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ぐるっと胆振プチ旅3
室蘭市のピリカノカと史跡を巡る旅‼

地球岬絵鞆半島外海岸

ピリカノカ・地球岬平成25年に設置された新しい地名由来板では名勝ピリカノカとなっています。ピリカノカの指定は地球岬と絵鞆半島外海岸(地球岬、増市浜、ハルカラモイ、トッカリショ浜)の4カ所を合わせて名勝ピリカノカとして指定された。指定された所には名勝ピリカノカの説明板と地名由来板が設置されている。説明板より『ピリカノカとは、アイヌ語で「美しい・形」を意味し、アイヌの物語や伝承・祈りの場、言語に彩られた優秀な景勝地を総称するもの・・中略・・道内7番目の名勝ピリカノカに指定されました』以下は地球岬の地名由来板より『地球岬は、元々アイヌ語ではポロケチウェと呼ばれていました。これは「親である・断崖」という意味で、岬の断崖そのものに付けられた地名です。船で洋上から見るとこの断崖はひときわ大きくそびえ立ち、親である(大きな)と呼ばれた意義が感じ取れます。なお岬の東側に続く断崖は、ポンケチウェ「子である・断崖」と呼ばれ対になっています。平成25年12月 室蘭市教育委員会』となっている。太平洋に突き出て高さがあり、恵山岬や下北半島も眺望できる国内有数の景勝地。渡り鳥の中継地としても知られる。◇所在地:室蘭市母恋南町4

金屏風室蘭市 絵鞆半島外海岸

金屏風地球岬とトッカリショの間にある一帯は、火山灰が貫入溶岩で黄変したという約100mの断崖が連なり、崖面に朝日があたると金の屏風を立て連ねたように見えるのでこの名で呼ばれたということから名付けたという。その景観は特定の時間に限定されるようで、屏風を連ねたという景観には見えないが展望台からの風景は良い。◇所在地:室蘭市母恋南町4

チャラツナイ絵鞆半島外海岸

チャラツナイ展望台から切り立った断崖絶壁と奇岩群を望めるが視界は樹木で遮られよくないが西側の方は視界は開ける。海上に点在する岩で一番大きい円錐状をしている岩をアイヌ語でマサカリ岩を意味する「ムカル・イソ」と云い「昔アイヌの神々が、天地創造の時に使った道具をチャラツナイの浜に捨て、そのうちオノはあまりに重いため岩になってしまった」というムカルソ岩の伝説がある。チャラツナイの語源はアイヌ語「チャラルセ・ナイ」からという。◇所在地:室蘭市母恋南町1

長谷川正治歌碑絵鞆半島外海岸

長谷川正治歌碑チャラツナイ展望台の際にある歌碑で「天あめ地つちの創世まさに此處ここに見ゆ大わだつみの寄せて止まずも」と刻まれている。長谷川正治氏は室蘭出身の歌人で書家、室蘭市長も務めた人で碑は昭和32年に建立されたが道路の拡幅で平成2年に現在地に移設。歌はムカルソ岩の伝説の地を詠んだ一首。ムカルソはアイヌ語でオノの意味という。この岩は斧の刃を上にした形で柄付けの部分に長方形の孔が開き、今は蓬莱門と呼ばれているが陸からは見えません。◇所在地:室蘭市母恋南町1 ◇Gmap:マップコード

増市浜絵鞆半島外海岸

増市浜「地名由来板のピリカノカは省略、増市浜の部分を転載します。増市浜は元々アイヌ語でマスイチセ(マシュイチセ)と呼ばれていました。これは「海猫(の)・家」という意味で、海鳥がたくさん巣をつくる場所を言い習わした地名になります。このほか湾や磯ごとにも地名が付けられていますが、マスイチセと呼ばれたのは岬の先にある白い岩のことで、洋上や追直のMランドからよく見えます。平成25年12月 室蘭市教育委員会」絵鞆半島の南西の端で崖の上に展望台がある。展望のよさに海岸に点在する奇岩怪石がインパクトを与えている。◇所在地:室蘭市増市町2

ハルカラモイ絵鞆半島外海岸

ハルカラモイ岩肌がU字型に抉られた先に見えているのがハルカラモイ。食料を採る入江という意味で、魚が多く波静かな入江から名付けられている。この断崖絶壁の海側にアフンルパロ(入る道の口)と呼ばれる洞窟が有るという。海岸まで降りる事ができそうな地形に見えた。地名から察するにかつてはここを下る道があったとしてもおかしくはないが・・。◇所在地:室蘭市増市町2 ◇Gmap:マップコード

ローソク岩絵鞆半島外海岸

ローソク岩説明板に名前があっても岩の特定には迷うことが多いが、ローソク岩は孤立峰であれば名前と特徴が簡単に一致する。標高100m程度の高所から見るのでずんぐりしたローソク岩になってしまう。ここは意外と遠くまで眺望ができ、条件が良ければ駒ヶ岳まで見えるという。◇所在地:室蘭市増市町2

銀屏風絵鞆半島外海岸

銀屏風絵鞆岬からハルカラモイまで約1.5Km、高さ約80mの凝灰岩で出来た断崖絶壁で、浸食によって出来た模様がありアイヌ語で「チヌイェピラ=彫刻のある崖」と呼ばれていたという。この崖に夕陽が当たると銀色に輝くというので銀屏風ともよばれている。ここからの景観はそれなりによいのだが、肝心の屏風文様は陸から殆ど見えないのが残念。◇所在地:室蘭市増市町2

絵鞆岬展望台絵鞆半島外海岸

絵鞆岬展望台船の形をした展望台で室蘭市が設置した説明看板がある。説明板より転載。「絵鞆は、アイヌ語のエンルム(突き出ている頭・「岬)を語源とし、慶長年間にアイヌの人達との交易の場・絵鞆場所が開かれ、交易・交通の中心地となったことから、室蘭発祥の地とされている。また、1796(寛政8)年には、絵鞆沖にイギリスの探検船プロビデンス号が来航し、天然の良港「エンデルモ(エトモ)・ハーバー」(室蘭港)や「ボルケイノ・ベイ」(噴火湾=内浦湾)を世界に紹介した。この展望台は、これらの歴史を背景に、室蘭市開港120年市制施行70年の節目の年に、室蘭市の新たな旅立ちと自らが発見者・チャレンジャーとなるよう、未知なる大海原へ船出した帆船をイメージして作られた。平成4年12月 室蘭市」◇所在地:室蘭市絵鞆町絵鞆町2丁目 ◇Gmap:マップコード

祝津公園展望台

祝津公園展望台標高70m程の祝津公園展望台は白鳥大橋の手軽な展望スポット。白鳥大橋を南側から鷲別岳を背景にループ部分も含めて橋全体が一望できる。展望台下の景観はあまりよくないが夜景ではそれほど気にならないでしよう。展望台に登る途中にも眺望の良い場所がある。◇所在地:室蘭市祝津町3 ◇Gmap:マップコード

モロラン陣屋跡室蘭市

モロラン陣屋跡説明板より転載する「外国船がたびたび来訪した幕末、南部藩は箱館から幌別にかけての東蝦夷地警護を江戸幕府より命じられ、湾内を望むペケレオタの地に、方形で二重の土塁と壕からなる出張陣屋を築き、防衛にあたった。この陣屋跡は、安政3年に築かれ、慶応4年(明治元年)に廃棄されるまでの13年間、南部藩士が常駐したとされる。内陣には、藩士の詰所や長屋などの建物があったと記録され、発掘調査では建物の礎石や石畳の通路が発見されている。内陣の後背には火薬庫が設けられ、今も残される杉林も、藩士の手により当時植えられたものである。この陣屋跡は近世期の土塁式の方形陣屋であり、南部藩による北方警備体制をよく示すものとして、国から昭和9年5月1日元室蘭南部藩陣屋跡として史跡指定を受けた。昭和49年8月22日には同じく南部藩により噴火湾沿岸に築かれた長万部・砂原の陣屋跡、また市内崎守町にあるポロシレトの台場・勤番所跡も併せて追加指定となり、名称も「東蝦夷地南部藩陣屋跡モロラン陣屋跡」に変更され現在に至っている。」◇室蘭市陣屋町2丁目5番 ◇Gmap:マップコード

絵鞆先住民慰霊碑MAP

絵鞆先住民慰霊碑碑文より「この慰霊碑は、室蘭開発の先駆者である先住民の霊を慰めるために、先住民チャシ(城砦)のあったこの地に、室蘭開港90周年・市制施行40周年を記念して建立したものである。この地域は、室蘭発祥の地として永く記録されるべき土地であって、先住民は、ここを拠点として漁撈に耕作に従事し営々として文化の礎を作り今日まで幾多の挿話と傳説が傳えられている。ここに眠る先住民の多くの霊に対し永久に安住の地たらんことを祈念し、あわせて開拓の歴史をたたえる次第である。-以下省略」碑は昭和37年建立で、アイヌ文様の碑面に風が当たると音がでる設計という。碑文にあるチャシはエンルムチャシというが遺構らしきものは見当たらず、他に岬には2カ所のチャシがあったという。◇建立年:昭和37年9月 ◇建立者:室蘭市 ◇所在地:室蘭市絵鞆町2丁目 ◇Gmap:マップコード

仏坂招魂碑

仏坂招魂碑明治5(1872)年4月に始まった室蘭~札幌間の札幌本道開削工事は、母恋地区と室蘭港の間にある小高い岩盤質の山を崩し道を切り開く難工事で多くの犠牲者をだし、工事場付近に一時仮埋葬され以来その場所を佛坂と呼び地名になったという。その後に施工された日本製鋼所建設工事はそれをはるかに越える犠牲者をだした。碑文正面より「招魂碑」碑文左側面「建立年と施主 明治四十三年五月二一日 橋本組 下請負人 施主 新川茂十郎」碑文右側面には「明治五年會津藩士當地ニ渡海シ國道工事並ニ開拓ニ従事ソノ際夥多ノ死亡者ヲ出シタルモ草創ノ場合トテ仮埋葬トナシ爾来斯處ヲ佛坂ト称ヘ一ノ地名トナリシト云フ。今尚樹木雑草ノ小陰ニ朽チタル塔婆杯ノ散在スルヲ見ル。爾来星霜ノ閲スル事四旬明治四十年ノ秋株式會社日本製鋼所ノ設立アルヤ建設地切取其他ノ工事全部ヲ仙台市定禅寺通櫓町橋本組ニ於テ引受ケ昼夜ノ別ナク刻苦経営彼ノ土木事業界ニ難工事トシテ喧伝セラレタル喇叭山ノ開墾ヲシテ未ダ曽テ例ナキ大爆破ヲ案出執行シ部下一同又身命ヲ賭シ竣工ヲ奏シタリ。然レトモ之ガ為メ従事者ヲシテ犠牲ニ供シタル事莫大今ニシテ之ヲ追憶スレハ實ニ哀惜ニ不堪依テ茲ニ前后両者ノ英霊ヲ合祀シ祈念トシテ招魂碑ヲ建立スルモノ也」碑文背面「移設について 施主 大宮源次郎 國道の災害防除工事を施工するのでこの碑をここまでうつし併せて五十年忌の追善供養を行ひました。昭和三十二年十一月三十日 施主 日東土木株式會社」とある。※碑は札幌本道開削工事の犠牲者と日本製鋼所設立工事の殉難者を慰霊する為に工事関係者が建立された。明治40年の日本製鋼所建設工事を橋本組が請負い、工期の遅れを取り戻すため大爆発採掘方式(発破)により死傷者多数をだし、この碑が建立された時で殉難者は245名、その後に75名の殉難者が確認出来るというので、あわせると320名の殉職者となる(北海道開拓殉難者調査報告書)が、これだけ大量の殉職者を出したのは、既に土工部屋(タコ部屋)システムが完成しており、取締まる法制度も無かった当時の土工夫らへの扱いを物語るものです。昭和32年の国道の災害防除工事のため15mほど移され、招魂碑に隣接し地蔵尊が祀られていたが建物は倒壊し地蔵尊も破壊された状態ですが、工事当事者の心情が刻まれた碑としては、道内でも希有な存在と思われます。◇建立年:明治43年5月21日 ◇建立者:新川茂十郎 ◇移転年:昭和32年11月30日 ◇所在地:北海道室蘭市新富町 ◇Gmap:マップコード

築港殉職碑

築港殉職碑大正7年(1918)着工の南・北防波堤工事(昭和2年に終了)では殉職者13人、昭和33年(1958)着工の外防波堤工事(昭和39年に終了)では殉職者12人と、25人もの尊い犠牲者を出しています。室蘭の発展とともにあった港を築く際に殉職した方々の慰霊のため、昭和42(1967)年、室蘭港湾建設事務所が同所の裏に犠牲者25人の名を記した「殉職碑」を建立しました。ただ大正7年から昭和2年までの防波堤工事で殉職者13人というのは信じがたい。理由は小樽の港湾工事、ここでは大勢のタコ労働者が動員されていたが、室蘭も同じではなかったのかと?◇建立年:昭和42年 ◇建立者:室蘭港湾建設事務所? ◇所在地:室蘭市祝津町1丁目1 室蘭港湾事務所横 ◇Gmap:マップコード

噴火湾&大平洋湾岸ミニギャラリー

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