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ぐるっと檜山プチ旅6
道南 上ノ国町の観光と史跡を巡る旅‼

小砂子・日方泊

小砂子菅江真澄が当地の老婆から聞いた話「古い昔話によると、この磯山の土を捕ろうと、小さな船にのって身の丈三尺ほどの男達がたくさん寄せてきた。ここの浦人はそれを見ておどろきいかなるものがきたのだろうかと大騒ぎして、小舟の行く先はどこかと、その船のあとを追い、たくさんの船をだしてつけていった。しかし海原のあら波にへだてられてその小児(ちいさご)の船の進む方向はどことも知れず、波と潮流にまぎれてみえなくしまったそうである」を「蝦夷喧辞弁」に残している。また海の向こうにある小人島から流れてくるアバ(網の浮き・コルクのようなもの)は「ちいさごがアバ」と呼ばれ、炭にして火傷やただれ、熱病の薬にしたという話もあったようだ。研究者ではコロポックル伝説の南限を小砂子とする人もいるが、この伝説のことを指しているのでしょう。もう一つは「土を捕る」という部分、土鍋文化から鉄鍋に置き換わる頃の話ですが、広い北海道では地域差があり一挙に鉄鍋に変る訳ではない。土鍋の素材になる粘土を取りに来たという逸話は道東や千島にもあるが、土鍋作りを知る人達には普通の事で、この伝説は当地では土鍋作りの文化が途絶えいたが、まだ土鍋を造っている人達がここまで船で来れる距離にいた事が前提で成り立つので、それだけ古い話という事になるのでしょう。日方泊灯台際から見る風景は最高ですが暮らすには厳しい自然環境だと思います。◇所在地:上ノ国町小砂子 ◇Gmap:マップコード

逆さ水松と南条安右衛門の墓

逆さ水松と南条安右衛門の墓当主の蛎崎義広が天文14年に没した翌年に嫡男、季広が当主となるが、その直後に蛎崎基宏の後見人であった上ノ国(勝山館)城代の南条広継(妻、蛎崎4代摘女)が結託して当主継承を権争いを起こし天文17(1548)年の「反逆露顕」となって現れる。説明板には「女では家を継げない為、弟(季広?)に毒を盛る等の陰謀を巡らした」とあった。事が露顕して南条氏の妻は自殺させられ、南条氏も身の潔白を誓い自ら命を絶ったが、水松を逆さに植えさせ根付けば身の証と遺言したのは天文21年の事という。絶え間ないアイヌ民族の攻撃に対する出兵などで不満がたまっていたのかもしれないが、月並みな言葉で言うとお家騒動だが、思わぬ所に思わぬ碑があるのが上ノ国。南条家の祖は季継で知内町にあるとされている脇本の館主で、後に子孫は松前に臣従、広継は服属した館主(脇本館)の子孫で、南条安右衛門は広継の子孫と云い享保18年から寛保2年まで寺社奉行を勤めた人で延宝元年の入定という。南条安右衛門若しくは南条越中廣継の墓と伝えられ、墓碑は延宝2年の建立で上ノ国で最古の銘をもつという。◇所在地:上ノ国町桂岡 ◇Gmap:マップコード

伝説・荒神堂跡

伝説・荒神堂跡1514年に本拠地を松前大館に移し、勝山館は脇館として城代が置かれた。1548年に上ノ国の守護、蠣崎基広が謀反を企て4代目季広に討たれる。その後、夜な夜な基広の亡霊が暴れたことから、その墓所に堂を立て祀ったと伝えられている。上ノ國八幡宮横から勝山館跡に登る途中に「荒神堂跡」の看板があり、堂があったとされる平地がある。もう少し詳しいことは南条安右衛門の墓を参照。◇所在地:上ノ国町字勝山 ◇Gmap:マップコード

上ノ国八幡宮

勝山館八幡宮跡文明5年に武田信廣が勝山館の守護神として創建、創建時は館神八幡宮と称していた。現在の上ノ国八幡宮本殿は元禄12(1699)年の改築と推定され、道内最古の木造建築になるというが公開していない。明治9年現在地に本殿を遷宮、伝説大蔵鰊の若宮社を合祀している。上ノ国八幡宮拝殿は1845(弘化2)年に江差正覚院金比羅社として建設され、明治9(1876)年に上ノ国町へ移築された。夷王山山頂の夷王山神社は上ノ國八幡宮の末社。隣接して古民家 旧笹浪家住宅があります。◇所在地:上ノ国町字上ノ国 ◇Gmap:マップコード

上国寺

上ノ国上国寺上ノ国八幡宮の隣にあり、松前藩の初代藩主の松前慶広が松前祖の武田信広(勝山館初代館主)を弔うために建立した浄土宗の寺院。現在の本堂は宝暦5年(1758年)の建立とされ、寺院建築としては北海道最古とされるが、開創は菅江真澄の記録によると永禄年間とあるようです。本堂は平成20~23年に保存修復が実施されたそうで綺麗です。◇所在地:上ノ国町字上ノ国 ◇Gmap:マップコード

樹霊之碑

樹霊之碑碑文の一部を掲載。「総面積の93%を山林が占める本町林業の歴史は遠く松前藩政時代の、目名山桧材伐採事業にはじまり、爾来幾多の時代の変遷を経ながら今日に至っているが、山林がわれわれにもたらす恩恵ははかりしれないものがある。ここに有志相はかり過去未来を問わず伐採地に、風倒樹木一切の霊に対し謝意と供養のためこの碑を建立する。樹霊之碑は上ノ国開基790年、戸長役場設置100年を記念して昭和53年10月建立に建立された。碑は花沢温泉近くの道路沿いにあるが建立協力者の氏名は割愛した。歴史は北海道でもっとも古い歴史のある町だが山林が93%とは意外でした。◇建立年:昭和53年10月 ◇所在地:上ノ国町勝山 ◇Gmap:マップコード

砂館神社本殿

砂館神社本殿室町時代の寛正3年に建立され北海道内の神社としては歴史の長い神社です。武田信広が長禄元年に七重浜においてコシャマイン父子を打ち、上ノ国の花沢館に凱旋すると館主・蛎崎季繁は信広の武勲を讃えて養女の婿に迎え、同年8月に新館を築いて移り住まわせたのが洲崎館と云われるが現在の砂館神社のあたりと云われている。寛政3年の夏、洲崎館の北方に毘沙門天王社を創立したが、神社創立の端緒となった金色に輝く毘沙門像が浜に流れついたという「古櫃(ふるびつ)の浜」という伝説がのこされている。神社創建以来松前藩の信仰の対象であったが、最初の本殿が天明8年に焼失、その責任を負い北村名主が自殺しているという。現在の神社は翌天明9年、藩主・松前道広により再建、その後は江戸時代に3度程修理が行われています。毘沙門堂と称していたが明治維新で砂館神社と改称されたが、洲崎館は毘沙門堂(砂館神社)より南方となるようでなので正確な位置は確定されていないのかも。北海道指定有形文化財となっています。◇所在地:檜山郡上ノ国町北村92 ◇Gmap:マップコード

新村久兵衛翁之碑

新村久兵衛翁之碑碑文より「翁は江差に生まれ、商業に従事していたが、土地の開墾をして国利民福を増進しようと考え、当時は漁業の利益が大きく農業に従う者が少なかったが、安政4年北村に水田5町 畑4町、明治11年中須田に水田11町 畑9町、また五勝手に椴川にも荒地を開き人々に開墾の模範を示した。さらに私財を投じて天の川を導いて灌漑溝を作り水田開発を奨励し、また造林につとめ道路や橋をつくり一意公共のためを図った。以下省略。」蝦夷地の米作りには、寛文年間(1661~1672)、貞享2(1685)年、また文化2(1805)年には箱館奉行が大規模な水田開田を行ったがこれも続かなかった。また旧大野村で元禄5(1692)年の記録があるようで以来細々と継続されたようですが、嘉永3(1850)年、高田松五郎・万次郎親子が苦心の末に米の収穫に成功し、安政元(1854)年以降ようやく安定したらしい。明治6(1872)年になって島松(現・北広島市)の中山久蔵がこの地の品種「赤毛」で寒冷地稲作に成功し米造りは全道各地に広がった。安政4年に共和町に幕府が御手作場が設置しているが、個人での開田・稲作成功としては旧大野村に次ぐ早さかもしれない。集落名は新村久兵衛翁に由来か。◇建立年:昭和27年5月 ◇建立者:新村部落・上ノ国土功組合? ◇補修年:平成8年9月10日 ◇所在地:上ノ国町新村 ◇Gmap:マップコード

石崎漁港トンネル航路

石崎漁港トンネル航路石崎漁港は沖合漁業の発展と海難事故の防止のために石崎川の河口部に本格的な船入澗建設が計画され昭和7年に着工される。工事は比石館跡の岬下部にトンネルを掘り、昭和9年6月20日に完成、トンネル長さ45m、幅9m、半円形の断面コンクリートブロック造りて北海道庁中村廉次港湾課長の設計でした。岬と堤防によって漁港と外海が隔てられトンネルで外海との通航を確保するという非常に珍しい形の港で、北西から南西の風を防ぐので、時化の時には近隣の港からも漁船が避難してくることもありました。漁船の大型化に伴い拡張工事にが進められトンネル北側に水路などが造成され、昭和58(1983)年3月31日に港側トンネル口が揚場に変わってトンネルは閉鎖。平成15年1月31日に国の登録有形文化財の指定、平成18年2月には「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選」に認定されている。◇所在地:上ノ国町館野 ◇Gmap:マップコード

開基800年記念樹 シンパク

開基800年記念樹 シンパク昭和63(1988)年に上ノ国町開基800年記念事業やイベントが催され北海道夜明けの展望塔建設されているが、石崎では八幡神社と隣の寺院にある黒松やシンパクなど3種類の樹木が。上ノ国町開基800年、戸長役場設置120年記念で銘木指定となっている。見応えはあるのだが神社の方の樹木は放置同様で手入れが行き届いていないという印象だった。◇指定年:昭和61年 ◇所在地:上ノ国町石崎 ◇Gmap:マップコード

旧中外鉱山 焙焼炉

旧中外鉱山 焙焼炉上ノ国町石崎の集落から石崎川沿いに約5km 山間部に入った所に、中外鉱業上国(じょうこく)鉱業所(中外鉱山)の遺構がある。昭和14年7月八田満次朗が鉱山を操業、4年後の昭和18年8月に中外鉱業株式会社が買収、戦時中一時休止されていたが昭和22年に再開。昭和32年には精鉱処理1万トンに達し、生産能力も向上しているが、昭和40年代になると金属の価格変動もあって赤字経営ともいい昭和61年6月に休山となった。かつては中外鉱山のあった早川地域には診療所、浴場、簡易郵便局、町立若葉小中学校、保育所などがあったというが今はその痕跡も殆ど見られず、鉱山の排水処理施設が稼働しているだけのようだ。その鉱山跡にマンガンを精製するためのペンシル型のやや崩れかかった「焙焼炉」がいくつも並ぶ姿が当時を偲ぶ唯一のものかもしれないが、崩落したりする危険があるので立入禁止です。離れていてもよく見えます。◇所在地:上ノ国町早川 ◇Gmap:マップコード

昇平丸最終の地供養塔

昇平丸最終の地供養塔碑文「日本初の洋式軍艦/昇平丸最終之地/霊追善供養塔」裏面は「明治三年一月二十六日此之地ニテ座礁」説明板は長文なので要約して掲載「昇平丸は幕末の安政元(1854)年に薩摩藩が建造した大砲十門を備えた日本初の国産洋式軍艦で全長33m、排水量370トン、3本マストに帆が10枚むという。翌年には幕府に献上されて昇平丸と改名される。明治2(1869)年に開拓使に移管され官物の物資輸送にあたっているが、翌年に東京から小樽に向かう途中、渡島大島沖で風浪に遭い、同年2月檜山の上ノ国木ノ根村猫澤に漂着、高浪によって海岸に吹き付けられ沈没、乗員19人中5人が亡くなっている。薩摩藩が製鉄、造船・紡績技術の粋を集めた昇平丸は、日本近代化のシンボルともいわれ、近代科学技術の導入過程を理解する上で重要な船といわれているということのようです。ただ当時は欧米諸国と渡り合えるよう富国強兵に着手したばかりのころだが、その中に植民地政策の芽も含まれていたことを理解する必要がありそうだ。◇建立年:平成12年4月12日 ◇建立者:浪漫倶楽部・上ノ国町 ◇所在地:上ノ国町大安在 ◇Gmap:マップコード

追分ライン・松前街道ミニギャラリー

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