カウンター

北海道無名開拓殉難者の碑を巡る
北海道の空襲・戦災の記念碑・慰霊の碑等を巡る‼

機雷殉難の塔湧別町

機雷殉難の塔1

湧別ポント浜とサロマ湖東岸のワッカ海岸に流れ着いた機雷処理を遠軽警察署がする事になり、戦意高揚や警察の権威発揚の目的もあってか、機雷爆破処理作業を海軍記念日の前日の昭和17年5月26日として一般公開、近隣地域にまで周知し、常呂、佐呂間、遠軽など近隣市町村の警防団が参加見学、遠軽から4両編成の臨時列車が運行され、押しかけた千人単位の見物人が会場のポント浜に向かいつつあり、1時間前には400人ほどが到着していたという。

決行2時間前の5月26日午前11時頃、現場のポント浜には遠軽警察署長以下警察官9名と機雷処理のため召集された湧別分団、芭露分団、上芭露分団の警防団の150人が集結。機雷の爆破処理は水中で行われるのが普通というが、爆破当日になって爆破処理方法を巡り、漁業が本職の警防団が周辺海域の魚介類全滅を恐れ水中爆破に猛反対、やむなく陸上処理に変更、片方ずつダイナマイトで爆破するため、二つの機雷を誘爆させないため約50mの間隔まで引き離すことにした。

午前11過ぎに後で爆破するオホーツク海から引き上げられた機雷を引き離すためロープをかけて警防団員が引き、その周りを住民が取り囲む中、砂浜から馬車道まで引きずり上げ機雷が固い馬車道を転がった瞬間に爆発。破片は数百mに渡り飛散、傍らにいた警防団員や警察官から、遠巻きにいた一般見学者をも巻き込んで106人が即死、その後重症者のうち6人が死亡、死亡者数112人という大惨事となった。爆心部は直径10m、深さ3mの大穴があき近くにいた人は肉片になって四散、半径50m以内には原形を留めない遺体が散乱し慄然たる惨状を呈していたという。

サロマ湖で発見された機雷は鍛冶屋が機雷をハンマーで叩くという無謀な挑戦をうけたが何事も起こらなかった事で、取扱に慎重さを欠いたのかもしれない。サロマ湖で発見された機雷は事故から数日後に道庁警察部の専門係官らにより沖合にて処理されたが火薬も信管もなかったようです。

事故から約一か月後の6月5日、事故現場で合同慰霊祭が執行され翌年の昭和18年に事故現場に「殉難者慰霊碑」が建立された。波によるポント浜の浸食が激しくなり8年後の1951(昭和26)年に湧別神社境内に移転したが、ポント浜の護岸工事が完了した50年後の1991(平成3)年に殉難者慰霊碑が再建された。かつてのハマナスの群生地は町営牧場の牧草地となり、波打際を護岸で固められたポント浜に建つ機雷殉難の塔だけが当時を物語る。 ◇建立年:平成3年5月26日 ◇建立者:湧別町 ◇建立地:紋別郡湧別町東 ポント浜  ◇Gmap:Gマップ

網走空襲の碑網走市

網走空襲の碑 碑文を転載して説明にかえる。太平洋戦争末期の一九四五年 (昭和二十年) 七月十四、十五日、北海道各地は米艦載機の空襲を受けた。七月十五日午前、網走地方にも四が襲来し、ロケット爆弾と機銃掃射により十四名の尊い命が失われた。ゆかりのこの地に碑を建て、犠牲者の霊を弔い永久の平和を祈る。(注・犠牲となった14名の氏名が刻まれているがここでは省略) 一九八九年 (平成元年) 七月十五日 網走空襲の碑建立委員会」※道路沿いにある碑の建立後に書き加えられたと思われる氏名あり、犠牲者は15名ということになるようです。碑の周囲に防空壕(タコツボ)が再現されている。 ◇建立年:平成元年7月 15日  ◇建立者:網走空襲の碑建立委員会  ◇所在地:網走市桂町1丁目1  ◇Gmap:Gマップ

根室市平和祈念の碑根室空襲 根室市

根室市平和祈念の1 根室市では、平成23年3月18日に「非核平和都市宣言」をしました。美しい自然に囲まれた郷土と、明るく平和で安全な郷土を後世に引き継ぐことは、私たち根室市民の責務でるとして根室空襲70周年を機会に、空襲の記憶を後世に引き継ぐ事と戦争のない平和な社会を築くこと、空襲で亡くなられた方々の追悼の意味も込め平和祈念の碑が建立された。碑文より「戦後すでに70年の歳月が流れ、戦争と空襲の記憶も風化されようとしております。今日の平和と繁栄は、先人の尊い犠牲とご努力によって築かれたものであることを忘れてはなりません。そして数多くの根室空襲で犠牲になられた方々に対して、心から追悼申し上げますとともに、戦争により引き起こされた悲惨さと苦しみの真実、そして平和の尊さを後世に語り継いでいかなければなりません。この節目の年にあたり、戦争の犠牲となられた方々のご冥福をお祈りするとともに、私達は改めて戦争のない恒久の平和を願い、根室市平和祈念の碑を建立いたします。平成27年8月15日 根室市長 長谷川 俊輔」※終戦前の昭和20年7月14・15日のアメリカ軍による空襲で市街地の8割が消失し、およそ400名近い方々が犠牲となった。調査で判明した犠牲者355名の名前が記された石版が貼りあわせてあるが、また39人の確認出来ていないという。平和祈念の碑は鳴海公園内にあります。 ◇建立年:平成27年8月15日 ◇建立者:根室市 ◇所在地:根室市朝日町 鳴海公園  ◇Gmap:Gマップ

釧路戦災記念碑釧路市

釧路戦災記念碑1 釧路市栄町7丁目の栄町平和公園に地上から伸びた2本のアーチが上部で一体となった平和のモニュメントの後方に昭和45年8月に建立された戦災記念碑が建っている。正面碑文より「戦災記念碑 ここにあった悲しみと 苦しみの日を 永久に 語りつがねば ならぬ」裏面の碑文「趣意 太平洋戦争末期の昭和20年7月14日午前5時23分と午後2時40分及び15日早朝の三面にわたり釧路市は米軍艦載機による爆撃をうけた、被害は次の通りである。死者177名、重傷者46名、継承者97名、消失家屋1,373戸、倒壊家屋1,618戸、被災者6,211名、消失面積6万坪19.8㏊。常時被災の中心地がこの区域であったことから、昭和30年区域住民の発願によりこの地に假標柱をたて爾来例年8月13日に慰霊祭を執り行って来たが、戦後25年の星霜と街区の大変貌期を迎え全市民の協力を得て今日こゝ永久碑として、戦災記念碑を建立するに至ったものである。昭和45年8月13日 西暦1970年8月13日 釧路市戦災記念碑建立期成会」とあった。またモニュメントの前に平和公園「命名記念碑」があり正面に「栄町平和公園」裏面に「終戦の年、昭和20年7月釧路市は激しい空襲に見舞われ、多くの市民の尊い命や財産が失われました。本年は戦後50年にあたり、釧路市が『核兵器廃絶平和都市』宣言をして十周年を迎えました。ここにかつて被災地の中心である栄町公園を『栄町平和公園』と改称して、戦争の悲惨さを次の世代に伝え、永年の平和を願うものである。平成7年8月7日 釧路市長 鰐淵俊之」と刻む。平成7年8月15日建立の「平和のモニュメント」と同じ戦後50年の年に改称したのだった。 ◇建立年:平成7年8月15日 ◇建立者:釧路戦災記念碑建立期成会 ◇所在地:北海道釧路市栄町7丁目 栄町平和公園  ◇Gmap:Gマップ

帯広空襲の碑帯広市

帯広空襲の碑 帯広もアメリカ軍の空襲で被害を受けた街で「帯広空襲を語る会」は平和の大切さを伝えるためこの碑を建立した。碑裏の碑文より「この付近一帯は昭和20年7月15日午後3時 アメリカ軍の空襲にあい、死者5名 家屋の損壊59戸の被害をうけた 帯広市教育委員会」とある。平成18年に地元新聞社が行った調査によると、少なくとも損壊122戸はあるという事実が浮上したというが、被害を受けた人達の記憶から割り出したものか、ただ今は記念碑だけが帯広空襲を伝える唯一の戦跡といえます。 ◇建立年:昭和60年8月11日 ◇建立者:帯広空襲を語る会 ◊所在地:帯広市大通北1丁目 総合体育館敷地内  ◇Gmap:Gマップ

故 山内三郎氏 殉職碑本別町

故 山内三郎氏 殉職碑 太平洋戦争末期の昭和 20 年7月15日朝午前8時ごろ43機の米軍艦載機が飛来し空襲をうけるが、大きな軍需工場や軍施設もない本別が攻撃目標にされたのは、同日の天候が曇天でありたまたま本別市街付近の上空だけ雲が切れていたからともいうが、亜麻工場が軍需工場として攻撃目標に挙げられていたという見解もある。本別空襲では死者40人、負傷者14人、全焼家屋279戸、大破家屋113戸、罹災者1.915人をだす十勝最大の被害でした。本別空襲で被災しなくなられた方の一人で、旧制本別中学校(現本別高校)の山内三郎教頭の殉職慰霊碑が本別高校敷地内で同校の教員住宅の間にある。空襲のとき山内教頭は生徒に防空壕に入るよう避難誘導をしていたが、付近に落ちた爆弾の破片が背中に刺さり即死されたという。 ◇建立者:本別高校一期生  ◇所在地:本別町弥生町  ◇Gmap:Gマップ

慰霊碑空襲・艦砲射撃 室蘭市

空襲・艦砲射撃慰霊碑 太平洋戦争末期の昭和 20 年7 月 14 日、北海道各地はアメリカ合衆国第 3 艦隊第 38 機動部隊によって空襲を受ける。重要な軍需工場を持つ室蘭は攻撃目標になり、15 日に は道内唯一の艦砲射撃で日鉄近くの輪西町市街地や中島町日鉄社宅街は壊滅的被害を受けた。軍関係だけでなく市民の犠牲者も多く室蘭では500人以上の犠牲者が出たという。碑文より 「第二次世界大戦も終局に近い昭和二十年七月十四日十五日の両日にわたる艦砲射撃のために中島社宅在住の人達百九十二名の尊い人命が失われた。 当会では終 戦後毎年この人々の冥福を祈ると共にこのような過ちを再び繰り返さないために慰霊祭をおこなって来たが、この度この碑を建立し犠牲者の冥福を祈るものである 昭和三十四年三月二十一日 中島社宅民和会」※慰霊碑は中島本町の新日鉄社員アパートの一角にある小公園内にあり、毎年、7月15日に慰霊祭が行われている。 ◇建立年:昭和34年3月21日  ◇建立者:中島社宅民和会  ◇所在地:室蘭市中島本町2-8 中島本町公園内  ◇Gmap:Gマップ

艦砲射撃殉難者慰霊碑 慰霊塔室蘭市

艦砲射撃殉難者慰霊碑 慰霊塔 終戦間近の昭和20年7月14、15日の2日間、アメリカ太平洋艦隊第38機動部隊による室蘭空襲と艦砲射撃により多くの市民が犠牲になりました。御崎町会が艦砲射撃で亡くなった同町会の人を慰霊するために建立された艦砲射撃殉難者の慰霊碑です。戦後間もなく個人が建立した慰霊碑が始まりといい、昭和41年7月に御崎町会が建替え後に御崎神社境内に移転、老巧化などにより平成25年に再建、例年同神社の祭典と合わせて慰霊祭が行われています。 ◇建立年:平成25年  ◇建立者:御崎神社  ◇所在地:北海道室蘭市御崎町2 御崎神社 ◇Gmap:Gマップ

慰霊碑艦砲射撃殉難者 室蘭市

艦砲射撃殉難者慰霊碑 碑文「「慰霊碑 昭和二十年艦砲射撃殉難者の御霊に捧ぐ」とあり。太平洋戦争末期の昭和 20 年7 月 14 日、15 日に北海道各地はアメリカ合衆国第 3 艦隊第 38 機動部隊によって空襲を受ける。特に重要な軍需工場を持つ室蘭は攻撃目標になり、に は道内唯一の艦砲射撃で甚大な被害をうけた。 アメリカ国立公文書館にある室蘭市提出の記録文書では、2日間で 市民だけでも439人が犠牲とあります。室蘭市内には他に中島本町公園と御崎神社には市民の手で建立された慰霊碑があるが、室蘭八幡宮の慰霊碑は室蘭市が艦砲射撃被害者436の慰霊のため建立したもの。 ◇建立年:昭和25年7月15日  ◇建立者:室蘭市  ◇所在地:室蘭市海岸町2−9−3 室蘭八幡宮  ◇Gmap:Gマップ

平和の鐘伊達市

平和の鐘1 JR伊達紋別駅前通りの一角にある鐘の形をした平和記念碑。建立の趣意より「昭和20(1945)年7月14日、伊達町(当時は伊達町)は米軍艦載機による空襲を受け、国鉄稀府駅・伊達紋別駅・伊達赤十字病院で21名の犠牲者と多数の負傷者が出る惨事となりました。この鐘は米国製とみられ、駅の釣り鐘として北海道開拓の歩みを見守ってきましたが、奇しくも有珠の鐵道病院で悲惨な伊達空襲を目のあたりにする事になりました。北海道開拓と戦争の歴史の生き証人として価値ある歴史遺産を『平和の鐘』として後世に伝え、その鐘の響きを平和を願う伊達市民の心として世界に発信します。平成19(2007)年11月17日建立 平和の鐘建立実行委員会 題字 佐々木錦堂書 撰文 泉隆」※日本が行った侵略戦争の結末が米軍による赤十字病院攻撃など無差別な伊達空襲でした。それが忘れられた時に再び戦争の危機が訪れる、生き証人の存在価値もそこにあるのでしょう。伊達赤十字病院では小型爆弾投下で4名が犠牲になり8名が負傷、平成7年8月に病院敷地内「空襲犠牲者慰霊碑」が建立され例年7月14日に慰霊祭を執り行っているとのこと。 ◇建立年:平成19年11月17日  ◇建立者:平和の鐘建立実行委員会  ◇所在地:伊達市網代町 網代町広場  ◇Gmap:Gマップ

函館空襲戦災者慰霊碑函館市

函館空襲戦災者慰霊碑1 慰霊碑の碑文で説明にかえます。碑文表上段「第二次世界大戦 函館空襲戦災跡地 戦災者慰霊碑」碑文表本文「第2次世界大戦の末期昭和 20 年(1945)7月 14・15 日の両日 アメリカ艦隊機動部隊の戦闘爆撃機グラマン・コルセア 50 余機により主要攻撃目標であった函館港内や津軽海峡航行中の船舶は爆撃を受けて 85 隻が沈没や破壊され多数の犠牲者がでました。市内では駒止町 天神町 旅籠町 舟見町 鍛冶町 松風町 若松町 大森町 海岸町 等の民家が空襲を受け家屋 169棟 戸数 384 戸余を消失。破壊家屋も多数にのぼり、多くの死傷者を出しました。特に駒止町 天神町 旅籠町 舟見町 鍛冶町地区は函館空襲最大の戦災地で老人と子供等 23 人が爆弾や機銃掃射を浴びて犠牲者となり、また多数の負傷者を出し 384 戸が全半焼しました。この戦争・空襲による悲惨な歴史的事実を想起した函館における空襲犠牲者の霊を慰め、軍縮を希求し、 平和を守り抜く誓いを堅持いたしたく、有志一同が称名寺住職 須藤隆仙師 の御高配を頂いて、戦災跡地を見下ろすこの境内に記念碑を 建立しました。」 碑裏面「この碑は日本国憲法第九条「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦爭と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」条文を遵守し 真の平和を願う536名の淨財によって建立されました。戦災者氏名 西部地区方面(氏名略)戦災者の証言により記載しました。 平成元年(一九八九)七月十四日 第二次世界大戦 函館空襲を記録する会」※ 隣に札幌鉄道郵便局・函館郵便室職員殉職者慰霊碑がある。 ◇建立年:平成元年7月14日  ◇建立者: 函館空襲を記録する会  ◇所在地:函館市船見町18-14 称名寺内  ◇Gmap:Gマップ

函館郵便室職員殉職者慰霊碑函館市

函館郵便室職員殉職者慰霊碑

函館空襲戦災者慰霊碑に寄り添うように札幌鉄道郵便局・函館郵便室職員殉職者慰霊碑があります。碑文「慰霊碑 一九四五(昭和二十年)七月十四日 函館空襲の際函館駅、桟橋構内で勤務中の札幌鉄道郵便局・函館郵便室職員殉職者名(氏名略)二〇〇一(平成十三年)九月二十三日 函館空襲を記録する会 建立」函館空襲では市民100人以上、青函連絡船の乗組員400人以上が亡くなったとされ、毎年追悼慰霊祭が執り行われている。 ◇建立年:平成13年9月23日  ◇建立者: 函館空襲を記録する会  ◇所在地:函館市船見町18-14 称名寺内  ◇Gmap:Gマップ

ミニギャラリー

☆更新情報など☆

 記事の較正と画像を追加、完成にはまだ時間がかかりそう。

横走り pagetop  戻る  先へ

モバイル掲示板

掲示板談話室

相互リンク

rss10 rss20

まち楽

twitter

サイトバナー

道北の釣りと旅-baner-1