負人となるが、村山家没落後は藤野家の請負となる。文化4年に幕府が西蝦夷地を直轄地とした時は運上屋の名称に変更はなくそのままでした。藤野家は1806(文化3)年に上下ヨイチ場所請負人となったの始めに、1808(文化5)年、栖原三右ヱ門・伊達林右ヱ門と共同で斜里・宗谷場所(ソウヤ,エサシ,モンベツ,トコロ,アバシリ,シャリ)請負人、1817(文化14)年・国後場所請負人、1823(文政6)年に利尻、礼文場所請負人、1832(天保3)年に根室場所請負人、根室場所は藤野家最大の経営基盤となったとされる。1859(安政3)年には網走場所請負人とオホーツク側では藤野家の独壇場という感じでした。明治5年に又十藤野家が斜里の漁場持になり駅逓取扱も又十藤野家に変わっているが明治末には撤退しているようです。松浦武四郎は弘化3年、安政3年、安政5年に斜里会所にて宿泊。弘化3年には知床岬先端まで行き、戻って斜里から交易船で利尻に渡った。
◇所在地:現住所:斜里町港町8-28

松浦武四郎歌碑斜里町 MAP

斜里町宇登呂 公共駐車場

管理人が20~30歳代の頃に釣りや登山目的で知床に通い続けたが、当時の道路は宇登呂で行き止まりでその先は人が通れるだけの素堀のトンネルで道がついていた。今では高台に大型のホテルが建ち並び当時の面影を残すのは三角岩やゴジラ岩、オロンコ岩だけと云う感じだが、そのオロンコ岩をトンネルで抜けた先の公共駐車場に松浦武四郎の歌碑と説明板が有ります。松浦武四郎は6回の北方探検をしているがそのうち知床には3度訪れ貴重な記録を残している(詳しくは秋葉實編“知床紀行”を参照されたい)碑は松浦武四郎没後百年を記念し建立され“山にふし 海に浮寝のうき旅も 馴れれば馴れて 心やすけれ”と刻んである。宇登呂は武四郎の宿営地でもあり「ウトルチクシ。名義、岩間を舟が越る義か」と記している。近くに森繁久弥の知床旅情の碑が有り観光客を集めている。◇斜里町宇登呂 公共駐車場 ◇N44°04’27” E144°69’29”

又十藤野(東出)番屋跡漁業発祥の地の由来 斜里町 MAP

ウトロ藤野番屋跡

説明板では安政5年に当地に宿泊した松浦武四郎の日誌から引用している。安政5年当時はウトルチクシ(宇登呂)とホロベツ(幌別川付近)に番屋があり元々の規模は梁4間・桁6間だったようですが、ウトルチクシの番屋では秋田家が来るとのことで桁1間を継ぎ足し梁4間・桁7間にした(宿泊用の増設?)という。番屋以外ではウトルチクシに備米蔵と雑蔵、ホロベツには雑蔵と雇蔵があったという。安永4(1775)年に飛騨屋久兵衛がソウヤ場所請負、下請けしていた三代目村山伝兵衛が斜里に漁場を開設したのが最初のようですが、ウトロに関しては記録が見当たらず。
◇所在地:斜里町宇登呂 知床グランドホテル北こぶし 前庭
◇N44°07’21.49” E144°99’45.93”

松浦武四郎野宿之地碑新得町 MAP

新得町北新内西6線185

1987年に新得町郷土史研究会が記念碑を建立した。宿営地はキャンプ場の有るサホロ湖より林道に入り新幌川を越えた近くでサホロ湖からは3km前後で稗の入り口となる説明板が有る。稗は徒歩で往復約10分程度、熊除けの鈴はお守りで持参の事。安政5年3月13日に固雪を踏みしめての十勝行きでシノマイサヲロ、シンノシケクシサヲロ、バナクシサヲロを経てサヲロに入りここで野営、十勝へ入っての最初の宿営地がサホロ湖の北側にある新得町北新内で有った。途中で道筋を間違え空知側に下ったようであるが、川の底の様子が違う事で間違いに案内人が気づき引き返してサヲロに入っているが、武四郎は半信半疑の様であったが「其川底の平磐なるを見て驚嘆致したり」と彼らの実力にいたく感動。彼らなしに十勝越は不可能だったろう。
◇新得町北新内西6線185 ◇標高 350m N43°12’01.4” E142°40’54.2”
◇新得町北新内西6線185 ◇入口説明板 N43°12’03.5” E142°48’40.1”

松浦武四郎宿泊の地碑清水町 MAP

清水町人舞人舞 岸田牧場内

道道718線を屈足方面から木野(音更)方面に進むと左側に岸田牧場と松浦武四郎宿泊の地の標柱が有る。碑は岸田牧場内に有るので必ず一言かけてください。入り口から約150mで徒歩となります。☆安政5年(1858年)蝦夷地山川地理取調の命を受けた松浦武四郎が飯田豊之助を伴い上川から山越えしサヲロに入り1泊、翌日は十勝川上流へ出て調査した。その後佐幌川に戻りニトマフのアラユクというアイヌの長老宅で宿泊。十勝日誌によると、武四郎が以前の旅の道中で知り合ったアラユク家の二男と再会し、彼が一族に“武四郎は樺太の北方まで行ったことがある人”と紹介。武四郎が樺太のことを詳しく話すと、長老らは大いに喜び、一夜の旅情を慰めもてなしてくれたと云う。☆説明板には「安政5年(1858年)徳川幕府函館県産、蝦夷地山川調査係松浦武四郎が命により、飯田豊之助を同行し、狩勝峠を越え十勝川に沿って字人舞基線13号(当時はニトマフ)にたどりつき、和人住居前の先住民族として清水町に居住していた酋長アラユクが礼を厚うして一夜の旅情をなぐさめた場所といわれている。アラユクの嫡孫サンクルの証言と松浦武四郎の紀行文「十勝日誌」の対照により、史実として確証を得、昭和12年6月30日「史跡標」を建設、以後昭和27年再建し、昭和49年碑文を加え建立した。」と有った。
◇清水町人舞人舞基線78 岸田牧場内 ◇標高 156m N43°03’34.5” E142°55’07.4”
◇清水町人舞人舞基線78 岸田牧場内 ◇入口標識 N43°03’31.0” E142°55’01.0”

松浦武四郎歌碑音更町開拓記念碑 音更町 MAP

音更町鈴蘭公園

鈴蘭公園は音更町南端の高台にあり以前は『音更公園』と呼ばれていました。松浦武四郎は858年(安政5年)3月、札幌から十勝入りしての踏査、4月には富良野から十勝越えの踏査、8月には十勝川流域精査をしているが、この時は広尾から芽室、然別を経て音更に入り8月27に総乙名シラリサ宅に一泊、シラリサは利別に行っており不在であった。十勝日誌では「此のあたり 馬の車のみ津きもの 御蔵建てて つまま欲しけれ」と長老宅の家の柱に書き留めたとある。歌碑は1919年(大正5)に帯広開町25年記念として建立されたと云うから道内に有る松浦武四郎歌碑として年代物です。ただ松浦武四郎への評価は釧路と似ており、当時としてはそれが一般的な武四郎評だったのかもしれない。ここではもう一首「何事も 旅はたらはぬ ものなりと なき魂も 心してませ」と詠んでいる。「戊午日誌」によると総乙名シラリサ宅に泊まる事にしたのは息子と懇意にしていたからと云う。食料などもここまで運ぶ様に手配していたがまだ届いておらず、翌日に十勝川を下っている途中の猿払川手前で食料を積んで遡ってきたシラリサに出会う、武四郎の誘いでシラリサは止若まで同道、武四郎一行は止若の乙名イキリカン家にて大宴会を張ったという。
◇音更町鈴蘭公園 ◇標高 75m N42°56’36.9” E143°12’04.5”

チホマトー慰霊碑帯広市 MAP

チホマトー慰霊碑

1858年3月16日に松浦武四郎が十勝日誌に記したのが最初の記録のようです。戊午東西蝦夷山川地理取調日誌には「チヨヽマトウ 谷地中に小沼一ツ有。此水赤くなり手本川え落」と記している。チョマトーは、1800年頃の古戦場伝説の地とされ、北見アイヌ(または日高アイヌ)が十勝アイヌを攻撃したことに始まる。その時は十勝アイヌが敗れたが、約70年後の再戦では北見アイヌが劣勢に立たされチョマトーに避難、鳥を捕獲して食べていたところ十勝アイヌに包囲され沼に飛び込んだとされる。「チヨマトウ戦没者慰霊碑」が建立されているのはそれにちなんでいるという。最初の建立は1927(昭和2)年だが、健在あるのは2004(平成16)年の道路工事に伴い三度目の更新で新しく記念碑が建てられた。◇所在地:帯広市西16条北1丁目 チョマトー公園

松浦武四郎歌碑中札内村 MAP

中札内村西札内 防災ダム桜公園

歌碑・像ともに平成9年8月9日、国際先住民の日に西札内地区先住民族を語る百人委員会の方が西札内公園に建立したもの。一本山展望台の麓、西札内防災ダムの下流にあり、東屋なども整備された綺麗な公園でディキャンプも可能です。西札内公園には幕末の探検家である松浦武四郎が1858年旧暦7月12日に大樹より西札内のサツナイコタンに訪れ札内川左岸のサツナイコタンの乙名マウカアイノの家に一泊した時に詠んだ詩碑が有る。“此のあたり 一夜かりても 鹿の音を 今宵は近く 聞かましものを 伊勢 松浦武四郎”鹿の絵が彫られている。サツナイウンクルの祖の像については「1500年ころイシカリ ペペツ(美瑛川辺別)の人 モザルックがサツナイに住いしサツナイ族の祖となれり 先住民族アイヌの人々が和人の侵入で受けた苦難の歴史を偲びここにその像を建立し遺徳を讃える」と記されている。
◇中札内村西札内 防災ダム桜公園 ◇標高 273m N42°38’30” E143°04’15”

十勝発祥之地の碑大津郵便取扱所 豊頃町 MAP

十勝発祥之地の碑

1798(寛政10)年に東蝦夷地を幕府直轄となり、翌年の寛政11年に駅馬を十勝に送り、これを茂寮(広尾)と大津の2カ所に分けて、場所請負人の通行量において行客の便に当らせたとある。文化3年には大津に駅逓所の前身とも云える止宿所(通行屋)があったという。最後の十勝場所請負人、箱館の福島屋杉浦嘉七の雇人となった青森県人・堺千代吉が大津に漁場を開いたとされる1863(文久3)年が大津最初の和人定住年という。維新後に十勝会所は廃止となるが漁場持として駅逓は継続していたと思われ、北海道宿駅制の研究に広尾と大津ともに「杉浦某駅逓を兼ね扱う」とある。明治7年に福島屋杉浦嘉七が漁場持を返上すると、若松忠次郎は福島屋を離れ官の勧めもあって、もと杉浦嘉七の雇人であった山崎勘之肋、同じくもと杉浦嘉七の雇人で縁戚の堺千代吉、およびアイヌ代表とはかり明治8年に十勝漁業組合を組織、その十勝場所経営は従来の場所請負制を延長しているようで、その経営は排他的でアイヌを使い暴利をむさぼっていると批判され開拓使が明治13年に解散をさせた。十勝漁業組合が解散時に清算した利益は現在の貨幣価値で数億円に相当し的外れな批判ではなかったようだ。十勝発祥の地碑は道道320号旅来大津線の突き当たりに建立されている。安政4年に松浦武四郎は石狩川を遡り、山脈を越え十勝川を下りゴールしたのが大津番屋でした。◇所在地:豊頃町大津寿町6

チュクベツ渡船場跡地図へ

チュクベツ渡船場跡

説明板に登場する松浦武四郎は弘化2年、安政3年と安政5年に直別を通過し記録に残しているが、説明板にあるのはその引用のようです。内容は史跡表示板でご確認を。チュクベツという名前からすると昔からサケの遡上する川だったようです。直別駅逓は北海道宿駅(駅逓)制の研究によると明治17年4月開設で明治21年4月廃駅、駅逓取扱人は高島文造となっている。渡船場は直別川の河口付近にあったが河口部にいく道はありません。したがってチュクベツ渡船場跡の史跡表示板はJR直別駅より浦幌寄りで国道38号線と道道1038号線の分岐部、ドライブインミッキーハウス(ライダーハウス)の一角にある。◇所在地:浦幌町直別西1線

当縁番屋跡通行屋跡 大樹町 MAP

当縁番屋跡

 浜大樹から当縁川河口方面に進むと、当縁川右岸の先端部付近台地上に「当縁番屋」跡がある。大樹町設置案内板の文字は殆とが判読不能の状態で、何とか享和二年ごろ美楼会所の設置と書いてあるように見えた。美楼、ビロウは広尾の旧名で、松前領時は運上屋、幕府直轄時は会所、幕末時は十勝会所と称していた。松浦武四郎の蝦夷日誌(初航)に「トウブヘ...馬有。継立ニなる也。非常御備米蔵、弁天社、運上屋。勤番通行上下とも止宿になる。勤番クスリ支配也。夷人小屋廿」とあり、東蝦夷日誌では「前に土手有、是は南東風を防ぐ為也」と記されている。番屋と称しているが東蝦夷日誌では運上屋となっているのでそれなりに大きな建物だった様に思え、それをが証明するかのように土塁のような土手の大部分が残っている。松浦武四郎は弘化2年の6月頃と知床岬・納沙布岬を巡った帰り、安政5年の十勝踏査の帰りに当縁番屋に泊まったと思われる。
◇所在地:大樹町当縁 当縁川河口付近 ◇N42°30’20.79” E143°27’27.90”

ビロウ運上屋跡史跡標柱 広尾町 MAP

ビロウ運上屋跡

十勝場所の設定年代は詳らからではないが寛永12年の松前藩による戸賀知金田の開設と同じ頃と考えられている。寛政11年に松前藩領から幕府直轄地となり運上屋は会所に改められ、ビロウ運上屋も十勝会所と改められた。運上屋は享和年間(文化年間?)に崖下から高台に移転、運上屋跡は崖下で十勝会所跡は高台となり少し離れている。広尾町の海岸通りに高台への避難階段が有りその登り口に史跡標柱がった。松浦武四郎の宿泊は十勝会所の年代になるが、蝦夷日誌では「弁天島という小島が前に有る」と記し運上屋となっていたが、当時は幕府直轄前で当地では運上屋という呼称も使われていたものか?廻浦日記、戊午日誌では会所となっている。
◇所在地:広尾町海岸町 ◇N42°28’38.59” E143°31’97.49”

十勝会所跡広尾町 MAP

十勝会所跡

 十勝場所の経過は大津やビロウ運上屋と重複するので省略。他の会所には無い特徴として酒造が試みられていたとの事知られているが標柱に酒造に関する表記はない。最後の十勝場所請負人は箱館の福島屋杉浦嘉七、維新後に会所は廃止となるが漁場持として駅逓はそのまま継続していたようです。松浦武四郎は弘化2年と安政5年に宿泊、2度目の十勝内陸部踏査の起点になった地です。
◇所在地:広尾町会所通り ◇N42°17’06.14” E143°19’10.92”

松浦武四郎の碑・説明板・関連ギャラリー

斜里町宇登呂藤野宇登呂番屋跡藤野宇登呂番屋説明板チホマトー慰霊碑・碑文当縁番屋跡・当縁河口松浦武四郎野宿之地碑2
松浦武四郎野宿之地説明看板松浦武四郎野宿之地説明文清水町人舞人舞基線78(02)清水町人舞人舞基線78(03)清水町人舞人舞基線78(04)十勝日誌の挿画
音更町スズラン公園中札内町・西札内防災ダム公園-02中札内町・西札内防災ダム公園-03中札内町・西札内防災ダム公園-04羅臼町字共栄桑田立斎のアイヌ種痘之碑
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