カウンター

北海道無名開拓殉難者の碑を巡る
民族・人権や平和に関連する記念碑や慰霊碑・開拓の史跡を巡る‼

九人の乙女の碑稚内公園

# 北海道稚内市の稚内公園内にある九人の乙女の碑は、1945年8月20日の樺太真岡へのソ連軍侵攻に際し真岡郵便局で連絡業務のため残留していた電話交換手の女性12人のうち、青酸カリなどを用い自決した9人の電話交換手の慰霊碑。碑は、高さ1.8m、幅2.4m、登別石で三つ折りの屏風風に造られ、右側に本郷新が制作した交換手姿の乙女の像銅版レリーフをはめ込み、中央に当時の北海道知事町村金五の筆で乙女達の別れの言葉、左側に9人の名前と碑文が刻まれている。戦後になって地元の樺太関係者と遺族の手によって氷雪の門と九人の乙女の碑が建立され、ともに1963年8月20日に除幕された。碑文には「慰霊碑の中央には「皆さん これが最後です さようなら さようなら」と刻まれているが、樺太の泊居郵便局の局長は『交換台にも弾丸が飛んできた。もうどうにもなりません。局長さん、みなさん…、さようなら。長くお世話になりました。おたっしゃで…。さようなら』だったと碑文とは異なる証言を残している。碑文では生存者については触れられていない。「九人の乙女」に関する資料は開基百年記念塔内の北方記念館に展示されています。日本テレビ開局55年スペシャルドラマ『霧の火ー樺太・真岡郵便局に散った九人の乙女たち』は史実を基にしたフィクションで創作された部分も多いようだ。樺太のシーンは稚内市の夕来付近、郵便局は豊富町の兜沼旧郵便局などでロケが行われた。DVDが発売されているのでまだ手に入るかもしれない。猿払村の猿払電話中継所跡にも九人の乙女の碑と同じ「皆さん これが最後です さようなら さようなら」と書かれた碑がある。慰霊碑の碑文には「「皆さん これが最後です さようなら さようなら」と刻まれているが、樺太泊居郵便局の局長は『交換台にも弾丸が飛んできた。もうどうにもなりません。局長さん、みなさん…、さようなら。長くお世話になりました。おたっしゃで…。さようなら』だったと碑文とは異なる証言を残している。◇建立年:昭和38年8月20日 ◇設置者:慰霊碑建立期成会 ◇所在地:稚内市稚内村ヤムワッカナイ ◇Gmap:Gマップ

樺太大平炭鉱病院殉職看護婦慰霊碑札幌市中央区

# 碑文「太平洋戦争末期の昭和二十年八月、樺太はソ連軍の突然の参戦で大混乱となった。恵須取町大平地区も十六日未明の空襲で住民は一斉に避難した。炭鉱病院看護婦二十三人も夕刻になって避難を始めたが、途中の武道沢でソ連軍に退路を断たれ、最悪の事態を予測した高橋婦長らは、十七日未明に集団自決を図り六人が絶命した。あまりにも悲しい事件であった。以来、四十七年。殉職者への思いを募らせる遺族や生存者、この事件を終生忘れてはならないとする元大平地区居住者らが発起人となり、ゆかりの人たちや王子製紙・十條製紙・本州製紙神埼製紙の旧王子製紙系四社、その他関係団体の協力でこの碑を建立した。ここに六姫命の御霊を祀り、永遠の鎮魂と祖国の限りない平和を祈念する。平成四年七月十一日 樺太大平炭鉱病院 殉職看護婦慰霊碑建立実行委員会」※樺太で製紙工場用や市販用の石炭を採掘していた樺太大平炭鉱の経営する「樺太大平炭鉱病院」の看護師さん達です。応召されて医師不在の大平炭鉱病院でき、看護婦だけで一線から送られてきた傷病兵達の手当てをしていましたが、終戦を迎えた翌日、ソ連軍の侵攻によって住民は避難したが、傷病者の看護をしていた23名の看護婦たちは、8名の重傷者とともに町に取り残されました。避難をはじめた時はすでに退路は塞がれ、責任者である婦長の決断で全員で自決することを覚悟し、16歳から33歳の看護婦たち全員が大量の睡眠薬を注射したうえで手首をメスで切ったが、亡くなったのは婦長以下6名で17名は命は取り留めている。碑はソ連兵に追われ自決した看護婦たちを悼み平成4年に建立され、背面に6名の氏名が刻まれています。彰徳苑の入り口から3番目にあるのが「樺太大平炭鉱病院殉職看護婦慰霊碑」です。 ※「昭和二十年八月十七日 樺太恵須取町字武道沢に於自決 大平炭鉱病院看護婦殉職者 高橋フミ 三十二才  石川ひさ 二十四才  真田和代 二十才  久住キヨ 十九才  佐藤春江 十八才  瀬川百合子 十七才」※も銃後で負傷者の救護にあたる看護師たちが、敵に囲まれた中で前途に絶望し自らの命を絶つ。若すぎる死を選択せざるを得なかった戦争の狂気、悲劇を後世に伝える碑の存在は歴史の重みがある。 ◇建立年:平成4年7月11日  ◇建立者:殉職看護婦慰霊碑建立実行委員会  ◇所在地:札幌市中央区南15条西5丁目1-1 札幌護国神社境内  ◇Gmap:Gマップ

氷雪の門樺太島民慰霊碑

# 昭和38年2月稚内樺太引揚者連盟会長米倉八郎太を会長とする慰霊碑建立期成会を結成し、全国樺太連盟会長柳川久雄、同副会長下出繁雄、同北海道支部連合会長渡辺彦太郎らの協賛を得て、全国の樺太引揚者に呼びかけ建設運動を展開し、隣接する乙女の碑とともに樺太島民慰霊碑として昭和38年に地元の樺太関係者の手で樺太の島影を水平線上に望む稚内公園に建立された。碑文「人々はこの地から樺太に渡り、樺太からここに帰った。戦後はその門もかたく鎖された。それから18年、望郷の念止みがたく樺太で亡くなったおおくの同胞の霊を慰めるべく肉眼で樺太の見えるゆかりの地の丘に木原豊治郎氏、笠井安一氏の熱意と、全国樺太引揚連盟の賛同並びに全国からの心あたたまる協力によって、ここに記念碑を造る。氷と雪の中できびしく生き抜いた人々の象徴する女人像、望郷の門、霊石を3位一体とする彫刻家本郷新先生の力作がここに出来上がった。この記念碑を氷雪の門と命名した。」※碑の構造は、黒大理石の霊石を配した高さ8mの望郷の門を背に、きびしい風土に耐えて築いてきた郷土を、肉身を、財産を失い、絶望の中にひらすら祈りを捧げる女の姿をあらわす2.4mのブロンズ女人像が立つ。かつては日本領土だった樺太で亡くなった全ての日本人のための慰霊碑で、第二次世界大戦終戦後のソ連軍の侵攻による樺太内での戦争で亡くなった日本人だけを対象としているわけではない。当時を知る人は今では数少なくなってしまった。◇建立年:昭和38年8月20日 ◇設置者:慰霊碑建立期成会 ◇所在地:稚内市稚内村ヤムワッカナイ ◇Gmap:Gマップ

辛巳遭難慰霊碑雄武町

# 北海道電力の配電が雄武、枝幸に及んでいなかった1938(昭和13)年に地元電力会社(幌内送電株式会社)が豊富な水量を誇る「幌内川」に大規模な「ダム式発電設備」を新設して北隆鉱山や雄武地域、北に隣接する「枝幸村」の需要をも視野に新規発送電事業を起ち上げ、幌内川河口から4~5km遡る山間の峡谷に長さ約160m・高さ約13mの重力式コンクリートダム、幌内ダムが1939(昭和14)年に起工された。ダム建設工事は昭和14年1月~昭和15年12月という異例の早さで完工。発送電許可の現地検査実施の手配がされるもトラブル続きであらためて昭和16年5月末に検査願いが北海道庁へ提出される。検査前の1941(昭和16)年6月6日の夜半より続いた豪雨で北見・網走地方で河川の氾濫が相次ぎ、幌内川も上流からダムに流れこんだ多量の原木や流木が放水路を塞ぎ放水機能が喪失、堤体が水の圧力に耐えきれなくなりダム堰堤の中央部から決壊。奔流は一説に「高さ5メートル以上」に達したとも言われ、流出した原木で破壊力を増した濁流は下流域一帯の集落を飲み込み住宅36戸が流失、倒壊2戸、220人が罹災し60名が犠牲となる(北海道開拓殉難者調査報告書では64人となっているがダム関係者をふくむものか?)未曾有の大惨事になった。決壊後に放置された幌内ダムは戦後になって、崩壊部分を埋めるようにダム堰堤の外側に新たな堰堤を造り完成した1954(昭和29)年に完成。発電所の名前は雄武発電所で最大出力は960KW、枝幸、雄武での利用戸数は1600戸という。のち枝幸は北電より電力供給がされ、雄武も1969年には北電より供給されるようになる。発電所は1972年に廃止されている。ダム崩壊の原因について道庁の調査によれば、基礎掘削をせずに河床砂礫のうえに水中コンクリートを打ちこみダム基礎としたようですが正確な検証資料に関しては不詳。完成に16年、60人の犠牲を出し、発電所として利用されたのは18年間でした。その後にタム堤体外側の堤が取り除かれ高さは低くなり巨大な砂防ダムとして余生を送っていたが、2008年より魚道設置と堤体本体の補修工事に着工し既に魚道は完成している。 ◇事故年:昭和16年6月7日 ◇建立年:昭和16年10月 ◇建立地:北海道紋別郡雄武町幌内 幌内史跡公園  ◇Gmap:Gマップ

国府・歌内の渡船遭難慰霊碑中川町

# 1906(明治39)年に中川村の誕生し宇戸内(現歌内)には簡易教育所が設置、翌年認可され宇戸内簡易教育所が開校、歌内小中学校の前身だが統合により1973年(昭和48年)12月をもって閉校。この学校の歴史で特筆されるのは1940(昭和15)年にウトナイ渡船場(現歌内橋付近)にて渡船が転覆し、通学児童17名と保護者2名が溺死した事だろう。以下は「遭難之碑碑文」より「思えば歌内橋架設の濫觴は本村開拓の途上にありし大正初期らいての端を発するが、偊々昭和15年3月6日通学途次の児童並びに19名を初めとし、今日まで実に32名の尊き人名が一瞬にして水魔に没する惨状がその因となり、四季の装いにも觸れることなく散りし犠牲者の霊に想いをよせ、未来幾星霜地元民一致の協力は遂に関係官庁をして架設決定の英断となり清流なる天塩川に、現代の英知と意□による技術の勇姿をここに映じせしめたるは洵に感激に外ならない。鬱蒼たる太古のままの一大秘境をこの一望の沃土と化さしめ、更にこの遺業を遂さしめた先人並びに元村長 斉藤吉平(初の公選村長) 本橋架設促進期成会長 野崎秀三 及び本村村会議員関係部落民の偉勲をして、今を想い往時を偲び転々有情の感慨を禁じ得ず、ここに本碑を建立しその道徳を讃えるものである。 昭和35年7月11日 歌内国府部落民一同建之」※天塩川での大きな川船遭難事故は明治44年に天塩川最大の難所とされたスーポロ川船遭難で15人の死者を出しているが、ここでは毎年のように遭難事故が繰り返されていたという。大正七年頃には日向農場私設渡船場で中多寄小学校へ通う児童が渡船転覆で多数の死者を出したが、小さな事故は埋もれて天塩川の渡船や川船遭難でどれほどの人が亡くなっているのかはわからない。 ◇事故年:昭和15年3月6日 ◇建立年:昭和35年7月11日 ◇建立者:中川町国府・歌内住民一同 ◇所在地:中川郡中川町国府(慰霊碑)  ◇Gmap:Gマップ

スーポロ 川船安全祈願碑智東 名寄市

# 河川改修でかつて「智東の滝」ともいわれた面影は薄いが、松浦武四郎の「天塩日誌・丸山道子現代語訳」では「過ぎてシュボロ小さな滝を思わせる急流なので、船に綱をつけてひいて川を上がる」と有り丸木船に慣れているアイヌもイナウを捧げてから通る天塩川最大の難所でした。スーポロ 川船安全祈願碑説明板を参考にすると『東の九度山と西の智恵文丘陵の間を天塩川が峡谷をなして流れ、ここより下流側は川幅がより狭く屈曲し川底は岩で早瀬となっておりアイヌ語で「スーポロ(激湍の所)」とも「カムイコタン」とも呼ばれ、丸木船の操作に慣れたアイヌにも恐れられた所でした。和人の開拓後も鉄道が音威子府へ開通するまで度々川船の遭難があり「天塩川・智東の滝」とも呼ばれていました。特に明治43年には鉄道の建設資材を積んだ川舟が激流にのまれ30名以上の人が死亡する大遭難事故があり、明治43年7月に川舟の通行安全を祈願するため川船関係者により「金比羅大権現」の石碑が建立されたが、翌年の明治44年5月22日に鉄道建設資材を積んだ川船が転覆し15名の遭難者を出す大きな事故がおきている。この碑は人の近付けない左岸にあったので事故の記憶も薄れ碑も所在不明となっていたが昭和51年の河川改良の測量時に偶然発見され昭和61年に現在地に再建された。』と言うことのようです。旭川開発建設部名寄河川事務所、工事関係者、光明寺の協力で再建できたとある。 ◇建立年:明治43年7月 ◇建立者:川船関係者 ◇再建年:昭和61年7月10日 ◇設置者:名寄市教育委員会 ◇所在地:名寄市智東 天塩川左岸  ◇Gmap:Gマップ

コムケ地蔵尊紋別市

# コムケ原生花園の碑に向かう途中、コムケ湖の北側沼尻近くに佇んでいる。台座正面の碑文「コムケ地蔵尊」横には大正14年から昭和29年までの間にコムケ湖でなくなった子供3名の氏名と没年(注・名前は省略)、施主 山田一太郎と刻まれています。この地蔵尊の背後は崖になって、下のコムケ湖は急に深くなり、藻が生えているため、子供達は足をとられ亡くなったという。そのため再び事故の起こらないようにと地蔵尊が建立されたと云う。かつて沼尻と海の間には距離が有り原生花園になり番屋もあったが、今は番屋もなく海蝕の進行で狭くなっている ◇建立年:昭和37年8月 ◇建立者:山田一太郎 ◇所在地:紋別市小向  ◇Gmap:Gマップ

殉公之碑道路工事殉難者慰霊碑 新十津川町

# 幌加小学校より4kmほど進むと廃墟と化している上水道跡があり、周囲に人家跡は全くない。ここは北幌加小学校の跡地というが痕跡はもないが、その斜め向かいに「殉公之碑」の碑がある。裏面の碑文より「昭和四年四月十日當部落道路用砂利採取作業中突如雪盤崩壊左ノ五氏ハ不虞ノ壓死ヲ遂ゲラル其ノ公益事業ノ殉ゼラレタルハ洵ニ敬仰追惜措カサル處ナリ茲ニ區民相圖リ其ノ靈ヲ慰ムルト共ニ功績ヲ後昆ニ傳フ」「山﨑新吉 三十七才 中川めつい 二十六才 中山正司 十八才 大井トクシ 二十五才 吉原ケイ 三十五才 昭和十五年 第十五區民一同」※集落の道路に敷設する砂利採取中に雪崩に襲われて20~30代の村民5名が不幸にして亡くなられたのを慰霊した碑。同じ幌加に土工岩と呼ばれる土工夫の慰霊碑がある。 ◇事故年:昭和4年4月10日 ◇建立年:昭和15年 ◇建立者:第十五區民一同 ◇所在地:北海道樺戸郡新十津川町幌加  ◇Gmap:Gマップ

茶内慰霊塔浜中町

# 昭和26年5月19日、ここにあった劇場がフィルムの引火から全焼し、映画鑑賞中の幼児11名、小学生26名、その他5名が折り重なるように焼死した悲惨な悲劇がありました。不完全な映写機、劇場建物構造の不備、避難誘導の失敗など・・・が42名の犠牲者を出す大惨事となった。その慰霊のため各地より寄せられた寄進や募金を元に、遺族や地域住民の努力と奉仕によって翌年に慰霊塔と地蔵堂が建立された。 ◇建立年:昭和27年5月19日 ◇建立者:茶内慰霊塔建立期成会 ◇所在地:浜中町茶内  ◇Gmap:Gマップ

殉難碑省営バス火災事故殉難者慰霊碑 様似町

# 昭和20(1945)年当時の様似村(現・様似町)と幌泉村(現・えりも町)間は省営バス定期便が唯一の公共交通機関でした。事故は同年の3月21日で、折り返し運行する予定の幌泉発上り便の到着が遅れていたため、定員29名のバスを臨時便とし乗員乗客合わせて48名が乗り、さらに新聞・書籍など軽量な荷物の他映画フィルム18巻をバスに積み込み幌泉に向けて出発したが、午後0時50分頃、平宇の集落を過ぎた付近で運転席脇のバッテリーの上に置かれていた映画フィルム入りブリキ缶が爆発炎上、驚いた運転士はハンドル操作を誤り、対向車線と路肩を突き抜けて約1m下の浜辺に転落・横転、駆け付けた近隣住民による救出活動が行われるも、最終的には運転士を含む17名が死亡、13名が重軽傷を負うという惨禍となった。本来なら旅客自動車を運転するために必要な訓練・試験を受けないと運転できないバスも、戦時の人員不足対策で誰でも運転出来た事と無関係ではないので、単純な交通事故というよりは戦時災害に近い性格を併せ持った事故ともいえそうです。事故が発生した国道336号線沿いの山側に昭和34年に慰霊碑を建立されている。(省営バス事故慰霊碑) ◇建立年:昭和34年12月 ◇建立者:国鉄様似自動車営業所 ◇所在地:様似郡様似町平宇  ◇Gmap:Gマップ

延命地蔵尊札幌市南区

# 下砥山の砥山橋から200mほど北側の小祠内にある地蔵。旧簾舞発電所水路で水難した8人の慰霊のため、上砥山の土地の所有者であった上村家が昭和39(1964)年に建立した。2体のお地蔵尊があり、向かって左側の大きな地蔵尊が延命地蔵で台座に「延命地藏」と刻まれています。この地蔵尊は八剣山の反対側である東側の麓に建てられていたようですが、市道が国道のバイパスとして整備された時に現在地に移されたようです。 ◇建立年:###  ◇建立者:###  ◇所在地:札幌市南区砥山  ◇Gmap:Gマップ

布袋座遭難者慰霊碑倶知安町

# 碑文より「昭和十八年三月六日春宵、倶知安産業組合慰安映画会が布袋座で催され 楽しく映画が始まった一瞬、フイルムに引火した業火と 丈余の残雪に入場者は出口をふさがれ、さかまく火焔に逃げ場を失ない あたら尊い生命を終られました。ここに昭和四十年 二十三回忌を期して二百八名の霊を追悼し これを建立する」※昭和18年3月6日、劇場・布袋座で起こった火災により、200人を超える死者を出した。これと同じような火災事故が浜中町でもあった。 ◇建立年:昭和41年8月 ◇建立者:遺族会 倶知安町農業協同組合 倶知安町仏教会◇所在地:北海道虻田郡倶知安町旭 共同墓地  ◇Gmap:Gマップ

相泊の地蔵堂せたな町

# かつてあった大成町の観光資源サークルが設置した説明板より「旅の無事と海難事故で亡くなった人々の霊の供養のため安置されたといわれる。安政4年、江差の商人鈴鹿甚右衛門、土木請負者長坂庄兵衛は関内~太櫓間約12里の道路工事に着手。それ以前に太田山権現拝殿の前後約一里は山僧宗検の手によって開削された。道程の中間地点に通行者の無事を念じ、地蔵尊一体が安置されたのが、事の始まり。その後、霊場の参拝や商用で太田を訪れる人たちが、通行の安全を祈願し山道に次々と地蔵尊を安置した。明治26年相泊一体の鰊網元久保田利吉が海難事故で亡くなった人の供養の為、地蔵尊6体を安置した記録もある。このような経過で安置された地蔵の数は、大正3年には33体におよんだという。昭和15年から太田奥地の開墾が始まり、この地に通ずる道路沿いにこの地蔵尊のうち何体かが移された。昭和38年現在の海岸道路の一部完成時に若本惣之助さん(富磯)等の努力により、現在地付近に地蔵堂を設け17体が集められ安置された。しかし、その後、数度にわたる暴風波浪があり、海中に流されることもしばしばあった。その都度富磯地区の人々のてによって拾い上げられたが、海中に没し行方の分からないものもあり、現在は12体の地蔵様のみとなった。」安政4年に江差の商人鈴鹿甚右衛門によって関内~太櫓間の道が開削され、その前に山僧宗検が太田山権現拝殿の前後約一里を開削している。その中間地点に通行者の無事を念じ1体の地蔵尊が安置、その後も通行の安全祈願や海難者供養のため地蔵尊が安置され、大正3年には33体という。昭和38年に現在地付近に地蔵堂を設け集められた17体を安置。その後、数度の暴風波浪で海中に没したのもあり現在は12体の地蔵尊が安置されている。 ◇建立年:###  ◇建立者:###  ◇所在地:せたな町大成区富磯  ◇Gmap:Gマップ

ミニギャラリー

☆更新情報など☆

 新規のコンテンツ開設です。

横走り pagetop  戻る 

モバイル掲示板

掲示板談話室

相互リンク

rss10 rss20

まち楽

twitter

サイトバナー

道北の釣りと旅-baner-1