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北海道無名開拓殉難者の碑を巡る
北海道中国人強制連行~殉難・慰霊の碑‼

中国人の強制連行・強制労働‼

昭和16年に大平洋戦争に突入し国内の労働者不足は深刻化、朝鮮人の強制連行でも足りず昭和17年11月に「華人労働者移入に関する件」を閣議決定し試験的に行い、更に「華人労務者移入促進に関する件」を閣議決定。昭和18年4月から昭和20年5月まで中国人を強制連行した。中国人の強制連行は、日本軍が華北(北支)で、傀儡軍(王政権下の中国兵)といっしょに、焼光(焼き尽くし)、殺光(殺し尽くし)、搶光(奪い尽くし)した燼滅掃討作戦(中国ではあまりの残虐さから三光作戦という)で18歳から45歳までの男という男を全部ひっくくって集め、捕らえた男性は日本軍の捕虜収容所に監禁し、華北労工協会を通じて雇用契約を結んだように偽装して日本に強制連行された37,524人の中国人は、軍需産業の炭砿や鉱山などを主に134の事業所(北海道では58事業所)で強制労働をさせられ、旭川近郊では東川がその現場となっている。戦時体制は監獄部屋制度の更なる凶悪化を促し「募集部屋=日本人」「半島部屋=朝鮮人」「華人寮=中国人」など、ナチス張りの強制収容所的性格を顕わにし差別も極端だった。この強制連行はいわゆるタコ部屋ありきが前提であり、タコ部屋システムがなければ起こらなかったのかもしれない。

中国人強制連行事件殉難烈士慰霊碑東川町

# 東川町では大戦末期に中国人を強制連行し多くの犠牲者をだしている。以下は碑文より「中国人強制連行事件の殉難烈士此処に眠る この事件は 日本軍国主義が中国侵略の一環として行った戦争犯罪である。具体的には1942年1月、閣議決定にもとずき政府機関並びに軍が直接指導し中国人を強制連行、135の事業所に労役せしめ多くの中国人を死に至らしめた。1944年にこの地にも338名を連行、江卸発電所の建設に関連し遊水池建設工事に苦役連行途上を含め短時日に88名の殉難をみた。遊水池は今も尚、忠別河水の水温上昇施設として東川町、旭川市に及ぶ美田を潤す。われわれは今日、日本国の主権者である国民として、なによりも中国国民に心から謝罪し、殉職烈士の霊を弔い、再び誤ちを繰り返すことなく軍国主義の復活を阻止、日中友好、日中不再戦を具現する事を盟い、日中両国国民民の永遠の友好の友誼と平和とを確立、自らの証としてこの碑を建立する。1972年7月7日 中国人強制連行事件殉難慰霊碑建立委員会 撰文 松橋久保」※江卸発電所まで長い隧道で導水し発電するため、灌漑用水の水温低下による冷害発生が懸念され、水温低下を軽減し発電所建設を進めるため遊水池を建設、工事は地崎組が請け負ったが、大戦末期で働き手の男子は戦場にとられ、国内で労働力を確保できず、鴻ノ舞鉱山で使っていた朝鮮人を東神楽の遊水地工事に、東川の遊水地工事は中国人とし、2回に分けて338人を連行、連行途中での死亡者は34名、到着後3ヶ月以内に41名が死亡、その後の死亡者13名をあわせ合計88名が亡くなった。遺体発掘をした忠別発電所裏山の墓地跡で慰霊祭が挙行され、最初の慰霊碑は地崎組が昭和29年に供養標を建立、現地供養標が朽ち果て昭和43年に再建立、その供養標も経年による腐朽の進行で昭和47年に石碑となってノカナン14号共同墓地に再建された。最初に慰霊碑が建立された跡の標柱はいまは無い。東6号南の用水路脇に中国人強制連行跡地の伝言標と碑、大雪遊水公園内には祖国を望むように立つブロンズの立像「望郷」が建立されている。◇建立年:昭和47年7月7日 ◇建立者:中国人強制連行事件殉難慰霊碑建立委員会 ◇所在地:上川郡東川町ノカナン 14号共同墓地 ◇Gmap:Gマップ

中国人強制連行作業跡地標柱

# 中国人強制連行伝言標という説明板より転載「西暦1842年11月7日東條内閣は閣議で決定する、日本国内は労働者大不足について、中国人民を「兎狩り作戦」と言って強行なる拉致で大勢の人員を集めたのです。年齢は15才より45才までの男子で8割以上は農民でした。中国塘沽港より日本船第7寿丸で1944年9月14日に出航する。日本国の大阪港に上陸して1944年9月28日上川郡東川町東9号南1番地宿舎に到着する。この跡地では農地総人数338名で、宿舎内は、わらぶとん、丸太のまくらで冬期間でも部屋内には暖房の薪1本もなく、食料は不足で粗食でした。只ちに東8号東5号遊水池その他農業用かんがい溝の重労働にはいりました。衣服は裸に近いボロボロの服に足にはボロと藁を巻きつけた藁の手袋でした。東和土地改良区では、このかんがい溝が一番の難所でした。工事の道具は一挺のシャベル、一挺のツルハシ「モッコ」かつぎ棒、土、砂利、玉石等を運ぶトロッコだけでした。過酷な作業中1番恐ろしいのが仕事が遅いと言って監視人の針金での殴打でした。打たれた人の肌身は大きなみみずのように赤くはれあがり、後には黒く跡が付いたのです。この工事箇所は東川町6号南3番地で、この用水かんがい溝は上幅11米深さ4米80で、1945年10月25日に完成しております。後に改良工事でコンクリートブロックになりましたが、この工事で死亡者88名の尊い命を失い、負傷者48名、栄養不良者200余名となり、以上のような実証も年月と共に、50年余り過ぎ平和な今日では変化する社会世相風化節として忘れ去られ 消されようとしています。永遠の日中両国民友好の遺産の一項としてこの用水溝の保存を強く未来に望み強制連行事件の真実を理解して下さい。自らの証として この伝言標記を建立します。 合掌 中国人強制連行伝言標 西暦1999年9月18日 東川町 大 木 長 蔵」※現在の慰霊碑建立が昭和47年7月なので、その27年後となる。強制連行の時から70年を越えた記憶の風化に抗する標柱が有る事は喜ばしいこと。◇建立年:平成11年9月18日 ◇建立者:大木長蔵※元東川町議 ◇所在地:上川郡東川町東6号南 ◇Gmap:Gマップ

中国人強制連行 魂碑

# 中国人強制連行作業跡地の伝言標脇に台座に魂と書かれた碑と、二つの副碑がありそれぞれに碑文が刻まれているが、魂の碑には碑文は刻まれていない。碑文1「中国人強制連行 石碑建立者 大木長蔵 西暦2000年9月18日」と、碑文2「中国人民共和國 駐札幌総領事 魂 書 孫平 西暦2000年5月」がある。中国人強制連行伝言標を見るとその内容は凡そ理解する事は出来るが、碑建立に到った経過についてはなにも記されていない。 ◇建立者:大木長蔵 ◇所在地:上川郡東川町東6号南 ◇Gmap:Gマップ

日中友好記念像 望郷東川町

# 大雪湧水公園にブロンズの青年立像があり台座の銅板に日中友好記念像「望郷」金野魯城 書とある。碑文は日本語、中国語、英語の3カ国語で書かれているが、ここでは日本語の碑文より「戦時中の国策として江卸、忠別川(第一)の両発電所が建設されたが、その発電用水は約14.4kmのトンネルで導水されるために水温が上昇せず、下流の7,926haの水田に幾度となく冷害をもたらした。この湧水池はその対策のための水温上昇施設として建設された。遊水池建設にあたり、労働力不足を補うため1944年(昭和19年)9月に338名の中国人が強制連行され、劣悪な環境の下で過酷な労働が強要された。そして、終戦までの僅か11ヵ月あまりの間に。88名もの方々を死に至らしめたのである。その大部分が若人であり、異国の地で故郷の父母や親族のことを瞼にえがきながら斃れていった。その無念さを思うとき私達は、慙悸の念を禁じえない。私達は、この歴史的事実を後世に伝え、なを一層の日中友好の発展と永遠の世界平和を願うものである。ここに遊水池が大雪湧水公園として改修、完成したのを記念して、88名の中国烈士の御霊に深甚なる祈りを込めてこの像を建立する。2000年(平成12年)7月7日 東川町長 山田孝夫」※◇建立年:平成12年7月7日 ◇建立者:東川町 ◇所在地:東川町東9号北 大雪湧水公園 ◇Gmap:Gマップ

地崎組東川事業場について

GHQ/SCAP文書の中に「昭和拾九年 日誌 地崎組出張所」と書かれた昭和19年10月27日から昭和20年4月25日までの日誌が含まれている。事業所名は書かれていないが「堰堤」「大塚所長」などと書かれていることから、地崎組東川出張所事業所のものであるという。第二次世界大戦末期に政府は軍需物資の増産のため電源開発をおこなったが江卸発電所もその一つであった。発電所建設をめぐり周辺農民は「水力発電所の設置に伴い、忠別川の水温下降し水稲栽培上悪影響を及ぼす」と猛反発し関係省庁に抗議行動を展開、政府は事態を収拾し水力発電所を建設するため「遊水地を設け水温の上昇を図らん(事業場報告書)」とし、その工事を地崎組に行わせた。地崎組は鴻ノ舞鉱山で使っていた朝鮮人を東神楽の遊水地工事に回し、東川の遊水地工事には中国人を中国から連行することにして、連行は2次にわたって行われ、「華人労務者移入・配置及送還表」に基づくと、第1次は297人を乗せた第7寿丸が塘沽港を昭和19年9月14日出港、9月25日に大阪上陸、9月28日に264人が東川に到着、船中死亡16人、上陸後死亡17人である。第2次は41人を乗せた番澄丸が塘沽港を昭和19年10月14日出港、10月21日に下関上陸、10月25日に40人が東川に到着、船中死亡0、上陸後死亡1人である。事業場報告書は第1次隊が事業場に到着した中国人のようすを「移入に際し塘沽(たんくー)出帆後華労殆ど全部強烈なる下痢に侵され為に船中に於いて16名、大阪上陸後16名、青森到着の際一名、現場到着後54名(此の内には一部他の原因に依るものを含む)計87名の死亡者を出すに至る」「現場に収容当時にありては何れも痩せ細り単独歩行不能者58名の多数に上り、現場責任者にありては体力回復までの間は希望者のみ就労」としている。強制連行は死のロードでした。◇タコ部屋所在地・東9号第一遊水池・東8号第一遊水池の向か・東6号南(同志比内橋のふもと 東川寄り・熊の沢つり橋の手前・ピウケナイ取水口の近く=2つたこ部屋・ノカナンの沢取水口・小桧山温泉近く ノカナンの沢・旧江卸発電所放水路の上・旧江卸発電所放水路のノカナンの沢と忠別川の合流点そば・生存者の証言聴取、現場調査などに基づく報告書「北海道東川町・江卸発電所の強制動員被害真相調査」

中国・朝鮮人殉難慰霊碑置戸町

# 碑の正面には「中国/朝鮮人/殉難慰霊碑」裏面には「昭和五十一年七月十一日建之 置戸鉱山の歴史を語る会他 オホーツク民衆史講座 その他有志一同 沙門観堂謹書」隣にたつ碑誌に『大東亜戦争中の昭和十九年(1944年)六月 野村鉱業置戸鉱山へ中国人・朝鮮人が強制連行され、水銀採鉱に必要なダム建設などの労役に従事させられました。過酷な労働は戦争終結の昭和二十年八月十五日まで続きましたが、この間再び祖国の土を踏むことなく殉難された戦争の犠牲者もおりました。戦後も三十年余を経た昭和五十一年六月「置戸鉱山の歴史を語る会」がオホーツク民衆史講座等の働きかけにより結成され、軍需産業の労働によって異国の地で尊い命を失った方の霊を慰め、二度と再び戦争のない平和を願って慰霊碑建立が計画されて、置戸町内有志および町外関係者の参道と浄財を青井で昭和五十一年八月一日町民多数参列のもとに「中国・朝鮮人殉難慰霊碑」の除幕式が挙行されて、忌まわしい戦争による犠牲者のご冥福を心から祈り、友情こそが世界悠久の平和と文化を育むものであることを後世に伝えるため、この碑に託したものであります。』慰霊碑は置戸町の中里墓地中央にあります。置戸町で中国人を使った事業所は、野村鉱業置戸鉱業所と地崎組置戸出張所、伊藤組置戸出張所でした。野村鉱業は「中国人が連行された135事業所の中で死亡者を出さなかったのは置戸だけ」とう美談を作り上げ、長いあいだ所員や置戸町民を信用させてきた。だが慰霊碑を建立しようという運動の中で、置戸鉱山関係で38名の中国人殉難者、イトムカ鉱山関係では43名の朝鮮人殉難者が明らかになって野村鉱業の偽装工作は破綻、真実が次第に明らかになった。このなかで送還されたはずの遺骨が土葬のまま埋もれていたのを発見した農民が、無縁仏の慰霊標を建て供養していたこともわかった。北海道開拓殉難者調査報告によると殉難者は175人(連行途中の死亡者を含)で、168人は氏名が判明しているが、朝鮮人については不明のもある。◇建立年:昭和51年7月11日 ◇建立者:置戸鉱山の歴史を語る会他 ◇所在地:常呂郡置戸町中里(中里墓地) ◇Gmap:Gマップ

野村鉱業置戸鉱業所被強制連行者の証言し死亡者

※置戸鉱業所選鉱所24名・伊藤組置戸104名(移動中の死亡者83名、置戸での死亡者21人) ・地崎組イトムカ16名(築堤工事)・土屋組イトムカ11名(剥土作業)・野村鉱業イトムカ2名(敷地造成)・地崎置戸はイトムカで使っていた488人のうち石家荘の収容所から連行した290人を転用、置戸での死亡はない。※野村鉱業置戸鉱業所では伊藤組が416人を使いました。伊藤組がいつ中国のどこの港から中国人を連行したのか不明。契約数は500人で乗船数は497人、船中で68人が死亡し、上陸後置戸に来る(1945年6月1日)までに15人が死亡しています。置戸に到着した416人のうち203人はそのまま伊藤上砂川に移動。残った213人は1945年8月14日まで置戸で働き、21人が死亡。8月15日に伊藤上砂川に移動したので置戸での中国人の死亡者は21人。※被連行者で日本に残留した張冠三氏の言葉「青島の競馬場に集められた。やがて貨物船の船底に押し込められ、甲板には出られず、汚物と暑さの中ですごした。上陸したのは大阪だった。貨車で運ばれ、着いたところが置戸だった。私は炊事係だったので、朝二時ごろ起きて、少ない原料つかっての食事作りに苦労した。死亡者は寮で死んだ一人しか知らなかった」日本に残留した被連行者から証言をえたオホーツク民衆史講座より。

中国人殉難慰霊碑芦別市

# 芦別市が建立した慰霊碑は芦別市内の公園で市内を一望する小高い丘の上にあり連行についての説明版があった。以下は説明板より「大平洋戦争中、日本の産業労働力増強のため華北労工協会の募集に応じ芦別の石炭産業に就労した中国人は約1,200人に及んだが日本到着前から健康を害した者も多くまた長旅の旅行、伝染病の罹患等により療養の甲斐なく遂に本市で他界した468柱の霊を慰めるために昭和39年6月旧墓地にこの碑を建立した。その後、昭和51年6月遙かに故郷中国を望むこの台地に移設したものである。芦別市」※芦別市で中国人を使役した事業所は川口組芦別出張所と三井鉱山芦別鉱業所で、説明板では中国人1200人が連行されて468人が亡くなったと記されていたが、この人数は連行途中の死亡者が抜けている。募集に応じてという中国人は希で、殆どは労務者狩りで集めた中国人を3ヶ月収容(建前は捕虜収容所)軟禁し、その後に貨物船に乗船させ日本国内の事業所に送られるが、長期間の軟禁と満足な食事も与えられず多くの犠牲者がでた。中国人1,284人を連行するが、芦別の二事業所に到着するまでの船上や、上陸後に亡くなった52人を合わせると死亡者は524人となり、連行した中国人1284人のうち40.3%が亡くなっている。。また「療養の甲斐」なくとあるが、彼らが療養や治療をうけたという事は殆どなかった。この説明文は芦別市がまだ稼働中であった三井芦別に対し配慮したものという印象をうける。◇建立年:昭和39年6月 ◇移転者:昭和51年6月 ◇建立者:北海道芦別市 ◇所在地:芦別市旭町641 旭ヶ丘公園 ◇Gmap:Gマップ

黎明の像赤平市

# 像は1966年に赤平公園の頂上付近に建立されたが、現在は赤平公園の駐車場近くに移設され、背景のU型の塔はなくなりシンプルな「黎明の像」に変わった。黎明の像 建設の趣旨から(長いので後半部分のみを転載)「抑留外国人殉職者は戦争中生産増強の犠牲となり肉親の許に帰することも叶わず異郷のこの地に果てたのであります。吾々は平和都市を宣言すると共に世界全人類の願望である国際平和を求めて運動を推進するに当たりこれ等外国人殉職者の霊を合祀し赤平市を一眸に治めるこの地に安らかに永眠されんことを希ふものであります。英魂よ未来に亘って全市民の平和と安全と幸福を加護を垂れ賜らんことを 昭和41年8月」※炭鉱殉職者を追悼し未来永劫の平和を希求、炭鉱職場の安全を祈念し、国際平和の立場から連行された人々をも追悼する慰霊碑として建立されたことは理解できるが、外国人連行の経過や労働実態、企業や政府の責任についてはふれてはいない。人呼んで「赤平合衆国」といわれるほど多かった捕虜と強制連行、当時の赤平をリアルに物語っている。赤平市内の炭鉱事故で亡くなった日本人、朝鮮人、中国人等炭鉱労働者を慰霊する「安全平和祈願祭」が毎年挙行されていた。※住友赤平・歌志内への朝鮮人連行は約6,000人、昭電豊里には約1,500人が連行されたとされ、住友赤平、住友赤平川口組、豊里川口組、平岸油化地崎組、北炭神威鉄道工業などがあり、連合軍捕虜も住友赤平と北炭空知へと連行されている。◇建立年:昭和41年9月11日 ◇制作者:坂坦 道 ◇建立者:北海道赤平市 ◇所在地:赤平市美園町3丁目  ◇Gmap:Gマップ

中国人殉難者慰霊碑三笠市

# 連行中国人25人を追悼する清住墓地にある墓碑。碑文「歴史は君たちの足跡を語る 中国の同胞 安らかなれ 平和な この地に 三笠市長 杉渕徳治」補記「中国人炭鉱殉職者27名追悼のために、1966年(昭和41年)5月、三笠市、幌内鉱業所、奔別鉱業所、地区労、社会党有志一同が建立したもので、碑文は当時の市長、杉渕徳治が書いたものです。殉難を辞書で見ると国家・宗教や公共の利益のために一身を犠牲にすること」とある。不本意な強制連行や強制労働で斃れた人々は殉難者ではなく被害者だが、殉難に日本の加害責任を明確にし、再び過ちを繰り返さないという意味が込められ、彼らの尊厳が回復される形で碑が建立されたと解釈しておく。三笠への中国人強制連行では幌内炭砿に(菅原組)366人、住友奔別に230人、幾春別の(土屋組)289人があった。◇建立年:昭和41年5月建立 ◇建立者:三笠市を初めとする4団体・有志  ◇所在地:三笠市清住町244番地1 清住墓地 ◇Gmap:Gマップ

中国人労務者之墓夕張市

# 中国人労務者之墓は真谷地共同墓地の最深部で墓地を見下ろす所にある。太平洋戦争の末期に労働力不足を補うため朝鮮人や中国人を連行し炭鉱や土木工事の重労働に従事させ多くの犠牲者を出した。中国人連行者数と死亡者数は北炭や外務省の資料によると、真谷地炭鉱417名中60名死亡・角田鉱294名中76名死亡・大夕張炭鉱292名中85名死亡・大夕張地崎組383名中148名死亡とされるが、この数字は正確ではないようだ。角田鉱に連行された中国の少年が生還時に持ち帰ったノート「生死の記録」に角田鉱で斃れていった98人の名前が記されていたが、他でも同じような実態でなかったのか。亡くなった方の遺骨は同僚に抱かれて帰国したが、残骨を埋めていた真谷地と北炭角田坑(栗山町)の日の出二岐共同墓地内に平和鉱業所が中国人労務者之墓を建立し真谷地炭鉱の労使で毎年お盆に慰霊祭を行ってきたが、真谷地炭砿の閉山で角田の中国人労務者之墓に合葬されたという。国交回復後は日中友好協会夕張支部が大夕張を含む市内での中国人殉職者の合同慰霊祭を実施している。 ◇建立年:昭和23年5月10日建立 ◇建立者:北炭平和鉱業所 ◇所在地:北海道夕張市真谷地419番地 真谷地共同墓地 ◇Gmap:Gマップ

中国人殉難者之墓栗山町

# 第二次世界大戦末期に強制連行され此の地で斃れ再び故郷の土を踏むことの亡かった中国人殉難者の墓が日出の二岐共同墓地にある。角田鉱に294名が連行され栗山町史では76名死亡となっているが、角田鉱に連行された少年が生還時に持ち帰ったノート「生死の記録」で98人の名前が記されており、それが実態だと思われる。亡くなった方の遺骨は同僚に抱かれて帰国したが、残骨を埋めていた真谷地と北炭角田坑(栗山町)の日の出二岐共同墓地内に平和鉱業所が中国人労務者之墓を建立し真谷地炭鉱の労使で毎年お盆に慰霊祭を行ってきたが、真谷地炭砿の閉山で角田砿と合葬、この時に大夕張も一緒に合葬されたようで、369人が合葬されていることになります。昭和48年頃より地元有志、日中友好協会関係者、栗山町などにより慰霊祭が行われてきたが、墓碑が風化し脆くなったため地元町内会有志が中心となって呼びかけ、よせられた浄財で平成19年に再建され墓碑銘が中国人殉難者之墓と改称された。 ◇設置年:昭和23年5月1日(木墓標) ◇建立者:新二岐炭砿有志 ◇建立年:昭和23年5月10日建立 ◇建立者:北炭平和鉱業所 ◇再建年:平成19年8月8日 ◇建立者:中国人殉難者墓碑改築実行委員会 ◇所在地:夕張郡栗山町日出 ◇Gmap:Gマップ

劉連仁生還記念碑当別町

# 碑文より「劉連仁氏は1944年中国山東省から連行され、沼田の明治礦業で過酷な労働を強いられていましたが1945年7月にこの炭砿を脱出しました。1958年2月8日、当別の山中で穴居していたところを発見され、翌9日、保護されました。強靱な意志と生命力により、実に12年と7か月の逃亡生活に耐え、生還を果たすことができました。時を経て、発見者の袴田清治氏、保護にあたった木屋路喜一郎氏らの招きにより、1991年、1955年、1998年の3回にわたる氏の訪町が実現しました。この交流の中から日中両国の友好と平和への願いを込めた記念碑が生まれました。2009年9月2日、劉連仁氏は 87 歳の生涯を閉じました。ご子息の手によって碑は除幕しました。碑は彫刻家丸山隆氏の遺作でもあります。御影石の原石を用いて、劉連仁氏の苦難の穴居生活を見事に象徴しています。」※当時の明治鉱業昭和鉱では800人余りの労働者のほとんどは中国人だったといわれています。劉連仁さんは鉱業所での屈辱に耐えきれず昭和20年7月に脱出し、終戦を知らずに昭和33年2月までの13年間を北海道の山中での逃避行を続け、石狩郡の当別町で偶然に発見されました。平成14年に当別町町民35人の呼びかけで劉さんが発見された場所の近くに縦1.2m横2m、高さ1mで中を大人一人が身を隠せるようにくりぬいた「劉連仁生還記念碑」が建立されています。◇建立年:2002年9月1日 ◇建立者:劉連仁生還記念碑建立実行委員会 ◇所在地:北海道石狩郡当別町若葉 ◇Gmap:Gマップ

日中不再戦友好碑仁木町

# 碑文より「昭和17年東条内閣が閣議によって中国人強制連行(注・を)決定し、この碑より15粁はなれている大江鉱山に約二百名の中国人俘虜を強制労働させ、李振江氏外11名が栄養失調等で犠牲となりました。日中両国民の永遠の友好を願う私達は日中両国民が再び戦うことのないことを厳かに宣言し、犠牲者に心からの哀悼の意を表します。殉難者の皆さん安らかにお眠りください。1966年10月 中国烈士園建立実行委員会」※太平洋戦争開始の約1年後、1942年11月27日に東条内閣は、日本国内の深刻な労働力不足を補うため中国人の強制連行を決定し、この方針に基づき中国の河北、河南、山東、山西など十数省から一般住民、及び軍事俘虜を日本に連行して苛酷な強制労働に従事させた。連行で乗船した数は38,939名で、北海道には16,282名が58の事業場に連行され、その配置総数は20,430名という。その内死亡者は3,047名で死亡率はわずか1年ほどの間で平均18.7%に達し、当時の日本人の死亡率1.631%に比較するととんでもない数字です。北海道では1953年6月に「北海道中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会」が結成され、全道58事業場の綿密な調査と遺骨の発掘・送還が行われ、各地に中国人殉難者の慰霊碑が建てられている。そのなかで小樽後志地区では約150名の労働者が小樽の港湾、日本鉱業大江鉱山にて再び祖国の土を踏むことが出来なかった。大江鉱山での殉難者は18名(船中死亡5名・大阪駅で死亡1名を含む)となっている。中国烈士園の慰霊碑前で毎年7月に慰霊祭が挙行それている。◇建立年:昭和41年10月21日 ◇再建年:昭和62年 ◇建立者:北海道中国人 俘虜 殉難者慰霊実行委員会 ◇所在地:北海道余市郡仁木町南町 仁木町霊園 ◇Gmap:Gマップ

中国人殉難烈士慰霊碑室蘭市

# 第2次世界大戦中の昭和19(1944)年から同20年にかけて、強制連行し日本各地で過酷な労働を強制しました。室蘭には1,855人が強制連行され、満足な食物を与えられず過酷な強制労働で半年あまりの間に564人が亡くなりました。今室蘭でこの歴史を伝えるのは、国道36号線の汐見トンネル登別側入り口上の海側にある白いビラミット型の慰霊碑だけのようです。碑文より「この碑は第2次世界大戦中室蘭地方で殉難した中国人烈士の慰霊碑で、1972年の日中国交回復を記念し日中両国の永久的友好と永遠の平和への願いをこめて市民の手により最建立されたものです。室蘭市長 長谷川正治 書」碑のあるイタンキ浜で1964年に125遺体と残骨が発掘されているが、その後にイタンキ墓地の横を通る室蘭新道の工事中に新たな遺骨が出て合計で子供を含む115体が発掘されている。このなかで9遺体は中国人とみられ、他の遺骨は利根別水源地工事で殉難した土工夫とみられている。最初の慰霊碑は昭和31年9月、発掘現場に墓標を建立、昭和40年12月20日にイタンキ墓地に中国人殉難烈士之霊石碑建立、昭和49年9月にイタンキ墓地にあった慰霊碑が市民の手により再建立され、イタンキ浜を見下ろすように立っている。 ◇再建年:昭和49年9月29日  ◇建立者:再建立期成会  ◇所在地:室蘭市東町3丁目  ◇Gmap:Gマップ

中国人殉難烈士之碑室蘭市

# 当時の「室蘭民報」に「中国人の霊を慰める知利別町楽山に菩提寺 浄光寺の山田住職 三年越し、悲願実る」と囲み記事が掲載されたが「戦時中は強制労働に駆り立てられた沢山の中国人の死体が埋め立てられ、いつはてるともない死臭のただよう場所であったため、浄光寺(中島町)の住職や総代、檀家が三年越しの悲願で菩提寺として異国に眠る霊を慰めるため建立したものだった」と云い、中島教会移設実行委員会を組織して運動し、昭和35年5月に知利別町楽山中腹(室蘭の港湾荷役のために800人を収容した川口組中国人収容所のバラック2階建て宿舎2棟のあった敷地内)に中国人慰霊の菩提寺として浄光寺が建立され、翌年の7月27日に中国人殉難烈士之碑が境内に建立された。現在の碑は昭和56年に再建されたもので石碑となっている。 ◇建立年:昭和36年7月27日  ◇再建年:昭和56年春  ◇建立者:浄光寺  ◇所在地:北海道室蘭市知利別町2丁目  ◇Gmap:Gマップ

世界平和記念塔函館市

# 永全寺の裏手敷地内に西洋風の建物(元捕虜収容所)「霊拝堂」があり、建物の中に世界平和記念塔がある。碑の右下に「永平七十八宮崎世変保」台座正面の石板に「Peaca and Reconciliaation (平和と和解) 20101.9.27SG」右側面の御影石に「大平洋戦争時函館検疫所内外国人戦没者 永遠にやすらかに」とありイギリスとオランダ合わせて128人の戦没者名が刻んである」 ◇建立年:平成13年9月27日  ◇所在地:函館市昭和2丁目21−45 永全寺内 元捕虜収容所(霊拝所)  ◇Gmap:Gマップ

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