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渡島を巡る旅2‼
ぐるっと渡島・函館市を巡る旅‼

大船遺跡函館市

大船遺跡恵山国道(278号線)に道道980号線が合流する北側、大船川左岸の河岸段丘上にある。遺跡の前には解説板があり、縄文時代中期の大集落だったと書かれている。遺跡の中へと入って行くと、柱の跡が穴になった住居跡がみられた。次に遺跡を見に行くと、看板があり盛土遺跡であることが分かった。盛土遺跡の中は流石にごみ捨て場なので、住居跡に比べて雑然としていた。次に、真中に石組みの炉のある竪穴住居跡が間近で見られる。展示場の周りに平らな石が積まれていた。看板を見ると物を砕くのに使ったようだ。大船遺跡には展示室もある。◇所在地:函館市大船町575-1

覚王寺の銀杏MAP

覚王寺の銀杏南茅部は昔からタラと並んで昆布の産地、最近の健康食品としてカゴメ昆布がブームになっている。そんな南茅部にある覚王寺前のイチョウ。覚王寺(曹洞宗)は明治19(1886)年創立というが、その前身となった寛12(1800)年に創建された龍宮庵の頃に植えられイチョウと推定され、銀杏としては若輩だが胸高直計1.6m以上有り、記念保護樹に指定されている。龍宮庵はわかりませんが蝦夷日誌に「庵寺あり」となっていた。◇所在地:函館市臼尻町175 覚王寺境内 ◇Gmap:マップコード

箱館在六ヶ場所 ウスジリ開拓の地MAP

ウスジリ開拓の地 元々は箱館の東方に所在する松前藩家臣の知行地で、小安場所、戸井場所、尻岸内場所、尾札部場所、茅部場所、野田追場所の交易区域で、元禄期に六箇場所一帯が商場(場所)として成立したと考えられているようです。寛政の頃はそれぞれの場所に場所請負人がいて会所(運上屋)がおかれていたと思われる。和人地は亀田付近迄で以北は東蝦夷地であったが、東蝦夷地が幕府直轄になった頃には多くの和人が移住しており、享和元(1801)年に本土と同じように村並とされ、山越内を和人地と蝦夷地の境界としたとされる。また「オサツベ」は尾札部・臼尻・鹿部の3村に分けられ「カヤベ」は砂原と鷲ノ木に二分され9村並が成立していた事になるが、幕府再直轄後の安政5(1858)年に新たに分村した掛澗・森・尾白内を加えて正式な「村」と認可されるまで箱館六ヶ場所の呼称は継続していたという。また村並等なって場所として独立しの六箇場所と呼ばれるようになったようで、会所も蝦夷地とは性格が異なるが、末端の行政機関であり宿駅業務や逓送(公文書なと)業務などは継続された。ここはまた大型定置網漁法による漁法を確立した北海道漁業開拓功労者小川屋幸吉の屋敷跡でもあったという。◇指定年:昭和53年2月28日 ◇建立年:昭和57年7月1日 ◇建立者:旧南茅部町 ◇所在地:函館市臼尻町234-1 臼尻会館前 ◇Gmap:マップコード

箱館在六ヶ場所 オサツベ開拓の地MAP

オサツベ開拓の地 碑文「箱館在六ヶ場所/オサツベ場所開拓の地」裏面は「漁業開拓三百年記念」と刻まれている。オサツベ場所は享和元(1801)年に尾札部、臼尻、鹿部に分村し村並になったが、幕府再直轄後の安政5(1858)年に正式な村並となるまでは箱館在六箇場所、箱館六ヶ場所、六箇場所とも呼ばれていたようです。近接地のウスジリも旧ウスジリ会所あとに碑が建立されていたので、オサツベ会所も同じように近接地あったと思われるが、当時の会所は運上屋と同じで公設の宿泊所であり、松浦武四郎の蝦夷日誌に「飯田助五右衛門二宿す。此家二代程会所を相勤」とあり、後の駅逓取扱人は三代目飯田与五左衛門で臼尻の小川屋幸吉ともに黒鷲岬沖と弁天岬で鮪大謀網漁法を試みたと伝えられています。漁場開拓の歴史を記念した碑でした。◇建立年:昭和57年7月1日 ◇建立者:旧南茅部町 ◇所在地:函館市尾札部町  ◇Gmap:マップコード

北海道建網大謀網漁業発祥之地MAP

建網大謀網漁業発祥之地碑文1「北海道建網大謀網漁業発祥之地」、裏面は「昭和二十六年漁業制度改革記念/昭和二十九年八月 建立/北海道漁業制度改革記念事業會」と刻む。説明板に「天保10(1839)年、尾札部村の三代目飯田屋与五左衛門と臼尻村の小川屋幸吉は大謀網漁を計画し、南部の人田鎖丹蔵を招いて、この黒鷲岬沖と弁天岬に鮪大謀網漁法を試みたと伝えられています。これが北海道の大謀網漁業のはじまりと伝えられています。大謀網は沖出百七十間(306M)に敷設され、その後改良を加えられ鮪の大魚に恵まれました。戦後漁業制度の改革にあたり北海道並びに尾札部村により、ここに記念碑が建立されました。碑文は北海道知事 田中敏文が揮毫し、沿革の刻文は尾札部村長杉谷梅一が印したものです。」とある。尾札部は昆布やナマコの名産地であったが、天保の頃より鮪にも挑戦したとの事で「蝦夷日誌」に鰤魚多く寄せ来るも、鰤を捕る仕掛けを知らずに鱒網を入れたが、魚が大きく網がズタズタに破れたと初期の頃を記している。◇建立年:昭和29年8月 ◇建立者:北海道漁業制度改革記念事業會 ◇所在地:函館市尾札部町2725 黒鷲岬 ◇Gmap:マップコード

海難供養塔

海難供養塔 碑文「海難供養塔」裏面は「昭和四十四年十月吉日/発起人/椴法華漁業共同組合建之」と刻む。具体的な事は何も刻んでないが、箱館近海の大規模な遭難事故では明治22年と23年のイカ釣り漁船遭難、併せて60隻沈没とあり多くの方が犠牲になったと思われる。その後には明治36年に尻岸内で鮪漁船12隻沈没、全道沿岸規模では大正6年、昭和30,31年などの記録があるようだが漁船の近代化で海難事故は減少してきている。 ◇建立年:昭和44年10月 ◇建立者:椴法華漁業共同組合 ◇所在地:函館市元村町 ◇Gmap:マップコード

椴法華村発祥の地

椴法華村発祥の地 碑文1椴法華村発祥之地/椴法華村長 鎌田作郎書」碑文2「本村の歴史は今から約350年前、先人がこの地に漁場を開いた事から始まる。その後松前藩の知行漁場として栄えると共に、恵山の硫黄、明礬の採掘も行われ、この地(元村)より島泊、夫尻浜に集落がつくられていった。以来幾多の父祖先人が粒々辛苦を重ね明治9年に尾札部村より独立して本年輝かしい百年を迎えたのである。ここに村発展の礎石を捧げると共により豊かな郷土の発展を目指しこの碑を建立するものである。昭和31年9月14日」碑文3「当石碑は元村恵山線改良のため、支障となりひの地に移設した。平成19年11月」※平成16(2004)年年12月1日 椴法華村を廃し箱館に編入。◇建立年:昭和31年9月14日 ◇建立者:旧椴法華村? ◇所在地:函館市元村町 ◇Gmap:マップコード

本州~北海道最短の地

本州~北海道最短の地 恵山国道(国道278号線)沿いで汐首岬に「本州~北海道最短の地 17.5km」と書かれた大看板がり附近に小さな駐車場が出来ている。17.5kmはここ瀬田来の汐首岬と津軽海峡を隔てて下北半島の大間崎までの距離で、天気であれば下北半島の大間崎までよくみえますが、汐首岬には岬という雰囲気はありません。また北海道では瀬田来町と汐首町にしかない鰯の袋澗の一つ「吉崎の澗」が眼下に見えています。また少し汐首岬灯台側に いくと旧国鉄戸井線コンクリートアーチ橋が見えてきます。戦跡で土木遺産、産業遺産をも併せて見られるとよいでしょう。◇所在地:函館市瀬田来町 汐首岬 ◇Gmap:マップコード

旧国鉄戸井線コンクリートアーチ橋

旧戸井線アーチ橋 本州~北海道の狭部部である汐首岬に津軽海峡を封鎖出来る砲台の建設が計画され、軍事物資及び兵員輸送目的で函館本線五稜郭駅から戸井町(現函館市)戸井駅までを結ぶ軍用鉄道として昭和19(1944)年の完成を予定し、昭和11(1936)年に工事開始となったが2.8kmを残し、戦局悪化による資材や労働力不足のため、昭和18(1943)年に工事中断、軍用鉄道であったため、戦後の工事は再開されず中止となった。極端な物資不足の中で作られたため、コンクリートの質も均一ではなく崩落の危険性もあると云う。コンクリートアーチ橋以外の遺構も残ってるという。この当時の鉄道建設は殆どが監獄部屋ありきでしたが、土工夫も戦争に狩り出され、労働力確保のため強制連行された人達もいたのではないでしょうか。◇竣工年:中断,未成 ◇発注者:鉄道省 ◇所在地:函館市汐首町 ◇Gmap:マップコード

志苔館内の石碑MAP

志苔館内の石碑 志苔館内に二基の古い石碑が並んでたっているが判読は難しい。「□□□□/留目政治先生頌徳碑/先生南部大向村人也執教鞭於宇賀校拾有五/年諄々不倦夙肇同窓会指導青年而盡瘁智/徳向上與習俗改善又克繹史蹟勗之保存焉爾/来會運月進教化歳顕師恩寔大也浴薰陶者景/慕轉難止弓勒事績報鴻恩以傳是後人矣/大正八年九月 宇賀同窓會」※一部の文字は達筆すぎて判読不能ですが大正時代に宇賀小学校初代校長の留目政治氏が志苔館の保存を目的に宇賀同窓会に働きかけ、保存運動を展開し明治33年に館跡を吉田氏から寄贈をうけ、館跡の地権は同窓会に移転した事を顕彰した碑のようです。横に大正七年に建立された「志苔館墟碑」があるが建立したのは誰か?文字の判読は放棄したが、ただ書かれているのは志苔館主を顕彰した碑のようです。◇所在地:函館市志海苔町

志苔館 和人殉難御霊碑/阿伊努帳魂御霊 慰霊碑MAP

志苔館慰霊碑 説明板より「由緒 下北半島津軽方面に於いて南北朝の戦いに敗れたる南朝方の武士達、道南に館を築きてありしが、康正二(1456)年志苔館付近にて阿伊努(アイヌ)の蜂起あり、翌長禄元年、館は攻め落とされ、その後再び永正九(1512)年戦いがあり館は陥落し廃館となった。ここにコマシャインの戦いにおいて亡くなりし館主、和人御霊、阿伊努御霊双方を同一座にお祭りしたものであります。祭神 小林良景命 他 和人殉難御霊 阿伊努帳魂御霊 例大祭 七月二十二日 昭和四十五年五月九日完成 石崎地主海神社社務所」※ここでは祭神 小林良景命とあるように和人側からみた歴史としての記述となっている印象だが、阿伊努と書いてアイヌと読ませるのか気になった。阿伊努帳魂御霊碑裏面に「コマシャインの戦いにおいて倒れたる御霊たちのために」と刻まれていた。碑は志苔館入口付近にある。◇建立年:昭和45年5月9日 ◇改修年:平成11年6月吉日 ◇建立者:谷地頭神社信友会 ◊所在地:函館市志海苔町 ◇Gmap:マップコード

五稜郭 旧箱館奉行所特別史跡

五稜郭 旧箱館奉行所箱館奉行所は日本の北辺防備の拠点として設置された江戸幕府の役所だが、同時にアイヌ民族抑圧を受け持つ別な顔もあった。東蝦夷地を幕府直轄地(1799)とした後の享和3(1803)年に函館山の山麓(元町公園付近)に設置されたが、1821年に蝦夷地を松前藩に返還。ペリー来航に伴い嘉永7(1854)年に箱館奉行所を再設置、翌年には渡島半島の一部を除いて再び蝦夷地天領とし諸藩に沿岸警備を命じた。防衛上の理由から1857(安政4)に五稜郭築城を開始、元治元年に箱館奉行所は五稜郭内に新築移転、1866(慶応2)で五稜郭関連の工事は終了している。明治元年に箱館は戊辰戦争最後の戦場になり五稜郭を旧幕府脱走軍に占拠されるが翌年に降伏して五稜郭は明け渡された。明治4(1871)年に箱館戦争で使用不能になった旧箱館奉行所と付属建物の大部分が解体、大正3(1914)年に五稜郭が公園として一般開放。現在の奉行所は平成22(2010)年に復元されたが、建物周囲のアカマツは五稜郭築城当時の植樹という。◇函館市五稜郭町

旧箱館奉行所跡元町公園

旧箱館奉行所跡箱館奉行所は東蝦夷地を幕府直轄地とした直後の享和2(1802)年に設置された。元治元(1864)年に五稜郭内に移転するまで、蝦夷地支配の中心地だった。凾館山に向かってのびる基坂を上がっていくと右手にペリー提督像、左手には旧イギリス領事館、突当りは元町公園で左手に箱館奉行所跡標識、奥に公会堂が海を見下ろして建つ。◇所在地:函館市元町12-18

元町公園

元町公園函館山北東麓の高台上にあり、室町時代には道南十二館のひとつ宇須岸館(別名・箱館)があり函館の地名由来となった。函館の旧市街は石や煉瓦造りの建築が多いが、何度もの大火で石や煉瓦造りの建物だけが残った巨大な明治村という印象だ。元町公園は松前藩時代に亀田番所、江戸幕府直轄領時には箱館奉行所があり、明治維新後は北海道庁函館支庁が置かれていた。元町公園内に今も旧函館区公会堂、旧開拓使函館支庁書籍庫と旧北海道庁函館支庁庁舎があり旧庁舎は観光案内所、2階は函館市写真歴史館になっている。五稜郭に移転前の箱館奉行所跡の碑もありかつては政治の中心地だったが、今は函館を代表する観光地のひとつとなっている。◇所在地:函館市元町12-18

旧函館区公会堂元町公園

旧函館区公会堂大火で焼失した町会所を再建しようと、工事費の大半を豪商相馬哲平の寄付によって明治43(1910)年に建造された。コロニアル・スタイルという洋風建築の粋を集めて造られた木造建築で国指定重要文化財となっている。バルコニーからの港と坂の眺めは絶景という。◇所在地:函館市元町

旧北海道函館支庁庁舎元町公園

旧北海道函館支庁庁舎最初の北海道庁函館支庁舎は1907年の大火で消失、その後に洋風木造2階建庁舎として明治42(1909)年に建てられた。平成3(1991)年に火事で内部を焼損したが、平成6(1994)年に復元、建物は函館写真歴史館、観光案内所として利用されている。開館は9時から19時◇所在地:函館市元町

旧開拓使函館支庁書籍庫元町公園

旧開拓使函館支庁書籍庫元町公園内の旧支庁舎に隣接する赤レンガの書庫で明治13(1880)年築、明治40(1907)年の大火でも類焼を免れ、庫内の資料も無事だったという。現在は防火点検時以外は開かずの扉で内部非公開。建物は耐久性、耐火性、防水防寒など色々な工夫がされているという。函館の古建築物に石造りの建物が多いのは火災でも耐えて生残ったのというのが多いようです。◇所在地:函館市元町

函館四天王像元町公園

函館四天王像明治初期の函館は政府や諸藩の束縛や拘束が少なく市民が自主的に行動ができる気風があり、それが都市造りにも反映されたようです。蝦夷地と云われた頃より豪商の本拠地であり、当時の政権が北海道開発のため彼らの力を必要とした時代背景も無視できない。四天王に共通しているのは基幹産業の育成、日刊新聞、教育文化、医療福祉、水道や公園などインフラ整備にいたるまで計画的な都市造りに私財を惜しげも無く投じた事、内部留保をため込んでいる企業は四天王に見習ってほしいものだ。写真の左より、今井 市右衛門(1836-1887年)、平田 文右衛門 (1849-1901)、渡邉 熊四郎 (1840-1907年)、平塚 時蔵 (1826-1922年)の4人。◇所在地:函館市元町

旧相馬邸と相馬株式会社

相馬株式会社一代で北海道屈指の豪商にまで駆け上がった相馬哲平氏の私邸だった建物で函館を代表的する民間建築で伝統的建造物指定されている。建物は基坂上にあり明治41(1908)年に建築された延床面積680㎡の豪邸で、以前は完全予約制でしか見学できなかったが2010年から一般公開となっている。建物の豪華さにしては相馬哲平氏の私生活は質素だったようですが、旧函館区公会堂の建設などに私財を投じて函館の発展に貢献している。蔵を改築した「元町ギャラリー」や新たに開設された喫茶室もある。基坂の下にある大正5年完成の相馬株式会社社屋は今も現役で木造2階建ての鉄板葺き、突き出た窓はルネッサンス様式と社屋としては豪華で洒落たつくり、外部のみ鑑賞となる。◇所在地:函館市大町9-1

高田屋嘉兵衛像MAP

高田屋嘉兵衛像台座前面の碑文より「高田屋嘉兵衛像」台座裏面には「高田屋嘉兵衛明和6年~文政10年(1769~1827)は淡路の人28歳の時 渡来し50歳の時帰国するまで箱館を基地としエトロフ島を開発経営して北洋漁業を営み奉行所松前移転後も本店を大町に 屋敷を蓬来町に構えて大船10余・蔵40余をもち大いに箱館の繁栄を築いた。又ゴローイン拘因のとき沈着剛胆よく、日露の間を奔走してその釈放につとめ、永く露国に感謝せられた。今年箱館開港百年に当り、本市出身の梁川剛一氏に嘱しこの銅像を建立して、永くその功績を記念する。昭和33年7月15日 函館市長 吉谷一次」とあり、観光説明板には「この銅像は、嘉兵衛の功績を称えるとともに、箱館開港100年を記念して昭和33(1958)年に建てられた。制作者は函館出身の彫刻家、梁川剛一である。嘉兵衛は明和6(1769)年に淡路島に生まれ、28歳のとき箱館に渡った。文政元(1818)年に故郷に帰るまで、箱館を基地として造船・海運業・漁場経営などを手がけ、国後島・択捉島の航路や漁場を開発し、函館発展の基礎を築き大きな業績を残した。さらに、ゴロヴニン事件という日露国家間の問題を、民間の立場ながら無事解決に導いたことでも有名である。この像は文化10(1813)年、ロシア軍艦ディアナ号が捕らわれていたゴロヴニン船長を引き取るため、箱館に入港した際に立ち会った時の嘉兵衛の姿である。右手に持つのが松前奉行からの諭書、左手に持つのは艦内で正装に着替えた際に脱いだ衣装であり、仙台平の袴に白足袋、麻裏草履を用い、帯刀している」と記されている。文政元(1818)年に50歳で事業を弟、金兵衛に引き継ぎ郷里淡路へ帰り、文政10(1827)年、波乱にみちた59年の生涯を閉じている。◇建立年:昭和33年7月15日 ◇建立者:不詳 ◇所在地:函館市宝来町9 高田屋通 ◇Gmap:マップコード

高田屋屋敷跡MAP

高田屋屋敷跡銀座通りグリーンベルトの一角に石柱と説明板がある。高田嘉兵衛は箱館を拠点にして回漕業を営み、国後及び択捉両島の漁場を開拓した北洋漁業の先駆者でした。高田屋の全盛期は寛政13(1801)年に嘉兵衛の跡を継いだ金兵衛(嘉兵衛の弟)が、幕府の許可を得てこの地域五万坪を拝借し、その一角に豪壮な邸宅を建てた頃であるという。その規模は敷地面積で2町(約220m)四方もあり、邸内には山を築き池を造り、また高価な石が置かれていたともいうが、公共事業や慈善事業に大きな功績を残したというが、現地の様子は様変りして当時の面影は皆無。◇建立年:未確認 ◇建立者:未確認 ◇所在地:函館市宝来町 高田屋通 ◇Gmap:マップコード

高田屋本店跡MAP

高田屋本店跡豪商高田屋の本店があった所に「高田屋本店跡」の石標柱がある。寛政8(1796)年に箱館へ進出した高田屋嘉兵衛は、同10(1798)年に支店を設け、弟の金兵衛を支配人として手船五隻で回漕業を営んだ。高田屋嘉兵衛は淡路島出身で当時の本店は兵庫に置かれていたが、文政元(1818)年、50歳で事業を弟、金兵衛に引き継ぎ郷里淡路へ帰るが、高田屋嘉兵衛の志をついだ高田屋金兵衛は更に事業を拡大し、文政7(1824)年に箱館支店を本店に昇格させ、兵庫を支店とし大阪や江戸にも支店を置いた。エトロフ航路開発や北方漁場の経営などで知られる高田屋の拠点がこの地点でした。◇建立年:未確認 ◇建立者:未確認 ◇所在地:函館市大町9 ◇Gmap:マップコード

箱館高田屋嘉兵衛資料館造船所跡地の碑MAP

箱館高田屋嘉兵衛資料館淡路島出身の豪商・高田屋嘉兵衛の名は小説やテレビドラマの題材にもなった「ゴロウニン事件」の解決を図った人物として知られる。箱館高田屋嘉兵衛資料館は私設の資料展示館として昭和61(1986)年に開設され、箱館(現・函館)~大坂(現・大阪)を航路としていた北前船にまつわる品々を中心に展示さしています。資料館は明治36(1903)年に建造された1号館と大正12(1923)年に建造された2号館の2棟からなり、漆喰の外壁や桟瓦葺の屋根などは和風の趣がある。また高田屋造船所の跡地とされる場所で標柱が設置されている。1号館は高田屋の半纏や、嘉兵衛が箱館に初来航したときの北前船・辰悦丸の復元模型、寛政11(1799)年当時の函館を描いた巨大な絵図などを展示。2号館は羅針盤や船額、船箪笥や炊事道具といった北前船で使われていた日用品などが展示されています。なお館内は写真撮影禁止。◇開設年:昭和61年 ◇旧館日:年末年始、木曜日(祝日の場合は翌日) ◇入館料:大人(高校生以上) 300円、小人(小・中学生) 100円 ◇所在地:北海道函館市末広町13-22 ◇Gmap:マップコード

高田屋嘉兵衛顕彰碑MAP

高田屋嘉兵衛顕彰碑碑文より「高田屋嘉兵衛(1769~1827)は淡路の人。28歳のとき渡来し、50で皈国するまで、箱館を根拠地として北海の天地に活躍した。初めてエトロフ島への海路を開き、17の漁場を作って北海漁業の先駆をなし、又箱館に大店舗構え、奉行所松前移轉後もエトロフ、幌泉、根室場所の漁獲物の集散と仕込物資の調達をになって、箱館の繁栄を築き、更にゴロウイン拘囚のとき、沈着剛胆よく日露の間を奔走して無事釈放につとめ、永く露国に感謝せられた。今年嘉兵衛の百四回忌に当たり、高田屋まつりを行い、この碑を建ててその功績を顕彰する。碑は称名寺境内、河野加賀守政道慰霊碑近くの目立つ場所にある。◇建立年:昭和31年8月2日 ◇建立者:函館商工会議所 ◇所在地:北海道函館市末広町13-22 称名寺

新選組最後の地碑

新選組最後の地碑碑文より「新選組最後の地」「箱館戦争のとき、旧幕府軍の一隊として、ここにあった弁天台場を守っていた新選組百余名は、明治2(1869)年新政府軍の猛攻撃で、5月15日降伏した。ここが最後の地である。箱館港の防衛拠点として造られた砲台跡。旧幕府軍が陣取ったが、明治2(1869)年5月15日に降伏」とある。すぐ近くにある函館市設置の弁天岬台場跡説明板には「西洋列強からの圧力が増してきた江戸末期に、幕府は蝦夷地を2度目の直轄領とした。安政元(1854)年、箱館奉行竹内下野守と堀織部正は、箱館の警備について幕府へ上申し、弁天岬台場を築造することになった。台場は、安政3年、10万両の予算で、現在の函館どつくの一角に着工された。設計・監督は五稜郭と同じ武田斐三郎によるもので、不等辺六角形(周囲約684m、面積約32,340㎡)をした台場は、元治元(1864)年に完成した。この台場が実際に使われたのは、箱館戦争の時であった。台場を占拠した旧幕府脱走軍は、新政府軍と砲戦を展開したが、新政府軍に圧倒され、明治2(1869)年5月15日、台場に籠城していた箱館奉行永井玄蕃ほか約240名全員が降伏した。台場はその後、弁天砲台として陸軍省の所轄となり、函館砲隊が守備していた。明治29(1896)年、港湾改良のために取り壊されて周囲が埋め立てられたので、今は昔の姿を知ることができない。」とある。◇建立年:平成22年11月吉日 ◇建立者:函館史跡顕彰会(氏名省略) ◇所在地:函館市入船町6 ◇Gmap:マップコード

鯨族供養塔

鯨族供養塔遠洋捕鯨会社の船長兼捕鯨船鯨洋丸の砲手天野太輔さんが昭和32年9月、83歳のときに建立。碑文「明治四十年以来捕鯨事業二従事セシコト 二十六年ノ長キニ及ビ其ノ間二於ケル捕鯨頭数 実ニ貮阡数百頭二達セリ此多数ノ鯨族中ニ親子連レノモノアリ此ヲ捕獲セシ事 数度ニ及ビ尊キ鯨族ノ生命ヲ奪ヒタル其ノ罪 誠ニ慚愧ニ堪エズ 是ニ報ユル道ヲ講ゼザルベカラズ カネテヨリ考慮セシ●妻ノ死ニ遭ヒ一層其ノ感ヲ深クセリサキニ吾子三人ヲ失ヒ 当時何等痛惜ノ情 感ゼザリシモ 老イシ今日痛切ニ人世ノ無常ヲ感ズルニ至レリ此ニ於テ 此等諸精霊ノ菩提ヲ弔ワントスル意志勃然トシテ起リ ソレヲ達成●ラン」遠洋捕鯨会社の船長兼捕鯨船鯨洋丸の砲手天野太輔さんが昭和32年9月、83歳のときに建立。漁霊碑や獣魂碑等は各地にあるが「クジラ」の慰霊碑は他で見た事が無い。犠牲になった鯨の頭数からすればもっと有っても良さそうなものだが。◇建立年:昭和32年9月 ◇建立者:天野太輔 ◇所在地:函館市弥生町 千歳坂 ◇Gmap:マップコード

高龍寺

高龍寺外から見ただけなので境内の様子は分かりませんが、函館市設置の説明板より「高龍寺は寛永10(1663)年、松前の曹洞宗宗法源寺の末寺として亀田村(現在の市内万代町辺り)にことに始まる市内で最も古い寺院である。その後、洪水による被害などで亀田が衰退したため、泳宝3(1706)年に箱館の弁天町(今の入舟町)に移転した。箱館開港直後はロシア領事館一行の止宿所となり、明治2(1869)年の箱館戦争時には箱館病院の分院として負傷者を受け入れた。幾度か大火で建物を使用失したが。明治12(1879)年にこの地に移転し、明治33(1900)年には現在の本堂が完成、同43(1910)年に完成した山門は彫刻が見事である。いずれも越後出身の名工たちの労作で、明治時代末期の貴重な木造寺院である。函館山を斜景とした日本庭園には、芭蕉の句碑(鼠塚)もあり、墓地には勝海舟と親交が有った渋田利右衛門や、日本最初の種痘を行った中川五郎治などの著名な人の墓がある。また、松前藩家老で、人物花鳥に優れた画家であった蠣崎波響の最高傑作「釈迦涅槃図」(北海道指定有形文化財)を所蔵している。函館市」とあった。◇建立年:寛永10(1663)年 ◇所在地:函館市船見町21-11 ◇Gmap:マップコード

馬車止の石標柱

馬車止の石標柱高龍寺を越えたフランス積みの赤煉瓦塀際に「馬車止」と刻まれた石標柱があった。こんな場所まで馬車鉄道がとも思ったが近くに陸軍省跡と思われる碑もあり外人墓地にもちかいので馬車鉄道が有っても不思議ではないので、馬車の待機場?今の交通標識でいうと駐車場というところか・・他の町ではお目にかかった事の無い碑でした。 ◇所在地:函館市船見町21 ◇Gmap:マップコード

称名寺(しょうみょうじ)

称名寺(しょうみょうじ)称名寺は函館市船見町にある浄土宗の寺院で、創建は江戸時代初期の正保元(1644)年に伊勢の国から渡来した円龍という僧が、亀田村(現・函館市八幡町附近)に開いた阿弥陀庵が始まりとされる。その後阿弥陀堂と改称し元禄3(1690)年に松前町にある光善寺の末寺として称名寺と称した。宝永5(1708)年に富岡町(現・函館市弥生町)に移転整備されるが、明治12(1879)年の大火で焼失し現在地に移転。その後も何度か大火に見舞われたため、昭和4(1929)年に鉄筋コンクリート造りの本堂として再建され現在に至る。創建年で見ると函館市内では高龍寺に次ぎ2番目に古い寺院で、箱館奉行交代の際の仮本陣、箱館が開港された当初は英仏の領事館、箱館戦争の時には、新撰組残党の屯所が置かれたこともあり、土方歳三と隊士の供養碑がある他に高田屋嘉兵衛顕彰碑、河野加賀守政道公供養碑、函館空襲の戦災者慰霊碑などがある。◇創建年:正保元年 ◇所在地:館市船見町18-14 ◇Gmap:マップコード

戦災者慰霊碑第二次世界大戦 函館空襲戦災跡地・称名寺

戦災者慰霊碑碑文1「第二次世界大戦 函館空襲戦災跡地 戦災者慰霊碑」碑文2「第二次世界大戦末期昭和20(1945)年7月14・15の両日アメリカ艦隊機動部隊の戦闘爆撃機グラマンコルセア50機により主要攻撃目標であった函館港内や津軽海峡航行中の船舶は爆撃を受けて85隻が沈没や破壊され多数の犠牲者が出ました。市内では駒止町、天神町、船見町、鍛冶町、松風町、若松町、大森町、海岸町等の民家が空襲を受け家屋169棟、戸数384戸余を焼失。破壊家屋も多数にのぼり、多くの死傷者を出しました。特に駒止町、天神町、旅籠町、船見町、鍛冶町地区は函館空襲最大の戦災地で老人と子供23人が爆撃や機銃掃射を浴びて犠牲者となり、また多数の負傷者を出し384戸が全半焼しました。この戦争・空襲による悲惨な歴史的事実を想起して函館における空襲犠牲者の霊を慰め、軍縮を希求し、平和を守り抜く誓いを堅持いたしたく、有志者一同が称名寺住職須藤隆仙師の御高配を頂いて、戦災跡地を見下ろすこの境内に記念碑を設置しました。」とあり裏面に「この碑は日本国憲法第九条「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦爭と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」条文を遵守し 真の平和を願う536名の淨財によって建立されました。」と記す。戦災者氏名は割愛する。同所に函館空襲を記録する会が、平成13(2001)年9月23日建立した札幌鉄道郵便局・函館郵便室職員殉職者慰霊碑があり「昭和20(1945)年7月14日 函館空襲の際、函館駅、桟橋構内で勤務中の札幌鉄道郵便局・函館郵便室職員殉職者名(氏名略)」と記されている。◇建立年:平成元年7月14日 ◇建立者:函館空襲を記録する会 ◇所在地:館市船見町18-14 称名寺

河野加賀守政道慰霊碑称名寺

河野加賀守政道慰霊碑碑文の「捐館高峰院殿加屋凌雲大居士 神儀」とあり、副碑の碑文は「河野加賀守政道公は享徳3(1454)年南部大畑より渡来し、現在の函館病院附近に館を築き函館一帯の地を治めた。後、アイヌ等と和人の間に争いを生じ館は陥ち政道公も戦歿す。この供養費は宝暦3(1753)年、時の亀田奉行、政道公の祭祀の無きを嘆き弥生小学校辺にありし稱名寺に建立せしが後稱名寺の移転と共に現在地に至りしものである。」裏面に「平成元年七月吉日建之」とあり、函館市設置の説明板では「河野政通は伊予(愛媛県)の出で、享徳3(1454)年に渡来し、今の基坂の上に館を築いた。この辺はアイヌ語でウスケシ(湾の端の意)といったが、この館が箱の形をしていたのでハコダテの地名が生まれたといい、明治2年までは「箱館」と書いた。永正9(1512)年、子季通(すえみち)の時アイヌに攻められ館は陥ちた。この碑は、宝暦3(1753)年に松前藩の亀田奉行が建て、表面に「捐館高峰院殿加屋凌雲大居士 神儀」と刻み、裏面に碑文がある。」※裏面の碑文は判読困難。◇建立年:宝暦3年供養碑) ◇建立年:平成元年7月吉日建之(副碑) ◇所在地:館市船見町18-14 称名寺

土方歳三と新撰組隊士の供養碑称名寺

土方歳三と新撰組隊士の供養碑碑文前面には「明治 二年 五月 十一日/歳進院殿誠山義豊大居士 位/土方歳三/野村義時/栗原仙之助/糟屋十郎/小林幸次郎」と刻まれているが、予備知識なしに読み下すのは難しそう。函館市設置の説明板には土方歳三(新撰組副長)は榎本軍に加わり函館で戦死。戦死場所は一本木(若松町)、鶴岡町、栄国橋(十字街)など諸説あり、土方ゆかりの東京都日野市金剛寺の過去帳に「函館称名寺に供養碑を建てた」と記それてるという。称名寺は明治期の大火で3回も焼け、碑は現存しないため昭和48年有志が現在の碑を建立、他の4名は新撰組隊士で称名寺墓地に墓碑が建立されたが昭和29年の台風で壊れこの碑に名を刻んだと書かれている。◇建立年:昭和48年(再建) ◇再建者:未確認 ◇所在地:館市船見町18-14 称名寺

有縁両縁塔地蔵寺

有縁両縁塔北海道で公認の遊郭は協和3(1803)年の箱館山上町が最初のようですが、慰霊碑の建立については説明板の転載で代える。『この「有縁両縁塔」は、元治元(1803)年に、当時の遊郭の経営者たちが、引き取り手のない遊女などを供養するために、合同で建立した供養碑である。かつて山ノ上町と呼ばれた界隈(現在の舟見町界隈)には、多くの遊女屋があって賑わっていたが、箱館奉行が安政5(1858)年に、その一画を山ノ上遊郭として公認してからは、整備も進んでいった。さらに、翌年の開港に伴い、日本各地の商船や外国人の往来が盛んになり、遊郭も一層の賑わいをみせるようになった。この碑は、開港という新しい時代の陰に、遊郭で働き、ここで生涯を終えざるを得なかった女性達がいた事実を残すもので、台右には建立者達の名前が刻まれている』※歴史の陰に埋もれているが、先行して人身売買があり、遊郭で働かされ斃れても引き取り手がなく遊郭で生涯を終えざるを得なかった。北海道開拓の中で監獄労働で斃れた人達と同じように、この人達もまた殉難者であったといえる。◇建立年:元治元年 ◇建立者:世話人6名 遊女屋経営者25人共同建立 ◇所在地:函館市船見町23 地蔵寺入口 ◇Gmap:マップコード

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