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北海道無名開拓殉難者の碑を巡る
北海道炭坑労働者の殉難・慰霊碑を巡る旅Ⅱ‼

石狩炭鉱殉職者慰霊碑奈井江町

石狩炭鉱殉職者慰霊碑 かつての炭鉱住宅街は新しい町営住宅に変わっているが、その一角(町営住宅NO5の近く)に石狩炭鉱殉職者慰霊碑がある。碑には「石狩炭鉱関係者 三井砂川鉱業所 奈井江町 これを建立する 昭和49年11月2日」と有るだけで、亡くなった方の名前もなく、建立経緯も理由も記されていません。石狩炭砿は昭和36年7月1日三井鉱山株式会社より鉱区の譲渡を受け、三井砂川鉱業所の第二会社として創業、順調に業績を伸ばしていたが昭和47年11月2日に起こったガス爆発事故は死者31名をだす。これが引き金となって昭和48年1月に閉山するに至った。事故の2年後に殉職者の慰霊のために建立された碑という。 ◇建立者:昭和49年11月2日  ◇建立年:奈井江町他2者  ◇所在地:奈井江町奈井江  ◇Gmap:Gマップ

日東美唄鉱業所慰霊碑美唄市

日東美唄鉱業所慰霊碑 明治43年の試掘から始まった茶志内炭鉱は昭和12年日東美唄炭鉱と改称し大勝坑を開坑した。昭和19年に三菱鉱業に買収され、昭和23年に採掘区域を拡大するため茶志内通洞開削に着手。鉱区は三菱美唄炭鉱の滝の沢新坑、竪坑の北側になる産化美唄川沿いから美唄川に至る東西9km、南北3kmの区域で、生産量は最盛期で年20万トン程度でした。昭和42年に閉山している。日東町住吉地区にある墓地に再建された慰霊碑がある。昭和18年8月の炭塵爆発事故の被災者をはじめ、昭和42年閉山までの殉職者100余名の氏名が刻まれている。日本人の労働者のみならず連行されてきた朝鮮人・中国人の中からも多くの死者がでているとおもうが、その名前はないようです。 ◇建立年:昭和15年8月  ◇再建年:平成20年8月  ◇建立者:日東町連合町内会  ◇所在地:北海道美唄市日東町住吉  ◇Gmap:Gマップ

根絶の碑美唄市

根絶の碑 鉱山や炭砿で働く人々が粉塵を吸いこみじん肺でなくなった悲劇の歴史を後世に残そうと美唄市のアルテピッツァ美唄の公園内に建立された碑です。以下は説明板より転載「かつて北海道には、数多くの金属鉱山、炭砿があり、日本の近代化、戦後の復興、高度経済成長を地底から支えてきた。そこで働いた人々は、粉じんを吸い、肺は石のようになり、いのちと健康を奪われた。その犠牲は長い間かえりみられることはなく、放置されてきた。人間の尊厳の回復とじん肺の根絶を希求して立ち上がったじん肺患者の足跡を残すために、この碑を建立する。2011年10月2日建立 北海道じん肺基金 北海道金属じん肺告訴原告団・弁護団 北海道石炭じん肺告訴原告団・弁護団」※炭砿夫の悲劇はまだ終わっていない、再訪時に説明板は見当たらなかった。 ◇建立年:平成23年10月2日  ◇製作者:安田侃  ◇建立者:じん肺告訴原告団・弁護団  ◇所在地:美唄市落合町栄町  ◇Gmap:Gマップ

炭山の碑我路ファミリー公園 美唄市

炭山の碑 三菱美唄炭鉱は三菱鉱業が北海道開発の拠点とした炭鉱で美唄駅から美唄川を遡った一帯にあった。その一角にある我路ファミリー公園に安田侃が故郷、美唄の炭鉱で亡くなった人々の鎮魂と閉山によって炭鉱を離れた人々のために思いをこめて製作した炭山の碑。説明板より「美唄の炭砿は閉じ多くの坑夫達は散りじりに山を去った。石炭を掘り、働く喜びは盆踊りのにぎわいも楽しく、それぞれに忘れ得ない生活のなりわいがあった。時代は過ぎ去り、人々は役割も終えて、もう誰もいない。静かに地底に眠り歴史を語りかける炭砿(ヤマ)だけが、生きている。」美唄には強制連行でなくなった人々の慰霊碑はないが、炭山の碑は人種や国を問わず炭砿でなくなったすべての人達を慰霊する碑でもあった。 ◇建立年:昭和53年8月15日  ◇製作者:安田侃  ◇建立者:美唄ライオンズ倶楽部  ◇所在地:美唄市東美唄町  ◇Gmap:Gマップ

三菱美唄記念館我路ファミリー公園 美唄市

三菱美唄記念館 三菱美唄記念館には鉱業所名の石板、大正期の地図、友子免状、美唄炭鉱地域の模型などが展示されている。展示品の中に1923年5月に神社へ納められた額があり、寄贈者の名前には日本人とともに朝鮮人の名前が記され、朝鮮人が三菱美唄でも働いていた事を事を示している。大正年代から昭和の初めには朝鮮植民地化で土地や仕事を失ない朝鮮から日本に出稼ぎに来た人達だが、戦争末期には朝鮮人の間で日本での労働内容が劣悪という話が広がり務者確保が困難となって徴用になったようです。強制連行に対し「徴用」で来たので強制連行ではないという言葉をよく耳にしたが、徴用を国語辞典で見ると「国家が国民を強制的に呼び出し、一定の仕事に就かせる事」とあり、強制連行の一種といえるだが、日本人の多くはその実感がともなっていないようです。 ◇所在地:美唄市東美唄町  ◇Gmap:Gマップ

三菱美唄 弔魂碑我路ファミリー公園 美唄市

三菱美唄 弔魂碑 三菱美唄記念館の奥で川を越えたキャンプ場隣に「弔魂碑」と「慰霊塔」が並んである。弔魂碑は東美唄地区に建立され現在地に移設されたものという。碑文より「殉職諸氏ノ英霊ノ為ニ弔魂ノ碑ヲ建テ永ク其ノ冥福ヲ祈念ス 昭和4年5月 三菱礦業株式会社取締役会長 三谷一二謹誌」とあり弔魂碑の建立された年代から昭和2(1927)年の事故で亡くなられた方々の慰霊碑かもしれない。三菱美唄炭鉱では悲惨な事故が繰り返されたが、昭和2年の美唄炭鉱堅抗でガス爆発、39人死亡。昭和16(1941)年のガス爆発で177人(朝鮮人22人を含む)が死亡、この時は事故の2日後に坑道をコンクリートで閉鎖しているので、坑内に53人(朝鮮人14人を含む)の遺体が今なお地底にあるが、報道されることはなかったようです。昭和19(1944)年5月16日に北部第一斜坑でガス爆発で107(朝鮮人は70人以上?)人が死亡、昭和43(1948)年1月・ガス爆発で16人死亡。同年5月・大規模崩落で13人が死亡と事故が続き、昭和47(1972)年4月に閉山している。 ◇建立年:昭和4年5月  ◇建立者:三菱礦業株式会社  ◇所在地:美唄市東美唄町  ◇Gmap:Gマップ

三菱美唄 慰霊塔我路ファミリー公園 美唄市

三菱美唄 慰霊塔 三菱美唄記念館の奥で川を越えたキャンプ場隣に「弔魂碑」と「慰霊塔」が並んである。「慰霊塔」の碑文に「大正4年三菱美唄炭砿開山 昭和47年閉山廃墟となる。60年に渡る故郷を偲ぶと共にこの山で殉職又病死された方々の冥福を祈るものなり」とある。三菱美唄での死亡者の名前や死亡者数は記されず、連行された朝鮮人や中国人の事も記されていないが、この山で殉職又病死された方々となっており、この炭砿でなくなられた方々を慰霊しているものと理解した。碑は閉山後の昭和52(1977)年6月に「ふるさと祭実行委員会 元三菱美唄居住者有志一同」が建立。「美唄の碑」では建立地が常盤台1区となっていたが、常盤台は殆どが自然に戻っており碑は現在地に移転されたものか最初から此の地に建立したのかは不詳。 ◇建立年:昭和52年6月吉日  ◇建立者:ふるさと祭実行委員会  ◇所在地:美唄市東美唄町  ◇Gmap:Gマップ

三井美唄 慰霊之碑山神社 美唄市

三井美唄 慰霊之碑 旧三井美唄炭鉱厚生館の敷地筒月にある山神社は三井美唄炭鉱の祭神祠と思われ大正8年5月12日建之の山神宮碑があり、同境内には南美唄最古の炭鉱という「宝田炭鉱」の碑も現存するという。また昭和53(1978)年8月15日に三井美唄鉱閉山15周年行事実行委員会が南美唄寿の家前庭に慰霊之碑を建立、寿の家は既になく山神社に移転されたようです。碑文「やまで生命を捧げた人々の慰霊のためにこれを建つ」と記され、その内容から三井美唄炭鉱で殉職した総ての人々が慰霊の対象とおもわれるが、殉職、殉難者名は刻まれていない。他に全日本自治団体労働組合建立の「慰霊之碑」が南美唄町栄町北墓地にあるというが慰霊の対象は未確認。 ◇建立年:昭和53年8月15日  ◇建立者:三井美唄鉱閉山15周年記念行事実行委員会  ◇所在地:美唄市南美唄町大通り1丁目 山神社境内  ◇Gmap:Gマップ

哀悼之碑三笠市

哀悼之碑 北海道炭鉱汽船株式会社が幌内神社境内に建立した追悼碑で位牌を納める構造、哀悼之碑本来の法塔部が欠けているが夕張の哀悼之碑は法塔部分だけが残っている。戦後になって現在地に移設されたが、その時に法塔部をうしなったものか・・碑の前が階段になり哀悼之碑の裏面に碑文が刻んである。各炭砿に建立された哀悼之碑で碑文が見られるのは三笠だけなので長文になるが全文を転載する。「本炭砿の我か會社の所有に歸したる以来既に十有七年事業は駸〻として進み行き遂に今日の隆盛を覩るに至れるもの職として世間の需要増加するに應し業務を擴長してそか供給を充たしめるに由るといへとも仰も亦炭礦のこと從う者取分け礦夫として勞役に服せし人〻の骨身を愔します艱苦を辭せす能く其業に勉め以て之を助けし功に歸せんはあらす燃るに其業を執の際不慮の變害に遇ひて命を殞し又は死傷して終に死に至り若しくは永く炭礦に從事して竟に其職に死せしもの尠なからす此等はいつれも我か事業のために忠誠を抽んてたる結果にして悼むへく哀しむへきの極みなりさされば此等の死亡者に對し禮を厚うし追遠弔祭の典を行ふこと我が會社の當然に取るへき道なりと思ふものから茲に哀悼之碑を建立し此等死者の位牌を納め殊に亦た毎年一度祭壇を設けて其冥福を禱るを以て我か會社の恒例とはさだめぬ因りて聊か事の由を碑陰に刻して不朽に傳ふと云ふ 専務取締役 井上角五郎」※建立当時から慰霊祭を執り行っていたようです。 ◇建立年:明治39年  ◇建立者:北海道炭鉱汽船株式会社  ◇所在地:三笠市幌内中央  ◇Gmap:Gマップ

招魂碑三笠市

招魂碑 招魂碑の入口に指導標と碑誌があり招魂碑前は30段前後の階段になっている。台座は三段でその上に2m余りの自然石で出てきた招魂碑がある。碑誌より碑文を転載「招魂碑 幌内炭鉱で明治三十六年七月、坑内ガス事故で七名の方、殉職。この招魂碑は殉職された仲間を慰霊するため、飯場主や友子の親文衆が発起人や世話人となって、明治三十六年九月、幌内神社境内に建立されました。大正九年、碑前が狭いため幌内市街の丘の上に移設されて、戦時中は「忠魂碑」兼用されて、戦没者の慰霊祭も行われています。台座上段正面に山炭内幌(横書きで現在とは左右が逆の刻字で幌内炭山と同じ)、上段左右に世話人6名、上段裏面に建設発起者5名の氏名と建立年月、石工の氏名が刻まれている。三笠の炭鉱関連の慰霊碑としては最古の碑かもしれない。幌内炭鉱の遺構は殆どは解体され、巨大なズリ山がその歴史を語りかけている。 ◇建立年:明治36年9月  ◇所在地:三笠市幌内中央  ◇Gmap:Gマップ

都春別煤田の碑三笠市

都春別煤田の碑 都春別煤田の碑は明治18年都春別煤田の調査に入った時折りに建てたとされていたが、三笠の石碑によると山内堤雲翁の遺稿によると明治14年が正しいとのこと。遺稿によると本人は愚筆で上の一字が読み難しとあり、また「碑ヲ建シテ十四年ニシテ年月ハ記セザリシガ如ク覚ュ」とあって明治14年が正しく再建の折り誤って刻字されたらしい。最初は炭鉱坑口神社の境内に建てられたが倒壊し明治40年に再建され、大正6年頃に錦町2丁目幾春別小学校跡の公園に移転、そのご炭鉱の閉山で昭和28年頃に移転したが、現在は三笠市立博物館前にある。山内堤雲は明治11年10月に開拓使煤田開採事務長に任命され幌内鉄道創設の事業に当たったが同時に採炭事業をも進めた。 ◇建立者:山内堤雲  ◇建立年:明治14年  ◇所在地:三笠市幾春別錦町1丁目(三笠博物館か?)  ◇Gmap:Gマップ

殉職者慰霊塔三笠市

準備中 地図では住友奔別炭鉱の竪坑櫓の上部の坂道脇に二つの碑が並んである。この辺は旧奔別小学校の跡地と云い最盛期の児童数は3,600人を越えたというも、周辺はその殆ど自然に戻りかつての面影は皆無。慰霊塔は奔別鉱業部の殉職者慰霊のため住友奔別鉱業部によって昭和15年に建立され、昭和31年より唐松坑の殉職者も合わせて祭祀しているとのこと。奔別炭鉱は昭和46年に閉山したが、閉山5年後と10年後に慰霊祭が行われたという。奔別炭鉱跡に1960年建築の立坑が残され異彩を放っている。住友唐松弥生地区には弥生坑の坑口跡が残っている。右隣にある顯徳碑は昭和26年月26日の建立で戦中に出征した従業員の追悼碑という。 ◇建立年:昭和15年建立  ◇建立者:住友鑛業株式会社北海道炭業所本別礦業部  ◇所在地:三笠市奔別川端町9番地(旧奔別小学校跡)  ◇Gmap:Gマップ予想位置

哀悼之碑三笠市

弥生鉱業所で昭和6年12月2日に発生したガス爆発事故で18名の死亡者を出す惨事があり、この殉職者追悼のため東邦炭砿株式会社が昭和7年に建立した慰霊碑。台座の正面に弥生鉱業所所長・中東光五郎氏の弔歌が刻まれているが、哀悼之碑建立の経過などは刻まれていない。哀悼之碑は弥生神社境内に建立されたが、弥生砿の閉山で弥生神社が幾春別神社に合祀されたため、昭和49年11月に現在地(弥生墓地正面山側)に移転した。哀悼之碑建立以降では昭和9年の弥生炭砿ガス爆発による犠牲者44人と昭和12年のガス爆発事故による30人の犠牲者をだしている。過疎による地神の統廃合はよくあるが慰霊碑は移転先が限られるので大変かもしれない。 ◇建立年:昭和7年8月15日  ◇建立者:東邦炭砿株式会社  ◇所在地:三笠市弥生桜木町 弥生墓地  ◇Gmap:Gマップ

朝日炭砿記念碑岩見沢市

朝日炭砿記念碑 碑文「昭和四十九年十一月 朝日炭砿六十余年の歴史をここに閉じる。閉山十年を卜し殉職者四十有余柱の霊を慰め記念の地にこの碑を建立する。昭和五十九年五月 野村 健二 書」※明治末期から採掘され、戦後は大手に属さない朝日炭鉱株式会社(昭和24年以前は日本硝子株式会社)が経営にあたっていた。朝日駅が設置された大正8(1919)年頃から出炭規模を拡大、昭和40年代には10万トンを超える生産量を記録し、朝日駅北側に選炭場、駅北西部に炭鉱住宅が広がっていた。昭和47(1972)年2月のガス突出事故で9人が殉職、それが引き金となって昭和49年に閉山。事務所などの建物は既に撤去され痕跡はなく今は原野に還っているが、本坑口や斜坑口跡などの遺構が残っている。碑名は記念碑ですが慰霊の意味も込められているようです。 ◇建立年:昭和59年5月  ◇建立者:ふるつと祭り実行委員会  ◇所在地:岩見沢市朝日町 朝日神社境内  ◇Gmap:Gマップ

万字炭鉱萬霊碑岩見沢市

万字炭鉱萬霊碑 万字炭山の守護神として明治41年に建立された万字炭山神社が平成17年12月、3度目の遷宮で現在地に鎮座し万字山神社となったが、その時に石碑も移転再建されたのか数基が一つの台座上に建立されている。元々は万字炭山神社であり万字炭礦株式会社が建立した万字炭鉱殉職者の慰霊碑があるが、会社が建立した唯一の慰霊碑かもしれません。万字炭砿は地質が複雑で脆弱な事と出水という水に悩まされ続けた炭砿で1950年代には坑道が水没したこともあったが、昭和51年の台風6号で主力坑道が水没し閉山になった。ただ大規模な人身事故などは記憶にないが小さな事故は起きていたのかもしれません。 ◇建立年:昭和41年8月7日建立  ◇建立者:万字炭礦株式会  ◇所在地:岩見沢市栗沢町万字英町 山神社境内  ◇Gmap:Gマップ

礦業従事者遭難哀悼碑夕張市

礦業従事者遭難哀悼碑 明治28年建立と夕張では最も古いと思われる高さ約 2.6 m、自然石の素材で作られた哀悼碑で碑正面に「礦業従事者遭難哀悼碑」裏面は「正四位西村捨三 明治廿八年八月建立」とあるだけで建立に至った経過は刻まれていない。建立者は西村捨三氏で官選により北炭社長に就任、重役公選制になるまで4年間社長の任にあった。何も無いのに哀悼碑を建立するはずもなく、おそらくは記録に残さなかった事故が頻発していたのでしょう。北炭の災害記録をみても出てくるのは碑の建立後からと云い、当時の北炭では死傷者20名以下の年度は記録が省略されているようです。当時はまだ水平坑3本と斜坑でやっと本格的な採炭に入り始めた頃であり、軍需景気で掘れば掘るほど利益が上がる時代でもあった。 ◇建立年:明治28年8月  ◇建立者:西村捨三  ◇所在地:夕張市住初6 夕張神社敷地内  ◇Gmap:Gマップ

哀悼之碑夕張神社 夕張市

哀悼之碑 夕張神社近くの道路際に立つブロンズ製の碑で明治38年に北炭が殉職者の慰霊のために建立したもので、同じものが幌内、幾春別、空知の3炭鉱にあったという。夕張神社の哀悼之碑は法塔部のみが本来の形で、登川神社から移設された時に納骨堂式の台座が失われ今の形になったらしい。元々の台座は戦後になって現在地に移設された幌内(三笠)の哀悼之碑と同じ形をしていたようだ。幌内の哀悼之碑は上部の法塔部が無なく、夕張と幌内を合体させると哀悼之碑の完全形になるようです。歌志内にある哀悼之碑は昭和29年に再建されたもので形が異なり法塔部や納骨部はありません。明治37~38年にかけて事故が頻発し実質半年間に約100名もの死者を出したというが、出炭維持にも甚大な打撃を被った事だけでなく、坑夫達の不安は大きく労働条件の改善を求め同盟罷業などもあり、明治38年6月に哀悼之碑を建立したのは北炭の労務対策とも受け取れる。哀悼之碑が移設される前には明治42年に建立された萬霊解脱塔がありました。夕張では最も古いと思われる哀悼碑ですが、碑銘と建立者名が刻まれているだけ。災害の記録をみても出てくるのは碑の建立後からで、おそらくは記録に残さなかった事故が頻発していたのでしょう。 ◇建立年:明治38年6月  ◇建立者:北海道炭鉱鉄道株式会社  ◇所在地:夕張市住初6 夕張神社敷地内  ◇Gmap:Gマップ

自礦夫遭難者哀悼碑夕張市

準備中 正面碑文より「自礦夫遭難者哀悼 新夕張 自礦夫一同」とあり、両側面と裏面にガス事故で亡くなられた総殉難者12名の名前が刻まれた慰霊碑です。台座に世話人22名の名が刻まれ地域の自坑夫が坑内災害の遭難哀悼碑として仏参し建立されたもので友子組織の強い結束力を感じさせる。新夕張にも友子の組織があり開坑以来殆どの礦夫が参加していたという。哀悼碑建立年から推察すると明治41年1月17日に起こった石狩石炭新夕張鉱五番坑のガス爆発による慰霊碑と思われるが、このガス爆発では死者93名、負傷者23名という新夕張始まって以来の最大の災害で、会社が建立した「哀悼碑」もあるが、その3年後にも大きな事故が発生している。 ◇建立年:明治41年10月  ◇建立者:新夕張 自礦夫一同  ◇所在地:夕張市末広1丁目 末広墓地  ◇Gmap:Gマップ

友子の墓碑

友子の歴史は徳川時代に遡り、鉱山で働く砿夫達に広く受け継がれてきた共同体組織で、新人の砿夫は「取立」という親分と子分・兄弟分等の関係を結ばないと一人前の砿夫にはなれなかったという。親分について3年3月10日の修業期間を経て一人前の坑夫として認められたが、それまでの期間は他の鉱山への移動は許されず、厳しい掟などがあったという。坑夫としての腕をみがき、成長するにしたがい舎弟分や子分をもち、彼らを教育し兄分になり一人前の友子親分となったが、日常生活でも友子同士が助け合う相互扶助の機能もあった。友子坑夫の同胞意識は肉親以上ともいわれるが、友子坑夫には渡利坑夫と自坑夫があり、渡利坑夫には親分が亡くなると「仏参」という子分が親分の墓を建てる習慣がありました。炭砿開発初期は友子親分が飯場を経営し会社に労務者を提供、労務管理も友子組織が行う坑夫主体の方式だったという。明治26年に味噌米貸与要求に端を発した騒動があり、北炭は直轄坑夫制度を設け直接に労務管理をする方式を導入し飯場主と友子制度の弱体化をはかった。また友子制度を元にした労務提供では出炭拡大に見合う労働力確保に限界があり、多様な坑夫募集への切換と保険制度普、採炭現場の機械化が手掘技術習得という友子組織の衰退に拍車をかけたようです。末弘墓地にある友子坑夫の墓碑は111基で明治期の墓碑は38基、大正期は60基、昭和は僅か6基となり、友子組織の盛衰が碑の数からみてとれます。炭鉱を知る上で友子の墓は重要な文化財ですが、墓石が倒れるなど荒れた感じなっているのは寂しい。※参考文献「知られざる炭砿の歴史 わが夕張」

萬霊解脱塔夕張市

準備中 北海道炭鉱汽船株式会社が「夕張・真谷地・幌内・空知」の各炭鉱に建立したというが現存するのは真谷地の萬霊解脱塔だけで碑の四面に刻文あり。この萬霊解脱塔は榊坑坑口付近に建立され、昭和初期に真谷地小学校門付近に移設、さらに真谷地神社境内に移設したが閉山により真谷地共同墓地に移転、真谷地炭鉱が閉山するまでは真谷地炭鉱労使で供養を行っていたという。

碑文(左右側面・裏面)
「本會社各炭礦及事業は今や共に拡張とたりと雖も顧みて採掘著手の當時を思へば實に人跡の曾て到らざる処に起業したるものにして當初以来従事者殊に労働に従事したる礦夫は如何に苦難を辞せず克き其の職務に努めたるかを想像するに余りありとす 本社たるもの豈に之を記憶せざるを得んや 本會社は曩に各炭礦に哀悼の碑を建て各炭礦採炭採掘開始以来事業に従事して職務上終に命を殞したるものの為に弔祭の典を行うこととし年々一度祭壇を設け霊牌を列ね以て法會を営むを恒例とせり

此外炭礦に従事したる社員礦夫は其家族の死亡したるも■して少な志とせず 此等は職務上其の命を損するに至りたるものと同じに視做すべからずと雖も亦炭礦に功労あるものなれば今回各炭礦■に禮拝の碑を建て其の親戚縁故乃至一般に此等死者の冥福を祈る■処とせんとす

若し夫れ親戚縁故の之を弔うものなきに至りては本會社自ら之が追遠の事に当るべし 碑文は萬霊解脱塔と題し釈雲照律師に請ふて之を書し今其の成るに當り建設の大様を記すと云ふ明治四十二年一月十五日 専務取締役 井上角五郎」※■印は判読不能 明治38年頃より規模の大きな事故が続発したことで、炭鉱労働者の動揺や不安、不満などに対する労務管理策として萬霊解脱塔が建立されたのかもしれない。 ◇建立年:明治42年1月15日  ◇建立者:井上角五郎  ◇所在地:北海道夕張市真谷地419番地 真谷地共同墓地  ◇Gmap:Gマップ

追悼碑夕張市

追悼碑 明治39年5月に石狩石炭株式会社が設立(資本金375万円)され、同年10月新夕張、若鍋両礦を借り受けて事業を継承し新夕張鉱と称す。石狩石炭が新夕張に新夕張鉱業所を設置し新夕張鉱の経営を始めて間もない明治41年1月6日、新夕張鉱五番坑で死者93名、負傷者22名を出す大災害を起こし、明治44年には死者16名を出すガス事故があった。二つの大災害による殉難者を慰霊するために石狩石炭株式会社が建立した追悼碑だが、碑の裏面には会社名だけが大きく刻まれ、100余名の殉難者名や追悼文は見当たらず、当時の炭鉱労働者がどのように扱われていたのかを暗示している。炭砿の囚人労働廃止後は友子制度を元にした飯場制度が主流となる。監獄部屋のような暴力支配はないが、親方が賃金の全てを掌握しピンハネする中間搾取者でヤマの監獄部屋とも云われた。 ◇建立年:大正元年8月  ◇建立者:石狩石炭株式会社  ◇所在地:夕張市末広1丁目 末広墓地  ◇Gmap:Gマップ

丁未自坑夫 遭難者一同之墓夕張市

丁未自坑夫遭難者之墓 碑文は風化で判読困難な部分が多く「夕張の碑」より転載する。碑正面「丁未自坑夫 遭難者一同之墓 大正三年九月建立」裏面に建立に関わった有志、発起人、世話役、石工、総勢56名の名を4段に刻んである。地域の自坑夫が仏参したもので墓碑であり慰霊碑でもあった。詳細は不詳だが大正3年3月に起きた丁未礦竪坑(千才坑)の事故による殉難者を慰霊した碑かもしれないという。明治45年頃から大正2年にかけ大きな事故が三度あり、小さな事故が続発していた頃で、労働条件改善を求めての怠業や労働組合結成(全国坑夫組合)の機運が高まっていた時期でもありました。また炭坑に見切りをつけて夕張を立ち去るの人が目立ちはじめ丁未小学校の生徒が230余名から170名に減少したと伝えられている。 ◇建立年:大正3年9月  ◇建立者:氏名省略  ◇所在地:夕張市末広1丁目 末広墓地  ◇Gmap:Gマップ

故工学士北川民治君之墓夕張市

故工学士北川民治君之墓 明治39年に開発着手された夕張炭鉱・若鍋礦で大正3年11月28日午後3時30分、西斜坑方面全域で起きたガス炭塵爆発は、死者423名、負傷者25名をし礦長以下現場担当役員14名も共に殉職している。若鍋礦全従業員の約半数近くが死傷した事になり、親子・兄弟・夫婦が共に罹災して一家全滅あり、孤児となった者あり、老人のみ残された家庭ありと道内の炭鉱事故としては戦前、戦後を含め北海道内で起きた炭砿事故としては最大・最悪の大災害でした。この事故で亡くなった若鍋礦長であったの北川民治氏個人を慰霊する碑はあっても、犠牲となった砿夫達の慰霊碑はない。このことは当時の炭鉱労働者がどのように扱われていたのかを端的に示している。事故から一世紀を経て若鍋鉱跡は自然に還り事故の記憶は風化を辿るばかりであり、若鍋鉱の大災害を伝える碑としての存在は貴重です。 ◇建立年:大正3年11月28日  ◇建立者:石狩石炭株式会社建立  ◇所在地:夕張市末広1丁目 末広墓地  ◇Gmap:Gマップ

北上坑遭難者之碑夕張市

夕張 北上坑遭難者之碑 1905年から20年の間で大きな事故は1908年・新夕張炭鉱爆発事故・死者・行方不明者 91人 、1912年4月・北炭夕張炭鉱爆発事故・死者・行方不明者 276人、1912年12月・北炭夕張炭鉱爆発事故・死者・行方不明者 216人、1914年・新夕張炭鉱爆発事故・死者・行方不明者 423人、1914年・新夕張第二斜坑爆発事故・死者・行方不明者 49人、1920年・北炭夕張炭鉱北上坑爆発事故・死者・行方不明者 209人で死者・行方合計では1,400人に近い。特に夕張炭鉱北上坑で起こったガス爆発は、死者212名、負傷者7名を出す大惨事ですが、北炭は他の採炭切羽への爆発・誘発をおそれ一人の救出も行わず坑口を密閉する残酷な処理をした。石碑の左右には犠牲者212名の名前が刻まれ、建立者名簿を合わせると300人ちかい名前が刻まれているが、犠牲者のうち12名は女坑夫で同じ名字が連なっているのは一家全滅という悲劇を表すものかもしれない。北端には幌内炭砿で囚人砿夫を消耗品の様に扱ってきた歴史が有り、北炭という企業が砿夫をどのよう扱っていたのかが良くわかる。北上坑事故前の大正9年4月に全国坑夫組合支部の夕張連合が約2,000人で結成され、その直後に発生した事故で夕張連合は会社側に対して7項目の要求を掲げるとともに救援活動や遺族の見舞いを行い、北上坑大災害経過報告労働者大会を丁未小学校で開催。北炭との交渉で死亡者平均賠償額の3.3倍の慰謝料と死亡者全員の名前を刻んだ遭難慰霊碑の建立を認めさせた。 ◇事故年:大正9年6月14日  ◇建立年:大正9年10月建立  ◇建立者:北炭夕張炭鉱 夕張礦一同  ◇所在地:夕張市末広1丁目 末広墓地  ◇Gmap:Gマップ

澄川砿慰霊碑夕張市

殉職者慰霊碑 正面碑文より「住職社 慰霊碑 北海道炭鉱汽船株式会社創立70周年記念 登川炭砿労働組合 昭和卅三年拾壱月壱八日」右側面碑文「昭和六十二年十月九日 真谷地炭砿閉山により二区公園より移設 昭和六三年七月吉日」裏面碑文「北炭開坑以来殉職者名簿 登川本坑ー楓坑 殉職者氏名は省略」※北炭が創立を記念して各種行事を行ったがそのとき労働組合に交付された施設行事費の一部で、登川花園公園内に殉職した仲間の慰霊碑を建立、真谷地炭砿が閉山した翌年の昭和63年に現在地に移転、そのときに殉職者の名前を永遠に残そうと調査をし、大正8年の三井登川坑を統合した時点からの全殉職者名を碑裏全面を2段に分けて殉職者139名の氏名を刻むが、中には女性殉職者の名前もあり炭砿労働者の歴史を感じさせる。殉職者名簿と戦時朝鮮人強制労働調査資料集にある登川での殉難者名簿と照合してみたが、朝鮮人の名前は見あたらなかったが、全殉職者の名前を刻んだ碑は他に北上坑遭難者之碑がある。同じ所にある奥登川竪入り貫通碑は花園公園より、災害防止優良旗獲得記念碑は旧登川神社跡地より2017年6月に楓墓地入口移設したもの。墓地内には友子の墓碑56基があり、40基が一区画にまとめられている。 ◇建立年:昭和33年11月18日  ◇移転年:昭和63年10月9日  ◇建立者:登川炭砿労働組合  ◇所在地:夕張市楓 楓墓地入口 ◇Gmap:Gマップ

真谷地炭鉱

玄洋社の頭山満が所有する「久留木(クルキ)炭鉱」の鉱区を北炭が明治38年に買収し「夕張第二鉱」として開発に着手。大正2年に「真谷地炭鉱」と改称。馬鉄に代わり「真谷地炭鉱専用鉄道」が開通し沼ノ沢~真谷地間の石炭輸送のほか一時は旅客輸送も行った。大正7年に北炭の坑名変更で坑口に「榊」「桂」「楓」など樹木の名が付けられた。大正8年に北炭が三井登川炭鉱を買収したことにより楓坑を登川鉱に移管。昭和53年には北炭の三井分離により榊・楓両坑が「北炭真谷地炭鉱」として独立するが昭和62年閉山。その後「新真谷地炭鉱」に引き継がれ露天掘りを行うも平成3年に終掘となる。最盛期(昭和28年)の従業員数2,100人、閉山直前には70万トンを出炭している。炭砿施設は解体撤去されています。

夕張新炭鉱慰霊碑夕張市

北炭夕張新炭鉱慰霊碑 石炭産業と北炭の存亡をかけ昭和55年6月に営業出炭を開始した夕張新炭鉱で昭和56(1981)年10月16日にガス突出・坑内火災事故発生で坑内に行方不明者59名を残したまま注水、排水作業後に遺体の収容作業を再開され、残っていた遺体が収容されたのは昭和57(1982)年3月28日で、最終的に93名の砿夫たちが犠牲となった。この事故で行方不明者を残したままの注水作業がショッキングな出来事で炭鉱のイメージを一変させた。通洞は遺族の感情も配慮してかコンクリート密閉ではなく空気の通る格子で塞がれ「北炭夕張新炭鉱」の文字も往時のまま。戦後の炭鉱事故としては1963年の三井三池三川炭鉱炭塵爆発(福岡県大牟田市)の458人、1965年の三井山野炭鉱(福岡県嘉麻市)ガス爆発事故の237人に次ぐ3番目の大惨事で、再建を目指していた北炭には壊滅的な打撃を与えた事故翌年の昭和57年に閉砿しその翌年に慰霊碑が建立されている。北炭夕張新鉱連絡隧道口の右横にある盛土の丘に慰霊碑があり、台座の碑文より「夕張新炭砿開発以来殉職された諸氏英霊のために慰霊碑を建立し永遠に冥福を祈る。昭和58年10月9日 北炭夕張新炭砿株式会社 夕張新炭砿労働組合 施工者省略」また開砿から閉山まで7年間の殉職者120名の氏名が碑正面と両側面二段に刻まれている。 ◇建立年:昭和58年10月9日  ◇建立者:北炭夕張新炭砿(株)、夕張新炭砿労働組合、北炭夕張炭砿職員組合他  ◇所在地:北海道夕張市清水沢清陵町  ◇Gmap:Gマップ

北炭夕張新炭鉱坑口跡夕張市

北炭夕張新炭鉱坑口跡 北海道炭礦汽船の関連会社が経営する夕張炭鉱の一つで、北炭の生き残りをかけた最新鋭の炭砿だった。昭和50年に出炭を開始したが昭和56(1981)年10月16日に発生したガス突出・坑内火災事故、運命の日もここより連絡隧道の人車に乗り換え、地下1000メートルの闇へと消えて行き、再び地上に戻ることはなかった93人の人々。行方不明者を閉じ込めたままの注水作業はショッキングな出来事であり炭鉱のイメージそのものを失墜させ、新炭鉱に命運を懸けていた北炭に壊滅的な打撃を与え、子会社北炭夕張炭鉱(株)はその2か月後に倒産、新炭鉱も事故から1年後の1982年10月に閉山、北炭はその後も夕張以外の炭鉱で採炭を続けていたが、1995年空知炭鉱(歌志内市)の閉山をもって石炭から撤退、同年に会社更生法の適用を受け倒産に追い込まれた。北炭夕張新鉱の炭住東側にあった立坑を結ぶ通洞坑(西口)近くの盛土上に、1981年10月16日に発生し犠牲となった93人の人々を慰霊した碑がある。

三菱南大夕張 殉職者慰霊碑夕張市

三菱南大夕張 殉職者慰霊碑 碑文より「昭和60年5月17日の災害により職に殉じられた方々の一周忌に当り、当炭山の殉職者諸氏英霊の為に慰霊の碑を建て、永くご冥福を祈念するものである。昭和61年5月 三菱石炭鉱業株式会社 社長 森本 輝 南大夕張砿業所長 神谷 新 謹誌」※南大夕張炭鉱殉職者慰霊碑は国道452号線沿いの夕張市南部新光町「南部市民体育館」の脇にありますが、シューパロダム建設に伴い炭住街から現在地に移設されたもの。南大夕張炭鉱で昭和60(1985)年5月17日に起きたガス爆発事故で亡くなった方々(犠牲者は62人)の慰霊のため建立された。碑のあった地区はかつて二股と呼ばれ明治期から鉱山があり遺構が今も山中に残っているという。二股から「大夕張」に改称され大夕張炭鉱の開発とともに1929年より南大夕張になる。三菱鉱業経営の三菱大夕張炭鉱は昭和41(1966)年に鉄鋼コークス用原料炭を確保するため開発された「ビルド鉱」で、昭和45(1970)年から営業出炭を開始した比較的新しい炭鉱でした。夕張市最後の炭鉱として期待されていたが昭和60(1985)年のガス爆発事故が契機となって平成2(1990)年に閉山した。ガス突出とそれに続く救助隊の二次災害で死者17名を出し昭和54年に建立された慰霊碑は、昭和61年建立の慰霊碑に合祀されている。「夕張の碑」のなかに鹿島千年町に殉職者慰霊塔の写真が載っていたが、鹿島地区の碑が集められている鹿島展望公園にはなく、新ダムの完成で鹿島の市街地の大部分が水没、目印もなくなり慰霊塔の確認はできなかった。 ◇建立者:三菱石炭鉱業株式会社  ◇建立年:昭和61年5月  ◇所在地:夕張市南部新光町  ◇Gmap:Gマップ

秋桜塚碑

秋桜塚碑 昭和56(1981)年10月16日に北海道炭礦汽船(※以降は北炭と略称ことあり)の関連会社「北炭夕張炭鉱」が経営する夕張新炭鉱で発生したガス突出事故により93人の死亡者を出しにのぼり、戦後に発生した炭鉱事故死者数としては3番目という大惨事となった。 この事故後に会社社長でレコード歌手であったある方が『夕張哀歌』という曲と合わせて石碑の建立を市に申し入れ実現したもの。石碑の両袖に夕張哀歌が刻まれているが、歌詞を見る限り昭和59年の炭鉱事故で殉職された方々の慰霊だけでなく夕張の炭鉱殉職者全体を慰霊しているように感じる。集落は消え周囲に人家はなく碑だけが過去を語っている。 ◇建立年:昭和61年10月1日  ◇建立者:キャニオンレコード他  ◇所在地:夕張市丁未  ◇Gmap:G.Maps

炭砿殉職者追悼之碑夕張市

炭砿殉職者追悼之碑 旧東山聖苑の山道登口にある慰霊碑でかつては高札が設置してあった。その説明文の一部を抜粋「昭和55年10月16日に発生した夕張新砿の大災害による殉職者93名を加え325人の尊い命が炭鉱事故によって失われているのです。この他下請組員の殉職を数える時、更に多くを数えるに至ります。ここに東山聖苑に慰霊の誠を尽くさんとし追悼の碑を建て、これらの御礼に慎みて永遠の冥福を祈る。」とあった。碑文より「炭砿殉職者追悼之碑 献詞 石川十四夫 国の宝の石炭を 掘り起こさんと地の底で 倒れし御霊よ永久に 安んじ給えと祈るなり 子に託す夢あり 炭砿に埋もるる 歌えし故人の悲願をば 描いてここに建てるなり 昭和五十七年十月 建立 夕張ライオンズクラブ 中央ライオンズクラブ」※昭和56年に死者93人を出した夕張新砿ガス爆発事故の1年後に開苑営業した時に建立されたようで、夕張新鉱の殉難者慰霊という側面はあるが、追悼の献詞は総ての炭砿殉職者を対象とした内容になっている。東山聖苑は無料の観光公園から有料霊園とかわるも、すでに閉園し残っているのは240段の石段、入口の仁王像と観音堂だけで他はすべて撤去されたという。石段は危険なため通行止め。 ◇建立年:昭和57年10月  ◇建立者:夕張ライオンズクラブ 中央ライオンズクラブ  ◇所在地:夕張市本町3丁目  ◇Gmap:Gマップ

鎮魂の像夕張市

鎮魂の像 鎮魂の像は少年時代を雑貨商を営む母の実家のあった夕張で過ごした彫刻家・佐藤忠良(さとう ちゅうりょう 1912~2011)氏が、夕張のヤマで殉職した多くの霊を慰めたいと製作し夕張市に寄贈された作品。鎮魂の像は以前に夕張美術館前で見た様な記憶もあるが今は石炭博物館前に設置されている裸婦像で本体はブロンズ、台座を含めると高さは2.5mを超える。鎮魂の像台座に銅板がはめ込まれ「鎮魂の像 石炭によって発展し 百年の歴史をつくってきた夕張 その中で郷土の礎となった あまたの炭鉱殉職者に捧ぐ 佐藤忠良」裏面は同じく銅板に「昭和61年10月18日建立 夕張市 製作寄贈者 佐藤忠良」と刻まれ、犠牲者62人を出した三菱南大夕張炭鉱ガス爆発事故の翌年でした。 ◇建立年:昭和61年10月18日  ◇制作・寄贈者:佐藤忠良  ◇所在地:夕張市高松7番地 石炭博物館前  ◇Gmap:Gマップ

採炭救国 坑夫像進発の像 夕張市

採炭救国 坑夫像 中村直人他三名で石炭産業に従事する人々を激励するため、昭和19年に現地で製作され旧夕張鉱業所前に「採炭救国」として設置されたもの。軍需美術推進隊という団体の依頼で戦意高揚と戦時経済を支えるため美術家も動員されて出来た戦時文化遺産ともいえます。戦後は経済復興を進める中で「採炭救国坑夫像」と呼ばれたようです。この像は旧夕張鉱業所前から新二鉱繰込所前に移設され、更に昭和60年に石炭の歴史村にある天竜坑の露頭炭前に移された。素材が少ない鉄筋とセメントなので経年変化による痛みは激しいが、痛んでもコンクリートで有る事に意味がある。上砂川などではレプリカに差し替えられているが、戦前という特別な状況の中で作成された臨場感は伝わってこなかった。モデルは鉱業所長の竹鶴可文(よしふみ)という。 ◇設置年:昭和19年6月25日  ◇建立者:軍需生産美術推進隊彫塑班 古賀忠雄・圓鍔勝二・木下繁・中村直人  ◇制作者:夕張砿業所  ◇移転年:昭和60年12月  ◇所在地:夕張市高松7番地 石炭大露頭前付近  ◇Gmap:Gマップ

夕張循環道路開通記念碑

夕張循環道路開通記念碑 大正時代のシンコ(新坑)の沢は深くて獣道のような踏分け道があるだけで地域住民が沢越えして通行するのに難儀したというが、その後にシンコの沢は第一新坑の残差物(岩石など)で埋め立てられたという。地域の人々の交通難を解消するため昭和5年から6年にかけて沢を埋め立て循環道路の開削工事が行われ、地域の交通難は改善された。その様子は石碑の裏側に刻まれた藤井陽七郎夕張礦長撰の碑文からも伺うことができる。北海道炭礦汽船は当時の不況を背景にして夕張鉱全従業員へ半強制的に押しつけ夕張砿全山的な道路拡張工事を行った。福住、富岡、錦岡、丁未、社光、髙松を結ぶ延長3.6kmの循環道路は延べ3.737人の人達が休日勤労奉仕・無報酬で行われが昭和6年8月に完成、碑は循環開通を記念して建立されたもの。 ◇建立年:昭和6年8月  ◇建立者:詳細不詳 北炭?  ◇所在地:夕張市富岡  ◇Gmap:G.Maps

大夕張ダムの慰霊碑夕張市

大夕張ダムの慰霊碑 夕張シューパロダム管理棟の近くに碑がふたつあり左側の「慰霊碑」は起工・竣工の年と施主、施工会社の名前を記した碑だが、大夕張ダム建設工事で亡くなった方々のため、三弦橋の近くに建立された碑を移したらしい。右側の「夕張川総合開発記念碑」は昭和42年に大夕張ダム付近の道々沿いに建てられたようで、大夕張ダムと川端ダムが建設された経緯が刻まれています。 ◇所在地:夕張市南部青葉町  ◇Gmap:Gマップ

尺別炭鉱復興記念釧路市

尺別炭鉱復興記念 尺別炭鉱は北海道白糠郡音別町尺別川流域にあった炭鉱で、採掘権の登録がなされたのは明治43年8月。採掘権は大正7年10月に神戸市在住の椎葉糺義に譲渡され、北日本鉱業が設立された。昭和3年12月27日に経営権が北日本鉱業から三菱系の雄別炭鉱鉄道に移り、軌道の運行は雄別鉱業所鉄道課の指揮を受ける。

太平洋戦争末期の昭和19年に炭坑夫は九州方面の炭坑に支援に回され休山、戦後は雄別の支坑として昭和21年に再開されるが、雄別炭鉱鉄道が三菱系列を離れて独立経営となり、尺別も雄別の支坑から尺別炭鉱として独立する。専用鉄道の輸送量は昭和25年度に22.7万トンとなるが浦幌坑が昭和29年10月に閉山となり、その年度は13.6万tにまで落ち込む。昭和35(1960)年度には25万トンまで回復するも、昭和44年2月27日に閉山し歴史の幕を閉じた。戦前の強制連行の連行先に尺別炭坑の直轄と下請に鉄道工業の名前があり監獄部屋もあったと考えてよさそう。北海道開拓殉難者調査報告書では合わせて殉難受者84名、氏名の判明しているのは63名となっているが慰霊碑の有無は不明。 ◇建立年:平成2年  ◇建立者:未確認  ◇所在地:釧路市音別町尺別原野基線  ◇Gmap:Gマップ

雄別炭鉱記念碑阿寒エリア 釧路市

雄別炭鉱記念碑 雄別地区の開砿は明治29年と早いが運搬手段の不備で程なく閉鎖。明治36年に兵頭炭砿が開坑、明治39年に釧路炭砿乙別炭山に代わり大正5年に沢口炭砿が引き継ぐもほどなく閉山。雄別地区の鉱区をまとめ大正8年「北海炭砿鉄道株式会社」が創業し、開坑と平行して石炭輸送目的の雄別(大曲)~釧路間の鉄道敷設に着手し大正12年1月17日に開通、本格的に出炭できる体制ができるも、同年に発生した関東大震災後の不況で大正13年に三菱鉱業へ譲渡され三菱の子会社「雄別炭砿鉄道株式会社」となる。その後の出炭量は増加の一途をたどるが、昭和30年にはエネルギー政策の変更もあり能率の悪い炭鉱は次々と閉山。昭和34年に鉄道部門を分離し「雄別炭砿株式会社」に変更。昭和39年に最大出炭量を記録するも、エネルギー革命の波に抗しがたく、さらに昭和44年に赤平茂尻鉱坑内爆発事故で出炭を中止、経営困難となって翌昭和45年に閉山し会社は解散、企業城下町となっていた集落は既にない。碑文によると「殉難者の冥福を祈って記念暇の建立を計画」とあり湧慰霊碑でもあるということになるが、殉職者やタコ部屋、強制連行等に関しては何も刻まれていない。戦争末期の1939年頃より労働者不足が深刻化し官斡旋や募集と云う名目で朝鮮人の実質強制連行が開始され1944年より中国からも連行している。連行先の雄別炭鉱の受け入れ先は雄別炭鉱直轄と下請に鉄道工業、土屋組、地崎組などタコ労働で実績のある業者で、その労働は過酷を極めたと思われる。北海道開拓殉難者調査報告書によると殉難者173名、氏名判明者156名とあり17名の方は歴史から抹殺されたのでした。 ◇建立年:昭和55年8月15日  ◇建立者:湧別炭砿祈念碑建立期成会  ◇所在地:釧路市 阿寒町雄別22線  ◇Gmap:Gマップ

庶路炭坑発祥之地白糠町

庶路炭坑発祥の之地 明治鉱業庶路炭鉱として昭和14年に開坑するが、太平洋戦争中は一時休山し戦後再開され、西庶路駅から庶路炭鉱までは専用線が敷設されていた。昭和36年に立坑が完成し昭和38年に最大出炭の35.8万トンを記録するも、脱石炭へのエネルギー政策転換に抗しがたく昭和39年閉山。正面碑文「庶路炭坑発祥之地」台座に「ふるき友よ、この地に思いをいたそう 殉職者の皆さん安らかに」とありその下に殉職者57名の氏名が記されている。裏面上の碑文「1984年7月吉日 閉山後20年を記念し同志当地に会し、この碑を建立する。」台座に「1973年明治鉱業(株)この碑より北1200米の地に庶路炭鉱を開鉱、本格採炭に着手、1964年国の石炭政策により閉山となる。この間25年間、精炭四百万屯を生産、最盛期、従業員数1350名となり、家族をふくめ3800名をこえ、居住区も清水町、住吉町、青葉町、弥生町、花園町、錦町、朝日町、汐見町、千鳥町、栄町と現西庶路市街の基盤をつくる。」とある。※昭和35(1960)年の大規模なガス爆発で死亡者18名、重傷者7名をだしているが、刻まれている殉職者はそれを遙かに超えるので小さな事故は頻発していたものか。西庶路コミュニティーセンター2階に「白糠炭田 石炭資料室」があります。 ◇建立年:昭和59年7月  ◇建立者:詳細不詳  ◇所在地:白糠町西庶路西1条北1丁目 錦公園内  ◇Gmap:Gマップ

新白糠炭坑創業地記念碑白糠町

新白糠炭坑創業地記念碑 碑文を転載「新白糠炭砿創業地記念碑
新白糠炭砿は昭和22年、在村の今野滝雄氏が三菱鉱業株式会社から鉱区使用権を得て採炭したのが創始である。翌年、新白糠炭砿株式会社を設立、三菱鉱業と租鉱権を契約創業した。

最盛期には年産5800トン、従業員320人を擁し、戦後の白糠の復興に多大な貢献をした。昭和39年国のエネルギー事情と水害等により閉山の止むなきに至った。本砿で働いた多くの人達の偉業と事蹟を顕すため、当時の選炭場跡施設を活用、創操業の記念としてこの碑を建てる。平成八年一月 町長  千葉 清」※碑は炭砿施設の一部をそのまま利用したユニークなもの、閉山の原因が集中豪雨による水害というのは意外。石炭岬にはにはもう一つ目立っている北海道石炭採掘創始の地(記念碑)がある。 ◇建立年:平成8年1月  ◇建立者:白糠町  ◇所在地:白糠郡白糠町石炭岬17番地1  ◇Gmap:Gマップ

北海道石炭採掘創始の地白糠町

北海道石炭採掘創始の地 北海道石炭採掘創始の地碑は遠くからは見えるが、行く道がないので碑文を総務省ホームページふるさとづくり推進ポータルサイトより引用する。碑文「安政元(1854)年、徳川幕府は「神奈川条約」を米国外3か国と締結し、下田と共に本道の箱館(現在の函館)を開港し、寄港する外国船に対し、薪炭・食糧を供給することにした。この石炭を供給するため幕府は当時、釧路領白糠に石炭の所在が確認されていたので、安政4年、シリエト岬(現在の石炭岬)に白糠石炭堀場を開設し、採炭を開始した。北海道石炭史上、最古の採掘地である」※石炭岬の白糠炭田は幕府の函館開港で外国船へ石炭を供給するために開坑した。最初はアイヌの人達を使い採炭をしたが目的を果たせず、遂には囚人を連行しての採炭となったが、炭質が良くなかったようで需要先の外国船には不評、輸送コストも高くつき開坑から7年で廃坑、採炭地は後志の茅沼に移された。北海道最初の炭砿であり囚人使役でも北海道最初の地であった事、囚人使役は後の炭砿や硫黄山での採炭や採掘、道路開削に引き継がれていく。 ◇建立年:昭和60年12月  ◇建立者:白糠町  ◇所在地:北海道白糠町岬3丁目の山中

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