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道南の中世館跡を巡る旅‼
上ノ国~松前~福島~北斗~函館の館跡‼

道南12館とは‼

15世紀頃に和人・渡党と称される本州系の人々が北海道南部への進出の拠点として築いた館といわれる。館の位置や成立年代で未確定な館もあるが、資料的価値の高い館跡は国史に指定されている。一覧にある◯印は遺構などで館跡と正式に確認された史跡で、説明板や碑が設置されている所もあります。安東政季が蝦夷地を去る時、茂別・大館・花沢に守護を置いて12館を集約。長禄元年のコシャマインの蜂起で花沢と茂別以外の10館は陥落するが武田信広の反撃で最終的にはコシャマインの敗北に終わる。のちに花沢(勝山)から大館に入った蠣崎氏によって残った茂別も吸収され、12館の領地は松前に統一される。ここに記載した館跡で普通に見学可能なのは志苔館と勝山館くらいで、他はそれなりの装備が必要となりそうです。●印は大まかな推定地はあるも未確定の館跡や既に消滅している館跡で訪問リストに入りません。

館の所在地と初代館主一覧

◇道南12館の館跡
◯花沢館 館主:蠣崎季繁,武田信広 ◇所在地:上ノ国町上ノ国 ※碑、説明板、遊歩道
◯志苔館 館主:小林太郎左衛門良景 ◇所在地:函館市志海苔町 ※国史 完全整備済。
◯茂別館 館主:安東家政 ◇所在地:北斗市矢不来 ※矢不来天満宮に碑と説明板。
◯大館 館主:下国山城守定季,相原周防政胤
◇所在地:松前町字神明 ※徳山大神宮の裏山,最近は荒れ気味。
◯比石館 館主:厚谷右近将監重政
◇所在地:上ノ国町館野 ※チャシ跡を館に利用した?説明板。
◯穏内館 館主:蒋土季直 ◇所在地:福島町吉岡 ※国道が館跡を縦断、国道沿いに標柱。
◯宇須岸館,別名 箱館 館主:河野政通 ◇所在地:函館市 ※館跡地の一部が観光駐車場?
◯原口館 館主:岡辺六郎左衛門尉季澄
◇所在地:松前町原口 ※正式には未確定、古代の遺跡利用?
●禰保田館 館主:近藤四郎右衛門尉季常 ◇所在地:松前町館浜 ※正式には未確定。
●覃部館 館主:今井刑部少輔季友 ◇所在地:松前町東山 ※正式には未確認。
●脇本館 館主:南條治郎少輔季継 ◇所在地:知内町湧元 ※正式には未確定。
●中野館 館主:佐藤季則 ◇所在地:木古内町中野 ※正式には未確定。


◇道南12館以外の館
◯矢不来館 館主:館主不明・安藤政季? ◇所在地:北斗市矢不来 ※館跡内にヒグマ生息。
◯勝山館 館主:蠣崎季繁,武田信広 ◇所在地:上ノ国町勝山 ※完全整備済。
◯洲崎之館 館主:武田信広
◇所在地:上ノ国町北村 ※成立年代が判っている唯一の館跡・碑と説明板。
◯メノコナイチャシ ◇所在地:恵山町女那川 ※中世の館跡の可能性もありと。
●国分館 館主:江口権之頭顕輝 ◇所在地:厚沢部町新栄
●泊館 館主:松前藩主第二代光広の次男高広 ◇所在地:江差町泊・未確定
●弥右エ門館 館主:志苔館の支館 ◇所在地:函館市高松町 ※狼煙場?
●与倉前館 館主:小林良景の弟政景 ◇所在地:函館市高松町 ※志苔館の支館?
●戸井館 館主:原口館の館主,岡辺六郎左衛門尉季澄 ◇所在地:戸井町館町48

国史 花沢館跡上ノ国町MAP

花沢館跡昭和52年に史跡指定となっている館跡で15世紀頃に和人、渡党と称される本州系の人々が北海道南部への進出の拠点として築いた道南12館といわれる館のひとつ。天の川橋の西側に小高い丘がありその基部に史跡で有ることを示す石碑の傍から丘に上がる小路を登って行くと史跡の案内板がある。蛎崎季繁の居城で、武田信廣と共に長禄元(1457)年のコシャマインの攻撃にも屈しなかったといわれています。この館は発掘調査から生活の場ではなく非常時に備えた館のようだという。昭和20(1945)年初め頃、約2千枚の古銭と鉄鍋が出土した事で知られる。遊歩道の整備は比較的良好だが登山に準じた靴が無難、国道沿いにある石碑が遊歩道入口の目印。◇所在地:上ノ国町字勝山 ◇Gmap:マップコード

比石館跡MAP

比石館跡石崎の集落を2分するように流下する石崎川河口の南端に突き出た岬の上が比石館跡。遺構は殆ど残っていないが、岬で細くなっている部分は堀跡の様で、埋め戻して路を付けた様に見える。嘉吉元(1441)年に下北の田名部から渡道した厚谷右近将監重政が築いたと云われ、長禄元(1457)年のコシャマインの戦いで攻め落とされたというが、最近の研究では道南12館の時代には存在していないかもと、16世紀~17世紀代で勝山館と併存していたと考えられている。比石館跡の岬上に灯台と館神社があるも車で行くには躊躇する道で徒歩で行くのをお勧め。案内板は岬基部の道路脇に、入口の標柱は国道脇に設置されている◇所在地:上ノ国町館野 ◇Gmap:マップコード

国史 松前大館跡(徳山館)松前町MAP

松前大館跡入口近く松前大館は道南12館のなかでも重要な館跡と云う。室町時代に蝦夷管領の安東氏が築いたとされ、1457年と1513年のアイヌの蜂起で落城。その翌年に蠣崎氏二代目の蠣崎光広が上ノ国から大館に拠点を移し、居館を改修し徳山館と名付け福山への移転まで蝦夷地支配の拠点だったが、福山に移転した後は隠砦として残されたという。郷土資料館の西方、松前城の500m程北に土塁・空堀・居館跡と先端部の小館などが残っているとの事で現地に行ってみた。館跡の入口から獣道のような山道をたどりると大館・小館の間の堀切にでるが、左手の尖端部に位置する小館は名前とは異なり広い平坦地となっているが、密生した笹と木立で全体像は全くわからない。右手に大館に続く道が延びているが、道の左手は深い沢でこの中にゴロウニン幽囚の地が有ったらしく、かつては沢の中に道が見えていたというも、訪問時にはなにも見えなかった。大館跡付近も草深く館跡の遺構と確認できそうなのは殆どみえず、草の伸びる前なら少しは見えるかもしれません。◇所在地:松前町字神明~字福山

原口館跡MAP

原口館・遺跡跡道南十二館の一つといわれるが一度埋め立てられ、平成になって松前町の再発掘で調査されたという。出土した遺物から中世ではなく古代の遺跡と判定されたようですが、地表が攪乱された後の調査なのでなんとなく信頼感には欠ける。原口漁港北側、国道から1本海側の道路沿いで松前町が再設置した説明板はあるが、古い史跡標柱は残っていないようです。禰保田館、覃部館、脇本館、中野館に関しては大まかな推定地はあるも場所の特定はできていません。◇所在地:松前町原口 ◇Gmap:マップコード

穏内館跡福島町MAP

穏内館跡遺跡昭和40年の調査で一辺80m四方の塁壁と空堀・門構え等が見つかり、穏内館跡としてほぼ認定されていたが、発掘調査をしないまま青函トンネル建設関連工事で遺構は攪乱され緊急発掘をしたときは殆ど破壊された後で、穏内館の詳細な全体像が明らかになる前に隠滅してしまった。青函トンネル建設時に立ち並んでいた施設は青函トンネルの完成後に取り壊され、跡地の一部がトンネルメモリアルパークとして小さな公園となっており、青函トンネル建設記念碑などの碑があるが、穏内館遺跡の標柱は国道沿いでメモリアルパーク入口近くの旧吉岡支所前にある。◇所在地:福島町館崎 ◇Gmap:マップコード

国史 茂別館跡北斗市MAP

国史 茂別館跡下国安東式部大輔家政の居館。館跡は茂辺地川左岸の標高約34m程の丘地の南端にあり、それぞれに自然の沢で切られた北の小館、南の大館(現・矢不来天満宮)からなり、西は茂辺地川岸の崖地と自然の要塞だったようです。コシャマインの乱で道南の10館は相次いで陥落するが、茂別館と上ノ国の花沢館は残ったが、後永禄5(1562)年の攻撃で茂別館は陥落し、下国師季は松前に逃れ蠣崎氏に臣従、茂別館は放棄された。裏参道側と社殿裏側の方から土塁や空堀の一部が見えるも草が伸びる判別は難しそうで、見るなら早春が良さそう。天満宮入口の鳥居横に石碑と説明板があるが、茂別館の遺構を巡る為の道などははない。◇所在地:北斗市矢不来 ◇Gmap:マップコード

宇須岸館宇須岸河野館 箱館MAP

宇須岸河野館 宇須岸館跡とされる所は現在の元町公園下で、基坂通りに面した東口付近に宇須岸館跡の説明板がある。享徳3(1454)年に安東政季に従い蝦夷地に渡来した河野政通が築いた館で、長禄元年にコシャマインの乱で陥落したが、のちに復興するも再び永正9年の攻撃で陥落し放棄された。江戸中期になり松前藩亀田奉行所、後の幕府箱館奉行所などが置かれたのは宇須岸館跡地だったと考えられている。また館の形が箱のように見えたことから箱館とも呼ばれ函館の地名由来となった。宇須岸館の館主だった河野加賀守政道の慰霊碑が館市船見町の称名寺内に建立されています。◇所在地:函館市弥生町2 ◇Gmap:マップコード

国史 志苔館跡別称:志濃里館MAP

志苔館跡 道南12館の一つである志苔館(しのりたて)跡は函館市の中心部から約9km離れた標高25m程の海岸段丘南端部に位置し、南側は志海苔の市街地および津軽海峡に面し、函館市街や対岸の下北半島を一望することができる。館跡はほぼ長方形をなし、四方は高さ2~4m、幅10~15mの土塁で囲まれ外側を壕で仕切り、郭内は東西70~80m、南北50~65m、面積約4,100平方m。館跡の正面になる西側は二重に壕が掘られ、外側に小土塁が巡らされている。郭内部は建物跡等が平面復元され井戸跡もあり郭内遺構・郭外遺構についての説明板や大正年代に建立された館主小林氏の頌徳碑がある。室町時代に道南地方には和人の館が12箇所あり、志苔館もその一つで小林太郎左衛門良景が居住していたという。説明板によれば康生2(1456)年に志苔館付近でアイヌの蜂起があり、この戦いにより翌長禄元年5月14日志苔館が攻め落とされたとされる。戦いの後に再び小林氏が館に居住していたが、永正9(1512)年4月16日に起こったアイヌの蜂起で志苔館は陥落し、館主の小林彌太郎良定が討死したと云われ、小林一族は蠣崎に臣従し志苔館は放棄された。廃館になった志苔館跡は明治18年頃に志苔小学校の農業実習場になっていたのを、陸軍が軍用地として使用、後に「マルナカ吉田」の私有地となる。宇賀小学校初代校長の留目政治氏が志苔館の保存を目的に宇賀同窓会に働きかけ、保存運動を展開し明治33年に館跡を吉田氏から寄贈をうけ、館跡の地権は同窓会に移転した。大正年代に入り北海道庁の調査で保存状態が良好な館跡である事から、昭和9年に史跡に指定され、昭和52年に指定地周辺部も追加指定を受ける。函館市は史跡保存の万全を期すため志苔館跡指定地を買上げ公有化し昭和58年から62年にかけて志苔館跡を復元整備している。隣接して和人とアイヌ双方の慰霊碑が建立されている。◇築城者:小林重弘 ◇城形式:平山城 ◇築城年:南北朝時代 ◇所在地:北海道函館市志海苔町 ◇Gmap:マップコード

与倉前館函館市

志苔館跡から西1.2kmほどにある館跡で志苔館支館と考えられている。永正9(1512)年の攻撃で陥落し放棄された。海に張り出した台地で「のろしば」だったと考えられている。国道278号線沿の根崎保育園裏側にあるというが、館跡に通り抜けは出来きず館跡を示す標柱もない。与倉前館の西方約500mの小さな弥右衛門川沢を海側に下った丘陵先端部分に志苔館支館とされる弥右衛門川館があったというも場所は未確定。◇所在地:函館市高松町

道南12館以外の館跡&館城跡を巡る

いわゆる道南12館以降の館跡と考えられている館跡が殆どだが、詳しく調査がされていないのも有るようです。この中で詳しく調べられかつ館跡が史跡として整備、管理されているのは上ノ国町の勝山館くらいです。館跡の面積は広いので全て見るととなれば時間がかかります。

戸井館跡 メノコナイチャシ跡函館市

室町中期のコシャマインの戦い以前に落ちたと云われる和人の館跡で、旧戸井町役場の所にあったという。役場を建設した昭和43年に発掘調査をされているというが、遺構はなにも残ってません。恵山にあるメノコナイチャシは場所は確定しているもガイドなしに行くのは難しそうで熊の出没もあるとしいう。◇所在地:函館市館町

矢不来館跡北斗市

茂別館から北約2km程の位置で矢不来川の南側にある沢に面した舌状台地にあるという。茂別館や勝山館と同時期、茂別館をしのぐ規模らしいと云うが、詳細な事はわかっていないようですが、松前大館跡や上国の勝山館跡と共通した構造も多いという。道南12館にはその名もなく未調査の部分も多いようです。今は立ち入り禁止のようで館跡にはヒグマが生息しているとのこと、そんな訳で危うきには近寄らず。◇所在地:北斗市矢不来

国史 勝山館跡上ノ国町MAP

国史 勝山館跡夷王山の駐車場近くに、上之国勝山館跡や夷王山古墳群の案内板がある。勝山館は夷王山の東麓にあり松前藩の礎を築いた武田信廣の館跡、武田信廣は64歳でこの館にて病没したと伝えられています。勝山館は天然の丘陵を利用した三段構えの山城で、堅牢無比の要塞であったといわれる。近年の調査により、約5万点にのぼる国内外陶磁器、金属製品、木製品が出土。建造物の跡も多数発掘されました。当時のアイヌの人々が使っていた骨角器も出土し、和人とアイヌ民族が混住していたと考えられ、謎の多い北海道中世史を語る重要な史跡とされている。2004(平成16)年には「上ノ国の中世の館(たて)」として北海道遺産に登録され、整備も行き届いていました。◇所在地:上ノ国町字勝山 ◇Gmap:マップコード

勝山館跡ガイダンス施設MAP

勝山館跡ガイダンス施設上之国町は北海道の中世代を代表する館跡が詳細に見られる数少ない町です。その1番手が勝山館、勝山館跡は、後の松前氏の祖である武田信広が、15世紀後半に築いた山城で、16世紀末頃まで武田・蠣崎氏の日本海側での一大拠点でした。勝山館跡の200分の1の模型や土葬墓、火葬墓のレプリカがおかれ夷王山墳墓群の一部がそのままに再現されている。勝山館跡の模型写真を加工して出来るだけ自然に見えるようにしてみました。◇所在地:上ノ国町字勝山 ◇Gmap:マップコード

夷王山神社夷王山山頂MAP

夷王山神社夷王山山頂の夷王山神社は永禄元年創立で、祭神は松前家の祖となった武田信広という。元々の名称は医王山神社、医王山薬師寺と云ったようですが、明治26年に夷王山神社に改称、現在は上ノ國八幡宮の末社という。武田信広は勝山館に八幡宮を創建、1457年にコシャマインを討ったことで知られるが、1494年に勝山館にて64歳で死去、夷王山(山頂)に埋葬されたという伝説もあるというが墓は発見されていない。現在の夷王山はツツジの名所というが、山頂からの眺望は中世の山城にふさわしいスケールです。◇所在地:上ノ国町字勝山

館神八幡宮跡勝山館跡内

勝山館・館神八幡宮跡江戸や室町時代の館神八幡宮跡は整然と石が敷き詰められ、礎石の跡も分かるようになっていた。館神八幡宮跡の解説板があり、夷王山神社は八幡宮の末社という。中央通りを下って行くと、左右に遺跡が整然と並んびしかも広い。東の守りとして華の沢側は三段の階段状地形に切り下げられたのが見えるが、三段目は帯郭と言うらしい。特に気になったのはゴミ捨て場跡、ゴミ捨て場から人骨がでたというが、何か普通では考えられない異常な異常な出来事があったようです。◇所在地:上ノ国町字勝山 勝山館跡内

夷王山墳墓群勝山館跡外側

勝山館・夷王山墳墓群夷王山山麓一帯に622基の墳墓があり標柱が林立しているが蛎崎、武田一族の墳墓であろうと云われている。また仏教様式の墓に混じってアイヌの葬法に従った墓が発掘され、和人とアイヌの関わりを示す発見とされ注目された。室町時代の墳墓が集中してあるのは非常に珍しい光景で、土葬が一般的な時代に火葬であった事にも驚きです。◇所在地:上ノ国町字勝山

搦手門勝山館跡内

勝山館・搦手門広場には後ろの守りを解説した看板があり、空堀に架かる橋を渡ると土塁と冊で固められた搦手門になる。搦手門はいわば勝手口、裏門という感じで有事の際には脱出用になるが、一カ所だけというのはなんとなく考えずらいが、ここでは1カ所しかなかったようです。搦手門は大手門に比べると小さく、頑丈さも劣るという印象でした。下から上っていくのも可能だが、ガイダンス施設のパーキングが利用可能が簡単です。◇所在地:上ノ国町字勝山

国史 洲崎館跡MAP

国史 洲崎館跡ここにある砂館神社は武田信広が長禄元年に七重浜においてコシャマイン父子を打ち、上ノ国の花沢館に凱旋すると館主・蛎崎季繁は信広の武勲を讃えて養女の婿に迎え、同年8月に新館を築いて移り住まわせたのが洲崎館と云われるが現在の砂館神社のあたりと云われている。ただ洲崎館の北方に創立した毘沙門天王社の跡とも云い、砂館神社の南側に洲崎館が有ったのかもしれません。調査では付近から中国製陶磁器や埋蔵渡来銭2500枚、中国製青磁、白磁、国産の珠洲擂鉢や人骨が発見されているが、館の構造については一部しか調査されていないという。砂館神社を別にすると、見学が出来るような整備はされておらず、館跡としての遺構は草木に埋もれているようだ。◇所在地:上ノ国町字北村92 ◇Gmap:マップコード

泊館江差&厚沢部町

泊館の初代館主は松前家三世義廣の弟高廣。現在の観音寺境内が泊館の地とされるが遺構はなく、館の立地としては不適当ということもあり確定はしていない。観音寺は江差町泊南端の丘陵地で江戸時代は松前藩の見張り台として使われたという。◇所在地:江差町泊

厚沢部町 松前氏館城跡公園近世の館城跡MAP

館城跡公園松前藩が1868(明治元)年に築城した城郭で、同年11月15日に旧幕府軍の攻撃を受け落城した。完成後わずか20日で落城という日本最後の和式築城跡。現在は堀、土塁、井戸跡、礎石などが残り立札が設置され、他に千両堀跡や土塁、斜面に塹壕跡と思われる遺構が残っている。平成14年に国指定史跡となり館城跡公園と道路を挟んで山側は公園(丸山公園)として整備されている。他に館城をイメージしスケールダウンした簡易資料室や三上越順力試乃石があった。一帯は桜の植栽もあり名所になっているようです。古い時代の国分館の遺構や標柱は見られなかった。◇所在地:厚沢部町字城丘 ◇Gmap:マップコード

道南の館城跡ミニギャラリー

☆更新情報など☆

 レイアウトとトップメニューの一部を変更、内容を見直しました。

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