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北海道無名開拓殉難者の碑を巡る
監禁強制(タコ部屋等)労働に斃れた土工夫達の慰霊・顕彰碑等を巡る2‼

静眠の碑上士幌町

# 上士幌町で50年の永きにわたり監獄部屋で犠牲になった土工夫の供養を続けてきた方が居られた。この方の証言で昭和52年11月13日に国道275号線(糠平国道)の東側を通る通称「5線道路」際で上士幌郷土史研究会がその遺骨を発掘(上士幌東5線316の猪狩牧場付近)、火葬後に上士幌共同墓地に改葬された。その慰霊碑が静眠の碑です。以下は碑文より転載「今は静かにお眠りください。明治の末期から大平洋戦争に至るまでこの北の地に送られて、原野を拓き道をつくり石を掘りレールを敷き、生命を刻まれて夏草の下に朽ち、凍土の中に凍えて果てたみ霊よ今心よせる人々がその苦難の生を偲び、永くみ霊をお守りすることを誓い静眠の碑を建立します。合掌 上士幌町 上士幌町社会福祉協議会 上士幌郷土史研究会 昭和53年7月7月27日建立」※碑文には監獄部屋(タコ部屋)に関して何もふれず、強制労働の犠牲者を供養する墓碑で有る事が殆ど伝わらないように思えた。◇建立年:昭和53年7月7月27日 ◇建立者:上士幌町他 ◊所在地:河東郡上士幌町上士幌東4線237 ◇Gmap:Gマップ

岩松発電所(ダム)殉難慰霊塔新得町

# 岩松ダムは十勝川水系の電源開発を進めるために建設された十勝川本流初、日本の電力需要を統制する目的で昭和13年に設立された日本発送電株式会社が道内で初めて建設を試みたのが岩松ダム・発電所でした。工事は鹿島建設の請負で昭和14年に着手、昭和16年の竣工で堤高37.2m、堤頂長190.5m、有効貯水容量4131千m3と大型のダムではないが、大型建設機械のない時代に約3年という異例の早さで完成。昭和17年より最大出力12,600kWの発電が開始され道東産業の発展に大きな役割を果たし、現在は北海道電力により最大出力16,000kWの新岩松発電所として操業しています。工事は物資不足など困難な条件の中で難工事だったと云い、仮設吊り橋の落下や水路決壊などの事故により多くの犠牲者を出したというが、当時は拘禁強制労働(タコ部屋)ありきの時代で有り、犠牲者の中にこの人達は含まれているのか気になる。◇竣工年:昭和16年(16年?) ◇事業者:日本発送電株式会社 ◇建立者:鹿島建設 ◇所在地:北海道上川郡新得町字屈足 ◇Gmap:Gマップ

上川灌漑溝水門跡新得町

# ペンケ澤駅逓所標柱の近くに灌漑用水門の説明板がある。凡その事は説明板にある通りで、灌漑用水路は上川土功組合が建設し、竣工は大正10年3月31日と資料にはあるが工事経過に関しては詳細不詳。説明板では触れていないが北海道開拓殉難者調査報告書では受難受者3名とあり、この工事でも拘禁強制労働(監獄部屋)があったのかもしれない。北海道の監獄部屋による強制労働で灌漑工事や防災用水利工事(堤防や護岸)が一番多いではないかと思うほどです。土功組合が出来る前の初期と大平洋戦争末期は労務者の確保が困難で農民自ら労働力を提供する事もあったという。◇設置年:平成8年3月 ◇設置者:新得町 ◊所在地:北海道上川郡新得町屈足基線232 ◇Gmap:Gマップ

開通記念碑広尾町

# 道路開削の歴史は江戸時代にはじまり明治を経て大正時代になると、地方費道帯広浦河線の庶野・広尾間の本格的改修工事が計画されるが、広尾からタニイソ間で漁民が使用していた昆布干し場を寄付して欲しいという要望があり地元漁民は反対、広尾漁協の組合長が説得してまわり昭和2(1927)年に着工するに至った。全六工区の広尾側では広尾橋から音調津(一工区~四工区)間は難所であった二工区を直営工事とし他は旭川の鶴間組の請負いで昭和5年10月に竣工した。広尾橋から音調津間が開通した時に開通記念碑が建立された。碑文「広尾音調津間海岸道路 昭和二年五月起工 昭和五年十月竣工 延長 一里二十七町四十七間九分 工費 二十萬六千四百八十七圓」※第五工区の音調津~モイケシ間は藤原仁一郎の請負い「六工区」は全工区17箇所のトンネルの内9箇所が集中する難所でモイケシ~国境間のうち1.198mは桜谷清五郎の請負、残り5.612kmは直営工事であった。黄金道路と呼ばれる国道建設工事も直営工区を除けばその殆どが監獄部屋による強制労働で開削された。いわゆるタコ部屋は人目に付かず逃亡の難しい絶壁の側や三方を山に囲まれた場所に設置され、逃亡して捕まると殴打・暴行など残酷な私刑が加えられた。また死亡者は崖から突き落とし、その上から岩を落として事故に見せかけたり、自ら投身自殺をしたように偽装したとも、海に流したとも云い、北海道開拓殉難者調査報告書には広尾側だけで25名とあるも氷山の一角。土木業界特有の下請けと人海戦術にたよる強制労働が技術革新と機械化を遅くまで妨げたとも云える。黄金道路開削の工事では直轄区を除く全区間をタコ部屋で開削しており、歴史の表に出てこない犠牲者を慰霊する碑はないようです。◇建立年:昭和5年10月頃? ◇建立者:詳細不詳 北海道廳? ◇所在地:広尾郡広尾町音調津 ◇Gmap:Gマップ

殉職記念碑広尾町

# 殉職記念碑は雪崩事故で殉職した方々の慰霊碑でタニイソにあったのをピケタヌンケにある駐車帯傍に移設したもの。道路開削の歴史は江戸時代にはじまり明治を経て大正末から昭和年代になると大規模な改修工事が始まってる。本館的な工事開始は昭和2(1927)年、えりも側と比べると難所が多く特に「広尾側第6工区」は全工区17箇所のトンネル中9箇所が集中、難所中の難所で3年以上を費やし昭和9(1934)年10月に竣工した。開通を目前にした昭和9年3月13日から14日にかけての記録的な豪雪で現場は埋もれ、3棟の工事詰所や土功部屋に帯広土木事務所職員の他、作業員とその家族が待避して天候の回復を待っていたが、3棟のうち2棟が大規模な雪崩に直撃され倒壊。直撃を免れた土工部屋に居た人々によって救助活動が行われ、救出作業を終えて部屋に戻っていた時に第2波の雪崩が襲い最終的には15名(20名とも)の犠牲者を出した。◇建立年:昭和9年8月◇建立者:詳細不詳 北海道廳?◇所在地:広尾郡広尾町ピケタヌンケ◇Gmap:Gマップ

道路全通記念碑広尾町

# 昭和2年5月8日に着手した地方費道帯広浦河線広尾庶野間(現・国道336号線)改良工事で、えりも側は庶野を起点に国境までを室蘭土木事務所が担当し谷万吉の請負、広尾側は帯広土木事務所が担当し広尾側は6工区に分けられ、起点の広尾橋から音調津(第一~第4工区)間の竣工は昭和5年10月で、この時に開通記念碑が音調津に建立されている。難所であった第二工区は直営工事で他の工区は鶴間組の請負でした。第五工区の音調津~モイケシ間は藤原仁一郎が請負、第六工区のモイケシ~国境間のうち1.198mは桜谷清五郎の請負で残りの5.612kmは直轄工事でした。総延長33.1529km、道路延長32.497m、橋梁延長573m22箇所、隧道延長459m17箇所、防波壁延長6.346m25箇所という難工事を7年半をかけ昭和9年10月17日に竣工、同31日に全通、開通式と慰霊祭は昭和9年11月3日午前10時、猿留橋の橋上で挙行され記念碑が建立されたが、碑文では11月竣工となっている。総工費945,503圓、現在の貨幣価値にすると約60億円で道路全長からいうと黄金道路というほど篦棒な金額ではない。戦後も改良工事を重ね、昭和42年から本格的な改良工事に着手、昭和56年に一次改良工事が完了した。道路全通で漁場を失ったり、昆布着床の不良など漁民の被害は少なくないと思われる。改良工事後に設置された記念碑が広尾側の広尾橋近くの「朝日坂記念公園」に、えりも側には庶野の国道脇小公園にある。◇建立年:昭和9年11月3日 ◇建立者:不詳 ◇所在地:広尾郡広尾町ピケタヌンケ ◇Gmap:Gマップ

近藤重蔵道路開削記模碑広尾町

# この碑が建立された時に説明板も設置されたが、今は碑があるだけで碑文の判読は難しい。碑はルベシベツ山道の北口近く、旧道の重蔵隧道の側にあり東蝦新道記の原文が刻まれ文化財に指定されています。その概要は近藤重蔵がエトロフ・クナシリよりの帰路、様似をへて広尾に至るが、ここで風雨の為に滞留を余儀なくされる。トモツクシ・ピンナイは嶮間に死する者も有りと云い、近藤重蔵は私財を投じ、従者の下野源助にルベシベツからピタタヌンケまで山間部を通る新道の開削を命じアイヌ民族68人の協力を得てルベシベツ山道を切り開いたと、近藤重蔵を称えた碑で「大日本寛政10年戊午11月朔庚申 江戸輶軒使 近藤重蔵 従者 下野源助録 金平 通辞 豊吉 孫七 夷族 68人」と当時の同行者も刻まれている。碑裏面に「この碑文の道路はここより分岐したるものにして、本道道路開發鑿の嚆矢とす 昭和9年9月 北海道廳」※とあり北海道廳が建立したもの。この碑を紹介するのは「北方人物誌 蝦夷から北海道へ」に「十月十日・・・アイヌ土人達の使役が過酷に過ぎたため、恨みを買って危うく重蔵が殺されかけようしたこともあったのを、謙次(注・下野源助の事)が叱咤し慰論して事なきをえたと伝えられる・・・」とあったからで、過酷な山道開削に使役された68人のアイヌ達はどこから集められたのかと。◇建立年:昭和9年9月 ◇建立者:北海道廳 ◇所在地:広尾郡広尾町モエケシ(ルベシベツ) ◇Gmap:Gマップ

帝国砂白金鷹泊犠牲者墓標深川市

# 帝国砂白金有限会社は昭和18(1943)年に設立されるが、砂白金は戦時中の軍需品であったため主力の鷹泊(雨竜鉱業所)では大隊本部が置かれ、和寒は第二大隊、夕張には第三大隊が設置された。機械を使った採取とともに道路や鉄道駅が整備されるなど国家的事業となって、昭和19(1944)年には白砂金採取のため雨竜川の河道が切替えられたほどであった。空知管内から徴用で集めた人と、朝鮮半島からの労務者で、朝鮮人は「タコ部屋」同様の扱いをうけ、リンチに遭い死亡した日本人や朝鮮人がいた。当時の棒頭が告白した証言をもとに地元住民による遺骨発掘、改葬がなされ鷹泊竜水墓地に帝国砂白金鷹泊犠牲者墓標がある。砂白金の採掘では剣淵や和寒などでも犠牲者があったようで、和寒には採掘跡の痕跡が残っている。◇建立年:昭和52年8月10日 ◇再建年:平成5年8月12日 ◇所在地:北海道深川市鷹泊竜水 竜水(ヌップ)墓地 ◇Gmap:Gマップ

土工夫供養塔新十津川町

# かつて滝川から浜益への旧道は新十津川町吉野から留久を経て幌加徳富に出て徳富川を渡り清水峠を越え泥川を経由し浜益に抜けていた。この道路は大正8年の陸測図にあるが、清水峠は廃道になり一部が留久では農道や林道として残っている。北幌加より徳富川沿いに道があり奧に大岩上に土工夫供養塔があるのだが、現在は通行止めになり行くことが出来ない。旧浜益道路はタコ労働で開削され犠牲になった土工夫が埋められ、後にうめられた遺体が出てきたのを土地の人が目撃しているという。また地崎組が徳富川から導水する灌漑溝が開削したが、この工事で工夫が脚気や栄養失調で土亡くなったとか、山手から大岩が崩れてタコ(土工夫)が4、5人死んだとか、タコを生き埋めにしたと云われ、大岩の上に供養塔が建てられたという。供養塔の建立発起人に地崎組出長所主任と配下6名の名が刻まれているが、供養塔の対象が犠牲になった土工夫達なのか、地崎組関係者なのかはよくわからない。◇建立年:大正13年8月 ◇建立者:地崎組 ◇所在地:新十津川町北幌加 ◇Gmap:Gマップ

馬追運河 馬追運河之碑長沼町

# 長文になるが碑文を掲載する「馬追運河は本町開拓の幹線排水にして百年の歴史を目睫にす。そのかみ石狩低地帯は夕張川の自由蛇行氾濫の跡にして、いたるところ古川めぐり、無数の浅沼隠在する泥炭の大湿原たり。第四代北垣国道北海道長官は『移民ニ先タツ者ナレバ最モ急施ヲ要ス』と宣言し石狩川下流域の大規模排水運河の一つとして、明治27年10月起工す。工事の経過は折りから日清戦争の影響をうけ、あるいは洪水により樹木流入して作業を妨ぐ。労働また過酷にして土功哀史を刻むも、明治29年漸完成して本道運河の嚆矢と謳われ、土地改良に著しい効果をあげ同時に江別間の舟運に利用されり。長沼市街の創立もこの恩恵による。以来馬追原野4,200町歩の排水動脈として顕著な役割を果たしつつも星霜を経るにしたがい泥土堆積して機能低下す。よって大正10年及び昭和10年浚渫して排水を維持しつつも、戦後農地の拡大、千歳川の逆流による内水の滞留により、却って本町西部の水害を助長するの姿を呈せり。よって地域住民は馬追運河改修促進期成会を結成し多年にわたって各要路に陳情請願を尽くす。この間昭和36年からの連続洪水は水害の常習地帯として深く認識せられ、国、道の機関あげて堤防の築造内水排除の機場を設置せられ、ついで昭和50年から大改修に着手し、平成3年度をもって完成の運びに至れり。住民の喜びこれに過ぎるはなし。しかし治水、排水の大業は永遠の町是にして、これをもって止まることを許さずなお将来に向かって努力をつづける決意を新たにし、ここに碑を建立し先達の功績を頌し後世に伝えんとせん。長沼町馬追運河改修促進期成会 平成3年10月吉日」※ここには水害の常習地帯であった長沼の長い水との戦いの歴史がしるされ、もう一つは土功哀史という形で拘禁しての強制労働の歴史を伝えている。明治27年頃には囚人労働に変わるタコ部屋と呼ばれた労働システムが出来上がっていたようです。北海道開拓殉難者調査報告書にも長沼治水での殉難者数が16名と記されているが、この頃は取り締まる法律も無く請負業者のやりたい放題で実際の殉難者数はこんな程度ではなかったでしょう。◇建立年:平成3年10月 ◇建立者:馬追運河改修促進期成会 ◇所在地:夕張郡長沼町西3線南 ◇Gmap:Gマップ

夕張川新水路・殉職者慰霊碑南幌町

# 夕張川新水路は大正11年に着工し昭和11年の完成、この時に工事の成功と治水と守護神として義経神社が創建された。工事殉職者10名の氏名を刻んだ慰霊碑が昭和4年頃に建立され、昭和14年に義経神社に移設されたが、清幌橋の架け替えやリバーサイド公園の整備で、南幌神社に合祀され碑も南幌神社(八幡神社)に移設。工事に要した期間は約15年、延べ100万余人の労働力が投入された。工事に従事したのは南部衆と呼ばれた人達が殆どであったが、中には立入禁止とされた鉄条網に囲まれた二棟の建物に朝鮮人が収容され、逃亡防止用に土佐犬が放されていたと云い、世に言うタコ部屋だったようです。真偽の程は確かめようもないが、死者は清幌橋の人柱として埋められたとも伝えられている。朝鮮人の死亡者数は不明で殉職者慰霊碑にも名前はない。◇建立年:昭和4年 ◇建立者:工事関係者か ◇所在地:南幌町緑町5丁目6−1 南幌神社 ◇Gmap:Gマップ

北海道無名開拓殉難者慰霊之碑札幌市央区

# 宮の森の山側に位置する薬王寺境内に慰霊之碑がある。碑裏面の碑文「我々は第二次大戦終了前の北海道開拓の犠牲になった無名の諸霊に対し謙虚に此の慰霊碑を建立するものであります。それは近隣諸國までも巻き添えにした悲惨な物語でありました。茲に無縁無名の我が國を始め諸外国の出身者を含めて『風雪の中の名も無き開拓殉難者の霊よ安かれ』と慰霊の誠を捧げます。千九八五年十一月十七日 建立發起人一同」※碑文は簡潔だが、これを見て開拓の犠牲になったのが道路開削で犠牲になった囚人達、監獄部屋による拘禁強制労働で倒れていった土工夫、朝鮮、中国から強制連行され犠牲になった農民や労働者、捕虜として連行され強制労働で倒れた人々だとわかる人は少ないでしょう。説明板を設置して次の世代に継承出来るような配慮が望ましい。◇建立年:昭和60年11月17日 ◇建立者:慰霊碑造立発起人 ◇所在地:札幌市央区宮の森1条18丁目1263−3 ◇Gmap:Gマップ

殉職者之碑札幌市南区

# 上山鼻神社近くの茂岩下公園にある「殉難者之碑」は北海道電力株式会社が、藻岩山の中腹に造られた藻岩発電所の工事で犠牲になった労働者を慰霊するため建立した。この発電所は豊平川上流の簾舞付近にある藻岩ダムから約10kmの導水路を使って取水していますが、この導水路を建設するにあたって多くの労働者が従事しました。その数は4千人以上とも言われ、タコ部屋と呼ばれる過酷な労働条件の下で90人近くの労働者が命を落としている。その中には朝鮮人労働者も多数含まれます。殉職者之碑の建立は戦後は昭和35年になってからで、碑建立の経過は黙して語らず「殉難者」としたが、その実態は「被害者」でした。碑銘を揮毫した藤波収氏は、昭和26年に北海道配電と日本発送電北海道支店との事業を併せて北海道電力が創立された際に初代会長を務めた。◇建立年:昭和35年8月 ◇建立者:北海道電力株式会社 ◇所在地:札幌市南区南32条西11丁目1(茂岩下公園) ◇Gmap:Gマップ

北電藻岩発電所建設工事犠牲者の碑札幌市中央区

# 碑文「札幌市民に文化生活の源である水と電気をもたらしている北電藻岩発電所と札幌市藻岩浄水場の建設工事は、1934年に着工し、発電所は1936年、浄水場はその翌年に完成しました。この二つの施設に注がれる豊平川の水は、簾舞のダムから地下を走り、導水路を通って藻岩山山腹の発電所に運ばれ、さらにそこから伏見にある藻岩浄水場に送られ全長13キロ余に及んでいます。浄水場は札幌市直営工事で行われました。発電所は、北海水力電気株式会社(現北海道電力の前身の一つ)が発注元となり、鹿島組(現鹿島建設)と伊藤組が元請、およそ40の組が下請となって建設されました。発電所ではタコ部屋、信用部屋「通い」の労働者等およそ4千名が従事し、犠牲者は現在までに少なくとも80名を超え、その内死亡者は朝鮮人5名を含め34名(推定を含みます)を数えています。これら労働者の多くは、全国各地で生活に窮していた日本人であり、日本の植民地支配によって遙か異郷の地に渡って来ざるを得なかった朝鮮人でした。その中には周旋屋に騙されてタコ部屋に売られ、過酷な労働を強いられた人々が数多くいました。下請の約半数がタコ部屋で、朝鮮人のタコ部屋は三棟、朝鮮人の信用部屋が5棟ありました。タコ部屋労働者は、監禁されたうえ酷使され、衰弱しても医薬を与えられることはまれで、時には体罰が加えられ、ある者は生き埋めにされ、ある者は虐殺されるなど、残虐非道な目にあいました。また、信用部屋の労働者も不十分な安全対策のため落盤事故等にあい命を落としました。遙か故郷を思い、疲れ果てた末に今もって誰にも知られず闇に葬られている犠牲者の無念を思う時、その原因と責任の所在の解明をさらにすすめる必要があります。ここに私達は、この工事に携わった労働者の労苦を偲び、多くの市民の賛同と浄財によりこの碑を建立し、犠牲者の追悼をすると共に、再びこのような人権無視が行われることのないようにその事実を後世に伝え、この歴史を心に刻み責任を果たしたいと思います。1994年6月11日 北電藻岩発電所建設工事犠牲者の碑を建てる会」1994年6月11日に犠牲になった労働者を追悼するため碑建立呼びかけ・賛同147名(札幌市議会全会派の個人議員含む)、碑建立及び設立趣旨賛同署名15,000名以上、募金540万円、募金者3,580名によって、札幌市中央区南30条西10丁目に建立された。◇建立年:平成6年6月11日建立 ◇建立者:北電藻岩発電所建設工事犠牲者の碑を建てる会が建立 ◇所在地:札幌市中央区南30条西10丁目 山鼻川河川敷公園内  ◇Gmap:Gマップ

弔魂碑札幌市南区

# 豊平川が定山渓温泉市街地を下った所にある一の沢ダムより取水し導水路で一の沢発電所に送るため、送水路(殆どは地下水路)工事が大正13年8月に着工、大正15年8月の竣工でした。この工事には多数の下請けが参加しているが、過酷な労働条件で働かされた土工夫(タコ労働者)の犠牲者も出ているが、その実態は不明な事が多いようです。経緯は判りませんが真行寺の裏に昭和2(1927)年に建立されたという工事の犠牲となった土工夫(タコ労働者)の弔魂碑があり、真行寺には引き取り手がなかったタコ労働者の遺骨が納骨(合葬)されているという。碑文に「第三發電所並水路工事殉職者」とあるが、第三發電所(一の沢発電所)は廃止され、取水口の一の沢ダムは砂防ダムとして機能している。日本人は人が亡くなると仏といい、その霊は神となるのが一般的で、この世に未練や恨みを残して無くなると祟りを恐れ供養や慰霊の儀式をし、慰霊の碑を建立することもあったが弔魂碑もその一つです。単に慰霊というだけでなく、監獄部屋などの強制労働で犠牲になった人たちの祟りを恐れて、この弔魂碑も建立されたのかもしれません。◇建立年:昭和2年4月 ◇建立者:荒井組 ◇所在地:札幌市南区定山渓温泉東3丁目(真行寺敷地内) ◇Gmap:Gマップ

鐵道院第一期第一區 埋築工事死亡者 追悼碑小樽市

# 小樽市潮見台の宗円寺境内に追悼碑と刻まれた碑がある。北海道開拓殉難者調査報告書にあるのは第一期25名というのがそれに該当するらしいが、賀沢昇氏の「続 雪の墓標」に従う事とする。要約すると「築港と防波堤の工事は予想以上の難工事で事故による犠牲者は30数名にのぼったと云われる。港を見下ろす宗円寺に工事を請け負った堀内組が大正3年に犠牲者の追悼碑を建立したが、昭和53年に台座が崩れ碑が斃れてしまった。これを聞いた全動力車労働組合小樽築港支部が、追悼碑修復の募金活動を行って半年がかりで42万円の浄財が寄せられ、同年10月に碑が修復された」というが、再建された碑に建立者、建立年月日はなく、碑文は正面の上に縦2列に「鐵道院第一期第一區/埋築工事死亡者」その下に追悼碑とあるだけのようです。◇建立年:大正3年 ◇再建年:昭和53年10月 ◇建立者:堀内組/全動力車労働組合小樽築港支部◇所在地:小樽市潮見台1丁目19 宗円寺(曹洞宗)◇Gmap:Gマップ

積取人夫慰霊碑小樽市

# 木材積取人夫は木材を汽船に積み込みむ、陸上げして貨車などに積み込む仕事に従事する人達。洋上に浮いて絶えず揺れ動いている木材の上に乘って、トビを使い木材を寄せ集め数本纏めて鎖をかけ木材の中間を鉄鎖で縛り船のアームやクレーンで吊し上げ積み込んだり陸上げする作業は年期と熟練がものをいうが、危険と隣り合わせの仕事でもあった。昭和戦前期の小樽は樺太産木材の積取事業が事業が盛んで、洋上で作業をする熟練した技能をもつ労働者の確保は大変だったようです。戦前に小樽に来た朝鮮人たちは炭鉱よりも木材積取人夫として働く人が多かったと云い、積取人夫の15%が「朝鮮人」とされているが、低賃金で下宿の宿代や蒲団の貸料を引かれると送れるお金は殆ど残らなかったという。小樽の長橋に積取人夫慰霊碑があるというも所在地も碑も確認できていません。◇所在地:小樽市長橋

虻田鉱山タコ労働者(殉難者)鎮魂 不動明王洞爺湖町

# 胆振の伊達、洞爺、豊浦地方は中小の鉱山が密集する地帯で三豊地区の虻田鉱山もその一つ。鉄鉱床が発見されたのは明治25年ですが、昭和20年頃には掘りつくして一時休山するが、昭和26年頃になって深層で硫化鉱体が発見され、さらに昭和28年には硫黄鉱床の発見、昭和30年に硫化鉄及び硫黄鉱床として開砿するが昭和46(1971)年に閉山している。鉱山での労働の実態は不詳だが北海道開拓殉難者調査報告書によると殉難受者は3事業所合計で22名、そのなかで氏名判明者は12名と記されている。「不動明王」は虻田鉱山で強制労働に斃れた砿夫たちの慰霊碑ですが、不動明王像は未訪問・訪問予定です。 ◇建立年:昭和53年8月7日  ◇建立者:虻田郷土研究会?  ◇所在地:洞爺湖町

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