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ぐるっと胆振プチ旅4‼
伊達市・有珠と旧大滝村を巡る旅‼

バチラー夫妻記念堂MAP

バチラー夫妻記念堂最初に説明板から「アイヌの父とうたわれ、また初期アイヌ語学の権威者として知られたジョン・バチラー博士が、明治25年にこの地にて伝導を開始した。この地の人たちが、明治26年に木造の礼拝堂を建てたが、後年昭和12年に司祭夫妻の功績を称え、ジョン・バチラー記念堂として改築したもので、有珠山噴石を用いての異国風の石造建物はこの一角に異彩を放ち、郷土に無言の教化を及ぼしている。開基百年記念物指定 昭和44年8月23日 市文化財指定 平成4年9月28日 伊達市教育委員会」※最初の礼拝堂はアイヌの有力者、向井富蔵氏らが中心となって建てられたが、昭和12年に養女である八重子や信者の協力によって建替られ石造一部二階建となり、場所は同じだがそれまで西向きだった入口は東向きに変わっている。平成の初め頃の建物はかなり傷んでいたが、平成13年より修復工事が始まり翌年に完工、説明板の日付は変わらないが内容は新しくなっている。当時はアイヌ子弟の教育は例外なくアイヌ文化の根幹であるアイヌ語を禁止し、アイヌ民族の伝統文化を否定した同化政策であり、人格者と言われアイヌ達の地位向上のため奔走した教育者も、同化政策推進の第一線で働いた人達でした。そんな中でバチラーはアイヌ語を覚え、アイヌとはアイヌ語で話し、かつアイヌ語で話すことを奨励した。アイヌ文化を守る仕事は日本人ではなく、外国人の宣教師や医師によって始められたといえます。バチラー司祭は布教活動にとどまらずアイヌの救済や教育、アイヌ民族の復権と地位向上のための活動は太平洋戦争での始まりで強制退去を命じられるまで続けられました。館内の一般公開されていないが、4月から10月までの礼拝日には見学は可能とあり。◇所在地:伊達市向有珠町119 ◇Gmap:マップコード

バチラー(向井)八重子歌碑バチラー記念教会堂MAP

バチラー八重子歌碑1バチラー記念堂ではバチラー八重子抜きには語れないでしょう。バチラー牧師を助け布教活動に生涯を捧げただけでなく、和人の同化政策で困窮を余儀なくされたアイヌの人びとの生活を改善するため、さまざまな啓蒙活動に力を尽くし、バチラー記念堂再建にも大きな力を発揮した。碑にある八重子の略年譜より引用して略歴を記す。バチラー八重子はアイヌ民族の有力者で有珠の礼拝堂建設に奔走した、向井富蔵の5人の子供の次女として明治17(1884)年6月18日有珠郡有珠村に生まれ、明治24(1891)年にバチラーにより洗礼をうける。向井富蔵が亡くなり明治39(1906)年にバラー夫妻の養女に迎えられ、明治42(1909)年に養父母と共に渡英。大正2(1913)年には来道した宮本百合子を胆振、日髙を案内している。「風に乗ってくるコロポックル」を発表と有ったがこれは宮本百合子の作品だと思うが・・・大正10(1921)年より平取教会、幌別教会に勤務。昭和7(1937)年に「若きウタリに」を発行、昭和12(1937)年にバチラー夫妻記念堂完成、昭和15(1940)年より有珠に定住、昭和37(1962)年京都旅行中に倒れ78年の生涯を閉じる。バチラー八重子はバチラーと同じようにアイヌの地位向上に尽力したが、その活動のかたわら書き溜めた歌集が「若きウタリに」であり同胞への思いや生まれ育った有珠の自然への愛が和歌の形で綴られている。「故郷」から抜粋された有珠に関わりの深い三首「春ごとに 村に訪ひ来し 閑古鳥 家の近くの 山に鳴きしか」「海もよし 山もうつくし 人もよし ほんに住みよき 有珠コタンかな」「有珠山に のぼりたなびく 噴火湾 岸辺にたてる 駒が獄かな」歌がバチラー夫妻記念教会堂前の歌碑に刻まれていた。歌碑は八重子生誕120年に向け市民からの募金で建てられたもの。その中心となった期成会は、昭和20年代から30年代にかけ、かつて八重子がこの場所で開いた日曜学校に通っていた人々などが担いました。◇建立年:平成15年6月13日 ◇建立者:バチラー八重子歌碑建立期成会 ◊所在地:伊達市向有珠町119 ◇Gmap:マップコード

バチラー(向井)八重子歌碑有珠生活館前MAP

バチラー八重子歌碑2バチラー八重子歌碑としては最後に建立された歌碑で有珠生活舘にある。刻まれた歌は「バチラー八重子歌碑/ごとごとと ちひさき泉 今もなほ 埋もれつつも 沸きてあるらむ/モシリコロ カムイバゼトノ コオリバカン ウタラバピリカ プリネグスネナ」金田一京助の訳文 "大八州国知ろしめす神のみことのたふとしや 神のいづみのいや高にさかえますべし" の二首で、前者は「故郷」より、後者は「若きウタリ」よりとったという。モシリコロは国を治めるものであり、カムイは神=天皇でパセトノは尊称、クリスチャンとしてバチラー八重子の限界を垣間見た印象もあるが、この歌を選択した意図はなんだったのだろうかと気になる。有珠湾周辺は有珠山の伏流水が湧き出す所が随所にあったようで、生活館付近にもあったというも今は海底で干潮時に姿を現すという。江戸期に開設されていた有珠会所も湧水のある所に建てられたと云う。◇建立年:平成15年11月27日 ◇建立者:バチラー八重子歌歌碑建立期成会 ◊所在地:北海道伊達市向有珠町 ◇Gmap:マップコード

バチラー(向井)八重子歌碑白鳥館前MAP

バチラー八重子歌碑3歌人としては有珠の自然、アイヌの人々のこと、アイヌ伝説に取材した短歌、アイヌ語で書かれた短歌の作等で知られるが、歌碑はバチラー夫妻記念堂から徒歩で移動可能な距離の住宅街にある白鳥館前庭の左側、芝生の中にある。歌は「故郷」から「有珠湾に まれに訪び来る 雁の群 足もぬらさで 去るぞ悲しき」「ポロノット タンネシレトや レプンモシリ 神の園生も かくやあるらむ」の二首が刻まれている。ポロノットは大きい岬、タンネシレトは長い岬、レプンモシリは沖の島の意味で白鳥館からは歌碑にある有珠湾が見えるのがよい。◇建立年:平成15年6月13日 ◇建立者:バチラー八重子歌歌碑建立期成会 ◊所在地:北海道伊達市有珠町41-2 ◇Gmap:マップコード

善光寺 地蔵堂MAP

大臼山善光寺 地蔵堂官寺になって移転するまで善光寺のあったという所にある地蔵堂、神社のような雰囲気で境内の隅に土俵もあり廃仏毀釈以前の雰囲気が残っているのが印象的です。松前藩初代藩主・慶広が再建したという如来堂は現在の地蔵堂がある丘だったようで、寛政3年に有珠岳に行くのを目的に当地に訪れた菅江真澄が有珠の運上屋に宿泊し、小船で有珠湾を周遊し善光寺(地蔵堂付近)に参詣した時の様子を「えぞのてぶり」に残す。徳川幕府が官寺として現在地に本堂・庫裡が建立した時に旧善光寺を修復し地蔵堂と改めたようですが、大正8年頃に立て替えられ、手の込んだ彫刻などは見事です。◇伊達市有珠町 ◇Gmap:マップコード

大臼山道場院 善光寺

有珠善光寺有珠湾に臨む丘陵上に位置する浄土宗寺院で大臼山道場院と号す。伝承によれば天長年間(平安時代)に比叡山の僧であった慈覚大師円仁が天長年間の826年に来訪し、小さな祠を建て阿弥陀如来像を奉納し善光寺と名付けたというが、それは現実味には乏しいとしても、1640年代後半にはすでに存在しており蝦夷地としては古い歴史をもつ寺院です。「新羅之記録」によると松前藩初代藩主・慶広が慶長18(1613)年にこの地に赴いたとき如来堂を再建し阿弥陀仏を安置して「善光寺」と称したとあり、実質的な創建はその頃なのかもしれない。元々は今の地蔵堂付近に有ったというが官寺(蝦夷三官寺)となって移転したというも、その後の有珠山噴火のため文政5年から天保7年にはヤマクシナイ、嘉永6年から安政4年にかけてはヲシャマンベ場所に仮院を設け避難していたという。以前は地蔵堂にあった「織部灯篭=別名・キリシタン灯篭」の説明板が、今は善光寺の方にキリシタン灯篭レプリカのとともに屋外展示されていた。◇伊達市有珠町

善光寺自然公園伊達市

善光寺自然公園有珠善光寺の裏手に広がる自然公園で遊歩道が整備されているが一部途中で途切れたりと迷いそうになるが、別ルートで近くまで車道もある。有珠善光寺自然公園にはナラの巨木が多いが350年を越える事はないそうですが、その訳は有珠山の噴火という、長万部側はその後の噴火で200年を越える大きな木はないという。自然公園もう一つ有名なのは桜でしょうか。◇伊達市有珠町

伊達市先住民族 アイヌ慰霊碑

伊達市先住民族 アイヌ慰霊碑 蝦夷地の教化及び法務活動をも目的とした蝦夷三官寺第一の寺、善光寺とは山を挟んで隔絶されたエリアに碑がある。慰霊碑はアイヌ記念碑として建立されたが10年後に慰霊碑と書き換えられた。碑文より転載「アイヌモシリとは(人間の住む大地の意)北海道、千島列島、樺太を云う。このアイヌモシリの地には、太古より多くの人々が住み、中世には蝦夷人と呼ばれ近世以降はアイヌと呼ばれて現在に至っている。有珠郡の有珠は、ウショロ(入り江の内の意)と云い現在の伊達市である。アイヌ達は、この地の厳しい自然の中で独自の精神文化、生活文化を継承しつつ生活をおくって来た。特に明治になってから先人であるアイヌ達は、伊達地の開拓に励み今日の市発展の礎をく築く事に協力して来た。この幾多の先人ウタリ(同胞の意)のその労苦に感謝し徳を忍び功績を讃え市の協賛を得て茲に記念碑を建立する。平成三年五月十二日 北海道ウタリ協会伊達支部 題字 野村 義一」※「協力してきた」は控えめで先住アイヌの慰霊、顕彰になるだろうかという印象をもった。◇建立年:平成3年5月12日 ◇建立者:ウタリ協会伊達支部 ◇所在地:伊達市有珠町124

総合公園だて歴史の杜

だて歴史の杜・竹林伊達開拓記念館周一帯の広い公園で、開拓記念館を初め道の駅(伊達市観光物産館)や、運動場とグランド、庭園、竹林などの他旧三戸部家住宅、伊達迎賓館や旧藩主伊達邦成や田村顕允の銅像など、だて歴史の杜には伊達家とその関係者に関する遺構が多くみられるが広いので回るのは大変。◇所在地:伊達市梅本町61番地  ◇Gmap:マップコード

伊達迎賓館歴史の杜

伊達迎賓館開拓記念館敷地では一際目立つ2階建ての建物で、伊達邦成が男爵の位を受けた祝いに、家臣らによって明治25年に建てられた。洋室と和室を取り合わせた構造で全体的に数寄屋風の書院造の建物。明治政府高官や開拓使などを接待するために利用された。伊達市開拓記念館iには伊達家18代当主伊達廉夫氏が先祖の偉業を後世に伝えるための史料、美術品の数々を市に寄贈したことがきっかけで昭和33年に開館。館内に武具や甲冑、書画などの美術工芸品など、主に江戸時代作られた貴重な調度品を常設展示している。見学は開拓記念館のみ有料。◇所在地:伊達市梅本町61番地2

旧三戸部家住宅歴史の杜

旧三戸部家住宅北海道内に現存する最古級の開拓農家の家屋で明治10年後半に仙台地方の建築様式を取り入れて建てられた文化的価値が非常に高い建物です。昭和44年に市内萩原町にあった住宅を開拓記念館庭園内に移築したもの。昭和46年に国の重要文化財に指定。◇所在地:伊達市梅本町61番地2

伊達邦成像歴史の杜

伊達邦成像伊達邦成(1841~1904)は仙台藩一門、亘理伊達氏の14代目、当別町の基礎を築いた伊達邦直は実兄にあたる。戊辰戦争では海道筋に出兵、仙台藩降伏後は知行を減らされ家臣団を養のが不可能になり、家老、常盤新九郎(田村顕允)の意見により明治3(1870)年から家臣等を率いて有珠に移住し胆振地方の開発に貢献した。◇制作者:本郷 新 ◇制作年:昭和44(1969)年 ◇素材等:ブロンズ像 ◇所在地:伊達市梅本町61番地2

田村顕允像歴史の杜

田村顕允像田村顕允(1832-1913)は陸奥仙台藩、亘理領主伊達邦成の家臣(家老)、知行を殆ど失ない家臣団を養うのが不可能になったため、北海道への移住を提案。領主と共に明治3年より有珠への移住を初め、開拓と牧畜の導入、農社の結成などを図り伊達市の基礎を築いた。本姓は常盤、通称は新九郎、号は珠山という。◇制作者:本郷 新 ◇制作年:昭和44(1969)年 ◇素材等:ブロンズ像 ◇所在地:伊達市梅本町61番地2

平和の鐘

平和の鐘 JR伊達紋別駅前通りの一角にある鐘の形をした平和記念碑。建立の趣意より「昭和20(1945)年7月14日、伊達町(当時は伊達町)は米軍艦載機による空襲を受け、国鉄稀府駅・伊達紋別駅・伊達赤十字病院で21名の犠牲者と多数の負傷者が出る惨事となりました。この鐘は米国製とみられ、駅の釣り鐘として北海道開拓の歩みを見守ってきましたが、奇しくも有珠の鐵道病院で悲惨な伊達空襲を目のあたりにする事になりました。北海道開拓と戦争の歴史の生き証人として価値ある歴史遺産を『平和の鐘』として後世に伝え、その鐘の響きを平和を願う伊達市民の心として世界に発信します。平成19(2007)年11月17日建立 平和の鐘建立実行委員会 題字 佐々木錦堂書 撰文 泉隆」※日本が行った侵略戦争の結末が米軍による赤十字病院攻撃など無差別な伊達空襲でした。それが忘れられた時に再び戦争の危機が訪れる、生き証人の存在価値もそこにある。◇建立年:平成19年11月17日 ◇建立者:平和の鐘建立実行委員会 ◇所在地:伊達市網代町 網代町広場 ◇Gmap:マップコード

胆振縦貫鉄道株式会社跡

胆振縦貫鉄道株式会社跡 伊達市山下町に本社を置く胆振縦貫鉄道は昭和15(1940)年12月に伊達紋別~徳瞬瞥間35kmを開業、翌昭和16(1941)年に胆振鉄道を買収し、徳瞬瞥~西喜茂別間を開業させ伊達紋別~京極間での営業を行っていた。倶知安~京極~脇方間は改正鉄道敷設法制定以前の軽便鉄道法により計画され大正8(1919)年から翌年にかけて開通、大正11(1922)年の軽便鉄道法の廃止で京極線と改称。支線の京極~脇方間7.5kmは倶知安鉱山からの鉱石輸送をのため三井鉱山が軽便鉄道を敷設し完成とともに国有鉄道に寄付。採鉱された鉱石は脇方から倶知安・岩見沢を経て輪西(室蘭)へ運ばれた。京極~喜茂別間は昭和3年11月に竣工するが建設は進まず、昭和15年12月に伊達紋別~徳舜瞥(現・新大滝)間が完成、更に喜茂別まで延伸し昭和16年10月に胆振縦貫鉄道が完成、昭和19(1944)年7月に国有化され胆振縦貫鉄道株式会社は解散。伊達紋別から倶知安までを結ぶ全長83kmの胆振線全通で脇方から室蘭までの輸送距離は80km以上短縮。鉄道敷設工事で難所は寒別~京極間の軽川隧道(411m)や橋梁工事、88℃の熱湯が噴出した優園トンネル(130m)掘削で工事に3年を費やしたという。昭和18(1943)年12月頃より始まった昭和新山の火山活動で上長流~壮瞥間では著しい地盤隆起に見舞われ、火山活動が終息を迎えた頃は元々の鉄路が山の中腹に位置するほど地形は変化した。戦後も胆振線として運行されていたが、鉱山閉山によって輸送量は減少し支線廃止。残りの区間も廃止対象路線に指定され昭和61(1986)年に廃線となった。◇所在地:伊達市山下町 (伊達紋別駅前付近) ◇Gmap:マップコード

本願寺道路起点碑MAP

本願寺道路起点碑京都東本願寺の法主大谷現如が、僧侶その他162名を引き連れて渡道し、邦成等紋鼈開拓者一統の協力も得て明治3年、伊達市のオサルベツ(現・長和)で起工し、洞爺湖の東岸を回り喜茂別から山越えし定山渓を経て天神山麓付近までを結ぶ約103kmの新道が開削され明治4年に開通した。本願寺道路と云うが本願寺街道、有珠街道とも云い国道230号の基礎となった。碑は伊達郷土史研究会が発見した古い地図を元に起点を確定し、平成3年、この功績を永く伝える為、長和住民の協力を得て高さ約3m程の石碑が建てた。本願寺道路終点の平岸まで途上、中山峠、札幌市簾舞、札幌市簾舞にも旧本願寺道路跡を示す碑が建立され、本願寺道路沿いに設置された旧駅逓(通行屋)も簾舞に現存しています。起点碑は国道37号線からからR453号線を340m程入った旧道側にあります。◇建立年:平成3年11月 ◇建立者:伊達郷土史研究会 ◇所在地:伊達市長和町 ◇Gmap:マップコード

三階滝大滝区

三階滝落差10mを三段になって落ちるが、橋の上から見るせいか滝の大きさの割には迫力に欠けるも渓相はよい。迫力を求めるなら河原となるが橋が邪魔。春の水量が多い時や紅葉の季節がお勧め、三階滝公園の一角にあるので気軽に立ち寄れる。滝のそばに「甘露法水」という湧水があり汲みに来る人もいる。◇所在地:伊達市大滝区三階滝町 ◇Gmap:マップコード

有珠・噴火湾沿線ミニギャラリー

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 レイアウトとトップメニューの一部変更、内容を見直しました。

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