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北海道無名開拓殉難者の碑を巡る
北海道炭坑労働者の殉難・慰霊碑を巡る旅Ⅱ‼

石狩炭鉱殉職者慰霊碑奈井江町

# かつての炭鉱住宅街は新しい町営住宅に変わっているがその一角(町営住宅NO5の近く)に石狩炭鉱殉職者慰霊碑がある。碑には「石狩炭鉱関係者 三井砂川鉱業所 奈井江町 これを建立する 昭和49年11月2日」と有るだけで、亡くなった方の名前もなく、建立の経緯も理由も記されていません。石狩炭砿は昭和36年7月1日三井鉱山株式会社より鉱区の譲渡を受け、三井砂川鉱業所の第二会社として創業、順調に業績を伸ばしていたが昭和47年11月2日に起こったガス爆発事故は死者31名をだす。これが引き金となって昭和48年1月に閉山するに至った。事故の2年後に殉職者の慰霊のために建立された碑という。 ◇建立者:昭和49年11月2日  ◇建立年:奈井江町他2者  ◇所在地:奈井江町奈井江  ◇Gmap:Gマップ

日東美唄鉱業所慰霊碑美唄市

# 明治43年の試掘から始まった茶志内炭鉱は昭和12年日東美唄炭鉱と改称し大勝坑を開坑した。昭和19年に三菱鉱業に買収され、昭和23年に採掘区域を拡大するため茶志内通洞開削に着手。鉱区は三菱美唄炭鉱の滝の沢新坑、竪坑の北側になる産化美唄川沿いから美唄川に至る東西9km、南北3kmの区域で、生産量は最盛期で年20万トン程度でした。昭和42年に閉山している。日東町住吉地区にある墓地に再建された慰霊碑がある。昭和18年8月の炭塵爆発事故の被災者をはじめ、昭和42年閉山までの殉職者100余名の氏名が刻まれている。日本人の労働者のみならず連行されてきた朝鮮人・中国人の中からも多くの死者がでているとおもうが、その名前はないようです。 ◇建立年: ◇再建年:平成20年8月  ◇建立者:日東町連合町内会  ◇所在地:北海道美唄市日東町住吉  ◇Gmap:Gマップ

根絶の碑美唄市

# 鉱山や炭砿で働く人々が粉塵を吸いこみじん肺でなくなった悲劇の歴史を後世に残そうと美唄市のアルテピッツァ美唄の公園内に建立された碑です。以下は説明板より転載「かつて北海道には、数多くの金属鉱山、炭砿があり、日本の近代化、戦後の復興、高度経済成長を地底から支えてきた。そこで働いた人々は、粉じんを吸い、肺は石のようになり、いのちと健康を奪われた。その犠牲は長い間かえりみられることはなく、放置されてきた。人間の尊厳の回復とじん肺の根絶を希求して立ち上がったじん肺患者の足跡を残すために、この碑を建立する。2011年10月2日建立 北海道じん肺基金 北海道金属じん肺告訴原告団・弁護団 北海道石炭じん肺告訴原告団・弁護団」※炭砿夫の悲劇はまだ終わっていない。 ◇建立年:平成23年10月2日  ◇建立者:じん肺告訴原告団・弁護団  ◇所在地:美唄市落合町栄町  ◇Gmap:Gマップ

炭山の碑我路ファミリー公園 美唄市

# 三菱美唄炭鉱は三菱鉱業が北海道開発の拠点とした炭鉱で美唄駅から美唄川を遡った一帯にあった。その一角にある我路ファミリー公園に安田侃が故郷、美唄の炭鉱で亡くなった人々の鎮魂と閉山によって炭鉱を離れた人々のために思いをこめて製作した炭山の碑。説明板より「美唄の炭砿は閉じ多くの坑夫達は散りじりに山を去った。石炭を掘り、働く喜びは盆踊りのにぎわいも楽しく、それぞれに忘れ得ない生活のなりわいがあった。時代は過ぎ去り、人々は役割も終えて、もう誰もいない。静かに地底に眠り歴史を語りかける炭砿(ヤマ)だけが、生きている。」美唄には強制連行でなくなった人々の慰霊碑はないが、炭山の碑は人種や国を問わず炭砿でなくなったすべての人達を慰霊する碑でもあった。 ◇建立年:昭和53年6月  ◇製作者:安田侃  ◇所在地:美唄市東美唄町番町  ◇Gmap:Gマップ

三菱美唄記念館美唄市

# 三菱美唄記念館には鉱業所名の石板、大正期の地図、友子免状、美唄炭鉱地域の模型などが展示されている。展示品の中に1923年5月に神社へ納められた額があり、寄贈者の名前には日本人とともに朝鮮人の名前が記されている。この額は朝鮮人が三菱美唄でも働いていた事を事を示している。大正年代から昭和の初めには朝鮮植民地化で土地や仕事を失ない朝鮮から日本に出稼ぎに来た人達だが、戦争末期には朝鮮人の間で日本での労働内容が劣悪という話が広がり務者確保が困難となって徴用になったようです。強制連行に対して「徴用」で来たので強制連行ではないという言葉が見られるが、徴用を国語辞典で見ると「国家が国民を強制的に呼び出し、一定の仕事に就かせる事」とあり、強制連行の一種といえる。 ◇所在地:###  ◇Gmap:Gマップ

弔魂碑と慰霊塔美唄市

# 「弔魂碑」の碑文より「殉職諸氏ノ英霊ノ為ニ弔魂ノ碑ヲ建テ永ク其ノ冥福ヲ祈念ス 昭和4年5月 三菱礦業株式会社取締役会長 三谷一二謹誌」とあり弔魂碑の建立された年代から昭和2(1927)年の事故で亡くなられた方々の慰霊碑かもしれない。三菱美唄炭鉱では悲惨な事故が繰り返されたが、昭和2年の美唄炭鉱堅抗でガス爆発、39人死亡。昭和16(1941)年のガス爆発で177人(朝鮮人22人を含む)が死亡、この時は事故の2日後に坑道をコンクリートで閉鎖しているので、坑内に53人(朝鮮人14人を含む)の遺体が今なお地底にあるが、報道されることはなかったようです。昭和19(1944)年5月16日に北部第一斜坑でガス爆発で107(朝鮮人は70人以上?)人が死亡、昭和43(1948)年1月・ガス爆発で16人死亡。同年5月・大規模崩落で13人が死亡と事故が続き、昭和47(1972)年4月に閉山している。「慰霊塔」の碑文に「大正4年三菱美唄炭砿開山 昭和47年閉山廃墟となる。60年に渡る故郷を偲ぶと共にこの山で殉職又病死された方々の冥福を祈るものなり」とある。どちらの碑にも死亡者の名前や死亡者数は記されず、三菱美唄に連行された朝鮮人や中国人の事も記されていない。碑は閉山後の昭和52(1977)年6月に「ふるさと祭実行委員会 元三菱美唄居住者有志一同」が建立、三菱美唄記念館の奥に「弔魂碑」と「慰霊塔」がある。 ◇建立年:###  ◇建立者:###  ◇所在地:美唄市東美唄町番町  ◇Gmap:Gマップ

三井美唄炭鉱の祭神祠 鳥居美唄市

# 三井美唄炭鉱の祭神祠があるが山神と思われる。ここは旧三井美唄炭鉱厚生館の敷地内だったようで隣接して現・札幌メッシュ工業建がある。境内には南美唄最古の炭鉱という「宝田炭鉱」の碑が現存し隣接して有った老人寿の家跡前と思われる付近に昭和53(1978)年8月15日に三井美唄鉱閉山15周年行事実行委員会が建立した慰霊之碑があり「やまで生命を捧げた人々の慰霊のためにこれを建つ」と記されている。 ◇所在地:美唄市南美唄町大通り1丁目 ◇Gmap:Gマップ

三井美唄 慰霊之碑三井美唄関係合葬 美唄市

# 詳細不明なのは美唄殉難者碑、殉難者碑(外国人殉難者合葬)南美唄町栄町北 墓地にある「慰霊之碑」は三井炭砿関連か屯田兵か ◇建立年:###  ◇建立者:###  ◇所在地:###  ◇Gmap:Gマップ

哀悼之碑三笠市

# 招魂碑の下にある北海道炭鉱汽船株式会社が建立した北炭幌内炭鉱での死者を追悼する哀悼之碑です。此の碑も招魂碑と同じように幌内神社の境内に建立されたが戦後になって現在地に移設された。当初は銅板が巻かれて哀悼之碑と刻んであったというが上部の法塔部は無くなっている。碑の前に階段があり、碑背部の銅板に建立当時の北海道炭鉱汽船株式会社専務取締役だった井上角五郎氏の碑文が刻んである。碑文の一部から「哀悼之碑を建立し此等死者の位牌を納め殊に亦た毎年祭壇を設けて其冥福を禱るを以て我が会社の恒例と定めぬ」とあり、此の場所で慰霊祭を執り行った時があったようです。 ◇建立年:明治39年建立  ◇建立者:北海道炭鉱汽船株式会社  ◇所在地:三笠市幌内中央 妙法寺跡付近  ◇Gmap:Gマップ

招魂碑三笠市

# 幌内炭鉱の労務者飯場、請負などの関係者で、発起人5名と世話人6名が中心となり明治36年9月に幌内神社境内に招魂碑を建立。神社前が狭いため大正9年に現在地に移設されたという。台座は三段でその上に2m余りの自然石が乗る。入口に指導標があり碑の前は階段になっている。台座上段正面に山炭内幌、上段左右に世話人、上段裏面に発起人の氏名が刻字してある。北炭幌内炭鉱での死者を追悼する碑ですが、炭鉱関連の慰霊碑としては見た限り空知では最古の碑かもしれない。幌内炭鉱の遺構は殆どは解体され、巨大なズリ山がその歴史を語りかけている。 ◇建立年:明治36年9月建立  ◇建立者:###  ◇所在地:三笠市幌内中央 妙法寺付近 ◇Gmap:Gマップ

都春別煤田の碑三笠市

# 都春別煤田の碑は明治18年都春別煤田の調査に入った時折りに建てたとされていたが、三笠の石碑によると山内堤雲翁の遺稿によると明治14年が正しいとのこと。遺稿によると本人は愚筆で上の一字が読み難しとあり、また「碑ヲ建シテ十四年ニシテ年月ハ記セザリシガ如ク覚ュ」とあって明治14年が正しく再建の折り誤って刻字されたらしい。最初は炭鉱坑口神社の境内に建てられたが倒壊し明治40年に再建され、大正6年頃に錦町2丁目幾春別小学校跡の公園に移転、そのご炭鉱の閉山で昭和28年頃に移転したが、現在は三笠市立博物館前にある。山内堤雲は明治11年10月に開拓使煤田開採事務長に任命され幌内鉄道創設の事業に当たったが、同時に採炭事業をも進めた。 ◇建立者:山内堤雲  ◇建立年:明治14年  ◇所在地:三笠市幾春別錦町1丁目(三笠博物館か?)  ◇Gmap:Gマップ

殉職者慰霊塔三笠市

# 地図では住友奔別炭鉱の竪坑櫓の上部の坂道脇に二つの碑が並んである。この辺は旧奔別小学校の跡地といい最盛期には児童数は3,600人を越えたというが殆ど自然に戻っておりかつての面影は皆無。慰霊塔は奔別鉱業部の殉職者慰霊のため住友奔別鉱業部によって昭和15年に建立され、昭和31年より唐松坑の殉職者も合わせて祭祀しているとのこと。奔別炭鉱は昭和46年に閉山したが、閉山5年後と10年後に慰霊祭が行われたという。奔別炭鉱跡に1960年建築の立坑が残され異彩を放っている。住友唐松弥生地区には弥生坑の坑口跡が残っている。右隣にある顯徳碑は昭和26年月26日の建立で戦中に出征した従業員の追悼碑という。 ◇建立年:昭和15年建立  ◇建立者:住友鑛業株式会社北海道炭業所本別礦業部  ◇所在地:三笠市奔別川端町9番地(旧奔別小学校跡)  ◇Gmap:Gマップ予想位置

哀悼之碑三笠市

# 弥生鉱業所で昭和6年12月2日に発生したガス爆発事故で18名の死亡者を出す惨事があり、この殉職者追悼のため東邦炭砿株式会社が昭和7年に建立した慰霊碑。台座の正面に弥生鉱業所所長・中東光五郎氏の弔歌が刻まれているが、昭和9年に起きた弥生炭砿ガス爆発による犠牲者44人と昭和12年に発生したガス爆発事故による犠牲者30人は含まれてはいないようだ。また碑建立の経過などは刻まれていない。最初の哀悼之碑は弥生神社境内に建立されたが、弥生砿の閉山で弥生神社が幾春別神社に合祀されることになり昭和19年11月に現在地(弥生墓地正面山側)に移転した。人里では過疎による地神の統廃合はよくあるが、慰霊碑は移転先が限られるので大変かもしれない。 ◇建立年:昭和7年8月15日  ◇建立者:東邦炭砿株式会社  ◇所在地:三笠市弥生桜木町 生墓地  ◇Gmap:Gマップ

朝日炭砿記念碑岩見沢市

# 碑文「昭和四十九年十一月 朝日炭砿六十余年の歴史をここに閉じる。閉山十年を卜し殉職者四十有余柱の霊を慰め記念の地にこの碑を建立する。昭和五十九年五月 野村 健二 書」※明治末期から採掘され、戦後は大手に属さない朝日炭鉱株式会社(昭和24年以前は日本硝子株式会社)が経営にあたっていた。朝日駅が設置された大正8(1919)年頃から出炭規模を拡大、昭和40年代には10万トンを超える生産量を記録し、朝日駅北側に選炭場、駅北西部に炭鉱住宅が広がっていた。昭和47(1972)年2月のガス突出事故で9人が殉職、それが引き金となって昭和49年に閉山。事務所などの建物は既に撤去され痕跡はなく今は原野に還っているが、本坑口や斜坑口跡などの遺構が残っている。碑名は記念碑ですが慰霊の意味も込められているようです。 ◇建立年:昭和59年5月  ◇建立者:野村 健二?  ◇所在地:岩見沢市朝日町 朝日神社境内  ◇Gmap:Gマップ

無縁仏岩見沢市

# 万字線が開通して沿線に炭砿が開砿するが、美流渡炭鉱もその中の一つで、大正7年に北海道炭礦汽船株式会社により開鉱された。石炭積み出しのため万字線美流渡駅から専用鉄道(北星炭礦美流渡礦専用鉄道)が敷設され旅客も取り扱っている。戦後は合理化で子会社の北星炭鉱が経営を引継ぐが昭和41年に採掘を中止し閉山し専用鉄道も廃止された。北星炭鉱の閉山後に伊藤炭鉱が小規模な露天掘りによる採炭を行っていたが昭和63年(1988)に採掘を中止している。美流渡坑では昭和19年8月の坑内火災事故で36人が死亡、そのうち26名が朝鮮人のようです。「鑛夫名簿」には昭和19年4月25日付けで「軍需徴用」の万字炭鉱印が押されているものが多く、逃亡者については「逮捕」として処理されているのは戦時下の強制労働を示すもののようです。無縁仏の碑はこの方達を含めて追悼したものかもしれない。 ◇建立者:###  ◇建立年:###  ◇所在地:岩見沢市栗沢町美流渡西町170 妙真寺境内 ◇Gmap:Gマップ

殉職死歿者之慰霊碑岩見沢市

# この碑は万字炭砿北斗寮の建立で会社が建立した慰霊碑ではないようだ。普通に解釈すると寮住まいの同僚達が建立したか、建立の母体なのだろう。墓地内にあったとはいえ草に埋もれ忘れられた存在になっていたのを万字仏教会が無縁塔再建の折、鮮人共同墓之碑とともに一箇所に集めて慰霊できるようになった。台座の中央は新たに再建された供養塔、右側に殉職死歿者之慰霊碑、左に鮮人共同墓之碑があり、万字の歴史を語る碑が一同にまとめられた。蛇足ですが孝禅寺境内には友子のお墓が有り、こちらも万字の歴史を物語っている。 ◇建立年:昭和21年8月  ◇建立者:万字炭砿北斗寮  ◇所在地:岩見沢市栗沢町万字巴町 万字墓地  ◇Gmap:Gマップ

無縁塔岩見沢市

# 北海道では鐵道敷設工事などで犠牲となられた方は多いが、万字線敷設工事も例外ではなかった。とくに万字付近は難工事の連続で過酷な労働で斃れた人は多かったと云い、工事関係者が慰霊碑を建立するほどでした。この無縁塔は最初の建立年からみて万字炭山協の手で万字炭山駅付近に建立された供養塔と思われ、後に万字墓地に移設されたと思われるが、碑の風化が進み万字仏教会が呼びかけ平成5年に再建、その時に墓地内で草に埋もれていた殉職死歿者之慰霊碑と鮮人共同墓之碑を一箇所にまとめ毎年法要を行っているという。日本人砿夫、鉄道工事で斃れた多くの土工夫、炭砿で亡くなって祖国の土を再び踏む事のなかった朝鮮人、その数がどれ程になるのかは今となっては知る方法もない。 ◇建立年:昭和31年建立  ◇建立年:平成5年7月再建  ◇建立者:万字炭山協  ◇所在地:岩見沢市栗沢町万字巴町 万字墓地  ◇Gmap:Gマップ

無縁塔 殉職死歿者之慰霊碑 鮮人共同墓之碑岩見沢市

# 鐵道敷設工事などで犠牲となられた方は多いが、万字線敷設工事も例外ではなかった。とくに万字付近は難工事の連続で過酷な労働で斃れた人は多かったと云い、工事関係者が慰霊碑を建立するほどでした。この無縁塔は最初の建立年からみて万字炭山協の手で万字炭山駅付近に建立された碑と思われ、後に万字墓地に移設されたが、碑の風化が進み万字仏教会が呼びかけ平成5年に再建、その時に墓地内で草に埋もれていた殉職死歿者之慰霊碑と鮮人共同墓之碑を一箇所にまとめ毎年法要を行っているという。日本人砿夫、鉄道工事で斃れた多くの土工夫、炭砿で亡くなって祖国の土を再び踏む事のなかった朝鮮人、その数がどれ程になるのかは今となっては知る方法もない。 ◇建立年:###  ◇建立者:###  ◇所在地:岩見沢市栗沢町万字巴町 万字墓地  ◇Gmap:Gマップ

万字炭鉱萬霊碑岩見沢市

# 万字炭山の守護神として明治41年に建立されているが灯篭は壊れ、階段や境内は雑草で埋まっている万字炭山神社。その神社に万字炭鉱殉職者の慰霊碑があります。建立したのは万字炭礦株式会社ですが、当時なにか大きな事故があったものか情報が殆どない。ただここでは昭和21年に万字炭砿北斗寮により建立された殉職者慰霊碑建立後に殉職された方々を慰霊する碑と解釈した。これは会社が建立した唯一の慰霊碑かもしれません。 ◇建立年:昭和41年8月7日建立  ◇建立者:万字炭礦株式会  ◇所在地:岩見沢市栗沢町万字英町 山神社境内  ◇Gmap:Gマップ

北炭夕張新炭鉱坑口跡夕張市

# 北海道炭礦汽船(北炭、以下略称示)の関連会社が経営する夕張炭鉱の一つで、北炭の生き残りをかけた最新鋭の炭砿だった。昭和50年に出炭を開始したが昭和56(1981)年10月16日に発生したガス突出・坑内火災事故、運命の日もここより連絡隧道の人車に乗り換え、地下1000メートルの闇へと消えて行き、再び地上に戻ることはなかった93人の人々。行方不明者を閉じ込めたままの注水作業はショッキングな出来事であり炭鉱のイメージそのものを失墜させ、新炭鉱に命運を懸けていた北炭に壊滅的な打撃を与え、子会社北炭夕張炭鉱(株)はその2か月後に倒産、新炭鉱も事故から1年後の1982年10月に閉山、北炭はその後も夕張以外の炭鉱で採炭を続けていたが、1995年空知炭鉱(歌志内市)の閉山をもって石炭から撤退、同年に会社更生法の適用を受け倒産に追い込まれた。北炭夕張新鉱の炭住東側にあった立坑を結ぶ通洞坑(西口)近くの盛土上に、1981年10月16日に発生し犠牲となった93人の人々を慰霊した碑がある。 ◇所在地:北海道夕張市清水沢清陵町  ◇Gmap:Gマップ

北炭夕張新炭鉱慰霊碑夕張市

# 昭和56(1981)年10月16日に発生したガス突出・坑内火災事故で坑内に行方不明者59名を残したまま注水、排水作業後に遺体の収容作業を再開され、最後に残っていた遺体が収容されたのは昭和57(1982)年3月28日で、最終的に93名の砿夫たちが犠牲となった。行方不明者を残したままの注水作業はショッキングな出来事で炭鉱のイメージを一変させた。通洞は遺族の感情も配慮してかコンクリート密閉ではなく空気の通る格子で塞がれ「北炭夕張新炭鉱」の文字も往時のまま。戦後の炭鉱事故としては1963年の三井三池三川炭鉱炭塵爆発(福岡県大牟田市)の458人、1965年の三井山野炭鉱(福岡県嘉麻市)ガス爆発事故の237人に次ぐ3番目の大惨事で、翌年の昭和57年に閉砿しその翌年に慰霊碑が建立されている。北炭夕張新鉱連絡隧道口の右横にある盛土の丘に慰霊碑があり、台座の碑文より「夕張新炭砿開発以来殉職された諸氏英霊のために慰霊碑を建立し永遠に冥福を祈る。昭和58年10月9日 北炭夕張新炭砿株式会社 夕張新炭砿労働組合 施工者省略」また開砿から閉山まで7年間の殉職者119名の氏名が刻まれている。 ◇建立年:昭和58年10月9日  ◇建立者:北炭夕張新炭砿(株)他  ◇所在地:北海道夕張市清水沢清陵町  ◇Gmap:Gマップ

三菱南大夕張 殉職者慰霊碑夕張市

# 碑文より「昭和60年5月17日の災害により職に殉じられた方々の一周忌に当り、当炭山の殉職者諸氏英霊の為に慰霊の碑を建て、永くご冥福を祈念するものである。昭和61年5月 三菱石炭鉱業株式会社 社長 森本 輝 南大夕張砿業所長 神谷 新 謹誌」※南大夕張炭鉱殉職者慰霊碑は国道452号線沿いの夕張市南部新光町「南部市民体育館」の脇にありますが、シューパロダム建設に伴い炭住街から現在地に移設されたもの。南大夕張炭鉱で昭和60(1985)年5月17日に起きたガス爆発事故で亡くなった方々(犠牲者は62人)の慰霊のため建立された。碑のあった地区はかつて二股と呼ばれ明治期から鉱山があり遺構が今も山中に残っているという。二股から「大夕張」に改称され大夕張炭鉱の開発とともに1929年より南大夕張になる。三菱鉱業経営の三菱大夕張炭鉱は昭和41(1966)年に鉄鋼コークス用原料炭を確保するため開発された「ビルド鉱」で、昭和45(1970)年から営業出炭を開始した比較的新しい炭鉱でした。夕張市最後の炭鉱として期待されていたが昭和60(1985)年のガス爆発事故が契機となって平成2(1990)年に閉山。 ◇建立者:三菱石炭鉱業株式会社  ◇建立年:昭和61年5月  ◇所在地:夕張市南部新光町  ◇Gmap:Gマップ

殉職者慰霊碑夕張市

# 殉職者慰霊碑は北炭創立70年のときに労働組合が登川花園公園(二区公園)に建立したが、真谷地炭鉱の閉山で現在地に移された。殉職者慰霊碑の碑文に「北海道炭砿汽船株式会社創立七十周年記念」で登川炭砿労働組合が昭和33年11月18日に建立、昭和62年10月9日に真谷地炭鉱が閉山したので二区公園にあった碑を63年7月により楓墓地入口に移設したもの。碑裏には「北炭開坑以来殉職者名簿 登川本坑―楓坑」として大正8年に三井登川坑を統合した時からの全殉職者の139名を調査し刻み込んであります。同じ所にある奥登川竪入貫通碑と災害防止優良旗獲得記念碑は北炭登川炭砿の碑で旧登川神社跡地にあったのを2017年6月に楓墓地入口移設したものといい、全殉職者名が刻まれた慰霊碑は貴重です。至近距離に地蔵堂と馬頭観音の碑があり、墓地内には友子の墓碑56基があり、40基が一区画にまとめられている。 ◇建立年:昭和33年11月18日  ◇建立者:登川炭砿労働組合  ◇所在地:夕張市楓 楓墓地入口  ◇Gmap:Gマップ

夕張 北上坑遭難者之碑夕張市

# 1905年から20年の大きな事故をみると、1908年・新夕張炭鉱爆発事故・死者・行方不明者 91人 、1912年4月・北炭夕張炭鉱爆発事故・死者・行方不明者 276人、1912年12月・北炭夕張炭鉱爆発事故・死者・行方不明者 216人、1914年・新夕張炭鉱爆発事故・死者・行方不明者 423人、1914年・新夕張第二斜坑爆発事故・死者・行方不明者 49人、1920年・北炭夕張炭鉱北上坑爆発事故・死者・行方不明者 209人で死亡者を合計すると1,400人に近い数となる。特に夕張炭鉱北上坑で起こったガス爆発は、死者212名、負傷者7名を出す大惨事ですが、北炭は他の採炭切羽への爆発・誘発をおそれ一人の救出も行わず坑口を密閉する残酷な処理をした。幌内炭砿は囚人砿夫を消耗品の様に扱ってきた歴史が有り、北炭という企業の体質がが砿夫をどのよう扱っていたのかが良くわかる。石碑の左右には犠牲者212名の名前が刻まれ、建立者名簿を合わせると300人ちかい名前が刻まれているが、犠牲者のうち12名は女坑夫で同じ名字が連なっているのは一家全滅という悲劇を表すものかもしれない。全国坑夫組合支部の夕張連合が大正9年4月に約2,000人で結成され、その直後に発生した事故で夕張連合は会社側に対して7項目の要求を掲げるとともに救援活動や遺族の見舞いを行い、北上坑大災害経過報告労働者大会を丁未小学校で開催。北炭との交渉で死亡者平均賠償額の3.3倍の慰謝料と死亡者全員の名前を刻んだ遭難慰霊碑の建立を認めさせた。慰霊碑は末広墓地にあり一際大きくて目立っています。 ◇事故年:大正9年6月14日  ◇建立年:大正9年10月建立  ◇建立者:北炭夕張炭鉱 夕張礦一同  ◇所在地:夕張市末広1丁目 末広墓地  ◇Gmap:Gマップ

若鍋砿災害哀悼碑夕張市

# 明治39年に開発着手された夕張炭鉱・若鍋坑で大正3(1914)年11月にガス爆発事故が発生して死者423人をだす大惨事となった。道内の炭鉱事故としては最悪の惨事ですが、事故で亡くなった礦長の墓碑はあっても、犠牲となった砿夫達の氏名が刻まれた慰霊碑はなく、ただ大きな碑に会社名が刻まれた哀悼碑があるだけ。北上坑では救出も行わず坑口を密閉、若鍋坑では最悪の犠牲者を出したが大きいだけで申し訳程度の慰霊碑しかなく、北炭が砿夫をどのよう扱っていたのかが良くわかる。炭砿の囚人労働が廃止されると砿主は代わって友子制度を元にした飯場制度を活用、監獄部屋のような暴力支配はないが、親方が賃金の全てを掌握しピンハネする中間搾取者でヤマの監獄部屋とも云われた。飯場制度のもとで砿主は事故のとき正確な入坑者数を把握できていたのかは疑問がのこる。事故から一世紀を経て若鍋鉱跡は自然に還り事故の記憶は風化を辿るばかり。 ◇建立年:大正3年11月  ◇建立者:###  ◇所在地:夕張市末広1丁目 末広墓地  ◇Gmap:Gマップ

友子の墓碑

友子の歴史は徳川時代に遡り、鉱山で働く砿夫達に広く受け継がれてきた共同体組織で、新人の砿夫は「取立」という親分と子分・兄弟分等の関係を結ばないと一人前の砿夫にはなれなかったという。親分について3年3月10日の修業期間を経て一人前の坑夫として認められたが、それまでの期間は他の鉱山への移動は許されず、厳しい掟などがあったという。坑夫としての腕をみがき、成長するにしたがい舎弟分や子分をもち、彼らを教育し兄分になり一人前の友子親分となったが、日常生活でも友子同士が助け合う相互扶助の機能もあった。友子坑夫の同胞意識は肉親以上ともいわれるが、友子坑夫には渡利坑夫と自坑夫があり、渡利坑夫には親分が亡くなると「仏参」という子分が親分の墓を建てる習慣があり、夕張にある友子の墓碑は渡利坑夫と何らかの関係がある墓碑と考えられる。炭砿開発初期は友子親分が飯場を経営し会社に労務者を提供、その労務管理も友子組織が行う坑夫主体の方式だった。明治26年に味噌米貸与要求に端を発した騒動があり、北炭は直轄坑夫の労務管理をする事を主体とした直轄坑夫制度を設け飯場主と友子制度の弱体化をはかったが、出炭拡大に見合う労働力の確保は友子制度を元にした坑夫導入が出来なくなり、多様な坑夫募集に切換たことが、友子組織に与えた影響は大きかった。また保険制度の普及や採炭現場の機械化(大正10年にコールピック導入)が手掘技術習得という友子組織の衰退に拍車をかけたようです。末弘墓地にある友子坑夫の墓碑は111基で明治期の墓碑は38基、大正期は60基、昭和は僅か6基となり、友子組織の盛衰が碑の数からみてとれます。炭鉱を知る上で友子の墓は文化財の一つとも云えるが、歴史が古いだけに墓石が倒れるなど荒れた感じなっているのは寂しい限り。夕張の末広墓地には和人の他、朝鮮人坑夫だった友子の墓も有り、彼らは1930年代以前よりこの地で働き暮らしていたのでしょう。※参考文献「知られざる炭砿の歴史 わが夕張」

丁未自坑夫遭難者之墓夕張市

# 地域の自坑夫が仏参したもので、慰霊碑として ◇建立年:大正3年3月9日  ◇建立者:###  ◇Gmap:Gマップ

新夕張自礦夫遭難者哀悼碑夕張市

# 地域の自坑夫が坑内災害の遭難哀悼碑として仏参し建立されたもので、墓碑でもあり慰霊碑でもあった。ガス爆発で亡くなった12名の名前が刻まれている。 ◇建立年:明治41年10月  ◇建立者:###  ◇所在地:夕張市末広1丁目 末広墓地  ◇Gmap:Gマップ

真谷地炭鉱

玄洋社の頭山満が所有する「久留木(クルキ)炭鉱」の鉱区を北炭が明治38年に買収し「夕張第二鉱」として開発に着手。大正2年に「真谷地炭鉱」と改称。馬鉄に代わり「真谷地炭鉱専用鉄道」が開通し沼ノ沢~真谷地間の石炭輸送のほか一時は旅客輸送も行った。大正7年に北炭の坑名変更で坑口に「榊」「桂」「楓」など樹木の名が付けられた。大正8年に北炭が三井登川炭鉱を買収したことにより楓坑を登川鉱に移管。昭和53年には北炭の三井分離により榊・楓両坑が「北炭真谷地炭鉱」として独立するが昭和62年閉山。その後「新真谷地炭鉱」に引き継がれ露天掘りを行うも平成3年に終掘となる。最盛期(昭和28年)の従業員数2,100人、閉山直前には70万トンを出炭している。炭砿施設は解体撤去されなにも残っていない。

萬霊解脱塔夕張市

# ◇碑文(正面)萬霊解脱塔
哀悼之碑が移設された場所この碑と同じ萬霊解脱塔が建立されていた。三面に建立の経過が刻まれているが、北炭井上専務が「夕張・真谷地・幌内・空知」の各炭鉱に建立したと云われているが、現存する真谷地の一基のみ。この萬霊解脱塔は榊坑坑口付近に建立され、昭和初期に真谷地小学校門付近に移設、さらに真谷地神社境内に移設したが、閉山により真谷地共同墓地に移された。明治38年頃より規模の大きな事故が続発しているのが萬霊解脱塔建立の背景にありそうだ。真谷地炭鉱が閉山するまでは真谷地炭鉱労使が供養を行っていたという。

碑文(左右側面・裏面)
「本會社各炭礦及事業は今や共に拡張雖も顧みて採掘著手の當時を思へば實に人跡の曽て到らざる処に起業したるものにして當初以来従事者殊に労働に従事したる礦夫は如何に苦難を辞せず克き其の職務に努めたるかを想像するに余りありとす本社たるもの豈に之を記憶せざるを得んや本會社は曩に各炭礦に哀悼の碑を建て各炭礦採炭採掘開始以来事業に従事して職務上終に命を殞したるものの為に弔祭の典を行うこととし年々一度祭壇を設け霊牌を列ね以て法會を営むを恒例と●り此外炭礦に従事したる社員礦夫は其家族の死亡したるも●して少な志とせず此等は職務上其の命を損するに至りたるものと同じに視做すべからずと雖も亦炭礦に功労あるものならば今回各炭礦●に禮拝の碑を建て其の親戚縁故の之を弔うものなきに至りて●●會社自ら之が追遠の事に当るべし碑文は萬霊解脱塔と題し釈雲照律師に請ふて之を書し今其の成るに當●建設●大様を記●●云ふ 明治四十二年一月十五日 専務取締役 井上角五郎」※●印は解読不明 ※●碑 赤銅鉢物 高290×幅32  ◇建立年:明治42年1月15日  ◇建立者:北海道炭鉱汽船株式会社 専務取締役 井上角五郎  ◇所在地:北海道夕張市真谷地419番地 真谷地共同墓地  ◇Gmap:Gマップ

哀悼之碑夕張神社 夕張市

# 夕張神社の境内に立つブロンズ製の碑で明治38年に北炭が殉職者の慰霊のために建立したもので、同じものが幌内、幾春別、空知の3炭鉱にあったという。夕張神社の哀悼之碑は法塔部のみが本来の形で、登川神社から移設された時に納骨堂式の台座が失われ今の形になったらしい。元々の台座は戦後になって現在地に移設された幌内の哀悼之碑と同じ形をしていたようだ。幌内の哀悼之碑は上部の法塔部が無なく、夕張と幌内を合体させると哀悼之碑の完全形になるようです。歌志内にある哀悼之碑は昭和29年に再建されたもので似ているが同じではないようです。明治37~38年にかけてガス爆発による被害が大きく、出炭維持にも甚大な打撃を被った事、矢継ぎ早に事故が起き実質半年間に約100名もの死者を出した。坑夫達の不安は大きく労働条件の改善を求め同盟罷業などもあり、明治38年6月に哀悼之碑を建立したのは北炭の労務対策か?。哀悼之碑が移設される前には明治42年に建立された萬霊解脱塔がありました。夕張では最も古いと思われる哀悼碑ですが、碑銘と建立者名が刻まれているだけ。災害の記録をみても出てくるのは碑の建立後からで、おそらくは記録に残さなかった事故が頻発していたのでしょう。 ◇建立年:明治38年6月  ◇建立者:北海道炭鉱汽船株式会社  ◇所在地:夕張市住初6  ◇Gmap:Gマップ

礦業従事者遭難哀悼碑夕張市

# 明治28年建立と夕張では最も古いと思われる哀悼碑ですが、碑銘と建立者名が刻まれているだけ。建立したのは北炭社長西村捨三で官選により北炭社長に就任、重役公選制になるまで4年間社長の任にあった。災害の記録をみても出てくるのは碑の建立後から、北炭の記録では死傷者20名以下の年度は省略されているようで、おそらくは記録に残さなかった事故が頻発していたのでしょう。何も無いのに哀悼碑を建立するはずもないでしょう。当時はまだ水平坑3本と斜坑でやっと本格的な採炭に入り始めた頃、軍需景気で掘れば掘るほど利益が上がる時代であった。 データー/碑(正面)/礦業従事者遭難哀悼碑 正四位西村捨三/裏面) 明治廿八年八月建立/碑 方形 自然石(堆積岩)高259×幅75×奥行33/台 方形 自然石(砂岩)/高44×幅196×奥行135 ◇建立年:明治28年8月  ◇建立者:北海道炭鉱汽船株式会社  ◇所在地:夕張市住初6  ◇Gmap:Gマップ

鎮魂の像夕張市

# 佐藤忠良氏は少年時代を母の実家のあった夕張で過ごした彫刻家で、現在も彫刻界の第一人者としてしられる。鎮魂の像は昭和61年に建立し夕張市に寄贈されたもので石炭博物館前に設置されている。以前は夕張美術館前にあった様な記憶もあるが・・・・過剰な観光投資が裏目にでて財政破綻を招いた夕張、石炭の歴史村も閑散とした印象ですが、そのなかにある裸婦像、台座に「石炭によって発展し百年の歴史をつくってきた夕張。その中で郷土の礎となったあまたの炭鉱殉職者に捧ぐ」と刻まれている。この言葉が無ければこの像の何が鎮魂なのか苦しむだろう。幼少期を夕張で過ごした佐藤氏が自ら制作、寄贈したもので、犠牲者62人を出した三菱南大夕張炭鉱ガス爆発事故の翌年でした。 ◇制作年:昭和61年(1986)  ◇制作者:佐藤忠良  ◇所在地:夕張市高松7番地 石炭博物館前  ◇Gmap:Gマップ

採炭救国坑夫像進発の像 夕張市

# 中村直人他三名で石炭産業に従事する人々を激励するため、昭和19年に現地で製作され旧夕張鉱業所前に「進発の像」として設置されたもの。軍需美術推進隊という団体の依頼で戦意高揚と戦時経済を支えるため美術家も動員されて出来た戦争文化遺産ともいえます。戦後は経済復興を進める中で「採炭救国坑夫像」と呼ばれたようです。この像は旧夕張鉱業所前から新二鉱繰込所前に移設され、更に昭和60年に石炭の歴史村にある天竜坑の露頭炭前に移された。素材が少ない鉄筋とセメントなので経年変化による痛みは激しいが、痛んでもコンクリートで有る事に意味がある。上砂川などではレプリカに差し替えられているが、戦前という特別な状況の中で作成された臨床感は伝わってこなかった。モデルは鉱業所長の竹鶴可文(よしふみ)という。 ◇設置年:昭和19年  ◇建立者:軍需美術推進隊  ◇制作者:賀忠雄・圓鍔勝二・木下繁・中村直氏  ◇移転者:昭和60年12月  ◇所在地:夕張市高松7番地 石炭の歴史村  ◇Gmap:Gマップ

大夕張ダムの慰霊碑夕張市

# 夕張シューパロダム管理棟の近くに碑がふたつあり左側の「慰霊碑」は起工・竣工の年と施主、施工会社の名前を記した碑だが、大夕張ダム建設工事で亡くなった方々のため、三弦橋の近くに建立された碑を移したらしい。右側の「夕張川総合開発記念碑」は昭和42年に大夕張ダム付近の道々沿いに建てられたようで、大夕張ダムと川端ダムが建設された経緯が刻まれています。 ◇建立年:###  ◇建立者:###  ◇所在地:夕張市南部青葉町  ◇Gmap:Gマップ

尺別炭鉱復興記念釧路市

# 尺別炭鉱は北海道白糠郡音別町尺別川流域にあった炭鉱で、採掘権の登録がなされたのは明治43年8月。採掘権は大正7年10月に神戸市在住の椎葉糺義に譲渡され、北日本鉱業が設立された。昭和3年12月27日に経営権が北日本鉱業から三菱系の雄別炭鉱鉄道に移り、軌道の運行は雄別鉱業所鉄道課の指揮を受ける。雄別炭鉱鉄道は戦後に三菱系列を離れて独立経営となり、尺別も雄別の支坑から尺別炭鉱として独立する。専用鉄道の輸送量は昭和25年度に22.7万tとなるが浦幌坑が昭和29年10月に閉山となり、その年度は13.6万tにまで落ち込む。昭和35(1960)年度には25万tまで回復するも、雄別炭鉱鉄道は昭和45年2月27日に全山閉山・会社解散となり歴史に幕を閉じた。戦前の強制連行の連行先に尺別炭坑の直轄と下請に鉄道工業の名前があり監獄部屋もあったと考えてよさそう。北海道開拓殉難者調査報告書では合わせて殉難受者84名、氏名の判明しているのは63名となっている。慰霊碑などは見いだせなかった。 ◇建立年:平成2年  ◇建立者:###  ◇所在地:釧路市音別町尺別原野基線  ◇Gmap:Gマップ

雄別炭鉱記念碑サブタイトル 地域&マップ

# 雄別地区の開砿は明治29年と早いが運搬手段の不備から明治39(1905)年に閉鎖、その後の明治36年に兵頭炭砿が開坑、明治39年に釧路炭砿乙別炭山に代わり大正5年に沢口炭砿が引き継ぐも、大正9年から休止状態であったが大正12年に閉山。雄別地区の鉱区をまとめ大正8年「北海炭砿鉄道株式会社」を設立、開坑と平行して石炭輸送目的の、雄別(大曲)~釧路間の鉄道敷設に着手し大正12年1月17日に開通、本格的に出炭できる体制ができるも同年に発生した関東大震災後の不況で大正13年に三菱鉱業へ譲渡され三菱の子会社「雄別炭砿鉄道株式会社」となる。その後の出炭量は増加の一途をたどるが、昭和30年には石炭鉱業合理化臨時設置法が出され、スクラップアンドビルド政策が進み、能率の悪い炭鉱は次々と閉山していきます。昭和34年に雄別炭砿鉄道は鉄道部門を分離して「雄別炭砿株式会社」と社名を変更。昭和39年に最大出炭量を記録するも、エネルギー革命の波には逆らえず、さらに昭和44年に赤平茂尻鉱坑内爆発事故で出炭を中止、経営困難となって翌昭和45年に雄別炭砿も閉山し会社は解散、企業城下町となっていた集落は無人地帯となっている。雄別炭鉱記念碑は炭砿の記念碑であると同時に慰霊碑でもあるようです。炭砿で亡くなったのは日本人だけではないが記念碑には何も書かれていない。戦争末期の1939年頃より労働者不足が深刻化し官斡旋や募集と云う名目で朝鮮人の実質強制連行が開始され1944年より中国からも連行している。連行先の雄別炭鉱の受け入れ業者は雄別炭鉱直轄と下請に鉄道工業、土屋組、地崎組などタコ労働で実績のある業者であり、その労働は過酷を極めたと思われる。北海道開拓殉難者調査報告書によると殉難者173名、そのなかで氏名の判明しているのは156名、この人達は歴史から排除されたのだった。 阿寒町商工会の角地にも記念碑がある ◇建立年:平成2年  ◇建立者:###  ◇所在地:釧路市 阿寒町雄別22線  ◇Gmap:Gマップ

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