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北海道無名開拓殉難者の碑を巡る
北海道先住民族に関連する顕彰や慰霊の碑を巡るⅢ‼

伏古渡船場跡碑雨竜町

伏古渡船場跡碑 記念碑の他に雨竜町が敷設した説明板があった。説明板の文字に不鮮明な部分があり読み違いがあるかもしれないが転載。「蝦夷の昔、この付近には十四・五戸のアイヌ部落があり丸木船を使って狩猟していた。明治21(1888)年三条実美を中心とする華族組合農場が開設されてから、入植者移民招致のため、この渡船場の必要性がました。当初は坂田幸太が丸木船を利用して従事していた。明治34年本町開拓に当たった蜂須賀茂昭はこの渡船の管理はこの渡船の管理を伏古部落(代表 石橋久吉)に委託したが交通量の増大により費用を援助してワイヤー利用の滑車式流速応用(幅2.4米 長さ12米)の馬渡□による運行とし当初は低廉な料金を徴収したが季節による水量の変化、流木の漂蕩蕩、融雪期の流氷など幾多の障害に阻まれ、この運行は一方ならぬ苦心と経営的にも困難があった。道庁は、この渡船場の重要性を認めて道営渡船場に指定し無量とした。しかし、その後の地域の開発に伴う交通量の増大と渡船による人名の危険に考慮し永久橋架設の義がおこり、昭和32年着工、7年の歳月と巨費を投じて待望の江竜橋(808米)が完成した。想えば渡船開始以来75年間、11第にわたる船頭と部落民の血のにじむ協力によって一件の事故もなく大きく地域の発展に貢献した伏古渡船場は本道渡船史上特筆に値する業績を残し、昭和40年9月その幕をとじたのである。雨竜町教育委員会」※強制移住は国家によってアイヌ民族が受けた民族差別の一つだが、この渡船場で明治22(1889)年年から7年間渡船に従事した砂沢イシムイタキも強制移住させられた26戸の中の一戸だったという。 ◇建立年:昭和44年9月  ◇建立者:伏古住民22戸  ◊所在地:雨竜郡雨竜町伏古 江竜橋付近  ◇Gmap:Gマップ

中空知コタン跡地入口新十津川町

中空知コタン跡地入口の 碑文より「北・中空知に先住していたアイヌ民族は、和人の入植により移住を余儀なくされた。が、その地域にコタンを創り、文化を育み紡ぎ、空知の開拓と文化向上に寄与した。コタンの入口に【道標】を建て、存在を後世に伝える。」「ここよりワッカウェンベツ川上流約5キロの地域に、1907・明治40年頃から1975・昭和50年頃までの約70年間、コタン(アイヌ給与地)存在した。名取武光氏、平田角平氏らが、詳細な記録を残している。」「2015(平成27)年9月19日 私塾「アイヌ語教室」(岩見沢)建立」※昭和50年頃まで和歌のコタンにて暮らしアイヌ文化を継承し育んできた空知のアイヌ民族を讃えた碑でもあった。 ◇建立年:平成27年9月19日  ◇建立者:私塾 アイヌ語教室  ◇所在地:北海道樺戸郡新十津川町吉野  ◇Gmap:Gマップ

史跡津石狩(対雁)番屋江別市

史跡津石狩(対雁)番屋 説明ばんより「今から270年ほど前(享保年間)、世田豊平川口に石狩13場所の一つとして商場が開かれ、その後番屋が設けられ鮭漁と内陸水路交通の要点として発展した。慶応4年に立花由松が江別最初の和人として定住した。明治4年には宮城県から76人が入植し、9年には樺太(サハリン)に住む854人のアイヌが移住させられた。これにより学校や製網所が作られるなど対雁は賑わい、12年に駅逓所、13年には対雁・江別両戸長役場が置かれた。しかし、15年の鉄道開業により人の流れが江別・野幌に移り、19・20年にはコレラの流行により300人以上の病死者をだす大惨事にみまわれ、対雁は衰退をはじめた。駅逓所は18年廃止となり、19年には戸長役場と郵便局が江別村にいてんした。駅逓の入口に植えられた赤松は、駅逓の松として親しまれ、現在は石狩川の河川敷地となった旧対雁市街の繁栄をしのばせていたが、老枯して今はない。平成2年9月 江別市教育委員会」 ◇建立年:平成2年9月  ◇建立者:江別市教育委員会  ◇所在地:江別市工栄町  ◇Gmap:Gマップ

対雁百年碑江別市

対雁百年碑 碑文より「由来 本碑ハ弘化三年場所請負人山田文右衛門小祉ヲ建立弁天ヲ祀ル 神体長サ二尺三寸極上ヲナス 翠色天然石文右衛門ノ引網ニカカル事三度ニ及ビ神明ノ致ス所トシテ対雁豊平川口ノ小祉祀ル 是対雁神社ノ前身ナリ 越エテ明治四年四月宮城県涌谷領農民二十一戸七十六人来住対雁村トナル 次ダ同九年七月南樺太アイヌ百二十七戸八百五十四人移住 係開拓使八等出仕上野正ノ発意ニヨリ小祉ヲ修復鳥居ヲ新営シテ対雁神社トナス 一方角山ノ移住者相計諮リ 同年三十七年角山神社を創立天照大神ヲ祀リ来タリシガ 昭和四十六年九月倶ニ国営治水工事ノ為ニ社ヲ解体 神体ヲ本碑内ニ奉置シ以テ永遠ニ之ヲ伝エントス 昭和四十六年九月十日 碑書 江別市長 山田利雄 撰文 新館長次」※碑は榎本公園の奥まった場所にあります。碑文には「次ダ同九年七月南樺太アイヌ百二十七戸八百五十四人移住」とあるが、彼らが上陸した宗谷から銃剣で強制的に連行したもので移住いえないものだった。そこまでして連行した理由は空知の炭坑に彼らを送り込む計画があったからと云われている。反対もあって実現しなかったが、対雁では狭い所に多くのアイヌを住まわせたためコレラや天然痘の流行で移住者の半分近くが犠牲になるという大惨事にみまわれた。対雁の樺太アイヌ居住地跡の半分は石狩川に、半分は河川敷になっており樺太アイヌの居住していた痕跡は何もない。 ◇建立年:昭和46年9月10日  ◇設置者:江別市  ◇所在地:江別市工栄町  ◇Gmap:Gマップ

乗仏本願生彼国碑江別市

乗仏本願生彼国碑 明治23年に対雁移民共催組合の関係者によって本願寺札幌別院対江布教所(現在の眞願寺)に建立されたが、眞願寺の移転で碑も移設、碑は更に現在地へと移設されたようです。また対雁で亡くなられた方々の葬儀・追悼を行った事が縁で眞願寺には現在もその犠牲者全員の過去帳が保管されているという。対雁に強制移住させられた方々が住んでいたのは現・北海道電力の敷地内だというが、明治19(1886)年から明治20(1887)年にかけて大流行した天然痘やコレラで次々と亡くなっている。江別市真願寺の過去帳では明治19年に267人、明治20年に91人の物故者が記録され、これらが流行病の犠牲者と考えられているが、この当時は石狩町の来札に移住している人も多いので、対雁と八幡来札と合わせて明治19年と20年の死亡者合計が358名と理解したが、明治12(1879)年のコレラ流行の死亡者30人をいれると388人となり、移住者の半分近くが亡くなるという残酷というしかない出来事でした。亡くなられた方は石狩の八幡共同墓地や対雁の墓地に埋葬されたが、対雁埋葬地は霊園内の他に隣接する北海道電力用地に食い込んでいた。昭和36(1961)年から昭和37(1962)年にかけ北電江別新火力発電所工事のため坊主山(現・北電変電所)を崩した時に大量の人骨が出土したがブルドーザーでそのまま踏み潰して埋め立てたという。昭和39(1964)年8月の道央地方を襲った大雨で「樺太旧土人先祖之碑」付近の表土が流され多量の人骨が出現したため、江別市は本格的に遺体を掘り起し供養する事にし、道教育委員会を通して関係者の同意を得、昭和40(1965)年8月21日から4日間、北海道大学医学部が発掘調査を行い、土葬遺体6体と副葬品がほぼ完全な形の遺骨(内、樺太アイヌ特有の副葬品を身につけた男1、女2の完全骨格体)と火葬された100体余の遺骨が出土、発掘された約40体の遺骨は北大医学部資料室に運ばれ、残りを墓に再埋葬し供養されたという。墓地では新しい墓碑建設をするとき骨片が玉や刀剣などの副葬品と共に出土する事が度々あり、墓守による樺太アイヌの骨であるという証言もあったようです。参考文献:樺太アイヌ史研究会/編「対雁の碑」  ◇建立年:明治23年   ◇建立者:対雁移民共催組合関係者 ◊所在地:北海道江別市対雁115-80 市営墓地やすらぎ苑  ◇Gmap:Gマップ

樺太移住旧土人先祖之墓碑江別市

樺太移住旧土人先祖之碑 榎本武揚がロシアと交渉して明治8年(1875)に千島樺太交換条約を締結、樺太アイヌは国籍選択を迫られ樺太北部のアイヌは残留し、南部の108戸、841名が日本国籍を選択し宗谷に移住する。榎本はさらに樺太アイヌを農作業、もしくは空知の炭鉱夫として働かせるため対雁に再移住させる事を提案、開拓使は彼らの生活のため,石狩や厚田の鮭漁場や鰊場を設けたりしたが、樺太アイヌの視察団は不適と移住を拒否、アイヌ達から移住したくないという嘆願書を受けた大判官・松本十郎は対雁移住に反対し保護策を提案したが、アイヌとロシアとの接触を恐れた黒田清隆はこれを聞き入れず、翌年になって松本が出張で留守の時に、強権を発動し銃による威圧や脅迫でアイヌの人々を脅し船に乗せ、宗谷の一時居住地より対雁への移住を強行した。炭砿に送る計画は実行されなかったが、移住の結末ははさきに書いた通り悲惨なものでした。日露戦争後の明治39(1906)年までにほとんどが樺太に帰還したが、何人かはそのまま当地にとどまった方もいる。昭和6年8月に樺太旧土人先祖之碑を建立した津山仁蔵氏もその1人でした。同族・先祖の碑にあえて「旧土人」という言葉を刻んだ理由がとても気になった。近くに「乗仏本願生彼国の碑」もある。市営墓地に隣接してある北海道電力の敷地にはまだ遺骨が埋ったままという話もあり国家による民族差別と偏見は死者も例外ではなかった。※8月に墓の創立者の孫達の豊富町知咲内 津山信一と新十津川 千山時男が遺族代表となり道教委との間で発掘に同意する調印。持ち出された遺骨の行方は不詳だがその一部が「いしかり砂丘 風資料館」にも保存されているとのことだった。 ◇建立年:昭和6年8月  ◇建立者:津山仁蔵建之  ◊所在地:江別市対雁115-80 江別市営墓地  ◇Gmap:Gマップ

樺太アイヌの碑石狩市

樺太アイヌの碑 長いが碑文を転載する「明治8年(1875)に日本・ロシア両国が調印した樺太千島交換条約により、日本政府は、ロシア領となった樺太の南部に住んでいたアイヌを北海道とその近くの島に移住させようとしました。明治8年9月から10月にかけて樺太アイヌの人たち108戸、841人は同年秋、北海道宗谷地方に移住。翌年に強権を発動して石狩河口の上流にある江別市対雁に土地を与え、強制的に移住させられました。樺太アイヌの人たちは、故郷を遠く離れた地で鮭漁や鰊魚を営み、多くの者が漁場に近い、この石狩の来札などに居を移しました。しかし明治12(1879)年に伝染病のコレラが流行し、集団生活を強いられていた樺太アイヌの多くは病に冒されました。さらに明治19(1886)年の天然痘、コレラの大流行によって約300人もの尊い生命が喪われました。明治38(1905)年、日清戦争講和条約で、樺太南部は再び日本の領土となり、ようやく帰還することができました。樺太アイヌは、近代日本の立ち上がりの時代から、国家間の領土争いに巻き込まれ、筆舌につくしがたい辛酸とともに歩んで来たのであります。こうした歴史のなかで来札の地で、樺太アイヌが暮らし、そして亡くなっていった事を胸に刻み、永く伝えてゆくものです。平成14(2002)年9月 石狩市」※明治19(1886)年前後には生存者の大半が来札に移動。悲劇を乗り越え日露戦争終結後に336人が故郷に戻った。平成3(1991)年、樺太アイヌ史研究会が石狩町(現・石狩市)に埋葬された八幡墓地の遺骨調査を要請、平成5(1993)年の調査で遺骨と漆器や刀、ガラス玉などの副葬品が発掘され、同年9月に石狩市が同墓地内に慰霊碑を建立した。八幡墓地奥の慰霊碑がある一帯が天然痘やコレラなどで樺太アイヌが死亡した際に埋葬した跡になり、以前に訪問したときは文字の読めなくなっている木碑がありましたが今回は見当たりませんでした。 ◇建立年:平成5年9月  ◇建立者:旧石狩町(現・石狩市)  ◊所在地:北海道石狩市八幡3丁目 八幡共同墓地  ◇Gmap:Gマップ

ソーラン節発祥の地余市町

ソーラン節発祥の地 余市町豊浜の旧豊浜隧道坑口脇でローソク岩が良く見える所に碑がある。風化が進んで裏面に刻まれた文字は半分も読み取れないが「余市の石碑」と合わせて見ると「安政2年鰊枠網漁法発明され鰊沖揚げに合わせて唄われる民謡としてソーラン節この地に生まるユナイ場所 キロクバッコ旧土人口伝」と刻まれてるようだ。昭和36年になって旧土人とは驚きで建立者の人権意識、常識を疑うが、この話を伝えたとされるキロクバッコの存在は定かではないらしく詳細は不詳。ローソク岩のあたりで良く鰊が獲れていたこと、ローソク岩から定置網を張っていた事もありローソク岩が良く見える場所に碑が建立されたという。

ちなみに港町旧稲荷神社跡にある阿部引田臣比羅夫之像は北海道文化財保護協会理事今善作氏の主唱と資金提供で、沢町の鰊塚は今善作氏が同氏邸宅敷地内に建立、ソーラン節発祥之地碑はニシン漁場経営をする漁家出身の今善作氏の出身地である湯内に建立されている。 ◊建立年:昭和36年  ◊建立者:余市町 余市町教育委員会 余市漁業協同組合 余市町郷土研究会  ◊所在地:余市郡余市町豊浜町20  ◇Gmap:Gマップ

和泉 教育発祥の地むかわ町

和泉 教育発祥の地 巨大な自然石の正面に大きく「教育発祥の地」その右下に小さく穂別町長原義弘書と刻まれた碑があり、その右側の副碑に沿革が刻まれている。碑文より「和泉小学校のあしあと 明治25年来住した和人によりアイヌの子弟を小石川シラマオクの家に集め、寺子屋式教育がはじめられた。同28年6月中村平八郎、森本イカシモ、紀藤昆次郎、横山武右衛門、川口菊三、各氏等が校下有志の協力を得て公立の新校舎を完成、鵡川尋常小学校累標分校として創立、これが和泉小学校の発祥となる。同34年累標小学校として独立。同40年10月旧土人保護法による指定校となり、昭和16年4月和泉国民学校と改称、同年18年高等科併置、同22年公立和泉中学校併設、幾多の変遷を経て先人、教育者の不滅の努力により、線八百余名の卒業生を世に送る。ここに先人、教育者に感謝を捧げ開校百周年を迎えた事を銘記する。出(いで)よ 出(いで)よ大いなる人、この地より 平成7年9月3日 和泉小学校開校100周年記念協賛会」碑は旧和泉小学校校門近くの敷地内にある。同小学校は平成21年3月に閉校となっている。 ◇建立年:平成7年9月3日  ◇建立者:和泉小学校開校100周年記念協賛会  ◊所在地:勇払郡むかわ町穂別和泉110  ◇Gmap:Gマップ

国際先住民年の碑むかわ町

北海道が設置したペップトのカシワの説明板があり「この木は樹齢900年を越すと推定されるカシワで、この地域が、ペップトコタンと呼ばれた当時から地域のシンボルとされてきました。明治37年にここに建てられた小学校の校歌に歌われ、校章や校旗に形どられるなど、現在の穂別小学校の歴史を示す樹木としても地域の人々に親しまれています」と記されている。外観からは樹齢900年には見えないが堂々たるカシワで昭和47年3月に記念保護樹木に指定されている。このカシワの下に大きな自然石が置かれ上に「碑」中段に「国際先住民年」下段に「ウタリ協会穂別支部 1993年」と刻まれている。説明はないが1990年12月の第45回国連総会において採択され、1993年には国際先住民年に設定された。碑はこれを受けて建立されたようです。 ◇建立年:平成5年  ◇建立者:ウタリ協会穂別支部  ◇所在地:勇払郡むかわ町穂別  ◇Gmap:Gマップ

ペップトコタンの碑むかわ町

長いが碑文を掲載する「北海道は豊富な資源に恵まれたアイヌモシリであった。アイヌはこの地で漁撈、狩猟などによる平和な生活を営み、すばらしい生活文化や文学、芸術を生み出してきた。15世紀に入ると、和人がアイヌモシリ南端に住むようになり、初めは数も少なく、アイヌと力を合わせて仲良く生活が営まれていた。しかし16世紀入り、本州との交易がさかんになるなるにつれアイヌが大切にしていた資源の略奪が激しくなり、次第にアイヌの不満がつのり再三にわたって闘争がくり返された。1669年のシャクシャインの戦に敗れたアイヌは、以来松前藩の政策下で窮乏と苦難の歴史が続いた。当時の穂別は、雪も少なく水の清い川には、さけやますが群れをなしてのぼり、鹿は地上を黄色くなるほど生息していたといわれ自然に恵まれたコタンであった。一方明治の初期頃より政府の手による北海道の開拓が進められるに伴い穂別にも和人が鹿道を通って入地した。しかしながらその不安と困難は筆舌につくし難いものがあった。われわれの先祖は和人に多くの支援と利便を供与し、風俗習慣を異にしながらも共に地と汗の斧をふるったのである。今日の穂別町の繁栄とその基礎作りに果たした先駆者アイヌの功績は燦然と輝く。1982年7月 開町70年町政施行20年記念にあたりその苦難の歴史をしのび、これを讃え後世の碑とする。]碑の裏面に「昭和57年7月20日 社団法人北海道ウタリ協会穂別支部 協賛 穂別町 施行 室蘭石工事」とあった。穂別町の協賛を得て北海道ウタリ協会穂別支部が建立した記念碑です。 ◇建立年:昭和57年7月20日  ◇建立者:北海道ウタリ協会穂別支部  ◇所在地:勇払郡むかわ町穂別  ◇Gmap:Gマップ

むかわ アイヌ碑むかわ町

むかわ アイヌ碑 アイヌの先人達を讃えた記念碑です。碑文より「私たちの住むこの北海道はアイヌモシリ(人の住む大地の意)と云い、太古より多くの人々が住み中世には蝦夷仁と呼ばれ現在に至っている。私たちの住む大地鵡川の中央を流れる大川は古来鵡川といわずモシリカペツと云われていた。この川筋は昔から漁猟の盛んな地で多くのアイヌ達が住んでいた。アイヌ達はこの地の厳しくも豊かな大自然の中で、民族の生活、精神文化を継承しつつ生活を送ってきた。明治になってから、先人のアイヌ達は鵡川の開拓に励み今日の町の発展の礎を築く事に協力してきた。この幾多の先人ウタリ(同胞の意)の其の苦労に感謝し功績を讃え、町の協力を得て、茲に開町百年を記念しこの碑を建立する。平成7年7月吉日建之 社団法人北海道ウタリ協会鵡川支部」※先人達を讃えた記念碑に「協力してきた」と刻む事が本当に慰霊や顕彰になるのか?「共に築いてきた」ならば理解出来るが。 ◇建立年:平成7年7月  ◇建立者:北海道ウタリ協会鵡川支部  ◇所在地:勇払郡むかわ町宮戸 鵡川大漁地蔵尊左隣  ◇Gmap:Gマップ

遺芳萬世の碑むかわ町

遺芳萬世碑 鵡川でアイヌ民族の卓越したリーダであった大川原コビザントクを顕彰する碑が春日地区の春日神社境内にあります。碑文正面上段に「遺芳萬世 胡山額」と刻まれ、下段の碑文は風化でまともには読めませんが「続 鵡川町史 通史編」に掲載されているとのこと。台座の正面に建立者氏名20名が刻まれている。むかわ町で明治7(1874)年に生まれた大川原コビザントクは広大な土地を所有し牧場を経営していたが、戦後の農地改革で多くの土地が失われるも、村会議員として35年間、鵡川村政に関わり、土工組合や萌別共同牧場などの要職を長年に渡って務めるとともに民生委員会方面委員など、教育や福祉でも大きな足跡を残している。大川原コビザントク翁は様々な要職つにき、その職責を全うし昭和26年12月14日 78歳で没するが、鵡川村村会が満場一致の決議で村葬にされたという。碑はその1年9ヶ月後に建立されている。大川原コビザントク氏の出席なくしては村会が開けず、協力なしには新規の起業もできなかったとも言われ、政治手腕に卓越し傑出した人物であったようです。 ◇建立年:昭和28年9月  ◇建立者:春日共同牧場組合員  ◇所在地:むかわ町春日nbsp; ◇Gmap:Gマップ

高橋房次先生之像と顕彰碑白老町

高橋房次先生之像と顕彰碑 アイヌ民族出身の言語学者であった知里真志保博士は同族や和人、他のアイヌ研究者に対し歯に衣を着せず辛辣な批判をした人でしたが、その知里真志保氏が「和人は船を食う」という本の中で高橋房次氏を「白老のシュバイツァー」と絶賛している。その高橋房次氏胸像が高橋病院跡に移設され顕彰碑(説明碑)が設置されている。碑文を転載する。「高橋房次先生は明治15年栃木県下都賀郡間々田町に生れ明治36年東京慈恵医学専門学校を卒業、大正11年庁立白老土人病院院長として赴任しアイヌ人医療は勿論一般村民の衛生思想の普及啓蒙に専念し、尓来全町民に対し貧富の別なく医療費等を度外視し精魂の限りをつくした。先生の医療態度は万人敬慕の的である。これ故に昭和30年9月白老町名誉町民第1号に推された。ここに50年年間真に医療報国に徹した先生の功績と恩義に酬ゆるべく北海道文化賞を受賞された。本日文化の日を期し町民挙ってこの胸像を建立し先生の偉業を永久に記念するものである。昭和34年11月3日 高橋房次先生功績顕彰会会長 山手猪三郎他 会員一同」※白老病院廃止後の昭和13年から高橋医院として引継いで地域医療活動を続けられた。高橋房次氏が亡くなって葬式の時、彼を慕う全町民が参列し、400mの長蛇の列ができるほどだったという。像と顕彰碑は白老小学校の敷地にあったが中央公民館に移され、平成7年にかつて高橋病院のあった場所に移設され、新たに高橋病院跡の石板が設置されている。 ◇建立年:昭和34年11月3日  ◇建立者:高橋房次先生功績顕彰会  ◊所在地:白老郡白老町高砂町2丁目2  ◇Gmap:Gマップ

白老アイヌ碑白老町

白老アイヌ碑 旧高橋病院跡地に平成17年に建立された約18屯という巨大な蛇紋岩で出来たアイヌ碑、一つだけ気になるのは風化しやすい蛇紋岩であること。碑の左横に碑文を刻んだ「副碑」がある。以下は碑文より「その昔、私たちアイヌの先祖は、悠久の歴史をこの北海道シラオイ(白老)の大地に刻んできた。そして、自然への畏敬と恵みに感謝し、アイヌの生命を自然にゆだね、独自の精神文化や世界観などを育んできた。しかし、明治期以降の開拓の進展や同化対策などに伴い生活環境は大きく変化し、生活の不安と苦渋は筆舌に尽くし難いものがあったが、私たちの先祖は、風俗習慣を異にしながら和人に多くの支援と利便を供与し、アイヌ民族としての復権を図るべくと共に力を尽くした。この地はアイヌの子弟が教育を受けた白老第二小学校があった地であり、また、コタンのシュバイツァーとして地域住民に献身的な医療活動をささげられた故高橋房次先生の病院跡地であり、アイヌ民族にとってゆかりの地でもある。ここに先祖の意志に報い、今日の白老の繁栄と基盤を作り上げた先人アイヌの幾多の労苦と偉業を讃え、関係者の意志によってこの碑を建立する。2005年8月10日 白老アイヌ碑建立実行委員会」※碑の裏に碑の建立や広場整備に貢献した団体や個人の名前が大勢刻まれている。 ◇建立年:平成17年8月10日 ◇建立者:白老アイヌ碑建立実行委員会 ◊所在地:白老郡白老町高砂町2丁目2  ◇Gmap:Gマップ

知里真志保之碑登別市

知里真志保之碑 知里博士は山田秀三氏とコンビで各地のアイヌ語地名を読み解いてきた事でも知られ、地名ファンの為に書かれたアイヌ語入門と地名アイヌ語小辞典は隠れたベストセラーかもしれない。碑には「銀のしずく 降れ降れ まわりに」と刻まれている。 碑文1『知里眞志保略歴 明治42年幌別郡に生る。登別小学校、室蘭中学校、第一高等学校、東大卒業、文学博士、北大教授、東大講師となる。分類アイヌ語辞典そのた数々の不朽の名著が後の世に残った。昭和36年札幌にて没 52歳』 碑文2『彼は登別川のほとりで育ったアイヌ系の腕白な少年であった。長じて天才的な言語学者となり、その名は今に世の畏敬の的である。故郷をしのび海の見える丘に住みたいと云っていたという。有志相はかり、ここハシナウシを選びこの碑を建てた。友人 山田秀三』※碑は碑文にあるように太平洋と生まれ育った登別川をのぞむ丘に建立したというが、平成8年9月に登別小学校移設されています。 ◇建立年:昭和48年6月9日  ◇移転年:平成8年9月  ◇建立者:知里眞志保之碑建立委員会   ◇所在地:登別市登別本町3丁目25番地3  ◇Gmap:Gマップ

知里真志保をはぐくんだ地登別市

知里真志保をはぐくんだ地 登別教育委員会設置の説明板より引用「知里幸恵は、明治36(1903)年、父・高吉、母・ナミの長女としてこの地に生まれ、7歳のとき、旭川の伯母金成マツのもとに移り住みました。15歳のとき、言語学者・金田一京助と出会い、のちに上京して、アイヌ民族に伝わるカムイ・ユカラ(神謡)をまとめた『アイヌ神謡集』を著しましたが、持病の心臓病のため、19歳の若さでその短い生涯をを閉じました。また、幸恵の弟・真志保は、明治42(1909)年、知里家の二男として生まれ、登別小学校、室蘭中学校(現・室蘭栄高校)を経て東京帝国大学(現・東京大学)を卒業。アイヌ民族の言語や神話、伝説などを研究し、アイヌ文化研究の基礎を確立した言語学者として、その業績は高く評価されています。 ◇設置者:登別市教育委員会   ◇登別市登別本町2丁目34番地2  ◇Gmap:Gマップ

銀のしずく記念館登別市

銀のしずく記念 館知里幸恵の姪にあたる横山むつみさんが平成22(2010)年9月にアイヌ民族として初めてカムイユカラ(神謡)を文字化した「アイヌ神謡集」の著者、知里幸恵さんの業績を広く伝えるため、国内外からの寄付を元に知里幸恵さんの生家近くに「知里幸恵 銀のしずく記念館」をオープン。知里幸恵の遺品、実際に書いた手紙、日記帳、アイヌ語のノートとアイヌ神謡集を展示などの他、知里幸恵の弟で言語学者の知里真志保、ユカラの伝承者・金成マツなどの展示もある。初代館長は創設者の「横山むつみ」さんでしたが平成28年に逝去され、二代目館長に金崎重彌氏が就任しています。◇開 館:9時30分~16時30分(入館は16時迄) ◇休館日:火曜日(祝・祭日除く) 年末年始 ◇入館料:大人500円、団体(10名以上)450円 ◇所在地:道◇Gmap:マップコード ◇所在地:登別市登別本町2丁目34   ◇Gmap:Gマップ

愛隣学校跡登別市

愛隣学校跡 個人住宅の垣根の裏側に説明板があり消えかかっているが何とか読めたので転載する。「明治19(1886)年箱館から幌別に来住した英国人ジョン・バチェラーが明治21(1888)年4月25日此所に私立相愛学校を開設。日曜学校も併設しキリスト教伝導の拠所とした場所があった所で、校主は初め金成太郎であるが校名を愛隣学校に変更した時から何故か校主も代えられている。明治36(1893)年バチエラー夫妻が札幌に転居後、後継の宣教師などにより運営されていたが、昭和9年の暴風で建物も大破し以後解体された。」日本の近代化は明治維新に始まるが、開拓使が進めた同化政策はアイヌ民族従来の生活手段を奪い、言語や文化的伝統を破壊するものでした。幕末から明治初期には松浦武四郎や松本十郎のように、アイヌ文化に理解を示しアイヌ民族の人権を守ろうと努力した人もいたが、その後のアイヌ民族の人権や文化を守る仕事は外国人の宣教師や医師によって始められた。ジョン・バチェラーは札幌へ転居する明治26年までの間、幌別を中心としてキリスト教の伝道に従事し、ルイザ夫人と召使いパラピタ夫妻及びその養女キン生活がしていた邸宅が青葉町にあり、ジョン・バチラーそこ拠点にして遠くは日高方面へ馬に乗り布教に行っていたといわれている。建物はなくかつては設置されていた説明板も今はない。 ◇設置年:不明  ◇設置者:登別市  ◇登別市幌別町5丁目2番地  ◇Gmap:Gマップ

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☆更新情報など☆

 記事の較正と画像を追加、完成にはまだ時間がかかりそう。

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