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ぐるっと檜山プチ旅3
道南 乙部町の観光と史跡を巡る旅‼

慰霊碑豊浜山つなみ・乙部町

豊浜山つなみ慰霊碑昭和37(1962)年10月17日10時45分頃に、2級国道229号線の乙部と熊石間の3号トンネルと4号トンネルの間で、幅350m、奥行が750m、およそ350万立方mの土塊が瞬時に滑動崩壊、防壁や海側の波よけを粉砕し更に海へ向かって100mも流出という大規模な地滑りで「豊浜山津波」と呼ばれています。この時に通りかかった路線バスと警戒に当たっていた開発建設部の職員を飲み込んで、6歳の女児を含む乗客11人が遺体で見つかり、函館開建職員ら3人が行方不明、重軽傷者14人の大惨事となった。昭和48年に危険箇所を山側へ大きく迂回する全長1270mの「豊浜トンネル」が開通し海岸道は廃道となりました。慰霊碑は豊浜トンネル乙部側抗口山側に建立されているが、経年による風化と彫りが浅いため碑文は読みにくい。山津波で犠牲となった14名の氏名が刻まれていいます。◇建立者:函館開発建設部 ◇所在地:爾志郡乙部町豊浜 ◇Gmap:マップコード

鮪の岬花磯

鮪の岬1972(昭和47)年に北海道天然記念物に指定されている。名前の由来は岬の形がマグロの背に似ていて、岩肌がマグロのウロコのように見えることによる。花磯側から見える独特の岩肌は柱状節理と呼ばれ、下側の整然とした柱状節理が見事。上部は蜂の巣状で、下部は長さ8m~12mの柱状でほぼ垂直に海へなだれ込んでいる。岬の上は鮪の岬公園になっている。地形図に車石と表示されていたが、写真をよく見てみると確かに上部で蜂の巣状の中に放射状節理と思われる場所が何カ所かある。トンネル北側のパーキング近くに道指定天然記念物に指定されたのを記念した乙部鮪之岬の碑がある。 ◇撮影地:乙部町花磯

竜神石と鳥帽子岩三ツ谷八幡神社

三ツ谷八幡神社三ツ谷八幡神社前にある二つの石に関して説明板を要約して記す。どちらも鰊漁と関係がある碑で「鳥帽子岩」は明治23年春頃、三ツ谷八幡神社旧鎮座地で拝殿の基礎工事が施行された当時、工事の当屋だった網元・(屋号)若木幸作が工事を始めた処、基礎の中心部から鳥帽子に似た岩が掘り起こされた。日頃から信仰心の厚い同氏は神主や村役と相談し、村中の協力を得て急坂をあげて旧鎮座地に奉祀したもの。「龍神石」は明治の始め4月頃、当時の名主で大家の笹谷吉衛門氏の建網に鯡と共に乗った石という。伝えるところによると日頃信仰する龍神様が同氏の夢枕に立ち「我は竜神なり、網に乗った石は我が化身で有る。之を祀ることによって汝の家運繁栄し、三ツ谷村中に永く豊漁を授けるであらう」と告げられた故に同氏は村中の網元と相談し龍神石と命名し神社境内に奉祀しることとなった。今のよう重機もない時代に海から運び上げるのは困難を伴ったと思われる。国道改修工事で神社が移転したとき之等の石も現在地に移転した。尚北海道のニシン場では網元とは云わず親方というのが普通で、この場合も親方、親方衆とするのがより現実味がある。神社の珍しい穴滝がありましたが人工的に掘られたものかもしれません。◇所在地:爾志郡乙部町三ツ谷 ◇Gmap:マップコード

穴澗岬MAP

穴間岬名前通りの岬ですが昔は翁石といったらしい。松浦武四郎の蝦夷日誌に「翁石と云る怪石海浜に突出す。其石笑を含るお亀の如し。故にヲカシナイと云といへり。またその形翁の面の如し。この石の下に大なる岩穴あり。馬人とも汐干の時は潜り行なり」昔はこの穴も通路だったようだ。琴平岬側から見た穴澗岬だが確かに翁の面にも見える。穴澗岬の手前に流れ込む川の名は可笑内川で小集落も以前は可笑内と呼ばれていたようですが、その名の当て字は岬の先端にある亀の如しという岩から連想したものか、アイヌ語由来で本来の意味は全く違うのだが。◇所在地:乙部町三ツ谷 穴澗岬 元和台より ◇Gmap:マップコード

道の駅 元和台MAP

元和台地形図での岬名は突符岬となっているが、岬も含めて一帯は元和台と呼ばれているようです。道の駅の他にモニュメント潮笛、潮笛説明碑、桂の古木などがあり、窓岩(今は崩れて穴はなくなっている)や穴澗岬もみえる。岬南側には北緯42度標柱もあり公園として整備されているが、北前船をかたどったオートピア わんぱく丸は老巧化で撤去されている。◇撮影地:乙部町元和 元和台 ◇Gmap:マップコード

潮笛 韃靼漂流記MAP

潮笛 韃靼漂流記乙部町の史実で漁師3人が中国へ漂流した「韃靼(ダッタン)漂流記」をモチーフに、函館の工芸家 日展理事の折原久左ェ門さんと乙部町内の工芸家で日展会友の中川眞一郎さんが共同制作した「潮笛」がある。潮笛の横に「寛政7(1795)年、この地の漁師重兵衛・孫太郎・安次郎が小船でコンブ漁に出漁中、強風に遭いダッタン(中国吉林省)に漂流、北京をへて2年後、長崎出島より苦難の末帰郷した。この力を讃え、岬に打つ波涛と潮風にこめ作品とした。」と記されていた。◇撮影地:乙部町元和 元和台 ◇Gmap:マップコード

郷土文化保存伝習施設旧新谷家住宅

郷土文化保存伝習施設道の駅の向かいにある古民家で通称は蛸島の家、名前の由来は建物の旧所有者であった新谷家が1901年に能登の蛸島集落(現珠洲市)から移住してきたことよる。昭和11年建築の商家で元々は少し北側の可笑内集落に所在したが、国道の拡幅工事で公有化され現在地に移設し郷土文化保存伝習施設としたもの。ニシンの千石場所として栄えていた時代に、ヤン衆(漁夫)たちが宿泊した家や商家をそのまま保存、夏季の海水浴シーズン(7月中旬~8月中旬)には、無料休憩所として開放しているとのこと。商家には見えず煙出しのない小規模鰊番屋という風情です。◇所在地:乙部町字元和 ◇Gmap:マップコード

開田記念碑

開田記念碑碑文によると乙部町の稲作は遅く始まったようで昭和17年頃に元和高台から灌漑水利の示唆をうけた長尾久蔵氏が爾来その実現に努めていたが、昭和27年に地元有志と共に乙部村長と協議し、沿岸の凶漁対策と併せ土地改良補助事業として資金難など様々な困難を克服して美田を完成したという。本格的な造田は凶漁対策と併せてという他の地域とはやや異なるスタートだったようです。碑は造田十周年を記念して建立された。◇所在地:爾志郡乙部町元和 ◇Gmap:マップコード

大澗の崖の金

大澗の崖の金碑文より「大澗の崖の金と印された石は、古くから海の安全と大漁の願いを込めて眺めていたものです。工事で失われる前に、元和の歴史のしるしとして、ここに移転しました。平成19年7月 元和有志一同」とあったが、漁民にとって大切なものなのはわかるが、どこに金と「印」されているのかわかりませんでした。◇移設年:平成19年7月 ◇移設者:元和有志一同 ◇所在地:爾志郡乙部町元和 ◇Gmap:マップコード

桂の古木と義経伝説MAP

桂の古木北海道各地に義経伝説はあるが静御前の話は他で余り聞かない。説明板に静御前最期の地とあり「前略・・静御前は義経謀殺の命が下るのを知り心配の余り義経の後を追い蝦夷地に渡り乙部に来た。しかし義経はすでに川を登り九郎岳を越へ奥地に逃れたと聞かされ、再会できぬ無念に涙した。無理をし病に冒されていた静御前はこれ以上進めぬ体と悟り悲しく義経の名を呼びながら義経が通った川の淵に身を投じた・・後略」と和人好みのストリーに仕上がっている。説明板の横にある桂の古木(樹齢600~700年)は九郎岳(乙部岳の別名)山麓に生育していたのを移植したも。ちなみに松浦武四郎の蝦夷日誌や渡島日誌には乙部の義経伝説に関連した記録は見当たらず。◇撮影地:乙部町元和 元和台 ◇Gmap:マップコード

北緯42度岬

北緯42度岬岬本来の名称は有るのだが、たまたまこの地点が北緯42度などで、北緯42度岬の標柱を設置したのだと思われる。北緯45度の標柱や記念碑は何カ所もあったが、北緯42度の碑はここで見ただけ。レストランや広場などがあり近くにキャンプ場もある乙部の隠れたスポットです。以前にあった船の形をしたオートピア わんぱく丸は老巧化で撤去されている。◇所在地:爾志郡乙部町元和 ◇Gmap:マップコード

元和港の窓岩MAP

元和港の窓岩元和港の防波堤際に聳え立っている奇岩で地図は窓岩となっている。昔は窓のような形をしていたというが明治30年代に上部が崩れ落ち、その後も日本海の荒波に侵食され現在の形になったということです。元和台から見下ろすと縄がネックレスのようで岩は人の顔のように見えるが、松浦武四郎の渡島日誌(蝦夷地紀行・秋葉実編)に穴澗岬の尾根から見た「窓岩の図」には大きな窓岩が描かれていた。◇所在地:乙部町元和 元和港 ◇Gmap:マップコード

館(たて)の岬

館(たて)の岬規則的で整然とした互層が鋭く切れ落ちた断層のような白亜の断崖は自然が刻んだ芸術です。太陽の光と影の演出で様々な姿態をみせ、東洋のグランドキャニオン(少しオーバー?)とも呼ばれているとか。岬名の館は江戸期からだが、館跡でもなくその由来がよくわからないが、岬には北海道では数少ない和人伝説が残されている。撮影は姫川河口付近が気軽に出来そうです。◇撮影地:乙部町緑町 姫川河口付近より ◇Gmap:マップコード

悲恋塚

悲恋塚北海道では数少ない和人伝説で乙部町のサイトでは館の岬の悲恋物語として「江戸の末期ごろ、館の岬の近くに与作と呼ばれる漁師が住んでいました。与作は親方のもとに奉公する、お岩という美しくて心やさしい女性と知り合い、恋が芽生えました。しかし親方の息子がお岩との結婚を望み、与作につらくあたるようになり、お岩も心を痛めるようになったのです。とうとう2人はこの世でかなわぬ恋だと、冥土で結ばれることを願って館の岬から身を投げてしまいました。館の岬に立つ悲恋塚は2人の悲しい恋をしのぶために建てられたのです。」とあるが「檜山の史跡と伝説」の伝説ではもっと悲惨な結末だが、天保14年12月28日の実話が元になっているという。◇所在地:乙部町館浦 館の岬 ◇Gmap:マップコード

箱館戦争官軍上陸の地跡MAP

箱館戦争官軍上陸の地跡北海道の歴史上では大きな出来事だった箱館戦争。乙部にも箱館戦争の足跡がありました。明治2(1869)年4月9日未明、乙部の海上に官軍の艦隊が押し寄せ、津花(元町)、相泊(館浦)に上陸しました。乙部に上陸した官軍は、現在の宮の森公園の一部として整備されている瀬茂内の丘周辺などで旧幕府軍と交戦し、五稜郭を目指したが、官軍が上陸した跡地に碑がある。説明板には、官軍上陸に手助けした乙部漁民のことも。建物のイラストが勇壮です。◇所在地:乙部町緑町 ◇Gmap:マップコード

滝瀬海岸 ぐり岩

ぐり岩海に突き出た断崖の先にあいた穴で今から約400年前の慶長年間にニシン漁を支えるため掘削されこの形になったようです。当時は一帯が陸地のようで陸路として穴をあけた事から「くぐり岩」という名前となったとか。くぐり岩の北側には厚さ2 m程度の地層が激しく折れ曲がった褶曲型スランプ構造がみられる。幕末期にはメトチ岩とかメトチ穴とも呼ばれたらしいが風化で自然と一体化している。◇撮影地:乙部町字瀬茂内 ◇Gmap:マップコード

滝瀬海岸(シラフラ)MAP

滝瀬海岸 くぐり岩江戸時代にはシラフラ(白い傾斜地)と呼ばれ、白い断崖の続く奇妙な造形美を演出している。くぐり岩への経路から南側に徒歩で約600mほど進むと望めるが、昔は温泉があったという五厘沢(五厘沢河口付近)の海岸海岸から徒歩でも断崖までいける。古くは海岸が通路の事もあった様ですが、幕末期は丘の上を通っていたようです。古くはこの湾を滝の澗と云ったようで滝瀬はその名残か?◇撮影地:乙部町字滝瀬 ◇Gmap:マップコード

太成~熊石~乙部ミニギャラリー

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