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ぐるっと日高プチ旅1
日高東部 えりも町・様似町・浦河町を巡る旅‼

日高山脈国定公園・黄金道路の碑えりも町MAP

望洋台・黄金道路国道336号線の広尾から庶野までの約33kmの区間は断崖を切り開く難工事で、7年の歳月をかけて1934年に開通したが、開通までに黄金を敷き詰められるほど莫大な費用がかかった事から通称「黄金道路」と呼ばれている。日高山脈が海に落ち込む景観はすばらしいが、海が荒れると通行止めとなる事も多く崩落事故等もあってトンネル化が進み、景観も釣り場も其の大半は過去の話となってしまった。黄金道路南端と北端にそれぞれ記念碑があり、中間部のビタタヌンケに全通記念碑と殉職碑があり、旧道時代の開通碑が広尾町音調津に、ルベシベツには江戸期の道路開削を印した近藤重蔵道路開削記模碑がある。黄金道路南端となる望洋台にある日高山脈国定公園・黄金道路の碑は、ビタタヌンケと庶野間の工事竣工した昭和57年に室蘭開発建設部が造成したもので碑の裏面に工事経過が記してある。望洋台から険しい日高山脈の岩壁と荒波の北太平洋が続く景色を見渡す事ができ記念撮影を撮るスポットになっている。◇建立年:昭和58年 ◇建立者:室蘭開発建設部 ◇所在地:えりも町字庶野 望洋台 ◇Gmap:マップコード

庶野震嘯罹災記念碑MAP

庶野震嘯罹災記念碑昭和8年3月3日未明に三陸沖で発生した地震による津波が幌泉村を襲いえりも岬地区、庶野地区を中心に大きな被害が発生した。その後の12月にえりも岬と庶野に震嘯罹災記念碑が建立された。建立の経過や碑文は同じ内容なので割愛する。石材の違いによるものか庶野の記念碑は風化が激しく倒壊の恐れがあり平成9年に再建(補修)された。碑は小高い丘の上で灌木や雑草が茂った中に在り簡単には近づけない。再建時に風化の激しい背面を縦に側面半分を切り取ったため縮小されて一部の文字は読めなくなっている。説明板には改修の内容と、地震による津浪で死者13名、負傷者56名、家・建物などの被害状況が記されていた。◇再建年:平成9年 ◇建立者:えりも町? ◇所在地:幌泉郡えりも町庶野 ◇Gmap:マップコード

一石一字塔MAP

えりも町・一石一字塔百人浜の悲恋沼近くの国道沿いにあります。説明板によると、文化3年にに海難者の供養のため現在地より東側の(財田川河口付近に建立され、その後何度か移転さ昭和31年に現在地に安置された。襟裳岬周辺は風が強く多くの船が難破した難所で知られ、海難事故による遭難者の魂を鎮魂するため、様似等樹院の住職が百人浜で法要を執り行ったということです。一石一字塔は等樹院の境内にも建立されているが、この塔は平成14年にえりも町文化財に指定されている。◇建立年:文化3(1806)年 ◇最終移転年:昭和31年 ◇建立者:様似会所支配人・八谷佐吉? ◇所在地:えりも町字庶野 ◇Gmap:マップコード

百人浜

百人浜展望塔道道34号線の庶野から襟裳岬まで全長12kmの砂浜の海岸をいうが、かつて江戸時代に大型御用船が難破し百余名の乗組員が飢えと寒さで息絶えた事から百人浜という名前が付いたという話がある。かつて森林だった百人浜の乱伐で植物の育たない襟裳砂漠とまでいわれた陸地から強風で海に運ばれた泥や砂で海藻が育たず漁獲量は激減。1953年から植樹活動が始まり苦労の末、クロマツの森ができた海も豊かさを取り戻すことができた。百人浜には道道34号線沿いにある駐車場ちかくに四階建ての展望台がある。◇所在地:えりも町字庶野 ◇Gmap:展望台マップコード

えりも岬 震嘯罹災記念MAP

震嘯罹災記念碑文は「震嘯罹災記念」「北海道廰長官正四位勲三等佐上信一著」左側面は「昭和八年12月建之 地震海鳴里そら津浪」「この記念碑は朝日新聞社へ寄託□義金二十餘萬圓を罹災町村へ分配した残額をもって建てたものです」※昭和8年3月3日未明、三陸沖で発生した地震による津波が幌泉村を襲い、えりも岬地区、庶野地区を中心に大きな被害が生じた。津波は地震発生後30分間の間隔をおいて3回来襲し、3回目には、その波高は14.2mにも達し、死者13名、負傷者56名、家・建物の倒壊90棟など総額34万円(現在の貨幣価値に換算して約20億円)の被害があった。この碑は被害の生じた町村へ分配された義援金の残額を使って建立され、地震の恐ろしさを後世に伝えている。明治にも三陸沖で発生した地震による海抜4mの津波に襲われているが、被害の程度は不明。碑は元々別な場所に設置されたというが、建立40年後の頃に現在地に移設されたという。◇建立年:昭和8年12月 ◇所在地:幌泉郡えりも町えりも岬 えりも神社横 ◇Gmap:マップコード

豊国丸殉難者追悼碑MAP

豊国丸殉難者追悼碑表面碑文「豊国丸 殉難者追悼碑/海軍中将正四位勲二等功五級四竃考輔 書」昭和4(1929)年4月22日、午前6時函館港を出港した函館市長長谷川藤三郎所有、柿野紹介扱い汽船「豊国丸・ほうこくまる」(高井甚三船長以下33名)が、函館市西浜町28番地株式会社八木本店の漁夫176人を乗せて、カムチャッカ東海岸アナッターチャーへ向け航行中、襟裳岬にて暗礁に乗り上げ座礁、遭難、沈没し78名が死亡、その追悼碑です。平成3年に暴風雨で倒壊したがえりも町が台座を再建した。◇建立年:昭和10年 ◇所在地:えりも町えりも岬 ◇Gmap:マップコード

郷土資料館ほろいずみ

えりも郷土資料館えりも町にも江戸期の山道「猿留山道」があるも、林道が入り組んだ紛らわしい所もあり、郷土資料館ほろいずみで事前にルートを確認してからのほうが安心できます。復元された「猿留山道」には標識も設置されているが、山岳ルートであり単独の山道紀行はお勧めしません。郷土資料館ほろいずみは「猿留山道」の情報館という役割を受け持っているようで、幕末の探検家、松浦武四郎に関する展示も「猿留山道」つながり故か充実している。◇所在地:えりも町新浜207-1 ◇Gmap:マップコード

幌泉灯台記念塔

幌泉灯台公園かつて灯台山だったえりも町灯台公園。明治24年に小高い山へ木造やぐら式の灯台が設置されたのがはじまりで灯台山とよばれた。灯台は昭和3年に建て替えられたが昭和53年に観音山(住吉山)に新築移転。不要になった灯台を町が国から譲り受け、灯台山(約17m)を切り崩し平地にして旧灯台を幌泉灯台記念塔として保存したもの。あるのは現役リタイヤした灯台にトイレとステージにベンチ、スペースは広くイベントに利用されている。◇所在地:えりも町字本町53-1 ◇Gmap:マップコード

和助地蔵様似町

和助地蔵堂斉藤和助は江戸時代後期に幌満に居住していた南部出身の人で、昆布採りのかたわら旅館を営んでいた。寛政11(1799)年の様似山道開削時にも尽力した事で、冬島から幌満に至る海産物に関する一切の権利を幕府から与えられるが、東蝦夷地が松前領に戻ると権利全てが剥奪されたという。松浦武四郎は東蝦夷日誌に「松前家複領になるやシャマニ場所を藩士櫻庭某と申す者へ請負申付しに、其威権を以て此の和助を追て、今はシャマニ領に管轄せしむ」と松前藩に批判的で和助に同情している。人々に慕われていた斉藤和助は文久2(1862)年に91歳で亡くなるが、その徳を偲んだ様似と幌泉場所請負人らにより建立された白御影石の地蔵尊が和助地蔵。この祠の川向こうの沢が様似山道の東口になる。アポイ岳ジオパークが設置したビジュアル説明板がある。◇所在地:様似町幌満 ◇Gmap:マップコード

旧道跡幌満トンネル

旧道跡幌満トンネル現・幌満橋(平成9年竣工)とトンネル完成前の旧道と旧旧道は日高耶馬溪と称される断崖が続く幌満から冬島への海岸道路で、幌満側入口は旧国道に架かる幌満川河口の旧3代目幌満橋(昭和42年竣工)でそれ以前は橋の上流側にある旧幌満隧道(大正12年の2代目幌満隧道?)でした。対岸から見ると古い隧道がひとつあるようにしか見えませんが、隧道側を新幌満橋から下って見ると断崖と平行にもう一つの隧道、明治24年にできたという初代の幌満隧道?がみえる。同時期に日高耶馬溪で開削された隧道は全部で11ヶ所あるというが、今も見られるのはオホナイの滝とここだけでしょう。◇所在地:様似町幌満 ◇Gmap:マップコード

日高耶馬渓

日高耶馬渓冬島の穴岩から幌満川河口までの間(約6km)の海岸線を、長い年月をかけて侵食しできた絶景が日高耶馬渓。核心部は山中トンネルと幌満トンネルの区間だが、旧道は崩落などで立ち入り禁止なので見られる所は少ないが、様似側の山中やオホナイの滝付近、幌満川河口の旧道入り口付近などで其の一端を見ることが出来る。山中トンネルの様似側で旧道入口近くに駐車スペースがある。◇所在地:様似町山中

冬島(フユシマ)の穴岩MAP

冬島の穴岩冬島の奇岩、冬島はアイヌ語のプュシシュマ・プュ(穴)シュマ(岩)で穴岩の事、冬島の字をあてた。明治30年頃迄は満潮時に昆布漁船が穴岩を往来していた。もっと古くは松浦武四郎の東蝦夷日誌に「此処に大なる石門有。往来の者是を潜り行也」と、江戸時代は通路だった。陸側の浸食が進んだようだが、港湾工事で今の穴岩は陸地になっている。アポイ岳ジオパークが設置した説明板がある。◇所在地:様似町冬島 冬島漁港 ◇Gmap:マップコード

様似郷土館

様似郷土館日高管内最初の歴史資料館です。館内には縄文式土器などの出土品やアイヌ民族の儀式道具、開拓時代の生活用品などを展示、なかでも蝦夷三官寺・等澍院古文書や矢本家文書は資料は貴重なものです。様似山道越に江戸期は会所が、明治以降は駅逓が重要な役割を果たしました。個人的には幌満駅逓所で使用された備品、明治から大正期は良質な粘土が入手しやすかったのか、今の瀬戸物より上質なものが多い印象でした。◇所在地:様似町会所町1

様似会所跡碑

様似会所跡幕府は諸外国との関係が緊張したことで1799(寛政11)年に東蝦夷地を直轄とし、様似山道を完成させその翌年に油駒運上屋をシャマニ会所と改めた。幕府は1821(文政4)年に蝦夷地の大半を松前藩へと返却したが、1855(安政2)年には再び幕府直轄としている。文化10年以降は駅逓業務も請負制になり、会所(運上屋)が人馬継立、継立馬の飼育、旅籠屋の業務を担った。安政2年に函館奉行が東西蝦夷地への妻子同伴を可としたので妻子を伴って赴任する役人も増え、峠を控えた会所では婦女子の山越用に山駕籠を用意し人足が配置されていた。様似最後の場所請負人、漁場持は万屋(佐野)専左衛門(シツナイ、ウラカワも同様)でした。明治2年で廃止され以降は駅逓所となる。アポイ岳ジオパークが設置したビジュアル説明板がある。◇建立年:未確認 ◇建立者:未確認 ◇所在地:様似町会所町1 ◇Gmap:マップコード

等澍院と観音山

等澍院江戸幕府は享和2(1802)年に蝦夷地入りしている和人の宗教行事の執行、宗教政策としてアイヌ民族のと教化と宗門改め、キリスト教の侵入防止やアイヌ民族の親ロシア化対策などのため蝦夷地に5寺院の建立を決定、先だって有珠、様似、厚岸の3カ所に建立を決めた。等澍院は文化8(1811)年に護摩堂を建立するも、官寺故に檀家制度が貧弱で明治維新後に一時廃寺となる。等澍院再興のため様似に来ていた塚田順田氏はアイヌ語でソピラヌプリ(現・観音山)と呼ばれた円山の山頂近くに、信者からの寄進により西国33札所にならい33体の観音石像を建立、等澍院も明治30(1897)年に再興、カシワの古木が御神木となり観音山と呼ばれるようになった由来でもある。災害や国道建設などにより何度かの移転改築があり、かつての面影を残しているのは護摩堂だけという。等澍院の古文書や百万遍念珠箱がなどが平成17年に国の重要文化財指定、聖観世音菩薩像や薬師如来三尊仏像は様似町指定文化財となっている。◇所在地:様似町潮見台

観音山公園展望台

観音山公園展望台等澍院の裏山になる観音山公園には2階建の展望台があり眼下には様似の町並みや様似漁港とゾビラ岩、少し離れてローソク岩、親子岩、エンルム岬がみえるが左右の視界はそれほど広くはない。展望台に案内マップがあり見える風景を確認出来るのは便利です。車で行けるが車道は狭く交差は困難、駐車スペースも少ないです。◇所在地:様似町潮見台2

カムイチャシ記念碑

カムイチャシ記念碑等澍院裏の台地は観音山はチャシとしての自然条件は揃っており、「カムイチャシ」の記念碑の後側に崖にはチャシの面影を窺わせる石積はあるがチャシと即断出来るような明瞭な遺構はみられず。伝説上のチャシをカムイチャシと言う例も多いような印象があるが、台座に「ホタフンベユーカル」と刻まれチャシを舞台にした伝説は多い。アポイ岳ジオパークが設置したビジュアル説明板に変わっているので、北海道ウタリ協会様似支部が作成した旧カムイチャシ記念碑の説明板より転載
「カムイチャシ記念碑 大昔、約一千年以上前、トカチアイヌの掠奪軍が攻め込んできて、破竹の勢いで日高アイヌをたたき伏せ、さらに進んで勝ちほこった余勢をかって、ただひともみにとシャマニアイヌも攻めた。シャマニ側では、ソビラヌプリ(観音山)に陣地を構え、これを防ぎ死力を尽くして戦ったので、さすがのトカチ軍もどうすることもできず何日も何日も勝敗が決まらず日を重ねた。そのうちに、シャマニ軍の方にいくらか暗い影が見えてきたので、彼らはソビラヌプリの彼方のウンベツ(海辺川)を渡り、川の向かいの山手の下に鯨形の砂山を一夜のうちに作り上げてこれに拠った。トカチ軍は、これをみてフンペ(鯨)は海の王様だ、これに弓を引くことはできないと無条件で仲直りを申し込んだので事なくすんだ。今に残るホタフンペ(砂鯨)はこうして作られたものである。北海道ウタリ協会様似支部」※これらの話は松浦武四郎の蝦夷日誌や廻補日誌などにもあり、これとは異なる伝承2話が宇田川洋著「アイヌ伝承と砦(チャシ)」に掲載されている。◇建立年:昭和53年9月 ◇建立者:北海道ウタリ協会様似支部 ◇所在地:様似町本町2丁目 ◇Gmap:マップコード

観音山のカシワ

観音山のカシワ明治28(1895)年に等澍院の塚田順田氏が三十三観世音の石像を安置した標高101mの観音山頂上付近にあり、樹齢400年以上といわれるカシワで巨大な盆栽を想わせる風格。直径116cm、樹高12mで昭和48(1973)年に北海道記念保護樹木に指定されている。◇所在地:様似町潮見台2 ◇Gmap:マップコード

エンルム岬

エンルム岬太平洋に突き出たエンルムはアイヌ語で「尖り頭」という意味と、度重なる地震でぐずれ今では文字通り尖り頭の岬だが、その前はチャシとして機能する広さがあったという。高さ70mの小高い岩山で、途中まではダートの急坂を登ると広場があり説明碑がある。そこから急な180段以上の階段を登ると視界180度以上の展望台で「エンルムチャシ跡」の標柱が立っている。松浦武四郎の東蝦夷日誌に「遠見番所」とあるがアイヌ語で「インカルシ」と呼ばれた見張り場だった。高所恐怖症の方とカモメの子育期は要注意かも。◇所在地:様似町会所町 ◇Gmap:マップコード

ソビラ岩

ソビラ岩松浦武四郎の東蝦夷日誌に「ソウビラ、大岩峨々、是に一條の瀧有、下は平磯」とあり元々は観音山海側の大きな崖の事だったようです。様似漁の一部となってたたずむソビラ岩はソピラレプンケで(沖)のソピラと云い陸と沖が対になっていたようです。岩の形から烏帽子岩とも呼ばれ、親子岩と併せて「父と母子の岩」という伝説もあるという。エンルム岬の展望台からよく見えます。◇所在地:様似町港町 ◇Gmap:マップコード

キリシタナイ

異教徒を取り締まる蝦夷三官時のお膝元にあったキリシタナイ。寛永12(1635)年に海辺川支流(ホロナイ沢)で金鉱が発見され、幕府直轄の金鉱山が開発され、当時は海辺川河口付近が様似の中心地だったという。また採掘作業で暮らしている人々の中に隠れキリシタンがいて、天草の乱を生き延びたという児玉喜左衛門が生保元(1664)年に幕府に捕まり江戸に送られ処刑されたという。隠れキリシタンの居住地であった場所がキリシタンナイの由来とも云えそう。松浦武四郎の三航蝦夷日誌(弘化)ではキリイカシナイとあり満潮時の迂回路で松浦武四郎も通過しているが、廻補日誌(安政)はキリシタンナイ?で地名が変わっているようにも受けとれ、蝦夷語地名解ではキリシタンナイ。東蝦夷日誌には「キリシタン。本名キリイカシと云ふ。また切支丹宗の昔有しともいふ。是より満潮の時は山道あり」と記した。元々は迂回路の名で kir-ika-us-i (山?・越え・ている・処) のようだが、発音が似ている為か日本語のキリシタンと入れ替わり、さらに地図への登録ミスで「ン」が抜けキリシタナイになったものか・・・?。◇所在地:様似町西町 ◇Gmap:マップコード

親子岩

親子岩様似市街の西端ある親子岩ふれ愛ビーチキャンプ場の洋上浮かんでいる3つの岩で、伝説もいくつか有るようです。ビーチから桟橋のように海に伸びた展望台から見る親子岩が良さそうで様似八景という。観音山の展望台からもよく見えます。◇所在地:様似町西町 ◇Gmap:マップコード

ローソク岩とフンベエト

ローソク岩とフンベエト塩釜の名は近くに製塩所があったことに由来するというが、古い松浦地図ではロウソクイシの横にフンベエトとある。伝説では「巨神が落とした焼串がローソク岩でトンネル背後の丘は巨神が尻もちをついた跡であるある」と、塩釜の岬は鯨でそれを焼いた串がローソク岩、尻跡の窪みらしい地形もあり西様似には鯨を意味する海辺(フンベの音訳)川や小山もある。鯨の伝説に関する舞台は整っているようです。ローソク岩はもっと高かったが十勝沖地震で先端部が崩落したという、元々は串に例えられるような形の岩だったのでしょう。◇所在地:様似町塩釜

浦河町立郷土博物館浦河町

浦河町立郷土博物館 浦河町西幌別の国道235号線沿いに一段と目立っている「優駿の門」をくぐると、浦河町立郷土資料館と馬事資料館が並び、郷土資料館前には何基かの彫像がある。「優駿の門」には32頭の馬の彫金が飾られているという。郷土資料館ではどこも同じように開拓や漁場開發にともなう展示は多いが、ここではアイヌ文化に関する展示、とくに衣類に関する展示が注目です。となりの馬事資料館では馬に関する飼料や馬具が展示されている。◇所在地:浦河郡浦河町西幌別273-1 ◇Gmap:マップコード

荻伏 開拓功労者3胸像

開拓功労者3胸像 明治34年(1901)に浦河支庁長として赴任し日高の発展につくした西忠義、明治13年(1880)赤心社を創立し初代社長となった鈴木清、明治15年(1882)に移民83名を率いて荻伏に移住し、開拓にあたった澤茂吉を開拓功労者として称えるために作られた銅像で、故本郷新の若い頃の作品で荻伏支所の庭に並んで立っている。浦河町荻伏支所の建物は赤心社の事務所として、現在の荻伏駅前に建設された当時としては珍しい洋式建物で、事業視察に訪れる高官の休息所休とされた。大正初期に事務所を海岸沿いに新築し、建物は大正7(1918)年に旧荻伏村に寄付され公会堂として荻伏支所庁舎の位置に移転。大正14(1925)年から荻伏村役場として使われたが、昭和29(1954)年に役場庁舎新築され現在地に移設され荻伏郷土館となる。昭和54(1979)年にの赤心社事務所新築当初の姿に復元工事が行われ浦河町立博物館荻伏分館。◇制作者:本郷新 ◇建立年:S10.9.25 ◇建立者:未確認 ◇所在地:浦河郡浦河町荻伏町15 ◇Gmap:マップコード

開拓記念碑

準備中 開拓記念碑の碑文「明治十三年、旧摂州三田藩士鈴木清は北海道開拓を計画して赤心社を創設した。そして日高国浦河郡荻伏村に入り地勢を調査した。ついで十五年五月赤心社同志沢茂吉は、兵庫、愛媛、広島県人を80余名招致して開墾に従事した。この時をもって荻伏村開基とする。当時は樹木密生し萩や蘆が叢生し熊や狢、狐などがすんでいた。それ以来、入植たちは一致協力して樹木を切り倒し茅を焼き払い土地を拓き、そして教育と宗教に心を用い、人々の正しい生き方の教育に尽力した。明治四十三年内務大臣は開拓事業の模範としてこの業績を表彰した。現在は人家約一千にも及び耕地や牧場は数里にも及ぶ広大さを有し、鶏や犬の遊ぶ様子や美田良畑を遥かに望み盛えて村人達がその生活を喜び村の平和を楽しむことが出来るのも先人達が神を敬い、国にその恩を報いんがためと云う、努力のおかげである。今ここに私達村人皆が集まって相談し、記念碑を建てようと考えたのは、先人達の尊い業績を敬い、慕い又後世の人達が自信と誇りをもって励んでほしいことを念願するのである。以上、理由とその状況を記す。昭和十年九月荻伏村向井裕蔵」※浦河支庁長 西忠義◇建立年:S10.9.25 ◇建立者:未確認 ◇所在地:浦河郡浦河町荻伏町 ◇Gmap:マップコード

西忠義の碑

西忠義の碑 浦河港を見下ろす塩見町の高台にある西忠義氏を称えた大きな石碑です。明治35年に浦河支庁長に着任し日高実業協会を創立するなど浦河の経済の礎を築いた人物です。明治42年に転任となるが、その功績を偲んだ地元民によって昭和7年に浦河神社横に「西霊社」が造営され翌8年に「西神社」と改称されるが昭和27年の十勝沖地震で損壊、西神社の代わりに建立されたのがこの石碑という。当時の北海道知事・田中敏文書です。◇建立年:S28.11 ◇建立者:日高実業家協会 ◇所在地:浦河郡浦河町塩見町 ◇Gmap:マップコード

日高東部・太平洋ラインミニギャラリー

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