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北海道無名開拓殉難者の碑を巡る
北海道先住民族に関連する顕彰や慰霊の碑を巡るⅡ‼

伏古渡船場跡碑雨竜町

# 記念碑の他に雨竜町が敷設した説明板があった。説明板の文字に不鮮明な部分があり読み違いがあるかもしれないが転載。「蝦夷の昔、この付近には十四・五戸のアイヌ部落があり丸木船を使って狩猟していた。明治21(1888)年三条実美を中心とする華族組合農場が開設されてから、入植者移民招致のため、この渡船場の必要性がました。当初は坂田幸太が丸木船を利用して従事していた。明治34年本町開拓に当たった蜂須賀茂昭はこの渡船の管理はこの渡船の管理を伏古部落(代表 石橋久吉)に委託したが交通量の増大により費用を援助してワイヤー利用の滑車式流速応用(幅2.4米 長さ12米)の馬渡□による運行とし当初は低廉な料金を徴収したが季節による水量の変化、流木の漂蕩蕩、融雪期の流氷など幾多の障害に阻まれ、この運行は一方ならぬ苦心と経営的にも困難があった。道庁は、この渡船場の重要性を認めて道営渡船場に指定し無量とした。しかし、その後の地域の開発に伴う交通量の増大と渡船による人名の危険に考慮し永久橋架設の義がおこり、昭和32年着工、7年の歳月と巨費を投じて待望の江竜橋(808米)が完成した。想えば渡船開始以来75年間、11第にわたる船頭と部落民の血のにじむ協力によって一件の事故もなく大きく地域の発展に貢献した伏古渡船場は本道渡船史上特筆に値する業績を残し、昭和40年9月その幕をとじたのである。雨竜町教育委員会」※強制移住は国家によってアイヌ民族が受けた民族差別の一つだが、この渡船場で明治22(1889)年年から7年間渡船に従事した砂沢イシムイタキも強制移住させられた26戸の中の一戸だったという。 ◇建立年:昭和44年9月  ◇建立者:伏古住民22戸  ◊所在地:雨竜郡雨竜町伏古 江竜橋付近  ◇Gmap:Gマップ

中空知コタン跡地入口新十津川町

# 碑文より「北・中空知に先住していたアイヌ民族は、和人の入植により移住を余儀なくされた。が、その地域にコタンを創り、文化を育み紡ぎ、空知の開拓と文化向上に寄与した。コタンの入口に【道標】を建て、存在を後世に伝える。」「ここよりワッカウェンベツ川上流約5キロの地域に、1907・明治40年頃から1975・昭和50年頃までの約70年間、コタン(アイヌ給与地)存在した。名取武光氏、平田角平氏らが、詳細な記録を残している。」「2015(平成27)年9月19日 私塾「アイヌ語教室」(岩見沢)建立」※昭和50年頃まで和歌のコタンにて暮らしアイヌ文化を継承し育んできた空知のアイヌ民族を讃えた碑でもあった。 ◇建立年:平成27年9月19日  ◇建立者:私塾 アイヌ語教室  ◇所在地:北海道樺戸郡新十津川町吉野  ◇Gmap:Gマップ

樺太移住旧土人先祖之碑江別市

# 榎本武揚がロシアと交渉して明治8年(1875)に千島樺太交換条約を締結、樺太アイヌは国籍選択を迫られ樺太北部のアイヌは残留し、南部の108戸、841名が日本国籍を選択し宗谷に移住する。榎本はさらに樺太アイヌを農作業、もしくは空知の炭鉱夫として働かせるため対雁に再移住させる事を提案、開拓使は彼らの生活のため,石狩や厚田の鮭漁場や鰊場を設けたりしたが、樺太アイヌの視察団は不適と移住を拒否、アイヌ達から移住したくないという嘆願書を受けた大判官・松本十郎は対雁移住に反対し保護策を提案したが、アイヌとロシアとの接触を恐れた黒田清隆はこれを聞き入れず、翌年になって松本が出張で留守の時に、強権を発動し銃による威圧や脅迫でアイヌの人々を脅し船に乗せ、宗谷の一時居住地より対雁への移住を強行した。炭砿に送る計画は実行されなかったが、移住の結末ははさきに書いた通り悲惨なものでした。日露戦争後の明治39(1906)年までにほとんどが樺太に帰還したが、何人かはそのまま当地にとどまった方もいる。昭和6年8月に樺太旧土人先祖之碑を建立した津山仁蔵氏もその1人でした。同族・先祖の碑にあえて「旧土人」という言葉を刻んだ理由がとても気になった。近くに「乗仏本願生彼国の碑」もある。 ◇建立年:昭和6年8月  ◇建立者:津山仁蔵建之  ◊所在地:江別市対雁115-80 江別市営墓地  ◇Gmap:Gマップ

乗仏本願生彼国碑江別市

# 明治23年に対雁移民共催組合の関係者によって本願寺札幌別院対江布教所(現在の眞願寺)に建立されたが、眞願寺の移転で碑も移設、碑は更に現在地へと移設されたようです。また対雁で亡くなられた方々の葬儀・追悼を行った事が縁で眞願寺には現在もその犠牲者全員の過去帳が保管されているという。対雁に強制移住させられた方々が住んでいたのは現・北海道電力の敷地内だというが、明治19(1886)年から明治20(1887)年にかけて大流行した天然痘やコレラで次々と亡くなっている。江別市真願寺の過去帳では明治19年に267人、明治20年に91人の物故者が記録され、これらが流行病の犠牲者と考えられているが、この当時は石狩町の来札に移住している人も多いので、対雁と八幡来札と合わせて明治19年と20年の死亡者合計が358名と理解したが、明治12(1879)年のコレラ流行の死亡者30人をいれると388人となり、移住者の半分近くが亡くなるという残酷というしかない出来事でした。亡くなられた方は石狩の八幡共同墓地や対雁の墓地に埋葬されたが、対雁埋葬地は霊園内の他に隣接する北海道電力用地に食い込んでいた。昭和36(1961)年から昭和37(1962)年にかけ北電江別新火力発電所工事のため坊主山(現・北電変電所)を崩した時に大量の人骨が出土したがブルドーザーでそのまま踏み潰して埋め立てたという。昭和39(1964)年8月の道央地方を襲った大雨で「樺太旧土人先祖之碑」付近の表土が流され多量の人骨が出現したため、江別市は本格的に遺体を掘り起し供養する事にし、道教育委員会を通して関係者の同意を得、昭和40(1965)年8月21日から4日間、北海道大学医学部が発掘調査を行い、土葬遺体6体と副葬品がほぼ完全な形の遺骨(内、樺太アイヌ特有の副葬品を身につけた男1、女2の完全骨格体)と火葬された100体余の遺骨が出土、発掘された約40体の遺骨は北大医学部資料室に運ばれ、残りを墓に再埋葬し供養されたという。墓地では新しい墓碑建設をするとき骨片が玉や刀剣などの副葬品と共に出土する事が度々あり、墓守による樺太アイヌの骨であるという証言もあったようです。また市営墓地に隣接してある北海道電力の敷地にはまだ遺骨が埋ったままという話もある。国家による民族差別と偏見は死者も例外ではなかった。 ※8月に墓の創立者の孫達の豊富町知咲内 津山信一と新十津川 千山時男が遺族代表となり道教委との間で発掘に同意する調印。 ※持ち出された遺骨の行方も定かではないが、その一部が「いしかり砂丘 風資料館」にも保存されているとのことだった。 参考文献:樺太アイヌ史研究会/編「対雁の碑」  ◇建立年:明治23年   ◇建立者:対雁移民共催組合関係者 ◊所在地:北海道江別市対雁115-80 市営墓地やすらぎ苑  ◇Gmap:Gマップ

史跡津石狩(対雁)番屋江別市

# 説明ばんより「今から270年ほど前(享保年間)、世田豊平川口に石狩13場所の一つとして商場が開かれ、その後番屋が設けられ鮭漁と内陸水路交通の要点として発展した。慶応4年に立花由松が江別最初の和人として定住した。明治4年には宮城県から76人が入植し、9年には樺太(サハリン)に住む854人のアイヌが移住させられた。これにより学校や製網所が作られるなど対雁は賑わい、12年に駅逓所、13年には対雁・江別両戸長役場が置かれた。しかし、15年の鉄道開業により人の流れが江別・野幌に移り、19・20年にはコレラの流行により300人以上の病死者をだす大惨事にみまわれ、対雁は衰退をはじめた。駅逓所は18年廃止となり、19年には戸長役場と郵便局が江別村にいてんした。駅逓の入口に植えられた赤松は、駅逓の松として親しまれ、現在は石狩川の河川敷地となった旧対雁市街の繁栄をしのばせていたが、老枯して今はない。平成2年9月 江別市教育委員会」 ◇建立年:平成2年9月  ◇建立者:江別市教育委員会  ◇所在地:江別市工栄町  ◇Gmap:Gマップ

対雁百年碑江別市

# 碑文より「由来 本碑ハ弘化三年場所請負人山田文右衛門小祉ヲ建立弁天ヲ祀ル 神体長サ二尺三寸極上ヲナス 翠色天然石文右衛門ノ引網ニカカル事三度ニ及ビ神明ノ致ス所トシテ対雁豊平川口ノ小祉祀ル 是対雁神社ノ前身ナリ 越エテ明治四年四月宮城県涌谷領農民二十一戸七十六人来住対雁村トナル 次ダ同九年七月南樺太アイヌ百二十七戸八百五十四人移住 係開拓使八等出仕上野正ノ発意ニヨリ小祉ヲ修復鳥居ヲ新営シテ対雁神社トナス 一方角山ノ移住者相計諮リ 同年三十七年角山神社を創立天照大神ヲ祀リ来タリシガ 昭和四十六年九月倶ニ国営治水工事ノ為ニ社ヲ解体 神体ヲ本碑内ニ奉置シ以テ永遠ニ之ヲ伝エントス 昭和四十六年九月十日 碑書 江別市長 山田利雄 撰文 新館長次」※碑は榎本公園の奥まった場所にあります。碑文には「次ダ同九年七月南樺太アイヌ百二十七戸八百五十四人移住」とあるが、彼らが上陸した宗谷から銃剣で強制的に連行したもので移住いえないものだった。そこまでして連行した理由は空知の炭坑に彼らを送り込む計画があったからと云われている。反対もあって実現しなかったが、対雁ではコレラや天然痘の流行があり移住者の半分近くが亡くなるという大惨事にみまわれた。 ◇建立年:昭和46年9月10日  ◇設置者:江別市  ◇所在地:江別市工栄町  ◇Gmap:Gマップ

樺太アイヌの碑石狩市

# 長いが碑文を転載する「明治8年(1875)に日本・ロシア両国が調印した樺太千島交換条約により、日本政府は、ロシア領となった樺太の南部に住んでいた千島アイヌを北海道とその近くの島に移住させようとしました。明治8年9月から10月にかけて樺太アイヌの人たち108戸、841人は同年秋、北海道宗谷地方に移住。翌年に強権を発動して石狩河口の上流にある江別市対雁に土地を与え、強制的に移住させられました。樺太アイヌの人たちは、故郷を遠く離れた地で鮭漁や鰊魚を営み、多くの者が漁場に近い、この石狩の来札などに居を移しました。しかし明治12(1879)年に伝染病のコレラが流行し、集団生活を強いられていた樺太アイヌの多くは病に冒されました。さらに明治19(1886)年の天然痘、コレラの大流行によって約300人もの尊い生命が喪われました。明治38(1905)年、日清戦争講和条約で、樺太南部は再び日本の領土となり、ようやく帰還することができました。樺太アイヌは、近代日本の立ち上がりの時代から、国家間の領土争いに巻き込まれ、筆舌につくしがたい辛酸とともに歩んで来たのであります。こうした歴史のなかで来札の地で、樺太アイヌが暮らし、そして亡くなっていった事を胸に刻み、永く伝えてゆくものです。平成14(2002)年9月 石狩市」※明治19(1886)年前後には生存者の大半が来札に移動。悲劇を乗り越え日露戦争終結後に336人が故郷に戻った。平成3(1991)年、樺太アイヌ史研究会が石狩町(現・石狩市)に埋葬された八幡墓地の遺骨調査を要請、平成5(1993)年の調査で遺骨と漆器や刀、ガラス玉などの副葬品が発掘され、同年9月に石狩市が道墓地内に慰霊碑を建立した。八幡墓地奥の碑がある一帯が天然痘やコレラなどで樺太アイヌが大量に死亡した際に埋葬していた跡になります。 ◇建立年:平成5年9月  ◇建立者:旧石狩町(現・石狩市)  ◊所在地:北海道石狩市八幡3丁目 八幡共同墓地  ◇Gmap:Gマップ

*備考

文字の読めなくなっている木碑は「樺太アイヌ物故者之霊」と書かれていたようです。 ※北大の医学部の動物実験室の中で、他の動物たちの骨と一緒になってあったと言われている私達のご先祖様達の人骨が、先輩方によって発見され、それで抗議をした結果、納骨堂を作ったって聞いています。納骨堂っていってますけど正式名称はアイヌ人骨標本庫?確かそのような名称だったと思う。その中には樺太アイヌの人骨もたしか91体くらい入っているはずなんです。1875年(明治8)の樺太・千島交換条約により、841名が宗谷に強制移住させられ翌年9年に対雁に移住させられました。対雁の樺太アイヌの集住地は現在、半分は石狩川に、半分は河川敷になっております。近くの榎本公園には、樺太・千島交換条約の重要人物である榎本武明の馬に乗った立派な銅像がありますが、樺太アイヌの集住した場所は何もない。明治19年か20年にかけて天然痘やコレラが大流行、昔からアイヌのコタンというのは、せいぜい5,6軒くらいしか作らない。そんな大きなコタンは作らないのだけれど、明治政府は樺太アイヌを連れてきて対雁に集住させて、最初は841人連れてこられたけど、そのうちに家族も増えて845名が対雁に連れていかれたと言われてます。狭い一か所にそれほど多くのアイヌを住まわせたため、伝染病が次から次へと犠牲者を出すことになってしまった。亡くなった方を葬ったその人が次の日には亡くなって、あっという間に何百人という犠牲者が出た。それが対雁の坊主山に埋めた。最初、何体か遺体を土葬にしたけれど、そのうち一か所に百体以上の人骨埋めるような異常な状態になっていった。その対雁の墓地の傍にある火力発電所は北炭幌内の石炭を供給して運営されていた、今はもう閉山してしまったので、火力発電所を取り壊す時にたくさんの人骨が出てきたと聞いています。近くの江別市営墓地に、樺太移住土人の墓が2基、あと一つは、名も無い普通の石があるのみです。

和泉 教育発祥の地むかわ町

# 巨大な自然石の正面に大きく「教育発祥の地」その右下に小さく穂別町長原義弘書と刻まれた碑があり、その右側の副碑に沿革が刻まれている。碑文より「和泉小学校のあしあと 明治25年来住した和人によりアイヌの子弟を小石川シラマオクの家に集め、寺子屋式教育がはじめられた。同28年6月中村平八郎、森本イカシモ、紀藤昆次郎、横山武右衛門、川口菊三、各氏等が校下有志の協力を得て公立の新校舎を完成、鵡川尋常小学校累標分校として創立、これが和泉小学校の発祥となる。同34年累標小学校として独立。同40年10月旧土人保護法による指定校となり、昭和16年4月和泉国民学校と改称、同年18年高等科併置、同22年公立和泉中学校併設、幾多の変遷を経て先人、教育者の不滅の努力により、線八百余名の卒業生を世に送る。ここに先人、教育者に感謝を捧げ開校百周年を迎えた事を銘記する。出(いで)よ 出(いで)よ大いなる人、この地より 平成7年9月3日 和泉小学校開校100周年記念協賛会」碑は旧和泉小学校校門近くの敷地内にある。同小学校は平成21年3月に閉校となっている。 ◇建立年:平成7年9月3日  ◇建立者:和泉小学校開校100周年記念協賛会  ◊所在地:勇払郡むかわ町穂別和泉110  ◇Gmap:Gマップ

ペップトのカシワと国際先住民年の碑むかわ町

# 北海道が設置した説明板があり「この木は樹齢900年を越すと推定されるカシワで、この地域が、ペップトコタンと呼ばれた当時から地域のシンボルとされてきました。明治37年にここに建てられた小学校の校歌に歌われ、校章や校旗に形どられるなど、現在の穂別小学校の歴史を示す樹木としても地域の人々に親しまれています」と記されている。外観からは樹齢900年には見えないが堂々たるカシワで昭和47年3月に記念保護樹木に指定されている。このカシワの下に大きな自然石が置かれ上に「碑」中段に「国際先住民年」下段に「ウタリ協会穂別支部 1993年」と刻まれている。説明はないが1990年12月の第45回国連総会において採択され、1993年には国際先住民年に設定された。碑はこれを受けて建立されたようです。 ◇建立年:平成5年  ◇建立者:ウタリ協会穂別支部  ◇所在地:勇払郡むかわ町穂別  ◇Gmap:Gマップ

穂別ペップトコタンの碑むかわ町

# 長いが碑文を掲載する「北海道は豊富な資源に恵まれたアイヌモシリであった。アイヌはこの地で漁撈、狩猟などによる平和な生活を営み、すばらしい生活文化や文学、芸術を生み出してきた。15世紀に入ると、和人がアイヌモシリ南端に住むようになり、初めは数も少なく、アイヌと力を合わせて仲良く生活が営まれていた。しかし16世紀入り、本州との交易がさかんになるなるにつれアイヌが大切にしていた資源の略奪が激しくなり、次第にアイヌの不満がつのり再三にわたって闘争がくり返された。1669年のシャクシャインの戦に敗れたアイヌは、以来松前藩の政策下で窮乏と苦難の歴史が続いた。当時の穂別は、雪も少なく水の清い川には、さけやますが群れをなしてのぼり、鹿は地上を黄色くなるほど生息していたといわれ自然に恵まれたコタンであった。一方明治の初期頃より政府の手による北海道の開拓が進められるに伴い穂別にも和人が鹿道を通って入地した。しかしながらその不安と困難は筆舌につくし難いものがあった。われわれの先祖は和人に多くの支援と利便を供与し、風俗習慣を異にしながらも共に地と汗の斧をふるったのである。今日の穂別町の繁栄とその基礎作りに果たした先駆者アイヌの功績は燦然と輝く。1982年7月 開町70年町政施行20年記念にあたりその苦難の歴史をしのび、これを讃え後世の碑とする。]碑の裏面に「昭和57年7月20日 社団法人北海道ウタリ協会穂別支部 協賛 穂別町 施行 室蘭石工事」とあった。穂別町の協賛を得て北海道ウタリ協会穂別支部が建立した記念碑です。 ◇建立年:昭和57年7月20日  ◇建立者:北海道ウタリ協会穂別支部  ◇所在地:勇払郡むかわ町穂別  ◇Gmap:Gマップ

むかわアイヌ碑むかわ町

# アイヌの先人達を讃えた記念碑です。碑文より「私たちの住むこの北海道はアイヌモシリ(人の住む大地の意)と云い、太古より多くの人々が住み中世には蝦夷仁と呼ばれ現在に至っている。私たちの住む大地鵡川の中央を流れる大川は古来鵡川といわずモシリカペツと云われていた。この川筋は昔から漁猟の盛んな地で多くのアイヌ達が住んでいた。アイヌ達はこの地の厳しくも豊かな大自然の中で、民族の生活、精神文化を継承しつつ生活を送ってきた。明治になってから、先人のアイヌ達は鵡川の開拓に励み今日の町の発展の礎を築く事に協力してきた。この幾多の先人ウタリ(同胞の意)の其の苦労に感謝し功績を讃え、町の協力を得て、茲に開町百年を記念しこの碑を建立する。平成7年7月吉日建之 社団法人北海道ウタリ協会鵡川支部」※先人達を讃えた記念碑に「協力してきた」と刻む事が本当に慰霊や顕彰になるのか?「共に築いてきた」ならば理解出来るが。 ◇建立年:###  ◇建立者:###  ◇所在地:勇払郡むかわ町宮戸 鵡川大漁地蔵尊近く  ◇Gmap:Gマップ

高橋房次先生之像と顕彰碑白老町

# アイヌ民族出身の言語学者であった知里真志保博士は同族や和人、他のアイヌ研究者に対し歯に衣を着せず辛辣な批判をした人でしたが、その知里真志保氏が「和人は船を食う」という本の中で高橋房次氏を「白老のシュバイツァー」と絶賛している。その高橋房次氏胸像が高橋病院跡に移設され顕彰碑(説明碑)が設置されている。碑文を転載する。「高橋房次先生は明治15年栃木県下都賀郡間々田町に生れ明治36年東京慈恵医学専門学校を卒業、大正11年庁立白老土人病院院長として赴任しアイヌ人医療は勿論一般村民の衛生思想の普及啓蒙に専念し、尓来全町民に対し貧富の別なく医療費等を度外視し精魂の限りをつくした。先生の医療態度は万人敬慕の的である。これ故に昭和30年9月白老町名誉町民第1号に推された。ここに50年年間真に医療報国に徹した先生の功績と恩義に酬ゆるべく北海道文化賞を受賞された。本日文化の日を期し町民挙ってこの胸像を建立し先生の偉業を永久に記念するものである。昭和34年11月3日 高橋房次先生功績顕彰会会長 山手猪三郎他 会員一同」※白老病院廃止後の昭和13年から高橋医院として引継いで地域医療活動を続けられた。高橋房次氏が亡くなって葬式の時、彼を慕う全町民が参列し、400mの長蛇の列ができるほどだったという。像と顕彰碑は白老小学校の敷地にあったが中央公民館に移され、平成7年にかつて高橋病院のあった場所に移設され、新たに高橋病院跡の石板が設置されている。 ◇建立年:昭和34年11月3日  ◇建立者:高橋房次先生功績顕彰会  ◊所在地:白老郡白老町高砂町2丁目2  ◇Gmap:Gマップ

白老アイヌ碑白老町

# 旧高橋病院跡地に平成17年に建立された約18屯という巨大な蛇紋岩で出来たアイヌ碑、一つだけ気になるのは風化しやすい蛇紋岩であること。碑の左横に碑文を刻んだ「副碑」がある。以下は碑文より「その昔、私たちアイヌの先祖は、悠久の歴史をこの北海道シラオイ(白老)の大地に刻んできた。そして、自然への畏敬と恵みに感謝し、アイヌの生命を自然にゆだね、独自の精神文化や世界観などを育んできた。しかし、明治期以降の開拓の進展や同化対策などに伴い生活環境は大きく変化し、生活の不安と苦渋は筆舌に尽くし難いものがあったが、私たちの先祖は、風俗習慣を異にしながら和人に多くの支援と利便を供与し、アイヌ民族としての復権を図るべくと共に力を尽くした。この地はアイヌの子弟が教育を受けた白老第二小学校があった地であり、また、コタンのシュバイツァーとして地域住民に献身的な医療活動をささげられた故高橋房次先生の病院跡地であり、アイヌ民族にとってゆかりの地でもある。ここに先祖の意志に報い、今日の白老の繁栄と基盤を作り上げた先人アイヌの幾多の労苦と偉業を讃え、関係者の意志によってこの碑を建立する。2005年8月10日 白老アイヌ碑建立実行委員会」※碑の裏に碑の建立や広場整備に貢献した団体や個人の名前が大勢刻まれている。 ◇建立年:平成17年8月10日 ◇建立者:白老アイヌ碑建立実行委員会 ◊所在地:白老郡白老町高砂町2丁目2  ◇Gmap:Gマップ

先住民慰霊碑室蘭市

# 絵鞆岬展望台横にある慰霊碑の碑文より「この慰霊碑は、室蘭開発の先駆者である先住民の霊を慰めるために先住民チャシ(城砦)のあったこの地に、室蘭開港90周年・市制施行40年を記念して建立したものである。この地域は、室蘭発祥の地として永く記録されるべき土地であって、先住民は、ここを拠点として漁撈に耕作に従事し営々として文化の礎を作り今日まで幾多の挿話と伝説が伝えられている。ここに眠る先住民の多くの霊に対し永久に安住の地たらんことを祈念し、あわせて開拓の歴史をたたえる次第である。ひの碑建立にあたって更級源蔵氏並びに平三郎氏に特段のご指導を願ったことを附記し感謝の意を表します。昭和37年9月 室蘭市長 熊谷綾雄」※碑裏面に図案化された男女一対のクワ(アイヌ民族の墓標)がはめ込まれている。この碑文と図案から主役がアイヌ民族とわかる人は少ないのではとおもった。かつては大きなアイヌコタンとチャシのあった場所で、室蘭市内でも最初に人が住み始めた場所のひとつと言われています。 ◇建立年:昭和37年9月 ◇建立者:室蘭市 ◇所在地:室蘭市絵鞆町2丁目11  ◇Gmap:Gマップ

虻田町先住アイヌ民族慰霊碑洞爺湖町

# 慰霊碑建立趣旨を刻んだ碑文はなくアイヌモシリ北海道の民衆史より引用す『歴史公園には馬のお墓と和人のお墓があるが、アイヌの墓がないというのはおかしいということになった。それで私たちは、この公園の中心に「アイヌ民族慰霊碑」をぜひ建てようということになった」「虻田の歴史を考える会とウタリ協会虻田支部が中心となって期成会をつくり全町的募金活動が始められた。」虻田開基180年の年に序幕された。また平成に入ってから慰霊碑前でイチャルパも挙行されているという。慰霊碑の前に四角い炉が作られているが、イチャルパの会場になる神聖な場所であり中には決して立ち入らないようにしましよう。 ◇建立年:昭和55年10月 ◇建立者:ウタリ協会虻田支部他 ◇所在地:虻田郡洞爺湖町入江 虻田歴史公園  ◇Gmap:Gマップ

伊達市先住民族 アイヌ慰霊碑伊達市

# 有珠善光寺は徳川幕府が蝦夷地の教化及び法務活動をも目的の一つとした蝦夷三官寺第一の寺であり、その一角にアイヌ慰霊碑が有ることに違和感があったが、訪問してみて善光寺とは山を挟んで隔絶されたエリアに碑があるのを見て納得した。慰霊碑はアイヌ記念碑として建立されたが10年後に慰霊碑と書き換えられた。碑文より転載『アイヌモシリとは(人間の住む大地の意)北海道、千島列島、樺太を云う。このアイヌモシリの地には、太古より多くの人々が住み、中世には蝦夷人と呼ばれ近世以降はアイヌと呼ばれて現在に至っている。有珠郡の有珠は、ウショロ(入り江の内の意)と云い現在の伊達市である。アイヌ達は、この地の厳しい自然の中で独自の精神文化、生活文化を継承しつつ生活をおくって来た。特に明治になってから先人であるアイヌ達は、伊達地の開拓に励み今日の市発展の礎をく築く事に協力して来た。この幾多の先人ウタリ(同胞の意)のその労苦に感謝し徳を忍び功績を讃え市の協賛を得て茲に記念碑を建立する。平成三年五月十二日 北海道ウタリ協会伊達支部 題字 野村 義一』※「協力してきた」は控えめすぎて先住アイヌの慰霊、顕彰になるだろうか「共に築いてきた」なら納得できるが。 ◇建立年:平成3年5月12日 ◇建立者:ウタリ協会伊達支部 ◇所在地:伊達市有珠町124 

シャクシャイン古戦場跡碑長万部町

# 碑文より「寛文9(1969)年和人との交易の不平等に怒りをつのらせたアイヌのあさシャクシャインがアイヌモシリ金城に呼びかけ、呼応したアイヌによって軍を編成、松前藩に対する一大軍事蜂起となった。シャクシャイン軍は七月末にはクンヌイに到達し、クンヌイ川を挟んで松前藩と対峙する。アイヌの毒矢と和人の鉄砲の打ち合いが続いたが、やがてクンヌイに指揮官松前泰広が合流すると武力に劣るシャクシャイン軍は後退を続け、オシャマンベから更に本拠地シベチャリ(現新ひだか町)まで後退させられた。シベチャリに退いたシャクシャインは松前軍との和睦をよそおった酒宴で殺され、戦いは終焉に向かった。国縫川を挟んだこの地は、松前を目指して攻め寄せたシャクシャイン軍と松前軍との、最大の激戦地の跡である。この戦いは、先住民族アイヌと中央政権との主従関係の成立を意味しない。それは19世紀初頭から2度の幕府直轄を経て、明治期からの近代法体系の中で漸次形づくられたものである。さらに戦いの勝ち負けは、生き方の善し悪しを意味してはいない。この地に眠る両軍犠牲者の御霊を鎮め、明日を生きる教えの礎として、ここに碑文を刻す。平成28(2016)年9月建立 長万部町長 木幡正志」碑は場所は国道5号線沿いの旧国縫小学校グランド内にある。 ◇建立年:平成28年9月 ◇建立者:長万部町 ◇所在地:山越郡長万部町国縫30 旧国縫小学校グランド  ◇Gmap:Gマップ

ウタリ先覚者 鎮魂之碑八雲町

# 大きなウタリ先覚者 鎮魂之碑の台座内に高さが77cmという13人の名前を刻んだ墓碑があり、この13人の方々が先覚者のようです。碑に刻まれた13人の遺骨は箱館のイギリス領事館員によって、落部村で盗掘(慶応元年10月18日)された本人達だった。この時は箱館奉行の交渉で遺骨の返還(慶応元年10月18日盗掘、同年11月22日)と賠償金支払いで解決、この賠償金で13人の墓碑を建立するが、昭和10(1935)年に児玉教授達が墓地を発掘し遺骨と墓碑は北海道帝国大学に運ばれる。後日八雲町に返還され八雲郷土資料館に保管されているというが今だ元の場所には戻れていない事になる。 ※7人の氏名 ヘンケ サンレイ トハル サル ヲキ ヲバニ ビンコ ゼンコ シャシ サト パラス タムコロ ヲベリ墓 ◇建立年:慶応2年(墓碑) ◇建立者:旧落部村 ◊所在地:二海郡八雲町豊河町 八雲墓地  ◇Gmap:Gマップ

志苔館 和人殉難御霊碑/阿伊努帳魂御霊 慰霊碑函館市

# 説明板より「由緒 下北半島津軽方面に於いて南北朝の戦いに敗れたる南朝方の武士達、道南に館を築きてありしが、康正二(1456)年志苔館付近にて阿伊努(アイヌ)の蜂起あり、翌長禄元年、館は攻め落とされ、その後再び永正九(1512)年戦いがあり館は陥落し廃館となった。ここにコマシャインの戦いにおいて亡くなりし館主、和人御霊、阿伊努御霊双方を同一座にお祭りしたものであります。祭神 小林良景命 他 和人殉難御霊 阿伊努帳魂御霊 例大祭 七月二十二日 昭和四十五年五月九日完成 石崎地主海神社社務所」※ここでは祭神 小林良景命とあるように和人側からみた歴史としての記述となっている印象だが、阿伊努と書いてアイヌと読ませる理由が気になった。阿伊努帳魂御霊碑裏面に「コマシャインの戦いにおいて倒れたる御霊たちのために」と刻まれていた。碑は志苔館入口付近にある。

志苔館跡は函館市の中心部から約9km離れた標高25m程の海岸段丘南端部に位置し南側は志海苔の市街地および津軽海峡に面し、函館市街や対岸の下北半島を一望することができる。館跡はほぼ長方形をなし、四方は高さ2~4m、幅10~15mの土塁で囲まれ外側を壕で仕切り、郭内は東西70~80m、南北50~65m、面積約4,100平方m。ま館跡の正面になる西側は、二重に壕が掘られ、外側に小土塁が巡らされている。郭内部は建物跡等が平面復元され井戸跡もあり郭内遺構・郭外遺構についての説明板や大正年代に建立された館主小林氏の頌徳碑がある。室町時代に道南地方には和人の館が12箇所あり、志苔館もその一つで小林太郎左衛門良景が居住していたという。説明板によれば康生2(1456)年に志苔館付近でアイヌの蜂起があり、この戦いにより翌長禄元年5月14日志苔館が攻め落とされたとされる。戦いの後に再び小林氏が館に居住していたが、永正9(1512)年4月16日に起こったアイヌの蜂起で志苔館は陥落し、館主の小林彌太郎良定が討死したと云われ、小林一族は松前藩に臣従し志苔館は放棄された。廃館になった志苔館後は明治18年頃に志苔小学校の農業実習場になっていたのを、陸軍が軍用地として使用、後に館跡を「マルナカ吉田」が買い受け私有地となる。宇賀小学校初代の留目政治校長が志苔館の保存を目的に宇賀同窓会に働きかけ、館跡を吉田から同窓会の基本財産として寄贈してもらうべく村中一同で請願、明治33年に館跡を吉田から寄贈をうけ、館跡の権利は同窓会に移転した。大正時代の北海道庁による調査で保存状態が良好な事から、昭和9年に史跡に指定され、昭和52年に指定地周辺部も追加指定を受ける。函館市は史跡保存の万全を期すため志苔館跡指定地を買上げ公有化し昭和58年から62年にかけて志苔館跡を復元整備した。 ◇建立年:昭和45年5月9日 ◇改修年:平成11年6月吉日 ◇建立者:谷地頭神社信友会 ◊所在地:函館市志海苔町  ◇Gmap:Gマップ

七重浜慰霊碑古戦蹟北斗市

# 慰霊碑の碑文より「此の七重浜はコマシャインの乱の時、和人とアイヌとの一大決戦場であり、又明治維新に於いても幕府の軍艦と官軍の決戦の行われた地で有り、その当時犠牲の御霊等をすべてここに祭りを致します。昭和四十四年十月吉日 発起人 児玉そよ他一同」この碑が建立されたのは志苔館の阿伊努帳魂御霊慰霊碑よりも一年早いが、地元一帯の大地主であった児玉そよさんが、昔この地域で屍をさらした多くの戦死者の霊を祭って、この地の清めをしたいと個人で慰霊碑を建立されたのだという。和人鍛冶がアイヌ青 年を殺害したのが端となり、コシャマインに率いられたアイヌ軍は茂別館と花沢館以外の全ての和人の館を攻め落としたが、長禄2年に武田信広が七重浜でコシャマイン父子を弓で射殺、リーダを失ってアイヌ軍は崩壊、七重浜はコマシャインが戦死した場所でした。墓は確認されていないが慰霊碑は旧上磯町の七重浜共同墓地にある。 ◇建立年:昭和44年10月 ◇建立者:児玉そよ他一同 ◊所在地:北斗市七重浜7丁目5-1 七重浜共同墓地  ◇Gmap:Gマップ

松前 耳塚松前町

# サル(沙流)の首長ウタフが疱瘡にかかり死亡したのが「松前藩による毒殺」と伝わり、和人側に有利な交易レートや、場所請負人による漁場での酷使などで和人への不満が広がっていた背景もあって、アイヌ民族は松前藩、ひいては和人に対する敵対感情を強め、日高染退(静内)の首長シャクシャインは蝦夷各地のアイヌ民族へ松前藩への蜂起を呼びかけた。イシカリを除き、東は釧路のシラヌカ(白糠)から西は天塩のマシケ(増毛)周辺において一斉蜂となった。世に言う寛文の乱で決起した2千の軍勢は鷹待や砂金掘り、交易商船を襲撃、東蝦夷地では213人、西蝦夷地では143人の和人が殺害(アイヌに好意的だった和人の被害は少ないようです)された。シャクシャイン軍は松前を目指し7月末にはクンヌイに到達して松前軍と戦闘を行った。戦闘は8月上旬頃まで続いたが弓矢主体のシャクシャイン軍は鉄砲を主体としていた松前軍の前に後退し長期戦に備えるが、戦いの長期化による交易の途絶や改易を恐れた松前軍は和睦を申し出、シャクシャインは和睦に応じピポク(新冠)の松前藩陣営に出向くが、和睦の酒宴で謀殺され乱は終結。欺し討ちにした首長シャクシャインら14人の首の代わりに耳を持ち帰り埋めた所を耳塚と云う。 ◇成立年:寛文9(1669)年頃 ◇説明板:平成6年10月9日 ◊所在地:松前郡松前町松城 129  ◇Gmap:Gマップ

松前 蝦夷塚松前町

コシャマインが倒れた後もアイヌ達は繰り返し和人の館を襲った。永正9(1512)年4月アイヌ軍は箱館、志苔、与倉前の三館が攻撃され館主の河野、両小林は破れて戦死、蠣崎光広、義広が撃退しアイヌ軍はいったん攻撃を止める。河野、小林の子孫達は蛎崎に臣従した。次いで永正10年に大館が攻撃され陥落、但し蛎崎光広がアイヌに仕業に見せかけて攻めたとの説もある。永正11(1514)年に花沢館(上ノ国)の蛎崎光広、松前に本拠を移し大館に代えて徳山館を構築。永正12(1515)年に渡島半島東部の首長・ショヤコウジ兄弟が蜂起、率いられたアイヌ軍が徳山を攻撃、数の上劣勢に立たされていた蛎崎光広ははまともに戦うことを避けて講和を結び、館中に招いて酒宴の席で両者を斬殺、蛎崎氏がよく使う詐術だが、いつもアイヌ達は同じ手段でやられている。和睦を装って酒宴を開き騙し討ちのためにする詐術は以後も使われている。2人の首長をはじめとする殺されたアイヌ達の死骸を埋めた所を蝦夷塚と呼び、いまの小館の東谷、神社鳥居の左側付近らしく木札があったというが今は藪で目印の木札はなく、説明板などもなし。 ◊所在地:松前郡松前町福山

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