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駅逓跡と記念碑を巡る旅
十勝地方の駅逓所跡や記念碑などを巡る旅‼

十勝地方の駅逓碑

十勝方面での駅逓所設置の始めは、寛政11(1799)年大津駅逓所で、駅馬が配置されていたが官設駅逓所となったのは明治8(1875)年で広尾駅逓所も大津と同年代という。寛政時代を起源とする広尾、大津の駅逓所を除くと湧洞が最も早く(官設になったのは明治17年から)次いで明治11(1878)年10月に開設された歴舟駅逓所が最も早く、昆布刈石が同23(1890)年5月が早い開設となる。内陸に駅逓所の設置がすすめられていくのは茂岩(現在の豊頃町)が明治26(1893)年頃、大津街道の要所にあって利別太(現在の池田)、幕別、帯広方面入植の拠点となっていく。利別太は明治33年、ケナシバ(蓋派、現在の本別町)は明治35年の開設、本別は篠原相松が明治33年に開設、足寄太(現在の足寄町)は明治35年でトマム駅逓所と同年、パンケトブシ(足寄町下斗伏)は明治36年の開設になる。石狩から山越えしての十勝内陸部は、新得駅逓所が明治32年、ペケレペツ駅逓所(清水町)は明治32年、芽室駅逓所が明治33年の開設。最後の駅逓は生花苗駅逓所で昭和21(1946)年8月31日に廃止となっている。北方資料デジタルライブラリーの「十勝国全図(大正4年)・日野間測勝館発行」には駅逓追加書き込みが多い。更に旧地形図や植民区画図、当時の移住案内図などにも駅逓マークがあるので参考にしている。ただ旧地図で信頼出来るのは三角点程度で今は地形が変わっている事も多く参考程度としておくのが無難十勝地方の駅逓碑では士幌町、足寄町、大樹町に立派な駅逓碑があるが、それらは全て駅逓取扱人の末裔とその協力者によって建立されたもので、市町村によって設置された史跡としての石碑は更別村だけのようです。史跡標柱や説明板を含めるともう少し増えるが十勝開拓の中で駅逓の果たした役割からすると、駅逓の存在価値は過小評価されているような感じもする。

新内駅逓所跡史跡標柱 新得町

新内駅逓所跡明治31(1898)年~明治32(1899)年に開削された旧石狩道路(十勝国道とも)は落合~串内~パンケ新得~広内~清水石山を通る道で十勝越え、石狩越えとも呼ばれたが、明治40年に日本国有鉄道の落合駅~帯広駅間が開通して旧石狩道路の通行は減少、狩勝ルートは昭和6(1931)年に開削され昭和27(1952)年に国道38号に昇格。狩勝峠の呼称は北海道官設鉄道の鉄道敷設部長田辺朔郎がルート選定のために佐幌岳周辺を踏査した際に旧石狩国・旧十勝国から一文字ずつ取って「狩勝峠」と命名しという。通称・狩勝線のトンネルを抜けると眼下に十勝平野を一望でき「日本三大車窓」の1つとされ、狩勝(鉄道)峠が昭和2(1927)年には「日本新八景」に選定され往来する旅人も増え、昭和3年に時の村長、佐藤伊久馬氏が河西支庁長(現十勝支庁長)に請願し翌昭和4年に新内官設駅逓所が設置されたもので、観光誘致的な目的を含み従来の駅逓とはやや趣を異にする。取扱人は福本義雄氏で、官馬1頭、私馬4頭、馬車1台、建物約約165平方mを有していた。昭和6年に新内から落合に通じる新道が開通、既に鉄道が開通している事もあり昭和31年に廃駅、その後は新内郵便局として再設置された。昭和41(1966)年に狩勝線区間は急勾配をなど緩和した新狩勝トンネルを経由する新線に変わり新内駅も廃駅、昭和54(1979)年まで狩勝実験線として使用された後の集落は離散、消滅。旧新内駅は旧狩勝線ミュージアム、蒸気機関車(59673号)、国鉄特急形寝台客車(20系)の展示、エコトロッコ基地として公園となり、新内駅跡を経て旧狩勝トンネルに至る約17kmが旧狩勝線フットパスとして整備されている。旧新内駅前(今の新内駅カフェ裏)に「新内駅逓跡この先80m」の標柱がある。旧新内駅前から直線の林道(旧道)を下っていき、直線の終る所が新内駅逓所跡。新内駅逓所の廃止後は郵便局だったというかつての小市街はその痕跡もなく自然に戻っている。◇開駅年:昭和04年10月 廃駅年:昭和13年09月 ◇初代取扱人:福本義雄 ◇所在地:新得町新内西5線  記念碑:史跡標柱 ◇N43°15’87.89” E142°81’43.11” Google Maps で任意の緯度経度を指定して開く(マーカー付き) ◇G.MapsG.Maps MAP MAP

新得駅逓所跡史跡・由来表示板 新得町

新得駅逓所跡明治31年11月に帯広から旭川へ通じる道路(旧石狩道路・落合~串内~峠~パンケシントク~広内~清水(ペケレベツ)で串内や広内の林道は旧道のの一部)が開かれ、新得8号線との合流点に官設パンケシントク駅逓所が開設されている。パンケシントク駅逓所は官馬7頭に馬車1台を保有して運営され、明治33年に新得駅逓所と改称。部屋は旦那衆用12畳1室で一般の旅人には開放しなかったと、また一般用として6畳、8畳それぞれ1室の3部屋があったという。オダッシュ山登山口方向に進みオダッシュアンダーパスを潜りぬけ直進、突き当たりを右折するとまもなく左手にオダッシュ山登山口、その登山口を通り越し300m程進んだ右手に新得町が昭和58年に設置した「新得駅逓所跡の由来」標示板がある。この林道は春先ならば徒歩でなら串内に抜けられ(串内牧場の許可は必要)るようです。◇開駅:明治32年08月 ◇廃駅:明治41年02月 ◇初代取扱人:鎌谷与七 ◇所在地:新得町広内8号? ◇N43°04rsquo;06.0” E142°46’12.6” ◇G.MapsG.Maps

ペンケ沢駅逓所跡史跡標柱 新得町

ペンケ沢駅逓所跡十勝川上流での造材や昭和14年着工の岩松ダム工事などで人の往来も盛んで、大正15年に官設駅逓所としてペンケ沢に開設された。取扱人は岩野浅次郎氏で官馬2頭と宿舎42坪を有し、別に牧場として55町歩を所有していた。昭和18年に廃駅なるが民営で昭和23年まで運営されていたとの事で北海道最後の駅逓かも。昭和61年に「ペンケ沢駅逓所跡」史跡標柱が新得町により設置されている。史跡標柱は道道718号線沿いのペンケニコロベツ林道入り口と道を挟んで民家脇にあり最近更新されたようです。隣に「上川灌漑遺構」の史跡説明板がある。 ◇開駅:大正15年03月 ◇廃駅:昭和18年08月 ◇初代取扱人:岩野浅次郎 ◇現住所:新得町岩松 ◇N43°10’23.6” E142°55’02.3”

クテクウシ駅逓所跡説明板 鹿追町

クックガルデン国道274号線と道道133号線のと交差点近に隣接する「クックガルデン」は、クテクウシ駅逓を模して建設された観光施設で地元住民の特産品販売所でそば店も営業している。「クックガルデン」のヒサシの内側(屋外になる?)に、クテクウシ駅逓とウリマク駅逓看板の写真が配置された説明板、鹿追町内の駅逓配置図や鹿追4駅逓の説明書きがあり、当時の面影を残している唯一のものかもしれない。同施設敷地内に新、旧の「鹿追発祥の碑」が建立されている。1909年に鹿追から清水間、1911年には鹿追から音更間の道路が開通し下鹿追は交通の要衝となった事で入植者が増え交通量も増大、大正3年に駅逓が下鹿追に開設され取扱人は藤井九助氏でした。藤井氏は岐阜県出身で移民団を結成、団長となって明治29年に河西郡美生村に入植、ついで明治37年に屈足村に移住し開拓に従事。官馬3頭と自己所有の馬3頭であったという。鹿追ではテクウシ駅逓所以外に駅逓跡周知工作物は設置されていない。クテクウシ第一号の定住者は1902年の山田松次郎氏で然別川に架かる紅葉橋下流付近に入地したという。 ◇開駅:大正03年03月 ◇廃駅:大正15年07月 ◇初代取扱人:藤井九助 ◇現住所:鹿追町鹿追南1線8番地 ◇N43°05’00.1” E142°59’43.7”

中士幌駅逓所史跡標柱・説明板 音更町

中士幌駅逓所駅逓は入植者や旅人の交通の便を図るために設置され、宿泊や物資を次の駅逓まで馬で運んでいました。宿風に建てられた厩舎もありました。明治25(1892)年に下帯広村に官営駅逓が設けられて以降、内陸部にも置かれました。音更初の駅逓として、明治41(1908)年に市原勇吉が中士幌駅逓を設置。「人馬継ぎたてと旅人宿」として、牝馬3頭を配置し、大正末期まで運営されました。中士幌八号の駅逓とも呼ばれていたようですが、郵便物も運んだと有り郵便継立も併設されていたと思われる。奥地開発の重要な中継地で、北に「寺町」(現士幌町「美濃の家」付近)が形成され、この「寺町」は推定戸数90戸、人口500人で、帯広以北随一の繁華街だったと云い当時の幹線道路は旧街道となり音更から士幌町の史跡が道路沿いに点在している。◇開駅年:明治41年05月 ◇廃駅年:大正14年09月 ◇初代取扱人:市原勇吉 ◇所在地:音更町東音更幹線62番地1 ◇GPS:N43°04’59.5” E143°12’27.8”

上士幌駅逓所史跡説明板 士幌町

上士幌駅逓所西2線35号の上士幌駅逓が最初で足寄(喜登牛)を経て十勝、帯広方面へ抜ける要路に有った。しほろ史跡イラストマップに掲載されたいたかつて設置したという標柱は早くに消失していたが、平成元年に再指定(士幌町の史跡は殆どが再指定されて説明看板が設置された)され、再建されている。説明版は上士幌町との境界に近い西二線道路際にあり高さもそれほどないので目立たない。駅逓舎は説明版の有る位置ではなく、説明版の前方100m程前の畑の中にあったと地元の方に聞いている。 ◇開駅:大正03年12月 ◇廃駅:昭和02年06月 ◇初代取扱人:星屋友治 ◇二代:星屋友重 ◇現住所:士幌町字士幌西1-218 ◇GPS:N43°12’47.0” E143°15’35.0”

上音更駅逓所跡石碑 上士幌町

上音更駅逓所跡地名も駅逓名も上音更だが行政区は上士幌町に属しているが、河東郡全体が音更村であった頃の名前が駅逓碑に残ったようだ。十勝には立派な石碑の駅逓碑が3カ所あったが、その碑は総て取扱人の血縁者によって建立されており、この碑もその一つで、市町村による石碑設置は更別村以外では見かけなかった。上音更駅逓所跡の碑は谷中仁太郎氏の末裔と地域の協力者によって昭和54年設置、旧上音更小学校(現・上音更コミュニティセンター)付近の防風林際の畑入口にあったが、近年になって最初の場所から防風林寄りの畑角地隅に移動したようです。昭和9年に廃駅となった後は旅館を営業されていたようですが詳細はわかりません。碑は目立つ場所ではないので草が伸びていると見落とすかも。◇開駅:昭和02年12月 ◇廃駅:昭和09年09月 ◇初代取扱人:谷中仁太郎 ◇現住所:上士幌町上音更東1線276番地 ◇N43°14’40.2” E143°14’57.7”

斗満駅逓所跡説明板 陸別町

斗満駅逓所跡02駅逓官設当時は十勝国中川郡本別村字トマムで、関又一氏が入植した明治34年から私設駅逓所として設置されていた。官設駅逓所としては明治36年4月23日~明治44年8月31の営業で駅逓取扱人は関又一氏、駅逓所として施設が整ったのは明治39年頃のようで建坪は40坪(132平方メートル)という。隣接する駅逓所は、パンケトブシ駅逓所(取扱人は関農場開設に協力した藤森弥吾吉氏)で約24kmである。関寛斎の住宅でもあった斗満駅逓所跡に陸別町の設置した説明板が有り、比較的近くに関寛斎氏を訪問した文豪・徳富蘆花の歌碑も有る。陸別オーロラタウンには関寛斎資料館が有り駅逓設置場所も聞くと教えてもらえるでしょう。陸別オーロラタウン前に銅像が建立されている。◇開駅:明治36年04月 ◇廃駅:明治44年08月 ◇初代取扱人:関又一 ◇現住所:中川郡本別町字斗満 ◇N43°27’31.3” E143°43’42.6”

鹿山(かやま)駅逓所跡石碑 陸別町

鹿山駅逓所跡の碑01足寄郡陸別村字ポンチャシコツ(字サクシュリクンベツ原野三線)で七年間の経営。トマム駅逓所までの距離は約12km、キトイ(木樋・津別町)駅逓所まで約16kmと陸別と津別をつなぐ最短ルートだった。鹿山駅逓所は網走線(後のふるさと銀河線)の開通に伴って、明治末~大正初期には美幌方面からの雑穀の輸送が行われ、多い日は一日100台の馬車が往来したという。碑は国道51号線沿いでサクシュリクンベツ原野3線の最終人家を過ぎてまもなく、鹿の子峠に向かって左側のパーキングエリアに隣接してあるが、周辺は当時の面影など全くない。また津別方面に駅逓所跡の碑は無いと云う。 ◇開駅年:明治41年07月 ◇廃駅年:大正04年04月 ◇初代取扱人:西野直次郎 ◇現住所:陸別町字サクシュリクンベツ ◇記念碑:石碑二基あり ◇N43°32’08.4” E43°49’01.8”

パンケトブシ駅逓所跡史跡標柱 足寄町

パンケトブシ駅逓所明治36年に藤森弥吾吉によって開設された。上利別市街から国道を陸別方面に進み上利別橋を超えて第三利別橋(地形図での橋名)までの間、三角道路がある少し手前で民家の入口の左側で白樺の中にあるが草が伸びていると国道からはみえない。トマム駅逓所に隣接するが約24kmと距離があり、駅逓馬は七頭を置いていたという。番地まで含めた住宅地図もここまではカバーしていないので探すのは大変かも。標柱の文字は判読が難しそうです。◇開駅年:明治36年04月 廃駅年:大正03年04月 ◇初代取扱人:藤森弥吾吉 ◇現住所:足寄町上利別393番地の3

足寄太駅逓所跡史跡標柱 足寄町

足寄太駅逓所明治36年開設の足寄太駅逓所は平屋の建物で元々は芽登街道の入口付近に有ったが、明治43年の鉄道開通で市街中心部が北に移動したため同年秋頃に駅逓も神社入口の市街に移設された。駅逓の経営は明治38年に帯広の上田喜七に引継れている。駅逓は大正3年年4月10日付で廃止(北海道宿駅制の研究では大正14年)されたという。標柱の有る所は個人住宅の一角で神社(西町)とはかなり距離があり地元の方でも知っている人にであわなかった。再訪時に碑は確認出来なかったが継続して掲載した。◇開駅年:明治36年04月 廃駅年:大正14年11月 ◇初代取扱人:野村文吉 ◇二代:大西喜三郎 ◇三代取扱人:上田喜七 ◇現住所:足寄町南7条1丁目1番

螺湾(ラワン)駅逓所跡石碑 足寄町

螺湾(ラワン)駅逓所足寄太から右に折れて4里の螺湾駅逓は43年4月10日の開設、大正13年頃廃止された。碑文(裏面)によると『螺湾という地名は佐々木市四郎の命名という。また旧国道と駅逓官舎はここから南下500mの所に有ったと云うが、大正の大洪水で橋が流出し国道が今の位置に移動した』と有るので、正確には碑が有る所は駅逓の牧場内だった事になるが誰の目にも触れないところに設置するよりは賢明と思う。碑は佐々木市源一氏が平成九年に建立されたものです。 ◇開駅:明治43年05月 ◇廃駅:昭和11年12月 ◇二代取扱人:佐々木喜源治
◇現住所:足寄町螺湾49番地の3 国道241号線沿い ◇N43°18’20.3” E143°41’36.5”

幸震駅逓所跡説明板 帯広市

幸震駅逓所跡幸震駅逓所は、明治32(1899)年、現在の幸福町東6線159番地(現在の道道927号線・旧広尾道路沿い)付近に、官設駅逓所として開設されました。その後、大正初期に幸震拓殖道路(現在の国道236号線)の開設に伴って利用者が減少したため、大正4(1915)年に(大正本町本通1丁目2番地・現・大昭寺所在地)へ移転し、客室を拡張。交通機関、宿泊や郵便物逓送など、重要な役割を果たしましたが、旧国鉄広尾線の帯広-中札内間開通前年の昭和3年に廃止された。 ◇開駅:明治32年02月 ◇移転:大正04年移転 ◇廃駅:昭和03年06月 ◇初代取扱人:中村善右エ門 ◇二代:高橋幸助 ◇三代:蒲生頼治 ◇四代:吉河浩蔵 ◇標示板:帯広市大正本町本通1丁目10 真宗大谷派大昭寺 敷地内 ◇N42°47’39.5” E143°09’54.1”

糠内バス停・駅逓看板糠内駅逓所跡 幕別町

糠内駅逓看板道道62号線沿いで幕別と忠類間の糠内駅逓所跡が糠内のバス停となっていて「ぬかない駅逓」と書かれた看板有り。かつて幕別と更別間にあって宿と交通の便をは担っていたのだろう。トイレ、待合室とパーキングエリアを備えて何となく不思議な光景。巨大な駅逓看板は珍しいが、糠内駅逓に関する説明などはないが、当時は駅逓営業用として馬10頭以上及び食品、寝具その他必要品5人分以上を設備することが開設の条件だったという。道道62号線は交通量が少ないほう。すぐ近くに説明板も設置されている。◇開駅:明治34年10月 ◇廃駅:昭和04年06月 ◇初代取扱人:福家締吉 ◇二代:福家豪一 ◇三代:福谷包明 ◇所在地:幕別町糠内 ◇N42°47’01.4” E143°19’38.6”

イタラタラキ駅逓所跡史跡標柱・説明板 更別村

イタラタラキ駅逓跡碑碑と説明板は更別町が設置したもので道道更別幕別線沿いの東和橋付近にある。碑裏面の碑文「明治30年、更別原野に始めて道路が開通し、ただ1箇所の駅逓が設けられ更別村開発における最初の拠点となった地点としてここに印す。昭和47年9月、開村25周年を記念して建立する。」 イタラタラキ駅逓所跡説明板「更別村字勢雄454番地1十勝は明治29(1896)年植民地開放となり、下帯広(現帯広市)が十勝の中心として位置づけられて来た。しかし、道路は大津から一本道のみで、十勝川流域は舟便に頼るしかなかった。明治30年帯広から十勝で最も古くて当時繁栄を誇っていた、広尾に至る仮定県道を設けることになり、途中札内川、日方川など川幅の広い所は渡船とし、道路巾を12間として側溝がほられた。この仮定県道の中間地点にイタラタラキ(以平)駅逓が、滋賀県野洲郡中洲村出身の吉川茂吉氏が取扱人となり、人跡未踏の原野に明治31年4月1日開設された。大正3年(1914)拓殖道路が仮定県道に編入され、大正5年・イタラタラキ駅逓はその歴史的任務を終えた。 ◇現在地寄贈 東栄区 丹治 久氏 平成4年11月2日建設 更別村教育委員会」 ◇開駅:明治31年04月 ◇廃駅:大正05年02月 ◇所在地:更別村字勢雄454番地1 ◇N42°38’28.3” E143°51’36.5”

下イタラタラキ駅逓所跡石碑・説明板 更別村

下イタラタラキ駅逓所跡高さ3mの碑と説明板が更別村によって平成4年に建立されている。説明板によると、大正10年に廃道となっていた旧広尾道路がサラベツ地区の開発拠点として再開発された。その時苫小牧の出身の原信夫氏が駅逓取扱人として下イタラタラキ駅逓が開駅した。イタラタラキ駅逓廃止から5年後である。碑は道道更別幕別線沿いの親平橋付近。

説明看板より「下イタラタラキ駅逓所跡 大正10年(1921)9月1日・廃道となっていた旧広尾道路はサラベツ地区の開発拠点として再開発された。旧イタラタラキ駅逓廃止から5年後で、下イタラタラキ駅逓には、開発に尽力をつくした原信夫氏が駅逓取扱人に指名された。原氏は、苫小牧の出身で当時28歳であり、その後更別村分村独立(1947.9.1)による初代議長も務め、更別村の政治・経済の発展にのこした功績は大きく1985年、名誉村民となる。下帯広から八里23町(33.9km)、茂寄村から10里31町(42.7km)。 駅逓の制度 長旅のための宿泊や人馬継立などの便宜を与えるもので、駅舎と敷地990坪、官馬牝2頭、牡1頭、畑地として3万坪、放牧地12万坪が貸与され、開拓途上の北海道にあって、駅逓の果たした役目は大きい。 現在地寄贈 北更別区 伊藤 博氏 平成4年11月2日建設 更別村教育委員会」 碑は道道更別幕別線沿いの親平橋付近。◇開駅:大正11年02月 ◇廃駅:昭和08年06月 ◇所在地:更別村字更別基線129番地 ◇N42°40’27.8” E143°12’59.2”

上浦幌駅逓所跡説明板 浦幌町

上浦幌駅逓所跡駅逓所は人馬継立と旅人宿の両機能を有するが、開設時には人馬継立だけ、または旅人宿だけという場合もある。上浦幌駅逓所は人馬継立のみと伝えられるが、開設2年後に取扱人が朝日浅吉に変わっている。上浦幌駅逓所は中浦幌駅逓所と本別駅逓所の中間に位置し浦幌と本別間の中継点で、駅逓の説明版は道道56号線沿いの活平バス停のある牧場民家前にある。上浦幌の市街地より浦幌寄りになります。「上川上駅逓所跡」に関しては説明版の確認を出来ませんでした。浦幌川上流、川上の奥から伐採された製紙原木が本別駅に搬出されていたという。川上に浦幌川支流エキテイ川というがあり其の付近のようですが見落とした可能背もあるので付け足しておきます。上川上駅逓所は昭和4年開駅、昭和19年の廃駅で駅逓取扱人は北村小三郎氏でした。 ◇開駅:明治39年09月 ◇廃駅:昭和06年05月 ◇初代取扱人:守屋晋吉 ◇2代目:朝日浅吉 ◇N42°59’30.9” E143°38’03.2”

中浦幌駅逓所跡中川北松顕彰碑 浦幌町

中浦幌駅逓所跡・中川北松顕彰碑留真で農牧のかたわら河西支庁のすすめで中川北松が引き受けた駅逓所は官設の2階建で下浦幌と上浦幌駅逓所の中間に位置していた。中川北松の入居したのは明治38年というので空白の期間があったようです。また明治36年開設とされているが実際に営業を開始したのは明治41年からと云う。説明版は道道56号線と947号線の分岐点近くの民家前、道路を挟んだ高い所に中川北松翁の顕彰碑(地形図にマーク)があります。道道947号線の終点に2011年に「うらほろ留真温泉」がリニューアルオープンしたが、古くから集落の住民が農閑期に五右衛門風呂を据え加熱して利用していたというが、中浦幌駅逓所の取扱人が大正4年に3階建ての留真温泉館を建て駅逓の宿泊客にも利用させていたというが、温泉経営は短期間でした。説明版の写真はギャラリーに。 ◇開駅年:明治36年05月 ◇廃駅年:昭和03年06月 ◇初代取扱人:中川北松 ◇所在地:浦幌町留真 ◇N42°55’09.7” E143°39’38.7”

十勝発祥之地の碑・大津駅逓跡石碑 豊頃町

十勝発祥之地の碑江戸幕府は1798(寛政10)年に東蝦夷地を幕府直轄にし、翌年の寛政11年に駅馬を十勝に送り、これを茂寮(広尾)と大津の2カ所に分けて、場所請負人の通行屋において行客の便に当らせたとあり、文化3年には大津に止宿所(通行屋)があったという。北海道宿駅制の研究に広尾と大津ともに「杉浦某駅逓を兼ね扱う」とある。杉浦のあと少し空白はあるが明治8年から福島屋の元現地支配人だった若松忠次郎が駅逓取扱人になっているが、この時に大津郵便取扱所が発足したようです。旧札幌本庁管内駅逓取扱人一覧(明治15年)では近江善吉で、駅逓廃止はこれ以降になるのだろう。明治31年に再設置されているが手元に資料がなく詳細は不明、廃止年もはっきりしない。十勝発祥の地碑は道道320号旅来大津線の突き当たりで駅逓のあった所に建てられている。◇設置年:寛政11年 ◇廃止年:明治2年 駅逓は引き継がれる(大津駅逓) ◇場所・駅逓請負人:福島屋杉浦嘉七 明治7年:漁場持返上 ◇明治8年駅逓取扱人:若松忠次郎 明治15年駅逓取扱人:近江善吉 ◇再設置年:明治31年07月 廃駅年不明 ◇所在地:豊頃町大津寿町6

佐藤嘉兵衛駅逓所跡石碑・説明板 大樹町

佐藤嘉兵衛駅逓所跡湧洞駅逓は大津と同じ明治8年、それ以前から佐藤嘉平が湧洞浜(当縁)街道で馬約10頭を備え駅逓を経営していたという。官設の駅逓としては明治17年からとなっており、茂寄・大津・大樹の各駅へつながっていた。明治27年頃に湧洞駅逓の出張所として忠類仮駅逓を開設しておりモイワ原野(忠類)では馬の飼育頭数が20頭と記されている。佐藤嘉兵衛駅逓所跡の碑は生花苗沼と湧洞沼間で湧洞沼に近く、やや小高い丘の上で大樹町と豊頃町の境界線上になる。ここに行くのは大変で春先の草木が伸びる前が無難、生花苗側(五十嵐商店)から海岸線に向かい、海岸線を湧洞沼に向けて進むが本格的なオフロード車でも条件によっては難しいかも。駅逓説明板は平成元年設置ですが訪問時には上部を固定していた針金が腐食で切れたため上下逆転の状態となっていた。石碑は親族の方々がここまで運んで昭和63年に設置されたもの。 ◇設置年:明治08年 実際は明治7年開設か?◇官設:明治17年03月 ◇廃駅:大正02年03月 ◇再開:昭和04年11月 ◇廃駅:昭和18年08月 ◇初代取扱人:佐藤喜兵衛 ◇現住所:大樹町字生花90?豊頃町との町界付近 ◇佐藤嘉兵衛駅逓所跡 ◇N42°34’20.1” E143°31’19.1”

生花苗駅逓所跡説明板 大樹町

生花苗駅逓説明板01官馬4頭が備えられ広尾・大樹・牛首別をつなぐ十勝最後の駅逓。駅逓の建物は同所の五十嵐商店の敷地内に有ったが、『九年前の地震(その前にも地震で被害があって九年前の地震で完全に倒壊したという)で、駅逓も店も倒れてしまって大変だった、倉庫がある部分は元の商店で、店のある所が駅逓だった』と店主、五十嵐さんが当時の事を説明、駅逓舎はそのに時撤去したとの事で痕跡はない。大樹町の説明では史跡説明板もその時に撤去されたとの事だったが、嫁さん曰く『長年の付き合いで(史跡説明板の事)愛着があり捨てられなかった』と、現在は五十嵐商店の倉庫に掲示している。大樹町では復元が可能なように設計図はとってあるというが、今のところ復元の予定はないらしい。大樹町に有った6駅逓(佐藤嘉兵衛駅逓所跡は除く)の中で唯一正確に場所が分かっている駅逓とも云う。◇所在地:大樹町字生花778番地 ◇ナウマン国道沿い:五十嵐商店敷地内 ◇N42°35’52.8” E143°27’11.1”

茂寄駅逓所と広尾駅逓所史跡標柱・広尾町

広尾駅逓所広尾で最初の記録は寛政11年ということで大津と同年代という事で、十勝会所(ビロウ運上屋)の通行屋が原型のようです。茂寄駅逓所は伝えによると人馬継立1本というので宿泊は十勝会所だったのかもしれない。駅逓取扱人は十勝会所つながりで明治8年から若松忠次郎、官設の茂寄駅逓所としては明治13年ともいうが旧札幌本庁管内駅逓取扱人一覧(明治15年)では高橋仁太郎とありこれ以降に駅逓は廃止されたようだ。明治31年に再設置された官設広尾駅逓所は人馬継立と宿泊所を兼ねねた駅逓本来の形になっている。駅逓廃止は昭和8年となっているが実質的な廃止は昭和6年頃らしい。明治33年開設の音調津駅逓跡にも史跡標柱があるので、明治32年開設の上門別駅逓所、昭和10年開設の下豊似駅逓所跡も標柱があるかもと思い探してみましたが確認出来ませんでした。 ◇会所廃止年・明治2年 駅逓は引き継がれる ◇駅逓請負人:福島屋杉浦嘉七 ◇駅逓取扱人:若松忠次郎 ◇駅逓取扱人:高橋仁太郎 ◇廃駅年? ◇再設置年・明治31年03月 ◇廃駅年・昭和08年09月 ◇初代取扱人・長谷川万助 ◇二代・林金三郎 ◇三代取扱人・広井要助 ◇四代・渡辺総次郎 ◇五代取扱人・奧綱吉 ◇六代・奧石松 ◇七代取扱人・奧正勝◇所在地:広尾町 ◇N○°○’○” E○°○’○”

豊似郵便継立・中継所跡史跡標柱 広尾町MAP

豊似郵便継立・中継所跡駅逓所が郵便物を取り扱う例は初期には多かったようですが、この場合はその逆で例としては珍しい。そんなことで掲載しておきます。標柱の説明文より『明治33(1900)年広尾と帯広間の郵便継立、中継所として郵便物の中継の他、宿泊の便もかね、笹森長七郎取り扱いで始まった市街地十数戸とともに豊似発祥の地でもある。中継所は大正10年2月集配郵便局として豊似本通り23番地に開局された。管轄区域は野塚川以北、紋別川までてあった。平成27年8月再建 広尾歴史研究会・広尾町教育委員会』標柱は国道沿いで豊似市街地近くで豊似橋より豊似川寄りの道を上流側に入ると左側にある。◇所在地:広尾町豊似

音調津駅逓所跡史跡標柱 広尾町MAP

音調津駅逓所跡の碑音調津官設駅逓所は明治33年の開駅で昭和11年まで使われたらしい。駅逓としてはかなり長い歴史を持っているが、この辺は旅人にとって自然条件が厳しかったのでしょう。音調津駅逓所跡の標柱は音調津保育所と道を挟んだ前にあった。これは広尾町郷土史研究会が2006年に更新した木標で当分は見られると思います。広尾町には運上屋跡も碑が有るので、他の駅逓跡にも碑が有るかも、ただ情報は有りません。◇初代取扱人:飯田千蔵 ◇二代・吉田熊吉 ◇所在地:広尾町音調津 ◇N42°13’18.7” E143°19’00.8”

駅逓所縁の人物・記念碑など

遠山房吉顕彰像芽室駅逓所 芽室町MAP

遠山房吉顕彰像芽室公園の一帯は芽室官設駅逓馬の放牧地で馬に日陰をつくるために多くのカシワを残したという。戦後も芽室の歴史の象徴であるとしカシワの伐採を認めなかった今でも樹齢数百のカシワが残されている。公園内には芽室官設駅逓所の取扱人であった遠山房吉氏の銅像が建立されている。駅逓は明治33年から明治41年までの営業と鉄道開通と共に廃駅、内陸にしては比較的短命でした。芽室町には大正から昭和にかけて上伏古駅逓所、旭山駅逓所も開設されているが記念碑などは無いようです。国道38号線沿いに広がる20haの広大な芽室公園は道内有数の規模を誇る花菖蒲園と芽室町の天然記念物に指定されている樹齢数百年というカシワの大木が残されている。柏林にある樹齢約400年クラスの巨木は根の踏みつけが原因か?枯れていた。 ◇開駅:明治33年07月 ◇廃駅年:明治41年02月 ◇初代取扱人;遠山房吉 ◇種類別:室町天然記念物 ◇指定日:S48.11.1 ◇所在地:河西郡芽室町本通9丁目1

飯島和吉翁頒徳碑居辺駅逓所 士幌町MAP

飯島和吉翁頒徳碑士幌町では居辺駅逓所と上士幌駅逓所跡に木標を設置した事が有ったようだが、今は駅逓所跡を周知する工作物はない。関わりの有るのは当地の先駆者で居辺駅逓所の開設に奔走した飯島和吉氏の頒徳碑だけ。飯島和吉氏は大正5年(1916年)に官設居辺駅逓所を開設、郵便局長、川合村会議員、池田町会議員の公職を務めた他、多くの公職を務め、地域に貢献した人であるという。昭和8年に下居辺が士幌村に分割編入された後も士幌村開拓の功労者として尊敬されていた。頒徳碑は「道の駅 士幌おんせん」と道を挟んで向かい側にある「開拓記念公園」内に。居辺駅逓は道の駅「士幌温泉」の近くにあったようです。 ◇現住所:士幌町下居辺西2線123 ◇N43°08’16.8” E14.3°22’08.1”

湧洞川・駅逓橋湧洞駅逓所 豊頃町MAP

湧洞川・駅逓橋十勝内陸部の道路が出来てくると湧洞駅逓から十勝内陸部に入る人も増えてくる、大正2年に廃駅となった湧洞駅逓は昭和4年に湧洞にて再開、取扱人は丹羽清五郎氏でした。いまは駅逓跡を示すものはなにも残っていませんが、湧洞川にかかる橋名はかつてあった駅逓に由来すると思われる「駅逓橋」という。駅逓所跡は確認してませんが、駅逓橋の近くだったようで、御子孫がいるとのことで聞けばわかると思うと五十嵐商店(生花苗駅逓所)の主人がはなしていた。◇再開:昭和04年11月 ◇◇廃駅年:昭和18年08月 ◇所在地:豊頃町湧洞 ◇N42°39’09.42” E143°29’35.65”

チュクベツ渡船場跡と直別駅逓

チュクベツ渡船場跡 十勝国と釧路国の境となっていた直別川河口左岸に駅逓が有ったと云うが河口部にいく道はありません。したがって史跡表示板はJR直別駅より浦幌側で国道38号線と道道1038号線の分岐部、ドライブインミッキーハウス(ライダーハウス)の一角にあるので十勝に編入しました。陸測図では河口部に橋が有り駅逓は見えないが道が海岸沿いにある。説明板に登場する松浦武四郎は弘化2年、安政3年と安政5年に直別を通過し記録に残しているが、説明板にあるのはその引用のようですが、内容は史跡表示板でご確認を。チュクベツという名前からすると昔からサケの遡上する川だったようです。直別駅逓は北海道宿駅(駅逓)制の研究によると明治17年4月開設で明治21年4月廃駅、駅逓取扱人は高島文造となっているが、音別町史によると私設駅逓だったようです。本来は根釧に属するが説明板が十勝側にあるので十勝にいれた。◇所在地:浦幌町直別西1線◇42°51’01.2”N 143°51’17.6”E

ペケレべツ駅逓所と新得町・開拓者を讃える碑取扱人関連碑MAP

準備中 ペケレべツ(清水)駅逓所は石狩道路開通の翌年、明治32年に設置され、村山和十郎が取扱人となり郵便継替も行った。当時は帯広からペケレべツを通り、パンケシソトクを経て落合に、またはパンケシントク~ペケレべツの行路により入植、駅逓は鉄道の開通で役目を終え明治41年に廃駅。村山和十郎氏は明治30年に当地を訪れペケレベツ、シントク原野の周辺を視察してまわり、明治32年に山形県北村山郡高崎村(現在・東根市)から北海道開墾組合のリーダとして13戸の入植者とともに入植したのが新得町の始まりと伝えられている。村山氏はペケレべツ定住最初の和人のようで人舞村、屈足村を直轄、人舞郵便局(現清水郵便局)初代局長を務める一方、新得開墾の後見人として活躍した。ペケレべツ駅逓所跡の碑等はないが、関連碑として新得町開拓100周年記念で建立された「開拓者をたたえる碑」の開拓功労者名の筆頭にその名がある。 ◇開駅年:明治32年08月 ◇廃駅年:明治41年02月◇初代取扱人:村山和十郎 ◇駅逓所在地跡:清水町清水第3線58番地 ◇開拓者を讃える碑:新得町字新得西1線9番地 町道新得1号道路沿い

糠平温泉 中村屋糠平駅逓所 上士幌町

糠平は森林資源開発を目的に明治25年に釧路監獄の囚人を使役し糠平までの山道を開削、今は糠平湖底に沈んだ大樹海を伐採し十勝開拓の建設資材とした。大正に入ると民間資本が参入するようになり産業道路の要望が高まって、大正7年に十勝監獄の囚人を動員し約16kmの音更山道を3ヶ月で完成させる。この頃になると森林開発も本格化し大正6年に糠平駅逓所が開設され、駅逓取扱人は鈴木泰介であった。森林資源の開発はさらに奥地へと進み1937(昭和12)年に士幌線の糠平駅が開業、駅逓はその役目を終えて同年廃止される。糠平で湯元を最初に確認したのは島隆美とその甥で、湯元は駅逓から旅館へと継承されていく。中村屋の開湯が1931(昭和6)年と駅逓開設と同年で、旅館としては糠平富士見館として開業、その後なんどか施設名を変更し現在にいたっている。◇所在地:上士幌町ぬかびら源泉郷

音更山道の碑十勝の囚人道路

音更山道の碑 音更山道(現国道)は明治25年釧路監獄の囚人によって切り開かれた囚人道路の一つであるが馬車が通れるような道ではなかった。そこで大正七年に王子製紙や関木材が元小屋から造材現場のメトセップ沢までの10kmを延6千人の囚人を酷使し馬車が通行可能な道(元は音更山道と呼ばれていた)を3ヶ月の突貫工事で完成させる。石碑はこの道の開通を記念して十勝監獄が建立したもので、士幌線の工事で音更川に放置されていたのを、1970昭和45年国道工事の際に再設置。◇種類別:有形文化財 ◇指定日:H9.6.13 ◇所在地:上士幌町字黒石平75番地 国道際”

道東・十勝エリアの旧駅逓所・駅逓跡碑のギャラリー

斗満駅逓開祖・関寛斎像 斗満駅逓所説明文 新得駅逓所跡の説明板02 クテクウシ駅逓所跡 鹿追発祥の碑 幸震駅逓所跡説明板 糠内駅逓看板02 下イタラタラキ駅逓跡02 イタラタラキ駅逓跡の碑02 生花苗駅逓説明板02 佐藤嘉兵衛駅逓所跡碑 当縁番屋(通行屋)跡 近藤重蔵山道開削記念 湧洞川・駅逓橋 茂岩ポケットパーク・茂岩駅逓跡 士幌町・上士幌駅逓所跡 音更町・中士幌駅逓所跡 浦幌町・中浦幌駅逓所跡/ 螺湾(ラワン)駅逓所跡の碑 螺湾官設駅逓所跡碑裏面 鹿山駅逓所跡の碑02 十勝発祥之地の碑02 下イタラタラキ駅逓跡03 ビロウ運上屋標柱 十勝会所跡標柱 近藤重蔵山道開削口

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松浦武四郎の碑を巡る

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